「おはようエリック。冷えてきたわね」
 は自室から出てくると両腕を交差させ、自分で自分をさすった。足早に暖炉の前まで行くと、前かがみになって心地よさそうに目を細める。
「ああ、暖かーい。最近着替えるのが辛くなってきたのよね」
「そうか……。冬の本番はこれからだ。寒さに耐えられそうになければ早めに言っておくれ。ストーブにしろ暖炉にしろ、設置するならある程度は時間が必要になるからな」
 特になにをしていたのでもなかった私は彼女のそばに行き、一緒に炎に当たった。
 我が家には浴室やキッチンに湯を送るためのパイプが外の壁に沿うように設置されているので、それが壁を暖める暖房設備のようにもなっている。真冬でなければこれだけで十分なほどだ。
 しかしこれは温度調節ができないことが欠点だった。長時間湯を使わないでいるとパイプの中身が水になってしまうということもあって、暖房として使うのであれば時折蛇口を全開にして中身の入れ替えをしなければならない。
 そして暖炉は居間にしかなかった。この屋敷を造った時にはまさか同居人ができるなどとは思わなかったから、自分が一日の中で一番長く過ごす場所に一つあれば十分だと考えていたのだ。だがが望むのであれば、彼女の寝室にも新たに設置しよう。無理に我慢をさせて病気にでもなったら大変だ。
 はしばし考え込むと、笑って頭を振った。
「ちょっといいなと思ったけど、やっぱりやめておくわ。寒いのは眠る前と着替える時だけだもの。暖炉があっても暖かくなるまで時間もかかるし」
「そうかね。だがなにも必要な時だけ火をつけるようにしなくても、一日中焚いていればいいだろうに」
 そうしたら寝付くまでの間寒いということもないだろう。対策は取っているものの、我が家は湿気が少々多いので、寒い季節には特に毛布や布団がひんやりするのだ。
「そこまでするのはもったいないわ。寝る前が寒いのは湯たんぽがあればどうにかなるし、着替えだってさっさと済ませて居間に行けばいいんだもの」
「そうか。それならいいのだが、欲しくなったらいつでも言うんだぞ」
「ありがとう」
 は暖炉から私に視線を移し、柔らかく微笑んだ。
「ところでエリックの今日の予定は?」
「急ぎのものはないよ。気ままにのんびりしようと思っている。お前は?」
 寒いと言いつついつもの散歩に出かけるのだろうかと思って問い返す。
「わたしものんびりしようと思っているの。やりかけのものを仕上げてしまいたいから」
「やりかけのもの?」
 何のことだろうと問うと、はいたずらめかして笑った。
「あとで見せるね」
 それから彼女はやっと暖まってきたと伸びをすると、朝食の支度をするといってキッチンへ行こうとした。私も手伝いをするべく同行する。さて、今度は彼女は何をやろうとしているのだろう。


 朝食後の休憩をすると、はおもむろに自分の部屋へ戻っていった。それほど時間を置かず、焼き菓子の缶を抱えて戻ってくる。これは以前、中身を食べ終えた後に、何かを入れるのに使えそうだとが取っておいたものだったはずだ。
 彼女はソファに座ると缶を膝に乗せ、ふたを開けた。中には毛糸玉と編み棒、それに編みかけのなにかが入っていた。
「編みものをしていたのか」
「ええ。レッグウォーマーがほしいと思って。だけどさすがに売っていないようだから自分で編むことにしたの。そんなに難しいものでもないからね」
「レッグウォーマー?」
 英語はわからないわけでもないので足を暖めるものであることは想像がついたが、と聞き返す。
 は缶を脇に置くと、すでに完成しているらしい分を丁寧に広げてこちらに見せてきた。太い毛糸でざっくりと編まれたそれは上下がややすぼまっているものの、ただの円筒形をしている代物だった。
「足首から下のない靴下みたいなものよ。上と下はゴム編みにしてずり落ちないようにするの」
「靴下? そのわりにはいささか太くはないかね」
 はここへ来た当初はズボンを履いていたので、彼女の足の形は覚えているつもりだった。もちろんその後、スカートに隠れて見えない箇所の体型が変わった可能性もあるだろうが……。
「靴下みたいにぴったりさせないからこれでいいのよ。ちょっと余裕がある方が暖かく感じるものだし」
 その答えでおよそどのような見た目になるのか想像がついたのだが、それはあまりエレガントなものだとは思えなかった。私の眉間にしわが寄ったことに気づいたのだろう、は軽く肩をすくめる。
「ドレスの下にはあまりふさわしくないとは思うけれどね。でも薄着をしているわけではなくても、スカートだと寒いんだもの。下から冷気があがってくるものだから」
「そんなに寒いものかね。パリの底冷えは相当なものなのはわかるが」
 はきゅっと眉を寄せた。
「冷気がスカートの中に溜まるような感じなのよ。ドロワーズは履いていてもあまり防寒の役には立たないし」
 それから口元に指をあてて真剣に考え込む様子になる。
「あれが毛糸でできているなら別だろうけど、さすがに毛糸のドロワーズを編むのは……。洗濯、大変そうだし。編むのも大変だろうし」
 毛糸のドロワーズ……。
 うっかり想像してしまい、あまりの色気のなさに落胆してしまった。いや、彼女が本当にそれを作って着用したところで、私が目撃することなどそうそうあるわけでもないだろうが。
 そこで別のことに気づく。
「レッグウォーマーとやらが完成したら、散歩の時にも履いていくのかね?」
 だとしたらそれは阻止しなければ。女性の足は普段は長いスカートの下に隠れているとはいえ、段差のあるところではスカートをからげなければならない場面もあるのだ。ゆったりとした作りになるというその代物はブーツに押し込めるものなのか? いや、無理だろう。あれらは通常の靴下が履ける程度にしか余裕はないはずなのだから。
 ふとしたはずみで彼女の足首あたりまで露わになり、そこで不格好な毛糸の何かが見えたりしたら、失笑の対象になってしまうだろう。もちろんに目をつけるような人間、特に男などはいないに越したことはないのだが、私の一番可愛い人の評判を下げるようなこともしたくはないのだ。
 はわざとらしくため息をつく。
「さすがにそれはやめておくわ。ブーツの踵あたりまで被さると思うし、そうなると普通に歩くだけでも見えてしまいそうだから」
 それから軽く小首を傾げる。
「こういうことを気にかけるようになったあたり、わたしも随分こっちの時代に慣れたんだなと思うわ。前はこんな風に見栄を張ってまで暑いとか寒いとかきついなんてことを我慢しようなんて思っていなかったもの」
 いつの間にか、コルセットをつけるのも当たり前になってしまったし、とため息をつく。
「実用的なものが好きだからな、お前は。思い出すよ、お前がコルセットなど絶対につけたくないと言っていたことを」
 からかうように言うと、はさっと頬を赤らめる。
「あの頃は本当に状況をわかっていなかったのよ。こんなに長い間、ここにいるとは思っていなかったもの。というよりも、先がどうなるか、わからなかったのよね。それは今でも同じだけど」
 それから両手を軽く組んで膝の上に乗せた。
 私はそんなを眼力で留め付けるかのように見据える。
「私は……このままの状態が続けばいいと思っている。にとっては不本意かもしれないが」
 彼女は未来から来た娘だ。私と共同生活をするようになって久しいため、それが昔からのごく当たり前のことのように思ってしまう時もあるが。しかしがここにいるのは天の采配なのかただの偶然なのか、はっきりとしていない。ある日突然現れた時のように、ある日突然消えてしまうかもしれないのだ。
 もしも彼女がいなくなってしまう時が来るとして、それを私が察知できるのであれば、どんな手を使ってでも我が元から逃がしたりはしないのだが。
 しかしの方はどうだろう。やはり私との地下生活と自分の時代に戻るのとでは、比べるべくもないのだろうか。聞いてみたいことではあるが、答えを聞くのは怖い。
 は私の重苦しいほどの想いを知ってか知らずか、目元をなごませて微笑んだ。
「不本意なんてことはないわ。エリックにそう思ってもらえるなら嬉しい。時間移動なんて妙なことが起こったけれど、あなたに出会えたのだから、思えばわたしって運がいいのかもしれないわ。面倒ごとを引き受ける羽目になったエリックにとっては災難だったのだろうけれど」
 本心、なのだろうか。私と出会ったことは、ほとんどの人間にとっては不運や悲劇でしかないのに……。
「いいや、私も運が良かったんだよ」
 だが綿のように柔らかく優しい言葉はじわじわと私の中に染み込んでいく。
 声が震えないように気を引き締めるので精一杯だった。きっと私の表情は穏やかとは言い難いものになっているだろう。
「……そう?」
「ああ。なにしろそのお陰でお前という恋人を得られたのだからな」
 はさっと頬を赤らめると、真顔で言わないでともごもごと呟いた。


 ややあってが編み物を始めたので、手持ち無沙汰になった私ははて何をしようかと思案した。今日は急ぎの用事は何もなく、また作曲や実験などをする気分でもなかった。そして何となく彼女の近くから離れたくない気分でもある。
(買うだけ買って読んでいなかった本でも読むか……)
 私は腰をあげて図書室へ向かう。空いている棚に一時的に突っ込んでいた書籍はかなりの数になっていた。そのうち整理しなければならないだろう。
 数冊選んで居間に戻り、の向かいに座ってページを繰った。互いに無言ではあるが、満ち足りた静けさだった。
 読み始めた本は案外退屈なものだったため、一時間もすれば飽きてきてしまった。同じ姿勢でいたために強ばった首をほぐそうとぐるりと回す。と、も編み物をする手を止めてううん、と背伸びをした。互いに目が合い、思わず微笑みあう。
「隣に行ってもいいかな」
「どうぞ」
 は缶をテーブルに移動させ、私が座れる場所を作ってくれた。編み物の邪魔にならないようにやや間を空けて座る。完成したレッグウォーマーの片方を手に取り広げてみたりする。
 編み物なのでそれなりに伸び縮みするそれを何気なく軽く引っ張ってみたりしてみる。するとがこちらの顔をのぞき込むようにして見上げてきた。
「もしかしてエリックも欲しいの? 作ろうか?」
「いや、そうじゃないよ」
 厚意は嬉しいが、と苦笑混じりで断る。暖かそうではあるが、ズボンの下に履いたらもこもこと不格好になってしまうだろう。そして上に履くのは論外だ。例え家の中だけであっても越えてはいけない一線というものがあるだろう。
 の近くに居すぎると彼女の気を散らしてしまうようなので、他のことをして時間を潰すかとあたりを見渡す。その時目に入った作業机は散らかし放題で、紙の束や作業に使ってそのまま放置した器具でいっぱいだった。しょうがない、ざっと片づけをして不要な紙でも暖炉で燃やすか。
 私は紙の束を適当に抱えてまたの向かいに座った。いるものといらないものとで分けていく。
 いらないと判断した紙はちょっとした山のようになってしまった。いるものは作業机に戻したが、これだけでもかなり綺麗になったように見える。いかにこまめに整理していないかがわかろうというものだが、誰が困るものでもないのできっとまたそれほど遠くないうちに、作業机は雑多なもので埋め尽くされることだろう。そんなものだ。
 紙の束は何度かにわけて暖炉に放り込む。最初の束の燃え具合を火かき棒でつついて確かめ、頃合を見計らって次の束を投じた。
 何度かそんな作業をしていると、炎に炙られてすっかり暑くなってきた。暖炉が欲しい季節ではあるが、まだ真冬というほどでもない。ガウンを脱いでしまいたいが、下にはドレスシャツしか着ていなかった。
 シャツ一枚になるなど、いかにの前であってもするわけにはいかない。彼女がシュミーズしか身につけていないようなものなのだ。とはいえこれまでの経験から考えると彼女自身は私がシャツ一枚になろうとも、おそらく気にはしないだろうが。
(羞恥心に関する感覚がまるで違うからな……)
 とりあえずガウンの袖だけまくるという中途半端な対応をして、紙束燃やしを続けた。
 そうしているうちにがそっと立ち上がり、私の後ろにまわった気配がした。
「エリック、ちょっといい?」
 彼女は片手に編み物を持ったまま私の後ろにクッションを配置すると、私が返事をするより先にそこに座って背中によりかかってきた。
……」
 一体何がしたいんだ。これでは動くのもままならないではないか。
 背後を振り返ると、彼女は笑いを堪えるようにして編み物を続けている。だがそれが格好だけのものなのは明らかだった。手が震えていて、まともに編み進めていないのだから。
「いたずらはよしなさい」
 堪えきれなくなったのか、は吹き出すと、背中によりかかったままこちらを見上げようとした。頭が私の肩に預けられる格好になり、私の唇が彼女の額に口づけできてしまいそうなほどその距離は近い。
「ごめんなさい。ただなんとなくこうしてみたくなったの。エリックの背中、温かいね」
 それは炎の近くに居すぎたせいだ。普段の私は体温が低いので、彼女が抱きついてきたとしても暖かいとは感じるまい。 
 そう言うと、はなにがおかしいのかさらに笑顔になり、しばらくこうさせてと言って編み物を続けだした。
 前は炎、後ろは。その間に挟まれた私は肌寒い季節だというのに、この上なく暑い思いをしている。
 だが背後の温もりと柔らかさを振り払う気にはなれなかった。あまりにも心地が良かったから。
 私は一つため息をつくと、背中によりかかるをそのままに紙束を燃やし続けた。

 たまになら、少しだけなら、こんなことも悪くはない。





シチュリクの背中の話を書くつもりだったけど、改めてリク内容を読み返したら向きが逆だったことに気が付いた(汗)
でも背中合わせにする話も書きたかったので合わせて一つの話にすることにしました。
ということで、これの次の話はシチュリク「甘えたい背中」になる予定です。


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