「マスカレード……?」
一日の楽しみでもある新聞をめくっていると、華やかな宣伝が目に入った。
仮面舞踏会の開催を知らせるそれは、ここ(の地上部分)、オペラ座で行われるという。
仮面舞踏会。
外国の映画や小説で見聞きしたことはあるけれど、実際に見たことは――当然、ない。
豪華絢爛なオペラ座で行われるそれは、どれほど華々しいものだろうか。
考えるだけでも胸がときめく。
踊れないから参加したいとは言わないが、ちょっと見るくらいはできないものだろうか。
(だけど、エリックはこういう人の大勢いるところって嫌がりそうだわ。それに……)
「マスカレードかい?」
「ひゃあ!」
急に後ろから声をかけられて、わたしは思わず悲鳴をあげてしまった。
「そんなに驚かなくとも」
大げさなくらいしょんぼりしたように振舞うので、わたしは慌てて謝った。
「ごめんなさい。ちょっとびっくりしちゃって……」
「いや、まあいいが」
エリックはソファの背もたれに手を載せたまま新聞を覗き込む。
「行きたいかい?」
「え? そりゃ興味はあるけど……。でも無理はしなくていいのよ? わたしはどうしても行きたいわけではないし……」
わたしがそう言うと、エリックは目を見開き、次いで噴出したのだ。
「なによぉ、エリックはこういうところには行きたがらないだろうからって、気にしてたのに!」
「いや、すまない。悪かった。あまりに健気なことを言うものだから」
くっくっく、と肩を震わせる。
「健気だと思うならなんで笑うのよ」
「ああ、すまない」
エリックは居住まいを正して軽く頭を下げた。
笑いの発作は収まったようだけど、まだ顔がにやけているわ。
「それで、もし仮面舞踏会に行きたいのであれば、ぜひエスコートをさせていただきたいのだが……お嬢さん?」
すっと胸に手を当てる。
「……いいの?」
「ああ」
「本当に?」
わたしは首を傾げた。
「もちろん、構わないさ。お前が望むなら何でも叶えてやりたい」
と、エリックは至極真面目な表情で言う。
こういう、砂を吐きそうなセリフをさらりという彼に、わたしは人種の違いというものをひしひしと感じるのだった。
日本の男でこの手のことを真顔で言えるのはホストくらいだろうな……。
しかし、いくらエリックが素で、しかも本気でこういうことを言っているとわかっていても、そこはそれ、親しき仲にも礼儀あり、である。
口ではどうでも、実際には人ごみは苦手なエリックだもの、あんまり負担をかけるのは忍びない。
「本当に、いいの?」
わたしは念を押した。
「ああ。……信用がないのだね」
エリックはふうっとため息をついて、肩をすくめた。
わたしは首を振って、
「そうじゃないわ。ただ……わたしが行きたいと言っても、エリックは怒るか馬鹿にするかのどっちかだと思ったから」
「おやおや。どうしてそう思うんだね?」
楽しげにエリックは唇の両端を持ち上げた。
「だって……遊びで仮面を被る人たちの間を歩くなんて、いい気分はしないでしょう?」
「……」
エリックの顔から笑みが消える。
やはり、図星のようだ。
「あなたには充分過ぎるほど良くして貰っているもの。わたしがどれだけ感謝しているか……。だからね、あなたにとって気の進まないことを強要したくは……」
ないから、と言い終わらないうちにエリックはわたしの頭をなでたのだ。
(え、えーと。これはどういうことだろう……)
「あの……」
わけがわからなくてエリックを見上げると、彼は優しい表情でわたしを見下ろしていた。なんだか目は少し潤んでいる。
「お前はいい娘だな……」
そうして、わたしの頬にそっと触れた。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
エリックは、マスカレードは自分が現れても不審に思われず、堂々と地上を歩いても許される唯一の機会だから行くのは少しも苦ではないのだと語り、そしてわたしと踊りたいのだと言った。
「わたしは踊れないのよ」
というと、
「なら、覚えればいい。私が教えよう」
そうまで言われたらわたしもこれ以上は遠慮はしない。
晴れてマスカレード行きが決定したのである。
しかし……。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
その日一日、エリックは衣装のデザイン画を描くのに没頭していた。
何枚も描いては気に入らないと丸めて捨てる。
最初、エリックはわたしの衣装を着物にしたがっていたのだけど、わたしは一人では着物は着れず、またここから地上に行く間に着崩れてしまうの必至な上に、着物を着ていてはダンスは踊れないという理由で断ったので一から考えなければならなかったのだ。
できあがったのは結局4日後で、 その翌日は生地屋と仕立て屋に行くので一日がつぶれた。
この日までは、良かった。
それからエリックは何を思いついたのか知らないが、書斎に引きこもって何やら作業を行う事と、夜遅くに出かけては朝になってから帰ってくるということを繰り返すようになった。
彼は一旦なにかに夢中になってしまうとその事以外目に入らなくなってしまうのはわかっていたが、ここまで話すどころか、顔を合わせるのもまれになったのは初めてだった。
食事や寝る時間はいつも以上に不規則になる。どころか、そういったことに時間を費やすのが惜しいようなのだ。
しかし、だからといって放っておくわけにはいかない。
眠らず食べずでいれば、人間いつしか倒れてしまうもの。
同居人としての義務感と、ほったらかしにされる寂しさからわたしは何かと理由をつけてはエリックに声をかけるようになった。
「エリック、ご飯が出来たの。冷めないうちに食べよ」
「ああ」
「お茶にしない? そんなに根を詰めたら身体に毒よ」
「ああ」
「出かけるの? わたしも付いて行っていい?」
「駄目だ」
返事はあるけど相手にされない。
実のある会話が一切ないのだ。
こんな日がもう十日近くも続き、わたしの我慢もそろそろ限界に達してきた。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「エリック! ちょっといい?」
わたしは腹に据えかねて彼の書斎に押しかけると、コチラを振り向かせるべく大声を出した。
「ああ、後でな」
エリックはそっけない。
「あなたさえちゃんと聞いてくれればすぐに終わるわ」
「じゃあ、話してくれ」
とても適当な返答。
胡散臭いがとりあえず文句を並べ立てると、エリックは一応「ああ」とか「うん」とか答えるが、とても……聞いているとは思えない。
「……」
わたしは半眼になってエリックの背中を見つめた。
胸の奥がもやもやとし、不満が澱のように溜まってゆく。
中国風の刺繍のされたガウンや、天辺にスイッチのような飾りのついているスモーキング・キャップすら憎らしい。
話を聞いてくれない旦那を持った主婦の気持ちはこういうものだろうか……。
「ねえ、エリック」
「ああ」
「後どれくらいかかる?」
「うん」
「……外はいい天気かしらね?」
「そうか」
「……『ぼーずがびょーぶにじょーずにぼーずのえをかいた』(日本語)」
「わかった」
「聞いてないでしょ」
「ああ」
ふ、ふふふふ……。
堪忍袋の緒がぶっちぎれるとはこーゆーことを言うんだろうなあ。
「エーリック!」
頭に血が昇り、思わず叫ぶと、彼は振り向きもせず、
「頼むから少し静かにしてくれないか、アイシャ」
と言ったのだ!
アイシャ……?
……ふうーん。
そうですか。
エリックにとっては猫とわたしは同列ですか。
わかった。
そっちがそういう態度なら、わたしにだって考えがあるわ!