今日も何とか一日を乗り切った。
 なし崩し的にわたしの家出が終了し、その後の勢いもあってわたしはエリックと以前と変わらない状態に近い感じで接することができるようになった。
 だがしばらくして、ぎくしゃくした空気が復活してしまった。
 もともとわたしたちが喧嘩をすることになった原因は解消されていないのだ。時間が経ったことで双方がこのことを思いだしてしまい、どうしたものかとお互いがお互いの出方を伺っている、そんな感じになっている。
 家に戻って約三週間が経ったが、その間エリックは朝に起きて深夜になる前に寝る生活をするようになった。
 つまり生活サイクルをわたしと同じようにしているのだ。わたしを見張るためにしているのか、外出できないわたしの暇つぶしに少しでもつきあってやろうという気持ちからなのかは知らないが、確かにこのこともあって、懸念していたほど退屈でどうしようもないということにはなっていない。
 とはいえ日がな一日、二人でじっとしているわけにもいかない。そもそもそんなことが続けばさすがに気詰まりになってしまう。
 だからエリックがしばらく休止していたらしいオペラ座の怪人としての活動を再開させたと聞いて、少しほっとしたのは事実だ。
 だが――それ以上に暇であることが苦痛になってしまったのだ。うっかりするとまた色々考え込んでしまい、憂鬱になってしまいそうで。
 エリックが付きっきりでいた時には、当たり障りのない話はできたし、それに、そう、わたしは最近チェスができるようになったのだ。ある時エリックがボードと駒を持ってきて、一戦どうかと誘ってきたからだ。オセロや崩し将棋はともかく、チェスなどやったこともなかったので一から教わることになり、それから何度か勝負をしている。
 初心者のわたしはもちろん負けっぱなしだが、時間をつぶすにはこの手のゲームは確かに有効だと感じた。なのでエリックがいない時間をこのチェスの研究に当てたりしたが、気分が乗らない時もある。いつかエリックに勝てたらいいなとは思うものの、チェスが大好きでたまらないというわけではないので、集中力はとかく途切れがちになってしまうのだ。
 それでわたしは別の暇つぶしを見つけたいと切実に思っていたのだが、探した結果見つかったのは以前と代わり映えしないものばかり。つまりは読書と、針仕事しかなかったのだ。
 その中で針仕事は作業が途中のものがあったが、これを再開するのは気が進まなかった。
 なぜならそれはあのガウンだったからだ。
 イブリー氏に声をかけられたわたしが動転してオペラ座に駆け込んだことがきっかけで遭遇したメグちゃん、クリスちゃんと行くことになった買い物。そこで見つけた布地を使っているからだ。
 この布自体に罪はないけれど、連鎖的に大喧嘩になった経緯を思い出してしまうため、何度か取り出してみたものの、結局また元の場所に戻すだけで終わっている。
 だがそんなことより問題は、エリックがこのガウンのことを覚えているかということなのだ。いや、もちろんあれを見せれば思い出すだろうけど、これが完成したとして、果たして着てくれるかどうか。
 それに針仕事をするとしたら、エリックが懸念しているものをわたしは使わなくてはならない。
 彼はわたしが武器になりそうなものを持たないようにしているのだ。使用頻度が高くないものはまとめて物置に放り込んで鍵をかけているが、頻繁に使う料理用のナイフやカトラリー類――ナイフもそうだが、フォークだって立派に武器になる――は使わない時にはエリックが自室に持ち帰って保管している有様だ。さすがに食器棚や引き出しに何カ所も鍵をかけたり縄でぐるぐる巻きにするのは解除が面倒になったようなのだ。
 このようにフォークですらも制限されているのだ。ならばハサミはもちろん、縫い針やまち針だって武器になるといえばなるのだから、針仕事をするとなるとエリックに止められるおそれがある。こっそり再開して見つかった場合、喧嘩にならないにしても、空気がぎすぎすしそうだ。さすがにそれは勘弁してほしい。
 こういう時にはより被害が小さくなると思われる方を選んだ方がいい。
 いい加減悩むのにも疲れたのだ。明日、思い切って彼に聞いてみよう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 朝食を済ませ、食後のコーヒーをいれる。はむっつりと黙りこんでカップを睨みつけていたかと思うと、ふいに顔をあげた。
「エリック、聞きたいことがあるんだけど」
 顔も声音も強ばっている。このような時のは要注意だと私は内心で警戒をした。
「何だ?」
「ガウンのことなんだけど。わたし、途中で作るのをやめたでしょう。それ、どうしようかと思って。その……あれって、ちょっと材料に問題があるじゃない」
 最後の方になると勢いがなくなり、自信がなさそうになった。はかすかに眉を下げてこちらを窺う。
「……ああ、あれか。そうだな……」
 内心ではほっとしながらも、私は考え込む素振りをした。
 彼女が思い詰めたような顔をしていたので、てっきり監禁状態が嫌になり、その解除を求めて直談判をしようとしたのかと思ったのだ。
 無言でいなくなられるよりはいいが、しかし頼まれたからといって簡単に許可を出せるはずもない。だが話は別のことだったので心底安心する。
 しかしガウンも一連の騒ぎとは無関係とは言えない代物だったので、私は返事に迷った。
「あれは……どこまでできていたんだったかな」
 返事をする時間を稼ぐために、当たり障りのない質問をする。
「しつけ糸をほどいて布地の補正をしたところまでは終わったわ。それから長さが足りない部分のパイピングが一部だけできているところよ」
「そうか……」
 完成したところで喜んで袖を通せるとは思えない。あれは生地を購入する経緯からしてすでに、今回の騒ぎに絡んでしまっている。
 素材自体に未練はないので処分しても構わないのだが、が費やした時間を思うと、簡単に捨てろと言うこともできなかった。
 それに私としてはモノはどうあれ、彼女がまた居間でゆったりと裁縫をしている姿を見ることができるのはやぶさかではないのだ。
(……ん?)
 そこまで考えたとき、小骨のように引っかかるものを感じた。何だろう、何が……。
「……っ!」
 思い出した。
「な、なに、エリック?」
 急に大きな声を出したので驚いたのだろう、はびくりと肩を震わせ、目を見開く。
「それはどこに置いていたんだ」
「それって……作りかけのガウンのこと?」
「ああ、それと、道具もだ」
 すっかり失念していたが、裁縫箱の中身というのは、意外と凶器になるものが多いではないか。
「もちろんわたしの部屋よ。それに特に隠してなんていないわ。ずっとクロゼットの中にしまってあったのよ。籐製の籠の中に布地と道具をいれていたのだけど……」
 気がつかなかったようね、とは苦笑した。
 クロゼットの中か。彼女を迎えに行くときにドレスが必要だったから漁ったが、スカートの陰になって見えなかったのだろう。籠なら下の方にあったのだろうから。
 裁縫箱の存在は以前から知っていたのに取り上げなかったのはうかつだった。だが、待て。裁縫箱は女性にとって必需品だというではないか。それまで取り上げてしまったら、せっかく小康状態になっている二人の関係がまた悪化してしまうかもしれない。
 私に渡してくれとも、そのままでいいとも言うことができず、なんだって、裁縫箱でこんなに悩まねばならないのかと途方に暮れていると、はなぜだか微笑んだのだ。
「エリックはわたしがいない間に部屋の中を探ったりしなかったのね。クロゼットの中身がちょっと乱れていたけど、それはドレスを持っていった時だろうし……。他は何も変わっていなかったもの」
 私は黙って俯いた。
 それはのもので溢れている彼女の部屋などに入ったら、幸せだった頃のことを思い出して辛くなってしまうからだ。そうでなくとも女性の私的な場所を荒らすなど、紳士たるもののする事ではないという思いがあった。
 ……だから裁縫箱のことを思い出していたとしても、きっと自分では取りにいけなかっただろう。
 は優しい目で私を見上げてきた。
「エリック、わたしね、外に出て、あなたの希有さが少しはわかったつもりなのよ」
 くすりと彼女が笑ったので、私は面食らった。この流れでがどうして穏やかでいられるのか、まるでわからない。
 彼女はますます笑みを深くする。
「あなたのそういう、親しい人の領域にずかずか入り込まないところってすごく貴重だと思うのよ。親子だから、恋人同士だから、あるいは夫婦だからといって、勝手に相手にきた手紙を盗み見たり、机の中とかを漁っていいというわけでもないでしょう? 後ろめたいことがないなら平気なはずだとかいう話ではないのよ。近しい人であっても、というよりも近しい人だからこそ、尊重しないといけない領域ってあると思うもの。……まあ、わたしは別にエリックがわたしの部屋にきてもいいとは思ってるんだけど」
 それはつまり、ド・クレールやロールらはの部屋に家主や雇い主権限という名目でもって遠慮もなく入り込んだのだろう。もっとも私が喧嘩をする前にも彼女の部屋に入らなかったのは、単純に意気地がなかっただけなのだが……。下心を出して近づいて嫌われるのだけはなんとしても避けたかったのだ。
 だが……彼女の最後の言葉は、もしや私を誘っているのか……?
 私はしかし、すぐに胸の中で否定した。
 うかつに流れに乗ってはならない。そういう意味でなかったとしたら恥をかいてしまう。彼女のことだ、部屋にくるというのは居間でやっていることと同じこと、つまり茶でも飲みながら話をするようなことだと思っているかもしれないではないか。
 期待と、それに歯止めをかけようとする意思が頭の中を回る。
 返事をしない私をどう思ったのか、は相変わらずにこにこしながら私を見つめていた。
「隣の芝生は青く見えるって本当ね。だからね、反省も兼ねて、わたしはできる譲歩はしようと思ったの。裁縫道具にはあなたが危険視するようなものが結構あるでしょう。だからもし、それをわたしの手元に置いておきたくないというなら、それはあなたに渡そうと思うのよ」
「……何?」
 渦巻いていた思考は、ぴたりと停止した。
 盛大に脇道に反れていたと思っていた話が思わぬ方向に着地しようとしていたのだ。それは驚くよりも虚を衝かれたといってよいもので、私は呆けたような声で彼女に聞き返してしまった。
「いいのか?」
「ええ。あなたはあのガウンができることを以前は楽しみにしていたけれど、それが完成しなくてもいいというなら、こだわるつもりはないわ。材料が無駄になることは、ちょっと残念だけどね」
 軽く肩をすくめたが、それでも彼女の声にも表情にも気負っているものは見られなかった。だから私も正直な思いを伝えることができた。
「確かに私はガウンが完成するのを楽しみにしていた。今でもお前が私にそれを作ってもいいと思っていることも嬉しく思う。だがお前もわかっていると思うが、あの生地には少々けちがついてしまったからな。すまないが、制作は中止してほしい」
「わかった。じゃあ、道具はどうする?」
「それは……」
 葛藤のあまり、即座に返答することができなかった。
 から危険物を取り上げていたのは、彼女がそれらを逃走の道具にするのではないかという懸念があったからだ。やり方次第ではスプーンの一本でもあれば牢獄から脱獄することだってできるものだ。私の作り上げたこの屋敷からスプーン一本で抜け出すのは至難の業だろうが、のことだから成し遂げてしまうかもしれない。……そんな懸念を持ってしまうような恋人というのもどんなものだろうかとは思うが、彼女の行動力を甘く見てはいけないことだけは、私は嫌というほど学んでいるのだ。
 しかし、もしもそのつもりなら裁縫道具のことは黙っているだろう。反省というのも嘘ではないかもしれない。
 危険物を遠ざけたほかの理由としては、絶望した彼女がそれらを使って自傷に走るかもしれないということもあったのだが、それをするならとっくにやっていただろう。は内に抱え込むよりも、どちらかといえば外に向かって発散する娘だからな……。
 私自身のために、それに少しは彼女のためもあるはずと色々手を回してきたが、もしかしたら私は盛大に無駄なことをしたのかもしれない。
 かすかなやり切れなさを感じながら、を見つめる。
 彼女は心持ち緊張したような面もちで私の返答を待っていた。
「繕いたいものなどもでてくるだろうから、裁縫自体はやっても構わん。ただ道具は居間に置くようにしてくれ。場所はこちらで指定する。私は時折中身を確認させてもらうが、基本的にはお前が使いたい時に使っていい」
 これが私にできる最大の譲歩だった。
 は目を丸くして、それでいいのかと聞き返してくる。
「ああ。締め付けをきつくしすぎたら、またお前は逃げるだろうからな。この程度なら妥協はできる。ただし確認する際にはまち針の一本からすべて数えるから、そのつもりでな」
 牽制の意味も含めて彼女にそう警告するが、なぜかはくすくす笑いだした。
 その毒気のない笑い声に私は自分がひどく滑稽なことをしているように感じたが、それよりもが以前のに戻ったように思えてきて警戒しようにもし難くなってしまった。だがこの雰囲気を壊したくない。
「作りかけの材料を捨てるのが忍びないと思うなら、適当なものにでも作り替えればいい。雑巾とか靴拭きマットとかな」
 これならば目にしても私もいちいち複雑な気分にならなくて済むだろう。も私の意図に気づいたようで、吹き出しつつも納得顔になった。
「エリックったら。……でも、そうね」
 それから、この一ヶ月ほどが嘘のように思えるほど、穏やかな雰囲気のまま過ごすことができた。
 このまま時を重ねていくことができたら、とは思うが、遅かれ早かれ監禁状態に対する不満は出てくるだろう。それを解決できなければ、結局はまた元の黙阿弥だ。
 ……一体どうすればいいだろう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 この一歩は小さな一歩だけど、わたしたちにとっては新たな第一歩だと思っている。
 大げさだろうが何だろうが、わたしはこれを心の支えにしながら針を進めた。
 裁縫箱はマントルピースの上に置くようにし、エリックが気が向いた時に調べられるようにしている。ソファにも近いので、置き場所としては悪くはなかった。
 色々と考えたすえ、わたしはクッションに作り直すことにした。雑巾にするにはさすがに上等すぎるし、靴拭きマットにするには柔らかすぎると思ったからだ。
 だからアイシャ用のクッションにしてみようかと思いついたのだ。アイシャならこの布地に対するわだかまりなどないはずだもの、気が向いたら使ってくれるだろう。わたしがクリスマスの時に彼女に作った編みぐるみも、この家の匂いがしっかり染み着いたからか、贈呈して半月ほど経ってから時折構うようになったし。中身の詰め物として端切れを使えば、ゴミも残らず丁度いい。
 それに、わたしはこれをきっかけにしたいと思っているのだ。
 いつまでも空気がぎこちないと嘆いていたくはない。少しずつでも歩み寄らなければ、いつまで経ってもこのままだ。エリックはわたしに裁縫箱を持たせたままにするかどうか、葛藤していた。それは現状に対する彼の認識でもあるだろう。わたしはそこに、一抹の希望を抱かずにはいられない。
 わたしは完成したクッションを夕食後にお披露目しようと思うのだ。アイシャが警戒を解くまでまたしばらく放置してとエリックに頼んで――前はエリックの部屋に置かせてもらったが、さすがに今回は頼めない。この家の匂いがつけばいいはずだから、居間の片隅にでも置いておくつもりだ――。そしてお披露目が済んだらわたしはお風呂に入って寝るつもりだが、自室に戻る前にエリックにおやすみなさいのキスをしようと思う。
 ずっと途切れたままになっていたが、これが復活してこそ元通りと言えるのではないか。外出についてのあれこれはまだあるにしても、できるところからやっていく以外ないだろう。そのうち何か解決策がでてくるかもしれないのだから。
 問題があるとしたら、キスを攻撃だと誤解したエリックが、接近したわたしを避けるんじゃないかということなのだけど……。
 こんな勘違いをされるのも自業自得ではあるのだけど、それでも避けられたらへこんでしまうだろう。できるだけさっと近づかないと、と脳内でシミュレーションをしてしまうのだった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 それから数日が経過し、私たちは夕食後の休憩をするために食堂から居間へ移動した。
 チェスの道具を一式用意し、軽く勝負をする。勝負というよりも実践をしながら、このような時にはどう動かすのがいいかということを覚えさせていると言ったほうが正しいだろう。ルールを覚えたばかりの彼女は、当然ながらまだ私とまともに勝負できるような腕を持っていないのだ。
 時計の針が九時を回る頃、そろそろ部屋に戻るといって彼女が立ち上がった。だが部屋に戻った彼女は、後ろ手に何かを隠しながら、また戻ってきた。
?」
 まるで隠しもしていない不自然な動作に、私は眉を寄せた。
「えっと、リメイクが完了しました」
 は隠していたものを突き出すように、両手で持ってこちらへ見せる。
「……クッション?」
 それは一辺が五十センチほどのどこからどうみてもクッションにしか見えないものだった。
 は頷くとクッションを選んだ理由を述べ、しばらく居間の隅におかせてくれと言ってきたのだ。
 アイシャが使うかどうかはわからないが、私やが使うためのものでないのなら構うまいと、了承する。しかし随分早く片がついたものだ。余ったものを全部中に詰め込むだけのクッションなのだから、それも当然だろうが。
 実のところを言うと、私はこの間の話し合いをして以来、考えてきたことがあったのだ。それは私としてはあまりやりたいことではなかったのだが、家出から戻ってからの彼女の態度が思っていたより殊勝だったこともあって、折りを見て伝えようとしていたのだ。
 それに裁縫箱の件では彼女なりに私をたててくれようとしたのだろう。私ばかり彼女に何かを強いていては、以前のような仲に戻るのは難しい。問題を先送りにするだけでなく、ここらで私も、自分にできる譲歩をしようと決心したのだ。
 問題は何を口実にするかということだったが、ガウンの生地が始末できたのは、丁度いいきっかけにできそうだ。
 クッションを居間の隅の暗がりに置いて戻ってきた彼女に、何気ない口調で問うてみる。
。お前さえ良ければだが、もう一度ガウンを作らないか?」
「……え?」
「ガウンである必要はないのだが……つまり、また何か私のものを作ってくれる気があるだろうかと」
 はしばしきょとんとした顔をしていたが、やがて微笑みを浮かべる。
「いいわ。今度は失敗しないように気をつけるね。必要な材料はエリックが用意してくれるんでしょう?」
 私は頷く。
「だが材料はお前も選ぶんだよ」
「え?」
「一緒に店にものを見に行こう」
「それは、夜にってこと?」
 混乱したような顔では聞き返してきた。まさかこのような解釈をされるとは思わなかったので、平静を保とうとはしていたが、肩が下がってしまったかもしれない。
「深夜営業をするようなレストランならともかくとして、普通の商店は夜になったら閉まるものだ」
 しかしよほど特殊な品物でもない限り、買い物のために外出するなどほとんどしない私が言ったので、彼女の中では私が認めるような布地というのはよほど変わった商売形態をしている店でしか売っていないと思ったのかもしれない。
 だから私が行く先は普通の生地屋なのだということを理解した彼女は、目を零れ落ちんばかりに見開かせた。
「え……。だって……外出はなしだって……」
「ああ、もちろんお前を一人で外に出す気はない。だから今後は買い物にしても散歩にしても、常に私が同行して目を光らせるようにするつもりだ。そうすればお前が余計なことに巻き込まれることもないだろうし、逃げようとしてもすぐに捕まえることができる」
 警戒を解いたわけではないと強調したつもりだが、の表情はどんどん晴れやかな笑顔になっていく。
「私と共に昼間、外を歩いたりしたら、ひどい雑音が次々と聞こえてくるだろう。それに不躾な視線もだ。お前は非常に不愉快な思いをし、私のような男が隣にいる不幸を散々味わうことになるだろう。その覚悟があるのならば、の話だが」
 ずっと考えていた。
 この膠着状態をどう脱するかを。しかしに外の光を一切諦めろというのは無理だということはすでに証明されている。彼女のことだ、今は大人しくしていても、我慢の限界がきたらまた抜け出そうとするだろう。
 彼女の前向きな姿勢と行動力に救われたことが何度もある私だが、それとこれとは別だ。不毛な喧嘩など、しないに越したことはない。
 また夜間に散歩に出かけるという案もあった。だがこれも問題がないわけではないことを私はすでに知っている。夜間は行ける場所が限られているので、本当にただの暇つぶしにしかならない。最初は良くても、そのうちこれが虜囚のための息抜きでしかないことに気づくだろう。
 そして昼間の自由な散歩を許すというのは、もってのほかだった。ならば残る選択肢はただ一つ、私と彼女とで、昼間に出かけるしかない。
 だがこれにだって問題は大有りだった。それでも、と私は自分を説得した。日曜日に妻と散歩をするというのは、私の望みの一つだったではないかと。
 その散歩というのはもちろん夜の散歩などではなかった。愛情を分かちあっている相手と腕を組んで日の光を存分に浴びながら、普通の通行人として大通りを歩く。ガラス張りの窓に陳列する商品を冷やかしてみたり、気が向くまま公園へ行ってみたりする。少し疲れたら木陰のテーブルで飲み物を頼む。
 カフェにも入れない貧乏人でもなければ、こんな望みは望みとすら言えないほどのものだろう。それでも、この望みを本当に叶えようと思うのなら私も覚悟を決めなければならなかった。私に対する囁きなど、今更どうということはない。不快ではあるが聞き流せばいいだけだ。問題は、彼女がそれに耐えられるかということだった。
 は泣き笑いのような表情を浮かべながら、すっと私の座っているすぐ横に立った。それから腰を落とすと私の首に両腕を回す。
「エリック!」
 涙に揺れる声。
 だがその声は喜びにも震えていた。
「本当に、それでいいの?」
 外に出られるということで、彼女が喜ぶだろうとは思っていた。だが抱きつかれるとまでは予想もしていなかった。
 私は彼女を抱きしめ返してもいいものだかわからず、腕をおろしたまま肯定した。
「ああ。だが私と共に人前に出るというのがどういうことか、お前はまだ知らないんだ。だからそう手放しで喜んでいいものではない」
 何度か二人で昼間に出かけたことはあるが、それは馬車で目的地まで乗り付けて行ったものばかりだ。相手も客商売をしている者として、または見栄を張らねばならぬ役人として、上等の馬車に上等の身なりをした人間を無碍には扱えなかったようだが、それと気晴らしの外出は違う。
「何を言ってるの!」
 はがばりと背を起こして私を見据えた。
「一人で散歩をしていた時、エリックもいればいいのにって思ったことは何度もあるわ。一人で気の向くままふらふらと歩きたいと思う日だってあるけど、そういう時ばかりじゃないのよ。素敵なものを見つけたら、それを一緒に見る人がほしいわ。ちょっとした買い物を、あれこれ言いながらしたかった。でもあなたは昼間の外出が嫌いだから、誘ってはいけないんだと思ってた」
 彼女の願いを聞いて、私は愕然とした。
 の望みは恋人がいる女のものとしてはあまりにもささやかなものだったからだ。恋人が私でさえなければ、すぐにでも叶っただろうに……。
「私の態度がお前にそうさせたんだ。だから気に病むことはない」
「ううん、それでも一度くらい、勇気を出して誘ってみれば良かった。絶対断られるって思ってたから……。わたしの都合でエリックを煩わせるのはいけないことだと思って……」
 が言えば言うほど、こんな些細な望みも口に出せない境遇に陥らせた自分の甲斐性のなさに落ち込んでしまいそうだった。
 だが彼女は現実を知らないんだ。知らないからこんなに無邪気に感動できるのだと言い聞かす。
「お前が喜んでくれるなら私も嬉しい。しかし繰り返すが口さがない連中は私だけではなくお前も傷つけるだろう。うんざりするような目に逢うのは間違いない」
「それで、わたしがあなたにもうんざりするかもしれないってこと?」
「そういうことだ」
 まったく、自分で自分の首を締めているとしか思えない行動を取るとは、なんと私は愚かなのだろう。
 有無を言わさず恩と腕力と金の力で彼女を縛り付けてしまうのが手っ取り早いやり方だ。だがそれでは肝心の愛は得られない。しばしでも愛情のある生活に触れた私にはそんな選択肢は最初から問題外なのだ。
「あなたやわたしのことを知らない人が言うことを気にしたってしょうがないわ。気にしたところでわたしたちのことを助けてくれるわけじゃないもの。だったらむしろ堂々と見せつけてあげればいいじゃないかしら。向こうがこっちに嫌がらせするんなら、こっちだってやりかえせばいいのよ」
「……簡単に言うがな」
 飄々と言い返す彼女に、私は肩を落とした。この前向きさは彼女の長所であるのは間違いないが、能天気と紙一重だということに気がつく。
「ありがとう、エリック」
 ふっと表情を改めて、は私を見つめた。
「あなたの申し出があなたにとって辛さを伴うものだということはわかっているつもりよ。それでも譲ってくれたことに感謝します」
 軽く俯き、そっと彼女は私の胸元に手を当てた。
「エリックの懸念はきっと現実のものになってしまうと思う。わたしは大丈夫だと思いたいけど、実際にどうなるかはわからない。でも、最初からは無理かもしれないけど、気にしないようにするわ。だって、たまたま居合わせただけの人たちにあなたやわたしがどんな人間かなんてわかるわけがないもの。そんな人たちが言うことに傷つくなんて悔しいわ。だからわたしは負けない。負けたくない」
 ぎゅっと拳を握りしめる。彼女の強い決意が伝わってくるようだった。
 私はとうとう堪えきれなくなり、彼女の胴を抱いた。
「まったくお前は……。お前といると自分の悩みが馬鹿らしくなってくる」
「ごめんね、生意気言って」
 腕の中で彼女はしゅんとうな垂れる。
「いや、私こそ弱気になっていた。お前のような女でなければ、そもそも私の望みなど叶うわけもないのにな」
「エリックの望みって?」
 自嘲する私を、かすかに身じろいだ彼女が見上げてくる。
「お前と同じさ。恋人と一緒に行動したかったんだ。誰に見られようと、昼間だろうと、な」
「そっか」
 はかすかに涙を浮かべながら微笑んだ。
 そう、彼女と出会う前には何度となく想像したものだった。だがもう想像で終わらせたくはない。夢を現実にするために、私も彼女もその一歩を踏み出すのだ。
「早速だが、明日でいいか?」
「本当に早速なのね。お昼過ぎでいいなら、いいわ」
「なぜ昼過ぎなのだ?」
 念願の外出ができるのだからもっと早く出かけたがるかと思ったが。
「だってせっかくあなたと出かけられるんだもの。何を着ていけばいいか、決められそうになくって」
 ははにかんだ笑みを浮かべた。その表情に心臓が高鳴る。
 しかし着飾ることに興味の薄い彼女にしては珍しい発言だ。しかしそこではたと気がつく。もしや、連れのいない空しさから、着飾ることに熱意が注がれなかったのだろうかと。
(まさか……な)
 そうだとしたらに洒落っ気を持たせることに苦労したこの一年以上の時間は……。
 だが色々ありすぎて精神的に妙に疲労してしまった私にはもう確かめる気力はなかった。明日の準備もするから部屋に戻るというに、ただ頷き返すのがやっとだった。
「じゃあ、おやすみなさい」
 は頬に唇をかすめると、慌てて立ち上がった。
「また明日ね!」
 そそくさと去っていく彼女を、私は呆然と見送る。
(……今のは卑怯だぞ、
 朝と夜の挨拶のキス。
 なくなって久しかったので、もう復活しないのかとさえ思っていた。だが彼女の方からしてくるとは。
 私としたことが不意をつかれてお返しができなかった。だが、覚えていろ。やられっぱなしでいる私ではない。
 明日の朝には必ずこちらから仕掛けてやろうと、私は決心した。





これにて修羅場編の後始末も終了です。
ベルナールが定期会員になるまでの話とか書き損ねたけどまあいいや。機会があったら別の話でさらっと挟んでおこう。

尚、今回の話は三ノ宮さんからのシチュリクを兼ねています。
…全く悩まずとっととエリックに仕掛けてしまったのでリク内容とはかけ離れてしまいましたが…。
なんだったら翌朝のエリックからのお返し話も書きますので、その際はご一報ください。


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