「うーん……」
 服の下の肌着がもぞもぞする。あっちを引っ張ってみたりこっちをなでつけてみたりと色々やってみたけれど、なかなか上手くいかない。
「やっぱりシュミーズだと無理か。でもなぁ」
 暑さに弱いわたしのためにエリックが用意してくれたパンジャビドレスは、軽くて涼しいだけではなく動きやすくてとても気に入っている。替えもあるので、ここのところ毎日のようにこれを着ていた。形も現代服に近いので、とても今までのドレスを着る気にはなれないほど。
 だがこの素晴らしいパンジャビドレスにも、問題がないわけではない。
 このドレスは形としては襟のない半袖チャイナドレスのようなワンピースに、ゆったりめのパンツを合わせたもの。パンツスタイルなのでバッスルを付けずに済むのはありがたいのだが、丁度良い肌着がないのが困りものだった。
 手持ちの肌着といったらシュミーズなのだが、これは膝丈なのだ。丈が長すぎてパンツの中がもたついてしまう。しかし女性はもれなくドレスを着ているこの時代では、ウエスト丈のシュミーズなど売っていない。いや、丈の問題だけならば詰めてしまえばそれで済むのだが、それだけではないのだ。
 ……コルセットが暑いのだ。
 丈夫な生地と張り骨とで胸から腰までの上半身をぴったりと覆い、土台の上にはレースだのフリルだので盛大に飾られている。通気性など期待するべくもない。シュミーズとセットで着用するものなので余計に暑苦しくなるのだが、だからといってシュミーズを着ないでいると骨組み部分が肌に食い込んで痛くなってくる。
 パンジャビドレスはインドの民族衣装なので、本来は下にシュミーズやコルセットを着用するということなど想定していないのだろう。それはそういうものなのだから構わないのだが……しかし薄手の布なので、下になにもつけないというのも非常に落ち着かないのだ。
 わたしは胸元に手を当てて天を仰ぐ。
(ああ、ブラジャーがほしい……)
 現代からエリックのところへ来た時に身につけていたものならまだあるのだけど、新品だったわけでもなく、こちらの世界でドレスを作るまでの間それ一つだけで済ませていたため、頻繁な洗濯によって少々くたびれてきてしまっている。すぐにどうこうというわけではないので当面はこれで凌ごうとは思っているが、それでもこれが使えなくなったときのことを考えなければいけないようだった。
(どうすればいいのかな。さすがにエリックにブラジャーを作れそうか相談するのは恥ずかしいし……)
 要は服の下で胸が揺れなければいいのだが、それだけのことが難しい。フランス女性ほどではないが、わたしの胸だってそれなりに出ているのだ。
(うーん……)


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 昼少し前に眠りから目覚めて居間へ行くと、が軽い掃除をしているところだった。鼻歌交じりでマントルピースの埃をはたきで落としていたが、私に気づいて振り向く。
「おはようエリック」
 彼女はパンジャビドレスの裾を翻し、笑顔で駆け寄ってくると、背伸びをして朝のキスをしてくれた。
「ああ、おはよう」
 私もお返しに柔らかな頬に唇を落とす。
「エリック、朝ご飯食べる?」
「いや、コーヒーだけでいい」
「またー。夏バテしても知らないわよ」
「私は夏バテなどしたことがないから大丈夫だよ」
「そういう問題じゃないと思うけど」
 たわいもない話をしながら二人でキッチンに向かう。彼女の分のコーヒーも淹れていると、砂糖と牛乳を持ってきたがなんでもなさそうな口調でふいに問うてきた。
「エリック、包帯ってないかな?」
 湯を注ぐ手が反射的に止まる。
「包帯? どうした、どこか怪我をしたのか?」
 見たところ元気そうだし、衣服に血が染みているなどということもない。だが包帯を欲しがるということは、つまり怪我をしてるということではないか。ああ、どうして我慢するんだ、。私が起きてくるのを待たずに起こしてくれてよかったのに!
 ヤカンを置いて彼女に詰め寄ると、は焦ったように両手を振った。
「違うの。怪我じゃないのよ。ただ幅が広めの包帯くらいの布がほしいだけなのよ」
「包帯幅の布……? 一体何に使うんだ?」
「それは……上手くいくかわからないから、秘密」
 は目を泳がせて口ごもる。だがそれでも包帯があるかどうかを重ねて聞いてきた。もちろん包帯くらい常備しているので後で渡すと告げると、彼女はあからさまにほっとした顔になった。
 さて、彼女は今度何を思いついたのだろう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 コーヒーを飲みつつ話をしているうちに正午を回ったので、昼食を作ってくるとエリックが席を立った。こういう時にはだいたいわたしも何かしらの手伝いをさせてもらうのだが――といっても凝ったものを作ることは多くないので、エリックが料理をしているところを見ているだけといった感じになるのだが――、忘れないうちにと渡された包帯をさっそく使ってみたかったので、今回の昼食作りはエリックに任せて自室に戻った。
 パンジャビドレスの上を脱ぎ、手早くブラジャーも外す。
 胸を安定させようとするのなら、上から押さえるのが簡単だ。“さらし”があれば話は早いのだが、さすがにさらしそのものはなさそうなので、代用できそうな細長い布――包帯を使ってみようと思いついたのだ。
 さすがに包帯ではさらしに比べて細すぎるとは思うが、他に長さのある布などなさそうだし……。いや、木綿の布でも買ってきて、自分で好きな幅に切るとかするという手もあるのだが、さらしを使ったことがあったわけではないので、使い勝手がどのようなものなのか実は知らないのだ。だからこれは実験のようなものなのである。
、昼食の支度ができたのだが、食べないのか?」
「あ、いま行くわ」
 わたしは包帯の端をぐるぐる巻いたそれの間に押し込む。それからぽんと胸を叩いて、大丈夫かなと姿見を覗いた。
 さらし代わりの包帯はわたしの胸部を覆い、しっかり固定している――ように見える。あまりきつくならないようにしたのでさほど苦しくないのだが、動き回ってもほどけたりしないだろうか。
 とりあえずこれで今日は過ごしてみようと、パンジャビドレスを再び身につける。
「ん?」
 上から見下ろし、そしてそれが気のせいではないということを姿見で確認した。
 さらし――代用品だが――を巻くとこんなに胸が平らになるものなのかと、わたしはまじまじと鏡に映る己を見つめる。
(コルセットとは反対の効果があるわね。あっちは実物より大きく見えるもの)
 だがここまで変化が大きいと、さすがにエリックにも気づかれてしまうのではないだろうか。隠すようなことでもないかもしれないが、さすがのわたしもこのことを口にするのはちょっと気恥ずかしい。シュミーズだとかナイトガウンのようなものは、見られても特に恥ずかしいとは思わないというのに。
 だが聞かれた時は聞かれた時だと腹を括って部屋から出る。
 食堂にはすでに料理も並べられて、先に席についていたエリックは手持ち無沙汰な様子でテーブルに肘をついていた。
「遅くなってごめんなさい」
 軽く頭を下げて向かいに座ると、エリックも居住まいを正す。地下で直射日光が入らないとはいえ、夏なのに全身黒尽くめの正装をしている彼を見ると、暑いと騒いでいる自分が滑稽に感じてしまう。しかし暑いものは暑いのだ。
「いや。だが珍しいね。お前の方が遅れるなんてな」
 それから何か続けようとしたようなのだが、ふいに口の動きが止まり、続いて彼の視線がわたしの胸のあたりに固定される。さらにエリックの眉間には考え込むように皺が寄せられた。
 これらの一連の流れはごく短い時間の間に起きたのだが、そのわずかな時間の沈黙が非常に居たたまれなかった。
、もう一度聞くが、本当に怪我をしたりはしていないのだな?」
 エリックは真顔で問う。
「ええ。どこも怪我はしていないわ」
 やっぱり聞かれよねと思いつつ答えると、彼は
「……そうか」
 とどこか遠い目になった。だがそれ以上の追求はされなかったので、構えていたわたしは拍子抜けしてしまう。しかし考えてみれば胸部付近が変化する少し前の会話を併せて考えれば、わたしが包帯を使って何をしたのか、想像がついたのではないだろうか。そしてこの件についてはこれ以上触れてはいけないと判断した……のだと思う。その心遣いに感謝します、エリック。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 これだけ見た目が変化をしたのならさすがに気づかないではいられないが、詳しく話を聞いてよいものか、迷う。
 包帯を持っていったは、それからさほど経たないうちに自身に使用したようだった。
 はパンジャビドレスを着用するようになってしばらくは、コルセットなしで過ごしていたのだ。もともとコルセットと併用するドレスでないので私もコルセットをしろなどと言う気はなかったし、矯正されていない身体のラインには自然な美しさがあり、好ましいとすら思っていた。
 しかしそのうち矯正下着を付けるようになったのだ。シルエットから推測するにコルセットではなく、彼女が元の世界から着たときに身につけていたものなのだろう。じっくり観察していなくても、これくらいのことは簡単に気付ける。
 そして今回の変化だ。三回目だ。あの場所にあるのは脂肪が主なものなのだから下着次第で形を変えやすいということはあるのだろうが、なぜ……ああ、なぜ押さえつけてしまうんだ。上衣のダーツの位置が合わなくなっているではないか。そこまで平坦にする必要があるのか? 
 いや、彼女の目的は胸を平たくすることではなく、何か他のことなのかもしれない。とはいえ他の理由などまったく思い浮かばなかったが。
 とりあえず怪我ではないという彼女の言は信用できるだろうが……。さすがに出血しているのならばそれが衣服に染みてしまうだろうし、そうなると私が気が付かぬはずはないからだ。そういう意味では心配はしていないが、目につく場所なだけにやはり理由は気になってしまうのだった。場所が場所なだけに聞いたら失礼なようで、聞けないのだが。
 それから次の日も、さらにその翌日も、彼女は胸に――目的としては背中かもしれないが――包帯を巻いていた。目が慣れるのは案外早いものだったが、私としてはある程度の豊かさがないと寂しいなどと思ってしまう。しかしまさか見た目が寂しいので包帯はやめてくれなどと言えるはずもない。


 その晩、おやすみのキスをして部屋に戻ったのことを思い浮かべながら、私はペンを取り上げた。しばらく前に思いついたが途中で詰まってしまった曲の続きが浮かびそうな感覚がしていたからだ。
 が眠っているので、音を抑え目にしてピアノを弾く。思いつくままにメロディを奏でてみるも、ピンとくるものはなかなか出てこなかった。
 この曲を完成させなければならない日が決まっているわけではないが、あとちょっとでどうにかなりそうだと思うと、止めるに止められなかった。そう、例えれば喉に刺さった小骨が後少しで取れそうな感じというところか……。頭の片隅に引っかかっている音が出てきさえすれば、一気に完成しそうなのだが。
「ふう……む」
 数度による苦闘の後で、ようやく霧に隠れていた道筋が見えてきたような気がした。見つけた音を逃さぬよう、そのまま演奏し続ける。
 最後の一音の余韻が響く中、私は高揚感を覚えながらため息をついた。
 なかなか良い感じに出来たようだ。
 満足した私は忘れぬうちに楽譜に書き付ける。興が乗り、気がつくと興奮ですっかり身体が火照っていた。そうでなくとも季節は夏だ。常時正装でいるにはいささかきつい。
(今ならはいないからな……)
 私は首元に手を伸ばしてタイを緩めた。
 女性の前でシャツ姿になるなど紳士のすることではないが、彼女が起きてくるのは大分先だ。その前にはこの曲は書き上げられるだろう。もし徹夜になったとしても、が部屋から出てくる前に上着を着ればいいだけのこと。
 私はテイルコートとベストを脱いで、近くにある寝椅子に放り投げた。そしてじっくり続きを書こうと作業机に移動する。
 それから――。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 包帯さらしはなかなか使い勝手が良いものだった。抑えたいところだけを抑えてくれるし、汗も吸ってくれる。巻き付けるのは少々手間だが、慣れてしまえばなんてことはない。それになにより洗濯がしやすいのだ。ということで、夏の間はこれでいこうと思っている。
 そして今朝もまた包帯を巻いた上にパンジャビドレスを着ると、居間へ出た。
「あれ、珍しい」
 ランプの明かりの揺れる部屋。夏だというのにさわやかさはかけらもない薄暗いエリックの地下屋敷。その居間の一角にある彼の音楽の聖域。
 ピアノと作業机と寝椅子とで出来たそこで、エリックが机に突っ伏していた。
(眠っている……のよね?)
 足音を忍ばせてそっと彼の近くへ向かおうとしたが、その途端、エリックの肩がぴくりと揺れる。
 それから気だるげに頭がもちあがり、ゆっくりとした動作で周囲を見渡した。そしてわたしと目があったところで止まる。
……。朝か?」
「ええ、七時になるところよ」
 ちえっ。起きちゃった。エリックの寝顔を観察しようと思ったのに。
 なんてことはもちろん言わずに、わたしはエリックにおはようと告げる。彼は顔を片手で覆って、欠伸混じりのような声で返事をした。
「作業中に寝ちゃったの?」
「……そのようだ」
 聞くと彼はくきくきと首を回しながら答える。うつ伏せで寝てたから、きっと身体が強ばっているのだろうなと、わたしはエリックの側に小走りで寄る。
「肩を揉んであげようか? 変な体勢で寝るとすっごく疲れるのよね」
「いや、そんなこと、お前にやらせるわけには……」
 エリックは途中で言葉を切ると、はっとしたような表情で自分の身体を見下ろした。
「すまない、みっともない姿をさらしてしまった……!」
「え? なにが?」
「シャツ姿のままでいるなんて。ああ、。肩もみはいいよ」
 エリックはやんわりとわたしの手を外すと寝椅子の方へと向かう。そこには脱ぎ散らかされたベストとテイルコートがあった。
 そしてわたしはようやく、シャツだけというのは下着しか身につけていないようなものだというこの時代の常識を思い出した。現代の感覚だとシャツを着ているならいいじゃない、と思えるのだが。
 そうでなくとも普段は黒い部分が多い服装をしている彼だ。上半身が白一色というのはかなり珍しい。そうでなくともかっちりとしたフロックコートやテイルコートと違って、シャツだけとなると印象も柔らかくなる。
 そんなエリックをもうちょっとだけ見ていたくて、慌ててベストを身につけようとしているエリックの背中に手を当て、彼が着替えをしようとしているのを阻止する。するとエリックは迷惑そうに眉間にしわを寄せて振り返った。
、いたずらするんじゃない」
「このままでいいじゃない。夏なのにそんなに着込んで……。エリックも暑かったんでしょ? だから脱いだんでしょう?」
「暑くないとは言わないが、だからといって女性の前で不作法なことはできないよ」
「わたしは別に不作法だなんて思ってないもの」
「そういう問題ではない」
 ぐいっと腕をとられて彼はわたしを引き離しにかかる。
 しかしそういうことをされると、かえって抵抗したくなるものだ。
「えいっ」
 わたしは彼の手を逃れるべく一歩下がると、そのまま床を蹴り、エリックに飛びついた。
「うわっ」
 両腕をしっかりとエリックの胴体に回す。それからエリックが途切れ途切れにうめき声をあげるのをよそに頬をすり寄せた。シャツはさらりとしており、その下にある骨ばったエリックの背中の感触も同時に伝わってくる。
っ! いい加減に……っ」
 エリックが珍しく裏返った声で叫んだが、わたしは鼻を埋める勢いで彼の背中に張り付いた。
 正装してるエリックは素敵だ。威厳があって優雅。彼が忌み嫌う仮面も、薄暗がりの中ではエリックを引き立てる装飾となっているよう。
 けれど今の彼は――。
 ドレスシャツ姿のエリックは、その身にまとった鎧を脱ぎ捨てたようで、どこか隙があるように見える。それに、焦る彼はなんだか可愛い。
 強く振り払うことができないようで、エリックはしばらく困惑した雰囲気を発していたが、ややあって諦めたように力なく腕をおろす。
「どうしたんだ、一体」
「エリックの背中を見てたらくっつきたくなっちゃった。なんだか急に好きだなあって気持ちで胸がいっぱいになって……。だからしばらくこうさせて」
「……な」
 エリックはうろたえた様子で絶句する。
「終わったら、お返しにエリックがわたしにくっつけばいいわ」
「いや、それはいい」
 間髪を入れずにきっぱりと断ると、彼は深くため息をついた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 なぜ、背中なんだ。
 そしてどうしてそこまで身体を押しつけてくるんだ。
 意識が飛びそうになるのを堪えて、私は心の中で叫んだ。
 があまりに私の背にぴたりと寄り添うものだから、包帯で覆っているであろう下にある柔らかいそれの感触が伝わってくるのだ。
 しかも平坦な見た目からは思いもよらないほど弾力があるのがわかる。コルセットはかなり堅い造りであり、胸まで覆われているので、意外に感触はわからないのだ。包帯は結局、布でしかないからな。その差は歴然としている。
 しかしこれは、何の拷問だ?
 は私を誘っているのか?
 ああ、まともにものが考えられない。
 私は……どうすればいいのだ?





ナナさんからのシチュリクで、
・ドレスシャツ姿のエリックの背中ににぺたっとする
・背中に胸が当たる感触でうろたえつつどうしたのか聞くエリックに「そうしたくなる背中だったから」と答えるカノジョ
という内容のものを頂きました。
台詞は、指定のものとはちょっと変えてしまいましたが…。

ちなみに、あの時代のパンジャビドレスを着る時にはどんな下着や肌着を着ていたのかはちょっと調べ切れなかったので、書いている内容は適当です…。




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