今日はエリックと出かけた。
 二度目の外出は、ブローニュの森の散歩だった。


 エリックはわたしが怪我をしたのを自分の責任だと思っているようなのだが、階段から落ちたのは間違いなくわたしが勝手に足を踏み外したせいで、エリックのせいではない。
 それでもしきりと謝罪をしたいと言うものだから、駄目もとで「外を歩きたい」と言ってみた。
 ただでさえ人を避けたがる傾向のあるエリックのことだから絶対駄目だと言うと思ったのに、驚いた事に承諾してくれたのだ。
 人気のあまりないところで、という条件がついたが、これくらいなんてことない。むしろエリックの心情を考えれば、できれば昼間が良いというわたしのわがまままで受け入れてくれたことに驚嘆の念を覚えずにはいられないほどだ。
(……わたし、こんなにエリックに甘やかされてていいのかしら)
 そんな自問をしながらも、ブローニュの森の美しさにやっぱり昼にでかけてよかったなぁ、なんてのんきに考えているわたしがいるのだ。
 春真っ盛りのパリでは木々も芝生も緑に輝き、そこここに色とりどりの花が咲いている。
 入り口には道を埋め尽くすほどの馬車があったけれど、大通りを過ぎて降りてからは人のいなさそうな方、道の狭い方へと進めばそれなりに閑散としたところがあったりするのだ。
 上を見上げれば、木立の間からきらきらと光が降り注ぎ、風に乗って遠くから子供の歓声が聞こえる。
 湿り気を帯びた土の匂い。足音は柔らかい芝で消されてしまう。
 わたしはドレスを着て日傘を差し、隣にはフロックコートの男性。
 映画のワンシーンの中に紛れてしまった錯覚をしてしまいそうだ。
「ね、腕組んでもいい?」
 恥ずかしいことに、ロマンティックな気分に浸りまくっていたわたしは、つい口が滑ってこんなことを言ってしまった。
 エリックはしばし真顔でわたしを凝視していたが、
「もちろん、どうぞ。お嬢さん」
 と腕を差し出してきたのだ。
 ……どうしよう。
 なんか、わたし、メロメロになってるかもしれない。
 こんなふうにお姫様扱いされたことなんて、ないもの。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 と、そんなことがあった帰り道、わたしはたまたまこっちに向かってきた引ったくりと鉢合わせになり、人質にされてしまった。
 それも例によって例の如く、エリックの忠告を聞かなかったがための体たらくである。
 後ろからぶつかられて、というか、もしかしたら体当たりをかけられたのかもしれない。よく、わからない。
!?」
「お嬢さま!」
 エリックとベルナールさんが同時に声をあげたので、ようやくわたしは自分がまずい状況にいることに気付いたのだ。
「ちっ、東洋人かよ、お前」
 酒臭い息が頭から降ってくる。
 それに、なんというか、もあっとした臭気……。
 何日もお風呂に入ってないような感じの、ちょっと言葉にできないような臭いがする。
 うわぁ……。
「やだっ。やだやだ!」
 とにかくこの男から離れたくて、わたしは闇雲にじたばた動いた。
 だけど丸太みたいな腕はちっとも動いてくれなくて、それどころか腕で首を絞めてきたのだ。それから、
「気にくわねえなぁ。綺麗な格好しやがって。クルティザンヌか、ええ?」
 と馬鹿にするように言ったのだ。
 このセリフを、言外の意も含めて噛み砕いて訳すと、こんな感じだろうか。
『東洋人の売女が、でかい面してんじゃねぇ』だ。
 もし、わたしが自由の身なら、頭からバケツ一杯の水をかけてたわ。
 ああ、なんでこんな男に人質にされてしまったんだろう。
「貴様……。すぐに彼女を放せ!」
 エリックは怒りに震えた様子で恫喝した。
 ただでさえ深みのある声は腹の底に響き、その場に縫いとめてしまうほどの力があった。
 さしもの男もエリックの迫力にびくりと身体を震わせる。
 だが、
「なんだ、あんた……」
 びびっていたのは最初だけ。すぐ開き直り、わたしの首にナイフを押し当ててきた。
 こいつ、最っ低だ!
 エリックは一瞬息を飲んだが、次の瞬間、懐に手を差し入れる。その目に浮かんでいるのは殺意だった。怒りは影を潜め、ただ冷たく残酷な落ち着きがその目に宿っている。
 彼はわたしの知っている限りでは拳銃の類は持っていなかった。
 それでも彼の慣れた様子に、ためらいを覚えていないようなその姿に、わたしは戦慄した。
 殺意を向けられているのはわたしではないのに、エリックが怖い。
 男も同じなのだろう。
 心音が早くなり、わたしの腕を掴んでいる手にじっとりと汗をかいている。それでも再び強くナイフを押し当ててきてエリックを牽制した。首が熱い。
「おっと、動くなよ、仮面の旦那。この女が可愛いんだろう?」
 粘っこい声で男は脅迫してきた。
 だけどこの男はエリックを怖がっている。どれだけ強がっていてもこれだけ近くにいればわかろうというものだ。
 どんな方法かは知らないが、男が隙を見せれば、エリックはこの男を殺すのだろう。
 男の方もそれに気付いているから、わたしを離そうとはしない。
 わたしが死ぬか、男が死ぬか、そのどちらかでなければこの場は収まりそうに無かった。
 ……わたしは死にたくない。
 と、エリックの顔に表情が戻ってきた。
 憎憎しげに、男を睨みつける。
 地獄の悪鬼さながらの迫力だけど、人の感情を湛えている。
 懐から出した手には何も持っていなかった。
 彼は自制したのだ。男を殺す事を。


 ああ!
 一体わたしは何を考えた?
 自分が助かりたいばっかりにエリックに人を殺して欲しいと願ったのだ!
 なんて自分勝手。なんて浅はかなことを……。
 恥ずかしい。この場から消えてなくなりたい。


 ごめんなさい、エリック。
 あなたに罪を被せようとした。
 ごめんなさい……。

「エリック。ごめん」
 自分が情けなくて涙が出て来る。
 ただでさえお情けで置いてもらっているのに、さらに次々と面倒を引き起こして。
 その上取り返しのつかないことをさせようとした。
 馬鹿だ。
 わたしは大馬鹿だ!

「……動くんじゃねえぞ」
 男はわたしを盾にしながらじりじりと動いた。
 こくん、と息を飲み、わたしは決心した。
 絶対この男から自力で逃げ出して見せる!
 このところ訓練を怠っていたからどこまでできるかわかんないけど、道場で育ったわたしなのだ。やればできるはず!
 わたしは危なっかしいから、と居合いをさせてもらうことはなかったけど、体術と杖術は仕込まれている。
 この男は武術には素人みたいだけど、腕力はあるから引き離す事は無理。
 だから、隙を狙って急所を狙うのがいいだろう。
 いつでも動けるように、わたしはゆっくり、ゆっくり息をして気を落ち着かせようとした。
 焦っては駄目だ。
 チャンスを狙うんだ。
 必ずどこかにあるはず。
 その時、
「待ちやがれ!とうとう追いついたぞ……!?」
「あ、あたいの稼ぎは……? って、なんだい、これ!」
 細い路地からどんどん人が流れてくる。
 この男を追っかけていた被害者とその助っ人だろう。
 どうみても冷やかしっぽいのもいるが、これは野次馬だろうなあ。
 騒ぎを聞きつけて建物の窓も次々開け放たれる。
 後ろが向けないので見る事はできないけど、どうやらスクリブ通りの方からも見物人が集まっているようだ。
 前後左右をざわめきに囲まれる。
 見世物にされている居心地の悪さはあったけど、不思議なほど安堵している自分がいた。
 これだけ人が多ければ、エリックも殺人を犯してまでわたしを取り返そうとはしないだろうから。わたしは、自分のことに集中すればいい。
……」
 エリックの顔が強い感情を堪えて、歪む。
 握りしめられた拳は震えていた。
「エリック、大丈夫……大丈夫だから」
 わたしの状況を伝える事ができたら……。
 だけどそれをすればこの男にも筒抜けになっちゃうわけで、それはできない。
 日頃、もうちょっとお互いのことを話していたら……。
 だけどもう遅い。
 いまのわたしにできるのは、笑うことだけ。
 こんなこと、なんでもないんだって、伝わるかしら……。
「へっ、泣かせることをいいやがる」
 ……無視無視。
 集中しろ、わたし。
「御者!御者!さっさと座りやがれ!」
「へ? 私ですか?」
「お前の他にどこに御者がいるってんだ。扉を開けるのを忘れるんじゃねぇぞ」
 引ったくりは馬車で逃走しようとしている。
 ベルナールさんはおどおどと男とエリックを交互に見交わした。
 この人にとってエリックは絶対だから、わたしが人質にとられているとはいえ、従っていいのかわからないのだろう。
 だけど、馬車に乗るならちょっとした隙を作れそうなのだ。
 お願い、従って!
「この女がどうなってもいいってのか?」
 ドスを聞かせてナイフを動かす。
 ちょ……、やばいかも。
「ベルナール、御者席に」
「先生……」
 爆発しそうな怒りを押し殺したような声でエリックが命じる。
 ベルナールさんは頭を下げ、わたしのほうを不安そうに一瞥し、御者席に乗り込んだ。
 男はわたしを引きずりながら、出入り口を見上げる。
「随分とご立派なクーペだな。ま、俺が有効に使ってやるよ」
 乗り込むときに後ろを見せるのを危険だと感じたのか、前に向き直った。
「……おっと、怖い顔だねぇ。俺よりよっぽど旦那の方が悪党に見えますぜ」
 揶揄するように言った。
「ちょっとあんた、いい加減にしなさいよ!」
 エリックのこと、怖がってるくせに!
 反射的に怒鳴りつけると、男はナイフをわたしの顔に向けてきた。
「うるせえんだよ!黙ってやがれ!」
!!」
 エリックが叫んだ。
 ごめん、こんなことに巻き込んで。
 すぐ逃げ出すから。
 こんな男、これ以上好き勝手させてたまるもんですか!


 男が後ろ向きになって馬車のステップに足をかけたとき、わたしは身体を反らして男の膝裏に足を引っ掛けた。
 いわゆる膝カックンだ。
 馬車のステップは片足を乗せるくらいの大きさしかないので、必然、片足立ち状態になる。
 そこでバランスを崩したらどうなるか。
「んへっ!?」
 男は間抜けな声をあげてよろけた。まだわたしを掴む手を離さなかったけど、無理やり引き離して頭を掴み、扉の鉄製の枠に叩きつけた。がすっ、と痛そうな音がする。
「あがぁっ!」
 男はナイフもわたしも放り出して顔を抑える。
 だけど音ほど威力はないはず。わたしの方も力を込めやすい体勢ではなかったのだから。
 もう一撃、必要だ。
 頭の中で戦闘シミュレートをしていく。
 何が効果的か。
 威力が高く、反撃された時も逃げやすいものということで踵落としか肘鉄、という結論に達したものの、踵落としは足を高くあげなきゃいけないので、止めにした。
 ここでやったら一人カンカンダンサー状態になる。
 多分、後でエリックに小言を言われるだろうから肘鉄にしよう。
 男から数歩離れたところから助走をつけ、直前で身体を低くする。
「っせやぁっ!」
 勢いつけて振るった肘が綺麗にめりこんだ。
 鈍い衝撃が身体に伝わってくる。
「うげっ……!」
 男は、呻き声をあげると、そのまま仰向けに倒れていった。
 よし、やった!


「やったわエリック!」
 乱れたドレスの裾を直す。勝利の余韻がわたしを包んだ。
 と、エリックのステッキが目に入った。
 わたしは彼の元へ駆け寄り、それを借りるとまた馬車の方に引き返していった。
 盗られたものは取り返さないと。せっかく被害者さんがここにいるんだから。
 景気づけにステッキを回す。
 ひゅん、と空を切る音がすがすがしい。
 妙に重い気がするけど、まあいいか。
「うぅ……」
 一声呻いて腹を押さえながら起き上がろうとする男の前にわたしは立ちふさがった。
 なんだか悪の女幹部になったみたいだ。
 軽く肘を曲げステッキを真っ直ぐ持ち、先を男の喉下に突きつけた。
 動いたら容赦なく喉を潰すつもりで。
「……っひい!」
 自分の状況を理解した男は、青ざめて脂汗を流す。
 わたしは男をねめつけたまま、エリックに救援を頼んだ。
「エリックお願い、反対側を固めてくれる?」
「あ、ああ」
 反対側の扉にエリックが立ちふさがる。
 さあ、もう逃げ場はないわよ。
「何をすればいいか、わかるわよね?」
 じっと見下ろし、静かに尋ねる。
「な、何って」
 すっかり狼狽した男は、せわしなく目を動かし逃げ場を探している。
 もちろんそんなものはありはしない。前はわたし、後ろはエリックが固めている。窓はといえば嵌め殺しだ。
「取った物を出しなさい。泥棒なんでしょ? あなた」
 言いながら腕を軽く伸ばした。
「ひいっ」
 男の喉にステッキの先端が当たる。男はびくりとして後ずさったが、エリックの存在に気付いてまた「ひっ……」と息を飲んだ。
「さっきまでの威勢はどうしたの? 早くしなさい。……潰すわよ?」
 低い声で囁く。
 男はもう逆らわなかった。


 その後はベルナールさんに差し出された財布を渡し、エリックが引ったくりを縄でぐるぐる巻きにしているのを確認して、わたしはようやくステッキを降ろした。
 最初はちょっと重いな、と感じただけだったのだが、どんどん腕に付加がかかってきて、結構きつかったのだ。
 材質を見ると握りの部分は銀の髑髏形で、目の部分にはオニキスかなにかの黒い宝石が嵌められている。本体は木。蛇のうろこのような模様がある。
 これでこんなに重いはずは……。
 と、あっちこっち触ったり引っ張ったりしているうちに何かのスイッチのようなものに触ってしまった。カチンと音がして、髑髏形の握りが本体から外れた。のではなく、うわああああ!
「仕込み杖だ……」
 どうりで重たいわけだ。
 レイピアのように細い刃先の剣が中から現れる。
 映画やなんかにはたまに出てくるけど、本物を見たのは初めてだ。なんだか、ドキドキする。
 こういうの、本当にあったんだ。
 だけど。
(良かったぁぁ。知らずに鞘止めを外したりしてたら、あの引ったくりさん、死んでたかもしれない。危なかったぁ)
 どっと冷や汗がでる。
 思わずその場にしゃがみ込んでしまった。


 エリックは戻ってくると、わたしを力いっぱい抱きしめてきた。
 ちょ……苦しいって。
「エリック、ありがとう……て、あの……」
「すまない、 。怖い思いをさせた」
 泣きそうな声。
 わたしが生きているのを確かめるかのように触れてくる。
 けど、あの、胸に顔を押し付けてくるのはさすがにどうかと。
 わたしの顔はきっと真っ赤になってるだろう。
「だ、だから言ったじゃない、わたしは大丈夫だからって」
「ああ、そうだね。だけど驚いたよ。君がこんなに強かったなんて……」
 照れ隠しに笑いながら、
「わたしたちこういうこと、話した事なかったからね。わたしの家、古武術の道場をやってるの。だから小さい頃からわたしも武道を習ってたんだ」
 エリックは首をかしげ、「それは侍の技のことだろうか?」と聞いてきた。
 まあ、間違っちゃいないわよね。この時代はもう明治のはずだから武士はいないけど。
 わたしの先祖は武士の家系だったらしい。といっても大した禄高ではない、ただの下級武士だったのだそうだけど。
 明治維新で士農工商が撤廃され生活の糧がなくなったとき、商売を始めるのも誰かの元で働くのも潔しとしなかったその当時の当主が、ただ一つ腕に覚えのある剣術で道場を始めたのだそうだ。
 そういうことだから名門ではないけれど、現代のわたしの生まれた時代まで細々とだが続いている。
 って、その当時の当主って、そういやちょうどこの時代の人なんだよね……。そう考えると感慨深いものがあるなあ。
 一応の説明が終わると、エリックは複雑な表情でわたしを見つめる。
「……ごめんね、驚いた?」
 やっぱり、引いたかな。
 引くよね。
 現代にいた頃でも武道をやってるって言うと、大抵の男子は引いたもの。
 そのせいか、男友達はいても彼氏がいたことは一度も無い。
「さすがにね。だがそのお陰でお前が連れさらわれずにすんだのだ」
 なぐさめるような口調。やっぱり……。
「でもエリック不機嫌そうだけど。やっぱり武道やってるような女って、嫌だった?」
「そうじゃない。自分に怒っていたのだよ、私は。私がお前を守らねばならないというのに、私は手も足も出せなかったのだからな。情けない話だ」
 エリックは強く頭を振り、再びぎゅっと抱きしめてくれた。
 なんだか、ほっとする。
 安心したら、疲れがどっと押し寄せてきた。早くお家に帰ってゆっくりしたい。
 と、何気なくスクリブ通りのある方に目をやると、そこは人だかりが出来ていた。
 抱き合うわたしたちを興味深々と指差しながら何か話している。
 ……ずっと見られてた、よね。やっぱ。
 あはは……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「ベルナール、すぐにここを発つぞ」
 エリックが事態を理解し、ベルナールさんを急き立てて馬車を発進させた。
 人垣は渋々というように左右に別れる。
 スクリブ通りに出るとカメラを抱えた人たちが何人か追いかけてきた。
「新聞記者?」
 後ろを向きながらエリックに尋ねる。
「おそらくな」
「撮られちゃったかしら?」
「大丈夫だろう。動いているものは上手く撮れん」
「そっか」

 エリックはわたしを自分の方に向かせると、首に手を伸ばし、襟を外した。
 外されたレースの白い襟は一部が切れて血で染まってる。
「やだ、忘れてた!」
 叫ぶと、エリックは呆れたように額に指を当てる。
「どうして自分が怪我をしたことを忘れられるのかね」
「だって、夢中だったし。それにあんまり痛くないもの。チリチリする感じはあるけど」
 わたしはバッグから手鏡を取り出し、傷口を確かめた。
 位置が位置なので見え難いが、傷口は長いけどそれほど深く切れているわけではないようだ。
 端の部分はすでに血が固まりかかっている。放っておいてもそのうちかさぶたになるだろう。その前に血は拭いたいけど。
、あまり傷口を触っては……」
「大丈夫よ、これくらい。唾つけとけば治るって」
 現代では打ち身擦り傷切り傷はしょっちゅうだったもんなー。
 しみじみと思い出していると、
「それでいいのか?」
 確認するようにエリックは尋ねてくる。
「だって、縫うほどでもないでしょ?」
 その方がよっぽど痛いからヤだし。
「まあな」
 エリックは頷く。
「それより、どこかにお水ないかしら。血が固まっちゃうと取りにくいんだもん」
 襟のも染みになっちゃうし、と言おうとしたところで、目の前を影がよぎった。



 な……。



 え……?



 ちょ……。



「んにゃあああぁっ!!」



 舐めたー!
 エリック、首舐めたー!



 湿ったものが首筋を這い回り、ぞわぞわするものが背筋を走る。
「何すんのよ、やだー!」
 暴れると、エリックは不満そうな顔で
「唾をつけておけば治ると言ったじゃないか」
「だからってエリックがすることないでしょ!」
では届かないだろう?」
「指につければそれで足ります! って、お水でもいいんだし!」
 ぐい、とエリックの身体を押しのける。
 しかし彼は
「私がやったほうが早い」
 と、素気無く言うが早いか再び顔を埋めた。
 思わず出てしまった変な声はベルナールさんに聞かれたんじゃないだろうか。
 恥ずかしくって、顔合わせられない。


 すべての血液を舐めとられた後にハンカチで傷口を押さえてスカーフを包帯代わりに巻き終えるまで、その拷問は続いた。
 わたしはエリックは好意でやっているのだと言い聞かせ、なんとか膝蹴りをかけまいと自分を押さえつけたのだった……。







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