壁際に彼女を追いつめ、逃げられないよう両腕で囲んだ。
「エ……リック?」
 の瞳は驚愕に見開かれている。そこには恐怖の色すら混じっていた。
 私は無言のまま背を屈め、顔を近づける。これ以上後ろへ下がれないにも関わらず、反射的な動作では後じさろうとした。だができない。私は喉の奥で笑った。
「ちょ……なに……。どうしたの……?」
 彼女は震える声で必死に言葉を紡ぐ。切羽詰っているのがありありとわかった。
 さらに一歩近づくと、ぶたれるとでも思ったのか、は目をぎゅっとつぶって身をすくめさせた。
 私はそこへ――。
「……え?」
 ぱちっと彼女は目を開けた。
「今のは何?」
 状況が理解できないというように、困惑した様子で彼女は聞いてくる。
 私は背筋を伸ばしてから、あえて平然とした態度を崩さずに答えた。
「何って、昨夜のキスのお返しに決まっているではないか」
 以前だったら頬にしていたところだが、今回はが身をすくめていたこともあって額になってしまっただけなのだ。
 昨夜キスをされたことに気がついたときにはは自室に逃げていたから、今度は逃げられないように先に捕まえることにしてみた。彼女が部屋から出てくるのを、彼女の部屋の扉の前で待っている時間はいささか情けない気分に陥ったが、の反応でようやく気が済んだ。そう、これでおあいこだ、と。
 は声にならない声をあげて、口をぱくぱくする。
「それなら普通にやってよ。びっくりするじゃない!」
 裏がえり気味の声で叫んだ。余程驚いたのだろう、目の縁には涙がにじんでいる。
「その言葉はそっくりそのままお返ししよう。私だって昨夜は驚いたのだぞ。まさかやり逃げをされるなんて思ってもいなかったのだからな」
「やり……。人聞きの悪いこと言わないで!」
 は真っ赤になって叫んだ。
「事実ではないか」
「……っ!」
 さらに追い打ちをかけると、彼女は顔を覆ってその場にしゃがみこむ。反応が面白かったので調子に乗ってしまったが、さすがにやりすぎたかと、私も膝をついて彼女の頭をなでた。
「すまない、やりすぎた。しかしどうせならば、昨夜はせめてあと三十秒だけでもその場に残っていてほしかったのだよ。お前はあれで気が済んだのかもしれないが、お前に逃げられた私はどうなる」
 もちろんがあの行為をするのに多大な勇気を要しただろうことはわかっている。逃げたのは照れ隠しだということも。それでも、
「私はお前にきちんと答えていなかったのに」
 言うと、はこちらを窺うようにちらりと顔をあげた。目が合うと、はまた抱えた膝に顔を埋める。
「ごめんなさい……。でもエリックがどんな反応するかと思うと、怖いような気がして、とてもあの場には残れなかったのよ」
 くぐもった声で彼女は答える。私はうな垂れる頭を黙ってなでた。別に彼女の昨夜の行動が心底不快だったわけじゃない。先手を打たれて少し悔しかっただけなのだ。それと同時に、どこかぎこちない雰囲気だったものが完全に氷解したのだと感じて嬉しくなった。
 しばらく髪をなで続けていると、ゆっくりとは顔をあげた。
「エリック、そういえば今朝の分はまだだったわ」
「ああ、そうだったね。まだちゃんと挨拶もしていない」
 視線を絡めると、彼女は小さく微笑む。
「おはよう、
「おはよう、エリック」
 私はゆっくり顔を近づけた。は私の意を察して目を閉じ、軽くあごを上げた。
 朝の挨拶。
 以前の場所とは違ってしまったが、構うことはないだろう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 朝食を済ませると、外出着に着替えるためには部屋へと戻っていった。
 しばらくすると扉が開いた気配がしたので、何の気なしにそちらへ視線を向ける。は扉から顔だけ出してきょろきょろとしていた。そして私に気がつくと途方に暮れたような表情で私を呼ぶ。
「どうした」
 問うと彼女は扉をきちんと開けてこちら側に歩み寄ってきた。着替えは済んだようで、作ってから一度も袖を通したことのない外出用のドレスを着ている。散歩に行くだけなのに上等すぎてもったいないと、仕舞いっ放しになっていたものだった。
 しかし髪だけはきちんとしていなかった。梳いただけの黒髪が肩にかかっており、歩を進める度にさらさらと揺れる。
、その格好は……」
 私は顔をしかめた。
 中途半端さが妙に色気を帯びて見える。まさか彼女が朝から私を誘惑しようとしているとも思えないが、男のさがで私が勝手に誘惑されてしまいそうだった。
 は申し訳なさそうに両手を合わせる。
「エリック、あの、あなたってもしかして、髪を結えたりする?」
「髪?」
 彼女は頷きながらスカートを摘んだ。
「このドレスだといつもの髪型ではちぐはぐな感じになるのよ。でもわたし、他のやりかたはよくわからないし……」
 確かにいつもの髪型ではこのドレスには似合わないだろう。と、いつもの髪型を思い出して想像した。今日のドレスは光沢のある生地に飾りのリボンやフリルが多い華やかなものだからだ。
 これまで選んだことのないドレスを選んだあたり、の洒落っ気のなさに関する私の考察はやはり的を射ていたのだろう。だが気づけて良かったと思った反面、こんな単純な理由だったのかと思うと脱力感に襲われてしまいそうだった。
「ごめんなさい、無茶なことを言って」
 無言になった私を、無理難題に対する呆れだと解釈したらしく、はますますすまなそうになって肩を縮めた。
 私は慌てて彼女を引き留める。せっかく着飾ってくれる気になったのに、このままではいつもの品はあるが地味目なドレスに着替えてしまうだろう。どっちのドレスも用意したのは私だが、今まで一度も着たことのないものを着てくれたのに、それをふいにするなどとてもできなかった。
「いや、なんとかしてみよう」
「なんとかって……」
 大丈夫なのかと問う目で彼女は言った。
「女性の髪を結ったことはないが、髪結い師の仕事は何度も見たことがある。ほら、オペラ座にはそういった仕事をする職員もいるからな。だからやってみよう。案外上手くできるかもしれないだろう?」
 私は彼女に不審の念を抱かれないように答えた。舞台に立つ踊り子や歌い手らの髪型は演目によって変わる。地毛を結うこともあれば鬘をかぶることもあるが、間違ってもに着替えをしている最中の女たちを好んで観察しているなどと思われては困るのだ。実際のところは、通りかかった時にたまたま目に入ることは珍しくはないのだが。
「エリックは器用だから、そうかもしれないわね。お願いしてもいいかしら」
 は特に何かを気にかける様子もなく頼んでくる。ほっとしながら、私は頷いた。


 二人とも支度が整う頃には、昼になっていた。出がけに軽く食べておけるようにと用意していたサンドウイッチと朝の残りのスープとで腹ごしらえをしてから家を出る。 
 その前に私はに帽子を被せてきちんとピンで留めてやった。この帽子も箱に入ったまま出番がなかったものの一つで、絹でできた造花とレースとで飾ってある。
 またの髪は数度の失敗を経てなんとかドレスに合うように結い上げることができていた。全体的に華やかではあるが軽薄にはならない装いにできたと、我ながら満足している。
 だが浮かれた気分でいてはいけない。今回の外出はただの買い物ではないのだ。馬車での移動だけではなく、二人そろっての散歩も行動予定に組み入れている。奇異なものを見る目で見られることは間違いなく、彼女がそのことで傷つくのではないか、また私に嫌気がさして再び逃走を企てたりはしないか、懸念されるところだった。
 階段を昇りきると、初夏の晴天が広がっていた。眩しい、と小さな声が脇から聞こえる。その声に引かれて視線を向けると、はどこかぼうっとした目で空を仰いでいた。
 目が慣れないのか彼女は何度も瞬きをし、だが光から目を離そうとはしない。そして半日陰であっても彼女の肌が以前と比べて白くなっていることに、私は気づかされた。
 白磁の肌と例えられる白さではない。病気にでもなって家に籠もりきりになっていたような、そんな不健康そうな肌の色なのだ。それは私も似たようなものなので、こんな二人が並んで歩いていたら、通りすがった連中はさぞ不気味に思うことだろう。外出はやはり無謀だったかと、暗い気持ちが込みあげてくる。
「エリック、行かないの?」
 は私の気も知らず、袖を軽く引いて問う。外へ出られたとようやく落ち着きを持って実感できたのか、頬には赤みがさしていた。声にも嬉しそうな響きが混じっている。
「あ、ああ。行くよ。車寄せにベルナールが来ているはずだ」
 こんなにやはり外出はやめようなどと言えるはずもない。私は不安を胸の奥に押し込めた。
 急に決まった外出なので、夜のうちにベルナールへの伝言を残しておいた。の支度がいつ頃終わるかわからなかったから、スクリブ通りの入り口前ではなく、オペラ座の車寄せで待っているよう指示している。深夜から早朝ならばともかく、人の出入りがないはずのこの入り口前にずっと馬車が止まっていては、いらぬ詮索を招きかねないからだ。
 私はトップハットをやや深めに被り直し、己を鼓舞するように言う。
「では行こう」
 私はを歩道の内側になるようにして歩き出した。
 車寄せまではほんの数十メートルとはいえ、人通りの多い時間帯ゆえに、非常に緊張を強いられる。夜ならばまだ薄暗がりに隠れることもできるが、陽光の下ではそれもできない。すれ違う者すべてが私たちを見てるように思えてくるが、これは私の思いこみばかりではないだろう。
 すぐに見覚えのある馬車が見えてきて、御者台に座っている男が降りてきた。
 私たちが馬車の脇に到着する頃合いを計って出入り口を開ける。御者服に身を包んだベルナールをちらと見やれば、感慨深そうに目を潤ませていた。
 が帰ってきて半月は経っているが、この男はに滅多に会わないのでまだ頭の中では私たちが喧嘩をしている頃の感覚のままなのだろう。戻ってきて良かったですねと目で語りかけられたが、こっちとしてはすでに終わっていることであるうえに、気恥ずかしさもあって、無言で頷くだけにした。
 一方は久しぶりだのなんだの、気さくな言葉をかけて元通りになっているのだとそれとなく伝えている。放っておくとずっと立ち話をしそうだったので、を急かして馬車に乗せた。私も乗り込むと、ややあって馬車が動き出す。行き先はすでに伝えてあった。
「これから行くところは、どんなお店?」
 スカートを整え終わると、おもむろに彼女は尋ねてきた。
「店としては普通の生地屋だ。昔ながらの佇まいをしていると言えばいいかな。品質の確かなものを手堅く扱っていて、顧客には仕立て屋が多い。つまり男性客が多くて自分で家族の服を縫うために生地を買いにくるような女性客は少ないから、私にとっては比較的入りやすいところなんだ」
 加えて言えば店主は独身なので、店番に奥方が立つこともない。女に騒がれたり卒倒されたりするのは、いついかなる時であっても居たたまれなくなるが、所用をこなしたいだけの時にはわずらわしくもある。相手が男ならば多少手荒な対応をしても胸は痛まないので、こういった店は重宝していた。
 は不思議そうに小首を傾げる。
「エリックはこういう店をどうやって見つけているの? 色々見て回って最適なところを探すのは、かなり大変だと思うんだけど……」
「いいものを見つけられやすくなったのは、オペラ座に来る客の噂話が聞けるようになってからだな。服でも小物でも、いい仕事を手に入れようとするならそれなりの支払いをしなければならない。そしてオペラ座にはそれが可能な連中が集まってくる」
 かといって、そこで品質の確かなものを売っているという評判の店や腕のいい職人がいるという話を鵜呑みにするわけにはいかない。その話をしていた者にとっては事実であっても、私に対して同じ対応をしてくれるとは限らないからだ。現在の生活を確立するまでには、それなりに失敗だってしている。
「今回の生地屋は直接噂話を仕入れたわけではなく、噂で知った腕のいい仕立て屋に仕事を頼んだのがきっかけで知ることになったのだ。その仕立て屋は現在も仕事を頼んでいる――つまり”当たり”の職人でな。その男がよく生地を仕入れているのがその店なのだ」
 放浪時代とは違い現在では自分で衣服を仕立てることは少なくなったとはいえ、生地そのものを購入する必要に迫られることはあるのだ。定期的に購入するのはテーブルナプキンやタオル、シーツ類などで、実際の買い物はベルナールに頼むにしても、どのような品がほしいのかは指示しなければならないのだから、自分が欲しいものを扱っている店はこちらでも把握しなくてはならないのだ。
 は納得したように頷いた。
「もしかして、わたしのドレスを仕立てたのも、その仕立屋さん?」
「いや、紳士服と婦人用ドレスは勝手が違うから、別の仕立て屋に頼んだ。生地はこれから行く店で買って、デザイン画と一緒に渡したんだったな」
 あの頃はまだ未来から来て間がない彼女と生活していくだけで精一杯だったな、と当時を懐かしく思い出した。仕立て屋の採寸用に彼女の胴体の型を作ったのだったが、石膏とはいえ、彼女の裸体の形を己の手で作ったとは……。同じことを今やろうとしたら、きっとできないだろう。とても平静を保てそうにない。
「そうだ、ドレスといえば、仕立て直しに出すか?」
 聞くとは引きつった笑みになる。
「そこまでサイズは変わっていないと思うんだけど……。ああでもやっぱり、細い袖のものはぱっつんぱっつんになっているものね」
 あああ、と嘆きの声を発しながら、頭を抱えて彼女は前のめりになる。そういえば、彼女は目方が少々増えたのだったが、私としてはさして気になるほどでもない――というよりも、触り心地が良くなったのでむしろこのままでいてくれと思っているくらいなのだが、にとっては承伏しかねる変化のようなのだ。
「いや、そういうことではなく、婦人服は流行が毎年変わるから、それに併せた方がいいのではないかということだ。流行を追いすぎるのは浅はかだと思うが、取り入れなさすぎるのも野暮というものだろう。古着しか買えないのであるなら流行もなにもあったものではないが、私はそうではない。新しいものを作ると言えばは私の金銭的負担がどうとか言いだしそうだから、これでも妥協しているのだがね」
 袖がきつく見えるものはそれはそれで直さないといけなかろうが、口に出したら落ち込みそうなので、言わないでおいた。
「う……まあ、そういうことなら」
 自分の目方のせいではないということに納得したようで、は身を起こして承諾する。
 そんなことを話している間に目的の店へ到着した。
 路肩に馬車が止まると、ベルナールは恭しい様子で出入り口を開ける。
 店が建ち並んだ通りではあるが、オペラ座周辺のような華やかさはないところだ。周辺住民相手の商売をしている店が多く、個人所有の馬車は通りかかっても留まることは少ない。こういった事情もあって、最終的に生地屋はここを贔屓にすることに決めたのだ。自家用馬車に上等の身なりとなれば、それは金銭的な豊かさを示していることになる。財力に劣った連中は、それだけで不必要に絡んでくることはなくなるものだ。私がどれだけうさんくさく見えようとも、金のある相手に直接的な被害を与えたら面倒なことになるとわかっているからだ。もっとも、悪口だけはどうにもならないが。
 店に入ると、急に薄暗くなる。この店の窓は小さいものが二つしかついていないのだ。直射日光は色褪せなどで生地が痛むからと、あえてそうしているらしい。
 商店に入った時の約束ごとなのでBonjour Monsieurと告げた。客がきたことに気づいた店員が奥からでてくる。だが途中で足が止まった。
「店主はいるかね」
 強張った顔の店員に構わず声をかける。この店を私が訪れたのは約一年ぶりだが、この店員は知らない。おそらく新参なのだろう。私はいわば名物客なので、私が来訪すると怖いもの見たさでわざわざ店員たちは仕事を留めてまで覗きにくるから、覚えたいわけではないのに店員の顔は覚えてしまったのだ。
「やあ、どうも、お久しぶりですな」
 不穏な気配に気づいたのか、別の方向から店主が出てきた。日のあまり入らない店に一日中いるせいか、この店主も顔色はよくない。彼は瞼が厚くてどこを見ているのか一見わからないような風貌をしていた。
 固まっている店員に奥に戻っていろと指示すると、店主は何を探しているのかと聞いてきた。
「ガウン用の生地がほしい。これからの季節だから、暑苦しくないものがいいのだが」
「お二人分ですか」
 再度問われて私はしばし考えた。自分用をと思っていたが、 の分もあってもいいかと思い直したのだ。彼女は暑がりなので夏の間はガウンを着ないだろうからガウン用ではないものがいい。
「ガウンは私用だ。彼女には夏用のドレスの生地がほしい」
「ちょっと、エリック」
 が軽く叩いて注意を促してきた。
「そんな予定はなかったじゃない」
「気が変わったんだ」
 小声で囁かれたので私も声の大きさを押さえて答える。店主に聞こえないわけではないだろうが、辛抱強そうにじっとしていた。
「……わたしの腕の肉、やっぱりひどい?」
「だからそうではないと言っているだろう。おまえは暑さに弱いようだから、手持ちの衣装にあるものより薄手のものがあった方がいいと思っただけだ」
 が蒼白になって私の袖を引っ張ってきたので、やんわりと宥めなた。ドレスを新調するのと目方が増えたことが今の彼女の中では結びついてしまっているらしい。私は気にしていないというのに、なぜ彼女はそんなにも気になるのだろう。女心は読み難いものだ。
「店主、まずは夏用の生地を見せてくれ」
 さらなる反論はなかったものの、納得しかねる風だったので、現物を見れば少しは機嫌が直るかと、用の生地を先に頼んだ。
 店主は何種類かの生地を持ってきて広げる。
 見た目に涼しげなのはなんといっても白だろう。透かし模様の入った白一色も良いが、水色や青の模様が入ってるものも悪くはない。だが明るい色彩のものも良いだろう。夏の日差しに良く映えそうだ。だがその場合は外出着として仕立てなければならないのだが、今後、どの程度の頻度で外へ行くか――あるいは行かないか――は判断できないのだから、避けた方が無難かもしれない。
「うーん」
 目の前に並べられるた生地を興味深そうに見つめながら、はそれに触れてみる。白一色ではあるが、微妙に生地の厚みが違うためにストライプの浮き文様状になっている木綿地に特に目がいっているようだった。
「これが気に入ったか?」
「え……。うん、生地はいいんだけど……」
 困惑したようには私を仰ぎ見、つぶやいた。完成型が見えないと。
 そのあたりのことは私が考えるからと告げると、彼女があからさまにほっとした顔になった。店主にこの生地を着丈分もらうと告げると、裁断をするために店員が呼ばれた。新参のあの店員とは別だったが、私が初めて女性を同伴してきたことで、どこのどんな女か間近で見てみたいと裏では誰が行くか揉めていたようである。さして広くない店内では、ひそひそ話も丸聞こえなのだ。
「よう、旦那。元気かー?」
 次に私のガウン用生地を選んでいると、別の客が入ってきた。店主に親しげに声をかけているところを見ると、常連なのだろう。
「おっと先客か。……っと」
 は声につられて振り向いたが、私は動かなかった。振り向かずとも、男は先客が仮面をつけている怪しげな風体の男であることに気づいただろう。店内は不自然な沈黙に満たされた。
「クロード、フェルの旦那に取りおいていた品を出して見せてやってくれ」
 淡々と店主が店員に指示すると、呼ばれた店員がフェルの旦那とやらを奥に連れていった。
 勝手知ったる風な男と店員は件の生地を話題にしている風を装いながらも、ちらちらとこちらを窺っている。あの男は何者だとか、あの仮面はなんなんだとか。私が外へ出たときにはよくあることではあるが、が一緒の時にこのようなことになったことはなかった。それはもちろん、私がこんなことになりそうな場面を避けていたからであるが、はどう思っただろう。
 彼女の様子をそれとなく探ると、は顔から笑みを消して手元をじっと見つめていた。視線に気がついたのか目をあげると取ってつけたような笑みを浮かべる。
 その時、不快なやり取りが漏れ聞こえてきた。心ない言葉は彼女にも向けられており、私は場所もわきまえず男を絞め殺してやりたい衝動に駆られる。だがが私の手を両手で包み込むようにしてきたので私は我に返れた。
 私はどうにかして冷静さを保ったままガウン用の生地も選ぶことができた。それを必要な分だけ切ってもらうと、代金を払って店をでる。丁度その時にまた別の客がやってきて、あんぐりと口を開けたまま私たちを見送る形になったかと思うと、店に飛び込むようにして消えていった。きっとあの店ではこれから先行の客に対する様々な憶測がされることだろう。
「あの男、ひっぱたいてやろうかと思った」
 馬車に乗り込んですぐ、が座った目つきでそう言った。
「しないでくれて助かったよ」
 私は彼女の手をぽんぽんとして宥める。
 女にひっぱたかれたりしたら男の沽券がどうのこうのと息巻いて、殴り返してきかねない。もちろんその前に私が男を動けなくしていただろうが、には殴るだの殴り返されるなどということには関わってほしくないのだ。
「不愉快だっただろう? だがこんなことはしょっちゅうだし、あれくらいはまだ可愛いものだと言えるほどだ。、私と外出をするということはこんなことを毎回経験しないといけないということだ」
 だが彼女が外に出ようとするのなら、こういったことは避けられない。他の選択肢が消えてしまった以上、これを受け流すか外へ出ないかの二つしか、には選べないのだ。
 しばらく黙っていたが馬車の外へ目を向ける。
「このあとは、どこかの公園へ行くんだったっけ?」
「ああ。だが嫌なら引き返そう」
 は頭を振る。重なっていた私の手の下から己の手を引き抜き、改めて私の手の上にやんわりと重ねた。
「いいえ、行きましょう。私は平気。こんなにいい天気なんだし、公園は誰が行ってもいいところだわ。エリックはどうしたい?」
 挑戦的な色を帯びた目では私を振り返った。強がりかもしれないが、強くありたいと願う気持ちが嬉しい。他の誰のためではなく、私のためにそうあろうとしてくれるその気持ちが。
「お前が拒絶しないなら、予定を変更する理由はないな」
 答えると、は私の肩に頭をもたせかけてきた。私は彼女の肩を抱く。
 馬車は軽快に次の目的地へと進んでいった。










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