「こっち側へ来るのは初めて」
 流れゆく窓の景色を見るともなしに見ていたが興味深そうに呟いた。
「そうなのか?」
「ええ。公園ならチュイルリーやモンソーの方が近いから、あえてセーヌの向こう側まで行ってみようという気が起きなかったのよ」
 それから彼女はスカートを少し摘んで、靴の先を見せる。
「もっと歩きやすい靴でないと、長時間歩くのはきついということもあるけれど」
 長時間といっても、スニーカーを履いていたら、なんてことない距離なのにね、とやるせなさそうにため息をついた。
 が履いているのは華奢なデザインの編み上げブーツだ。華奢ではあるが、外歩き用のものである。これで以前は気の向くままに散歩をしていたものだが、もしもあの機能性ばかりが目立つようなスニーカーという代物を履いていたとしたら、どこまで行っていたかわかったものではない。私のところにいるのが嫌になったら、ふらりと出ていけそうではないか。あの履き物がこの時代にはまだなくて良かったと、私は心の底から安堵した。
 そして内心を表情に出さないように、淡々と会話を進める。
「これから行くリュクサンブール公園はチュイルリー公園よりも広い。それにあそこよりは静かだという話だ」
「そうなの? 広いなら人が集まりそうなのに」
 は不思議そうに小首を傾げる。
「集まってはいるだろうさ。だがリュクサンブール公園にはドレスを披露しに来る上流の婦人たちや、彼女たちの取り巻き連中は来ないというだけだ」
「……ああ、なるほど」
 私の言わんとするところを理解したようで、は苦笑しながら頷いた。自家用の馬車を持っている者ならばともかく、公園のようなところへ行くのならば、基本的には歩いていける場所へ行くものだ。リュクサンブール公園周辺はチェイルリー周辺とは違い、金持ち連中の屋敷が近いわけではない。自然と訪れる層が違ってくる。
「それなら、うっかり会いたくない人に会ってしまう確率は低くなるのね」
 さらりと、ただの独り言のような雰囲気で彼女は言う。
 私はぎくりとしたが、事実それを狙ってリュクサンブール公園を外歩きの場として選んだので、平静を装って頷いた。
 チェイルリー公園は金持ち連中が財力やセンスを見せびらかす場となっている。だからあの二人――ド・クレールやロールがいてもおかしくはないのだ。そもそもあの一件が起きる前からすれ違っていた可能性だってある。もあの二人も互いを認識していなかっただけで。
「そろそろ見えてきたようだな、あれがリュクサンブール公園だ」
 折りよく建物と建物の切れ目から緑の木立が垣間見えた。私が指さす方には目を向ける。
 本日二度目の外出試験はどうなるのだろう。かすかな緊張で背中が強ばっていく。も似たようなことを考えているのだろうか、外を眺める私たちの口数は自然と少なくなっていった。


 幾つかある出入り口の中でも比較的広いところに馬車が止まる。ベルナールに我々が戻るまで待機しているよう告げ、私たちは園内へ向かった。公園という場所柄、いないはずがないのだが、すでに先客の姿がちらほらと見える。
「エリック、腕を組んでもいい?」
 囁くように口元に手を当てて、は言った。
「あ、ああ。すまない、気が利かなくて」
 歩を止めて少し曲げた腕を差し出すと、彼女は私の脇にぴたりと身体を寄せて腕を絡めてきた。手袋に包まれた柔らかな指先が肘の内側に触れると、一瞬警戒も忘れてしまいそうなほど心臓が強く打つ。
「日傘が邪魔ね。畳もうかしら」
 紳士であることを示すために男がステッキを常に持ち歩くように、淑女であることを示すための日傘を彼女は差していた。持っていることが重要なのであって、差すか差さないかは気分で決めてよいそれを、彼女はおろす。だが畳もうとして動きを止めた。
「やっぱり差していた方がいいのかしら。そうしたらわたし側からすれ違う人とはあなたの仮面が見えにくくなるもの」
 気遣わしげには私を見上げた。
「ふむ……。いや、お前に任せるよ。邪魔だと思うなら畳んでも構わない」
 実際、私にはどちらにせよと言うことができなかった。
 私が見えにくくなるようにしたいなど、私と一緒に歩くのを恥だと思っていると解釈することはできる。だが隠さないことによって、起こらずに済んだもめ事が起きてしまうことだってあるのだ。堂々と世間を歩きたいという思いはあるものの、それが不可能だから――それほどひどい顔であるから――忌々しいと思い続けながらも私が仮面を被り続けているように、彼女が不要な問題を避けようとしたところで文句が言えるはずもない。
 はしばし迷ったあと、日傘を差し直した。頭の上ではなくやや右の前側に傾けているので、これならば確かに私の仮面も見えにくくなるであろうと思えた。もっとも、正面から来られたら、意味はないだろうが。
 そして改めて歩き出す。
 平日の午後、昼の休憩時間も過ぎた頃合いとあってか、すれ違う者の数は少ない。ずらりと並んだベンチや椅子も空きが目立っていた。
 時間を持て余しているらしき老人が暇そうに座っていたり、近くの大学の学生が、講義がないのか読書に耽っている姿が散見される。女性の姿はあまり見ない。このあたりには有閑婦人は少ないだろうから、仕事なり家事なりをしていて出てこられないのだろう。それは一つの安心感をもたらしたが、しかし人がいないということがない以上、私に、そして私と一緒にいるに気味の悪そうな視線が飛んでくることは防ぎようがなかった。
「天気が良くて気持ちがいいわ。芝生も緑が濃くて綺麗。ねえ、エリック」
 あえてそうしているのだろうが、明るい声では私を見上げ、微笑んだ。
「そうだな。今がパリでは一番過ごしやすい季節だろう」
 私も周囲の人間など意に介していない風を装って返事をする。
「日本だと今の時期ならまだ梅雨だったりするのよね。雨が多いだけならましだけど、湿気がすごくて蒸し暑くなったりするの。それがないだけでも、パリに来て良かったと思うわ」
「お前は暑いのが苦手だからな」
「エリックは暑くても寒くても平然としているけど、どっちも気にならないの?」
 からかうように言ったので気を悪くしたのか、拗ねたように彼女は言った。
「そうだな……。寒い方が苦手だろうか。手がかじかめば私の技も思うように使えなくなるからな」
 は頷く。
「そうか、そうよね。でもあなたって、暖炉の消えた居間でもシャツの上にガウンを羽織っただけのことがたまにあったから、寒いのは平気なんだと思っていたわ」
「ああ、あれは室内だからだよ。寒いといっても外に比べればたいしたことはない。それに暖炉に火をいれさえすれば暖かくなることがわかっているから、わざわざ着膨れるつもりがないだけだ」
 の国では暖炉が珍しかったようで、彼女はそれの存在自体は知っていたものの、火の熾し方や調整の仕方がわからなかったのだ。だから私の元へ来たばかりの頃、私が寝ている昼間などに火が消えてしまうと、自分ではどうすることもできなくて私が起きてくるまでショールや毛布にくるまっていたということが何度かあった。壁の中には風呂用の湯が通るパイプが通っているとはいえ、暖炉なしで過ごせるほど暖かくはならないのだ。
 だがそれよりも、私が寒さを厭うのは手がかじかむことが不都合だからだという他に理由があった。
 寒さは孤独をより強く思い知らされる。
 冬が近づくだけで訳もなく感傷的になってしまうのはどうやら私だけではないようなのだが、私にはその切なさを解消する手段が他の人間よりも少ないように思えるのだ。
 家族での団らんだとか、友人との語らい、それに恋人と寄り添い過ごす……そういったことができなかったから。
 だからが来て初めて、ただ寒いだけではない冬というものを知った。そしてきっと、彼女がいなくなったら、冬はさらに厳しさを持って私を襲うことだろう。
 私たちはそれからもたわいもない話をしながら歩き続ける。近づく夏に向けて咲く色とりどりの花はどこまで行っても視界に飛び込んできた。
 しばらく行くと、噴水のある池に出た。日差しにきらめく水滴はさながら水晶のよう。快い水の音と、心地よい風と相まって柄にもなく心が浮き立った。も綺麗ねと呟く。
「少し座るか」
「うん」
 近くのベンチに座る。そしてやおらきょろりとあたりを見渡し、やっぱりここにもいるのねと彼女は独りごちた。
「どうした?」
 周辺の椅子やベンチには何人か先客がいる。それらの視線が気になるのかと思ったがそうではないと彼女は頭を振った。
「初めて一人で公園に行ったときのことを思い出したの」
 チェイルリーのことだけど、と彼女は前置きする。
「ちょっと休憩しようとして、椅子に座ったの。一人だったからベンチを占領するのも悪いと思って。そうしたら空き缶と料金表を持ったおばさんが来て、使用料を払えって」
「その話は初めて聞いたな」
 は外で見聞きした出来事はほとんど話してくれていたと思っていたがと怪訝に思っていると、
「だって、あなたに内緒で外に出ていた時のことだもの」
 と至極あっさりした返答がきたので納得してしまった。
 最初の頃の外出といえば、私と共に馬車でというのが定番だったが、そのうち地上への道に施した仕掛けの解除方法を見て覚えた彼女は、こっそりと出かけるようになったのだ。それを黙認したのがつい最近あった問題の遠因となったわけだが、それについては今は口にはしないでおこう。この間の諍いをまた繰り返す羽目になりかねない。
 それよりも気にかかることがあった。
「その時期ならお前は小遣い銭を持っていなかっただろうに、どうしたのだ?」
「だから謝って逃げたわよ。他に方法なんて思いつかなかったもの」
 恥ずかしげに頬を赤らめ、は答える。それから釈然としない様子で文句を言った。
「でも未だに意味がわからないわ。ベンチだったら料金はいらないみたいなんだもの。一体なにが違うっていうのよ」
「なにがと言われてもな……。そういう決まりになっているんだ。椅子は動産で管理が必要、しかしベンチは不動産だから管理がいらない、とな。椅子によって料金も異なるのは、その管理料のせいなんだ」
「納得いかないわよ、そんなの。だってベンチは地面から生えているわけじゃないじゃない。椅子に管理料が必要ならベンチにだっていると思うし、ベンチにいらないなら椅子にだっていらないとしか思えないわよ」
 は頬を膨らませる。私は彼女をなだめるために軽く肩を抱いた。
「その様子では日本では椅子の使用料というものはないようだな」
「もちろんよ。というよりも、日本の公園にはこんなに椅子もベンチもないのよ。だから余計に意味がわからないと思ったのかもね」
 わたしが文句を言ってもしょうがないけれど、と言うと、口に出したことですっきりしたのか、は別の話題に移りだした。彼女は気分が乗ると、次々と脈絡のない話を展開する。それが時には私を面食らわせ、時には愉快にさせてくれるのだ。
 話に一区切りがついたのを機に、散策を再開する。
 特に目的もなくぶらついているのだが、初めて来た場所ということもあって、無言になっている余裕はなかった。はちょっとしたことでも面白がり、私は私でそんな彼女を混ぜ返す。相変わらず周囲からは小蝿のように視線が飛んでくるが、二人の世界にいればそれもあまり気にならなくなった。そうだ、ただ散歩をしているだけの私たちが、彼らの誰にも害を与えていない私が、なぜ萎縮しなければならないのだろう。公園は誰のものでもないのだ、私にも恋人とそぞろ歩く権利はある。
 散策を初めて一時間は経っただろうか。ようやく自信がつき始めた私の耳に、子供の歓声が聞こえてきた。
 しばし道なりに歩くと、子供とその子守らしき大人が集っている一角に出る。
「あら、ここってずいぶん本格的な遊び場所があるのね」
「ああ、そういえばリュクサンブールには子供遊園があるんだったな。それがここか」
 柵によって歩道から隔てられたそこでは、男の子も女の子も大きな声をあげて遊んでいた。はそれを楽しげに眺めだしたので、自然と歩調はゆっくりになる。それからふいには足を止めた。
「エリック、あれは何をしているの?」
 指さす方向には回転木馬があった。できて間がないらしく、ぴかぴかなのだが、回っているのは馬だけではなく、象にキリン、ラクダやライオンも混ざっていた。が聞いているのは、上からところどころ吊された輪っかのことらしい。木彫りの動物にまたがった子供らが、それを棒で取ろうと背伸びをしたりしているのだ。
「わたしも子供の頃にはメリー・ゴー・ラウンドに乗ったことがあるけど、ああいう輪はついていなかったの」
 そう言ったので、彼女の時代の日本にも同じ遊具があることを知った。回転木馬は――馬以外にも動物の種類はあるが――フランス語ではマネージュと言うのだと教えると、彼女は口の中で何度か繰り返し、よし覚えたと呟いた。それから私が、子供らが行っているのはジュ・ド・バーグだと言うと、彼女は首を傾げる。
「棒で輪がいくつ取れるかというゲームなんだ。取れたからといって何があるわけではないのだが」
 説明すると彼女は顔を輝かせた。
「それって、大人がやっても面白いんじゃないかしら。動いている状態で何かをするのって、結構難しいもの」
「そうかもしれないな。だけどここのは子供用だよ。大人は付き添いで入るだけだ。もっともお前ならあそこに混じっていても違和感はないかもしれないがな」
「失礼ね。そこまで小さくないわよ」
 つんと彼女はあごを反らせた。不機嫌そうにしているのはわざとなのだとわかっているので、私は喉の奥で笑う。すると彼女は悔しそうに頬をさっと赤らめ、迫力のない目で私を睨んだ。
 意地悪だの、意地悪などしていないという応酬をしていると、ふいにお化けだ、という子供の声がする。はっとして声の方へ目を向けると、柵を隔ててすぐのところで五歳ほどの少年がこちらを指さしていた。木製の兵隊人形を引きずるようにしていた彼は、私がかすかに眉を寄せると子供の勘か、びくりと身をすくませた。子守らしき女が私に気づき、少年を守るようにそそくさと手を引いて逃げる。その間にも少年は、お化けがいると騒ぎ続けた。
 彼の遠慮のない声は他の子供たちの興味を引いてしまい、彼らはお化けはどこだと柵の近くにわらわらと寄ってくる。
 こんなところで長居をするのではなかったと、私は瞬く間に後悔した。を促し、その場を離れる。
 甲高い子供の声は遊園場を遠ざかってもしばらくの間、聞こえてきた。彼らの無邪気な「お化け」という声が胸に突き刺さる。
 私が近づけば泣きわめくだろうに、明るい昼間の、仲間たちが大勢いるところでは彼らは怖いもの知らずになるのだ。悪意なく思ったことを口にする。
 怒るまいと、私は自分に言い聞かせた。大人げないことなのだからと。
 その時がしがみつくように私に腕を絡めてきた。
 彼女の歩幅では小走りになっていたようで、軽く息が乱れている。それを整えるように彼女は胸に手を当てた。
「エリック、さっきのお化けって……わたしも含まれているのよ」
 すごく顔色が悪いんだもの、と続ける。
「いや、すまない。私が迂闊だった。子供が大勢いるところでいつまでも足を止めているのではなかった」
「ううん、先に立ち止まったのはわたしだもの。あなたのせいじゃない」
 は小さく頭を振った。
 私はもう一度、彼女のせいではないと告げて胴に腕を回す。 
 あの子供らはこのあたりに住んでいるはずだ。この公園に何度か通えば私は彼らに存在を覚えられ、格好の観察対象とされてしまうことだろう。恐れよりも好奇心に突き動かされるであろう彼らが、傍若無人にも私たちにまとわりついて来たら面倒なことになる。
 やはり二人で昼間に散歩をするなど無謀だったかと暗い気持ちにとらわれた。
 も言葉数が少なくなり、私たちはどちらからともなく帰るつもりになっていった。さきほどの遊園場を通らずに済む道を選んで馬車が待っている出入り口を目指す。
 馬車に戻ると、心底安堵してしまった。外ではあるが、箱で守られているここならば視線も囁きも気にせずに済む。
 は物思いに耽っているようで、唇を閉ざしたまま、流れゆく町並みを見るともなしに見ている。
「すまない」
「え……?」
 は身じろいで私を見上げた。
「やはりお前に不愉快な思いをさせてしまった」
 彼女はふるふると頭を振る。
「そんなことない。わたしはあなたと散歩ができてとても楽しかった。でも、エリックにしないでも済んだ嫌な思いをさせてしまったことが、申し訳なくて……」
 はうつむいてため息をついた。
「いや、今回のことは私が誘ったのだから、お前は気に病まなくていい。それよりも、どうだ。これが私にとっての世界というものだ。お前の知るそれとはずいぶん違うだろう。もっとも、今日はこれでもずいぶんと優しかった方なのだが」
 それでもまだ私と外出をする気になるだろうか。いや、さしもの彼女でも、二度と御免だと思うことだろう。となれば彼女にはもう外へ出る手段はない。私にとっては願ったりとはいえ、にとっては耐えがたい生活となるだろう。今度はいつまでおとなしくしていることだろうか。閉じこめられたがいつまでも逃げ出さないでいるなどと、私には思えない。結局は破局への時間が延びただけなのだろうと思うと、気持ちが沈まないではいられなかった。
「エリックと一緒で、楽しかったのよ」
 ぽつんと彼女は呟いた。
「本当にうれしかった。でも散歩なんて、絶対にしないといけない用事というわけではないもの。わたしの趣味につきあわせて、エリックに不快な思いをさせていてはダメね」
 は自分に言い聞かせるように何度も頷く。
「なんだかようやく納得できたみたい。うん、もういいわ。散歩は諦める。でもやっぱりたまには外の風に当たっり日光浴をしないと精神的にも参りそうだから、たまにオペラ座の屋上に出るくらいならいいかしら。去年の夏みたいに」
「屋上……くらいならば構わないが」
 外といっても私の権力が及ぶところだ。何も問題はない。
 だが。
「楽しかった、のか?」
 あれだけの視線にまとわりつかれ、子供らにお化けと呼ばれてしまうような男と一緒だったのに?
 は柔らかな笑みを唇に浮かべ、しっかりと頷く。 
「もちろんよ。久々に外を歩けたからということもあるけれど、綺麗な公園を好きな人と一緒におしゃべりしながら歩けたんだもの、楽しくないはずがないでしょう。やっぱり一人より二人がいいって思ったわ」
 予想外の感想に、私は混乱する。
「いや……しかし。それ以上に不愉快になっただろう? それを思い知ったのだろう?」
「なによ、ちょっと嫌なことがあったくらいで、楽しかったことまでなかったことにしろっていうの?」
 は眉をつりあげて睨みつけてきた。
「そうではないが……。しかし本当に楽しかったのか?」
 続けて問うと、は自信がなさそうに眉を下げる。
「エリックは、少しも楽しくなかったの? 機嫌が良さそうに見える時もあったけど、ずっと我慢していた……?」
「いや……」
 不快なだけではなかった。楽しかった時間は確かに存在した。「お化け」は堪えたが、それ以外は気にしなければそれで済んだ。もともとそれ以外にはどうすることもできないのだから、そうしていた。今日初めてそうした、というわけではない。
「普通の恋人同士とはこのようなものなのかと思った。二人しかいないわけではないが、二人しかいないような気になったな……」
「うん、わたしも」
「しかしお前は……」
 初めてというわけでもないだろうと言おうとしたが、先を越される。
「あいにく、わたしはあなた以前に恋人がいなかったから、男の人と二人で公園を連れ立って歩くなんてことはしたことがなかったの。顔が普通で特に問題なくても、それとモテるかどうかは別なのよ」
 ふっと遠くを見るように彼女は言った。その様子はどことなくやさぐれているようだった。
「ド・クレールやイブリーには好かれていたではないか」
 二人の名を出すと、途端に嫌そうに顔をしかめる。
「あの二人は数にいれたくないわ。わたしが日本人じゃなかったら寄ってこなかったと思うもの。でも、そうね、好きでもない人にアプローチされるのは迷惑なだけだということはよくわかったかな」
 私が彼女に好かれてなければ、私もその迷惑な人物の一人に数えられていただろう。このような話は普段ならば落ち着いて聞くことはできないのだが――私が好かれることなど、これまであり得なかったから――現時点ではまだ彼女の愛情は私に向けられていると思えるからか、聞き流すことができた。
「……お前はへこたれないな」
「そんなことないけど……。へこたれるときはへこたれるわよ」
 しかしがこのような性格でなければ、私と共にはいられなかっただろう。何度もそう感じたことがある。それを改めて思い知った。
「次はどこへ行くか」
「え、あの、でも、エリック……」
 は困惑して瞳を揺らす。
「私のことならば気にしないでくれ。わかっていてやっていることだ。お前の懸念が私が不快に思うであろうということに起因するなら、無用の心配だ。だがお前が私と共にいることが――陰口やらなにやらが――苦痛であるというのならば正直に言ってほしい」
「わたしは覚悟していたもの。だからわたしは平気。でも……」
 堂々巡りの議論になりそうなのを察して、私は彼女の唇を指で塞いだ。
「ならば、実験を続けよう。私たちが一時なりとも世間に出ていられるか……」
「エリック……」
 は心配の入り交じった表情を浮かべる。
「少し話をしたことがあったが、私はな、ずっと人並みの生活をしてみたかった。結婚をし、妻と普通のアパルトマンに住みたいと。家では手品や腹話術で毎日妻を楽しませ、日曜には散歩に出かけたりしたいと」
 おそらく私以外の人間にとっては、とるに足りない小さな願いだろう。
 だが私にとっては起こり得ないとしか思えないものだった。何度も心に浮かべてその輝かしさに魅了され、そして我に返って失望するのだ。どんなに細部まで思い浮かべようと、実現することはないのだと。
 だが、もしかしたら、一部だけでも実現するかもしれない。
「お前の覚悟が本心からのものであるなら、協力してほしい。こんなことはお前以外には頼めない」
 私にとってもにとっても、苦痛を伴うだろう。だがそれ以上に手に入れてみたいと思った。彼女とならばできるかもしれないと思えた。
 は戸惑ったように眉を寄せる。
「エリック、今のって……宙ぶらりん状態になっていたプロポーズなのかしら。はっきりした答えがほしいということ?」
「え、いや……」
 そういえば、私は一度彼女に結婚を申し込んだのだが、そのときにはまだ心の準備ができないと、とりあえずの婚約だけをしたのだった。例の件で婚約は解消したも同然だったが、現状では解消状態が解消されたとみなしていいのだろう。
「そういうわけではなかったのだが、結局同じことだろうな」
 妻だの結婚だのと言っておいて、そんなつもりはなかったというのも間が抜けているだろう。それに彼女と結婚したいという思いに変わりはなかった。いや、むしろ彼女の私への愛情が復活した今こそ、その話を進める機会ではないだろうか。ぐずぐずしていたら、またどんな形で邪魔が入るかわかったものではない。
 私は咳払いをして威儀を正す。そしてを見つめた。
、改めて言う。どうか私の妻になってほしい。私はこんな男なので苦労をかけてしまうだろうが……お前のいない人生は考えられないんだ」
 断られるかもしれない、そうでなくともまだ答えが出せないと言われるかもしれない。
 返答を待つ間、私の心臓は飛び出してしまうのではないかと思うほど暴れていた。
 ややあっては小さく口を開く。
「はい」
「……今、なんと?」
 聞こえた言葉が幻聴ではないかと、私は聞き返す。
 は恥ずかしげに目元を赤らめ、睨んだ。
「こんな大事なこと、聞き逃さないでちょうだ。はいって答えたの。あなたと結婚します!」
 これでいいかと早口でまくしたてたために息切れを起こし、肩を上下させながら彼女は言った。
「聞き逃したのではなく、現実のことだと思えなかったんだ。だが、本当に?」
「何度も言わせないでよ、もう」
 知らない、と彼女は顔をそむけた。
「すまない、本当のことにはとても思えなくて……。夢でも見ているのだろうかと。だが、今回はずいぶんあっさり応じてくれたな。なぜだ?」
 彼女の肩に手をかけて、こちらを向かせる。はすねた表情をしていたが、抵抗せずにこちらを向いてくれた。
「エリックが先のこと――結婚したらどうしたいとかいう話をしてくれたのって初めてじゃない。そんなことを考えていたなんて、知らなかった。結婚するというのは形式的なことで、これまでと特に変わるものではないように思っていたの。だから余計に結婚を急がないといけないと思わなかったのよ」
 はいたずらめかした笑みを浮かべ、私の肩に頭をもたせかけてきた。
「でもさっきのあなたの話を聞いたら、急に頭にその様子が浮かんできたの。恋人同士のままと、結婚した後では、感じるものが違うんじゃないかって。だから、ねえ、もっと聞かせて。あなたのやってみたいことや願っていたこと。わたし、一緒にやっていきたいわ」
「さすがに全部言うのははばかれるな……。男の妄想には果てがないものだ」
 このような反応が返ってくるとは思わなかった。だが心の内を明かしたことで彼女が手に入ることになるとは……。
 嬉しさと困惑が入り交じりながら答えると、は目を丸くする。
「そこまで言われると、逆に興味がでてくるんだけど……」
「いや、さすがに勘弁してくれ」
 余計なことまで言ってしまったと後悔したが心は浮き立っていた。ああ、あれほど失敗したと思った外出がこんな形で締めくくられるとは。
 薄暗い地下ではなく、馬車の中とはいえ、明るい日差しの中で彼女に結婚の承諾をもらえるとは。だが、本当にこれでいいのだろうか。
「元の世界と決別する決心がついたと思っていいのか? それでお前は本当に納得したのか?」
 彼女に結婚の承諾を保留にされたのは、その問題があったからだ。私と結婚することで、元の時代とのつながりが切れてしまうかもしれない。そんな不安が彼女にあったからだ。
 は寂しげに微笑む。
「本当のことをいえばよくわからないの。でも決心は時間が経てばつくというものでもないみたい。きっとこのまま待っていても、元の時代に戻れるかどうかの確信なんてつかないと思う。それにわたしがどう思おうと、戻される時は戻される、そうでなければこのままなのよ、きっと。わたしにはどうにもならないことだわ。だから、わたしはわたしにできることを考えることにする。あなたとこれからどう生きるか――」
 それから返事が遅くなってすまなかったと彼女は謝った。
 私は頭を振る。
「答えを急かしてしまったようで、私こそすまなかった。だがお前の決心を何より嬉しいと思う」
 時を越えるという不思議な出来事さえなければ、彼女は家族や友人達に祝福された結婚をすることができただろう。私が彼女を呼び寄せたわけではないが、それでもにとって本来起きていただろう未来を変えてしまったという罪悪感がちりちりと胸を焦がした。
 だがそれ以上に激しい喜びが身を包む。
、帰ったら婚約指輪をもう一度はめてくれるね?」
 涙が浮かぶのを堪えて言うと、はぽんと両手をあわせた。
「そうね。しまいっぱなしにしていたの、出さなくちゃ」
「せっかくだから、改めて作ろうか」
「婚約指輪を? 二つもはめられないから、遠慮しておくわ」
 軽やかな声をあげて彼女は笑った。






これでようやく修羅場編にまつわる話は終了です!
エリックがなかなか動いてくれないので(恋愛方面的な意味で)一回関係を考え直そうと修羅場編を書いたんだけど、ちゃんと目的を果たせてほっとしました。
今後の話は今回の話の先も書くけど、いつの時期なのか特に決めない、これまでどおりの日常シリーズも書くと思います。
まあ、好きなように思いついた話を書くのがこのシリーズですから(笑)



補足:現在リュクサンブール公園にある回転木馬は1879年にできたものだと、鹿島茂先生の「クロワッサンとベレー帽 ふらんす物語」に書いてまして。
そんでもって、デザインをしたのがシャルル・ガルニエだとありまして。
こりゃー、話のネタとして使わない手はないよなと思っていたのをようやく使う事ができました。(ただ、修羅場編で忙しかったので、エリックは自分が見た回転木馬をかつての仕事仲間が手がけたものだとは知らなかったことになっています。もしかしたら才能のある人の仕事というものは、わかる人が見ればわかるのかもしれないけど…)
それとリュクサンブール公園の有料椅子の話も同書に載っていました。検索かけて調べたところ、今は椅子は無料っぽいですが。




前へ  目次