「ジュール。ねえ、あなた」
 朝の一仕事を終え、カフェ・オ・レを飲みながら寛いでいると、妻が慌てたように居間にやってきた。
「なんだい、アネット」
「ねえ、あなた、昨日……。まさかね。そんなはずはないわ」
「おいおい。どうしたっていうんだい。何なんだ?」
 歯に物が挟まったような言い方に私は眉を潜める。普段は頭が痛くなるくらい何でも物を言う女なのに、今は何が聞きたいのかさっぱりわからなかった。
「なんでもないわ。だって、そんなことありえないもの。でも……」
「アネット?何があったのか、落ち着いて話してご覧」
 立ち上がり、妻の肩に手を置く。
 アネットは聞くのが恐ろしいとでも言うように、ごくりと唾を飲み込んだ。
「あなた、昨日は御者のお仕事でらしたのよね?」
「ああ」
 珍しい事もあるもんだ、と思った。
 妻は私の仕事を普段はまったく尋ねようとはしない。彼女は先生を心の底から嫌い、恐れているので、仕事の話をすれば私の口を通じて先生がこの場に現れるのではないかと思い込んでいるのだ。
 私がどれだけ疲れても、ねぎらってはくれない。何度も職を変えろと言う。
 先生との関わりをなくしてしまいたいのだ。
 だが若い頃の情熱は消えうせ、わずかばかりにあった才能も失った私に、今更なんの仕事ができるというのだろう。
 それに、先生以上の給料を支払ってくれる人など二度と現れるわけもない。
 いずれ嫁に行く娘たちの持参金。まだコレージュに通っている息子たちの学費――成績がこのまま維持できるのなら、バカロレアには合格してくれるだろう――と、とにかくまだ金がいる。それらの一切は先生からの給金によって賄われているのだ。
「どこに行ったの?」
「どこって、色々だ」
 私の答えに妻は顔をしかめた。
「今日の新聞よ……」
 と、妻は皺になった新聞を私に差し出してきた。
 新聞、という言葉にぎくりとする。
 もしや。
 私は妻の手から新聞をもぎ取った。

《サムライムスメ、現る!》

 でかでかと書かれた見出しに眩暈がしてくる思いだった。
 記事はお嬢さまの活躍を尾ひれに背びれ、胸びれまで付けて大きく取り上げていた。
 さすがに写真は取れなかったようだが、挿絵にはなんと、子供のように小さく描かれた日本娘が大男を投げ飛ばしている図、というとんでもないものが添えてあった。
 日本娘だとわかる理由というのがまた大笑いで、腰のリボンにサムライソードが差されており、ドレスを着ているのに日本髪という珍妙ないでたちのせいだった。
 この記者は現場をまったく見ていないらしい。
 記事はサムライムスメのパトロンだと考えられている仮面の男についても触れている。
 そして、この二人が何者なのかご存知の方はぜひご一報を、という一文で締めくくっていた。
 おおかたインタビューでもしたいのだろう。
 妙に疲れてしまい、深くため息をつく私に、妻は異様なものでも見るように新聞に目を落としながら尋ねてきた。
「やっぱり、この男はあの人なの? パトロンって、本当のこと? たまたま居合わせたのではなくて?」
「ああ、先生だ。それからこの女性は――まあ、間違ってもこの挿絵のような馬鹿げた格好はしていないが――先生がお世話をしている方でお嬢さまだ。『例の館』に一緒に住んでいる」
 妻はすっと息を飲み、しばらく黙っていたかと思うと
「信じられない!」
 と叫んだ。
「私も初めはそうだったよ。アネット」
「まともな神経の女なら、一緒の部屋にいるだけでも耐えられるはずがないわ!」
「お嬢さまは芯の強い方なんだよ」
「大男を投げ飛ばすような?」
 まったく信じていない様子で妻は鼻を鳴らす。
「心の話だ。それに新聞の記事は八割方がでたらめだ。そんなもの本気にするんじゃない」
 不快だと新聞を丸め、後ろに放り投げた。アネットはちらっと後ろを見て、
「どっちにしたってまともじゃないわ、その女」
「アネット、世界というのは広いものなんだよ。確かに先生はご婦人方の愛情を勝ち得やすいとは言い難い方だ。先生にはその……独特の雰囲気があるからね。だからといって全ての女が先生のことを恐れるというわけではないんだよ。お嬢さまが何よりの証拠じゃないか。あの方が遠い国からこうしてパリにやってきたのも、神のお導きだと私は思うね」
 言い諭そうとしたが、妻は頑固に首を振る。
「神のお導きですって? ジュール、あなた本気で言っているの? あの人から給料をもらっているからって、かばうの? その女が正気であの人と一緒にいるっていうのなら、脅迫されているか何かに決まっているじゃない! でなきゃどうして、あんな死神のような人と……!」
 私はテーブルに肩肘をつき、頭を支えた。
 もう彼女には何を言っても無駄のようだ。だが……。
「お嬢様がいらしてから、先生はずいぶん変わったんだよ。お前が信じなくてもね」




 そう、先生は変わった……。

 お嬢さまが人質に取られたあの時、先生は声を荒げ、取り乱し、怒りと屈辱に身を震わせていた。
 あの方とも長い付き合いになるが、思えばこのように感情を剥き出しにした先生を見たのは初めてだったかもしれない。
 私の知っている先生は、恐ろしく頭の回る、冷たく残酷な支配者だった。
 必要なこと以外に口を開く事も無く、そこにいるだけでひれ伏したいほどのおぞましさを感じる……。
 そんな存在だった。
 淡々と話しているだけでもこうなのだから、あの方が心の底から怒り出したらどれほど恐ろしいかと、以前の私は思っていたのだ。
 実際、強盗に向けられた殺気は離れたところにいた私すらも竦み上がらせるものだったが、しかし意外にも普段よりもずっと人間らしく見えたのだ。
 強盗を打ちのめしたお嬢様を見る、呆気に取られたような顔も。
 その後にお嬢様を抱きしめた、安堵と不安が入り混じった顔も。
 忌まわしいものでも恐ろしいものでもなかったのだ。
 お嬢さまから命じられて財布を持ち主に返しに群集に近寄った時も、彼らは先生の仮面を気にしてはいたが怯えている様子はなかった。
 大人数だったので気が大きくなっていたのもあるだろうが、迸るような先生の怒りは愛人または恋人として当然だと皆思ったのだ。
 それに、現場を離れた後も……。



 その時のことを思い出し、私は思わず遠い目になった。



「んにゃあああぁっ!!」
 尻尾を踏まれた猫ようなお嬢さまの絶叫。
 その後に続いたのは、小さいが喘ぐような甘い声だった。

(私は御者を務めておりましたからね、しっかり前を向いていたので、何をしていたかなんて見やしませんでしたよ。見てやしませんでしたが……馬車の中だと思って、何をしてらしたんですか、先生。聞かされるこっちの身にもなってほしいものです。馬車から降りた時もお嬢様は真っ赤になっていたじゃないですか。)







「……本当に、変わったよなあ、先生は」
 ひくっと頬が引きつる。
「ジュール?」
 怪訝そうに私を見つめる妻に、私は力なく笑いかけた。
「変わったんだよなあ……」



(素直に……喜んでも、いいんですよ、ね。神様……)




***お詫び***
エリック氏がとんだセクハラ親父化しましたことをここでお詫びいたします……


と、いうわけで、黒妙さんからのリクで、
「現在連載中の「オペラ座」夢ヒロインのお家か、親戚の家が 古武術の道場で武術と名の付くものは一通りできるが。日常生活であまり役に立たないので本人は特技の範疇に入れていない。 が、それを知ったエリックさんに盛大に突っ込まれる……」
の話です。
ヒロインの強さは春日が決めていいということでしたので、戦闘プロ男>ヒロイン>戦闘素人男、としてみました。
エリックが真昼間にでかけて、しかも騒ぎに巻き込まれるなんて、無茶苦茶にもほどがあるなーとは思いましたが、武術をやってたとなるとこれは実技を見せた方がよいかなと。
そうなると地下には一人と一人と一匹しかいないので地上に出ざるを得なく……。
まー、ラストのセクハラを思いついてしまったせいもありますが(笑)。

そうそう、仕込み杖の髑髏部分からは火の玉が出ます。
これで墓場の場面では舞台、映画どちらの展開になろうと対応可です。
……冗談です。(もっとでかいもんね、杖も剣も)



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