の読んでいた新聞に仮面舞踏会の開催を告げる知らせが載っていた。
もうそんな時期なのかと思いながら彼女の後ろから声をかけるとずいぶんと驚かせてしまったようで、彼女は悲鳴をあげた。
私はとても傷ついた風を装ってしょげ返る素振りを見せると、彼女は慌てて謝ってくる。
無論、彼女はこれが演技であって、私の「構って欲しい」というサインであることに気付いているだろう。
自分でも信じられない事だが、私は彼女にずいぶんと甘えるようになった。
少しだけ困らせてみたり怒らせてみたり、ごねてみたり触れてみたり……。
その都度様々に変化する彼女の表情が愛しくて仕方が無い。
これまで誰に対しても一線を画し、感情を交えない付き合いしかしたことがなかったが、少なくとも彼女の前では自分を偽る必要はない。
私はずっと人並みな生活に憧れていたし、華やかな場所も嫌いではなかったのだ。
己の内にも外にも美しさがない反動か、綺麗なものが大好きなのだ。
私のオペラ座の、上品とはいえないが豪華なホールで、風変わりながらも美しく装ったと踊ったり戯れたりすることができたらどれだけ楽しいだろうか。
誰も彼もが仮面をつけたこの催しでならば、私が参加したところで不快には思う者はおるまい。
彼女もきっと舞踏会には出たいだろう……。
そう考えて行きたいのかと問うたのだが、いやに歯切れが悪かった。
おそらく彼女なりに気を使っているのだろうが、それにしてもわかりやすすぎる。
思わず噴出してしまうと、彼女は頬を膨らませた。
「なによぉ、エリックはこういうところには行きたがらないだろうからって、気にしてたのに!」
ほうら、やはりそうだ。
してやったりという快感と、彼女に想われているという陶酔感が混ぜこぜになり、得も言われぬ快さが全身を駆け巡る。
ああ、。お前のためなら心臓を切って差し出すことすら厭わないよ……。
少しく夢見心地になりながら、彼女にマスカレード行きを承知させるべく私は奮闘した。
だが……。
「だって……遊びで仮面を被る人たちの間を歩くなんて、いい気分はしないでしょう?」
言われた途端、私は冷や水をかけられたように冷静さを取り戻した。
たしかに、以前はそうだったのだ。
軽薄で騒々しい集まりだと馬鹿にしながらも、行ってみたい衝動を抑え切れなくて、こっそり参加したことがある。
この時ばかりは私を見ても恐怖で顔をしかめるものもいなければ、化け物と指差される事もなかった。
だが、空しかった。
所詮は一時の幻、明日になればまたいつも通りの日常が戻ってくる。
顔を隠すのが楽しいのは、それがただ一夜のことだからなのだ。
私のように、いつもいつも不快な仮面で顔を覆わなければならない者にとって、仮面舞踏会はスリルに満ちたものでもなければ、心が浮き立つようなものでもないのである。ただ、世間の人間と自分の違いを思い知るだけなのだ。
ほんの少し前までは、それが私にとって当たり前であったのに……。という理解者を得て、少々浮かれすぎていたようだ。
だが、その気持ちが嬉しい。
胸のところに温かいものが生まれてくる。
ああ、に優しくしたい。
大切にしたい。
たくさん喜ばせてやりたい。
そっと彼女の髪に手を差し入れ、幼子にするようになでると、は目を白黒させた。
「お前はいい娘だな……」
。
私は慈愛という言葉の意味を初めて理解したよ。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
とうとう彼女がマスカレード行きを承諾したので、私はさっそく準備に取り掛かった。
そうと決まれば、まずは仮装の衣装を誂えねばならぬ。
できれば着物がよいのだが、さて、すぐ手に入るものか……。
着物は室内着として非常に珍重されているのだが、そもそもの輸入量が少なく、入手が困難なのだと聞いている。
ならば絹地に日本風の刺繍をし、こちらで仕立てさせればよいだろうが、はてさて、きちんとした着物を縫える仕立て屋などあるのだろうか。
私が呟きながらデザイン画を描いていると、
「あの、エリック……。盛り上がってるところ悪いんだけど、着物はなしにしてくれないかなあ。用意されても、わたし、自分じゃ着れないのよね。髪も結えないし」
「なんだって? 君の国の衣装だろう!?」
衝撃のあまりつい力を入れすぎて鉛筆の芯が折れてしまった。
「そうだけど……。わたしの時代じゃ着物って特別な日にしか着ないようなものになってたんだもの。それに、特別の日でも最近ではスーツとかで済ませることも多いし……」
「スーツ……。女性もか?」
「ええ」
「……」
なんてことだ。
日本がヨーロッパやアメリカを真似ているのは耳にしていたが……。まさか百三十年後には日本人は自国の衣装を自力で着れなくなっているなんて。
あんなに美しいものを捨てて、実用一点張りの味気ない服が蔓延してしまうのか。
ああ、もしそのことをどうやって知ったのかと問われずに済むのなら(そして私が人並みの顔をしているのなら)日本公使館に乗り込んで、文句の一つも言ってやるのに……!
他にも、ここから地上まで行くまでに着崩れてしまうとか、ダンスを踊るには不向きだとかいう理由で、着物という案は完全に立ち消えになった。
しかし、これで諦める私ではない。
着物の要素も取り入れた素晴らしいものを考えてみせる……!
☆ ☆ ★ ☆ ☆
デザインを考えている間も、心は様々な事柄に漂ってゆく。
彼女はダンスを踊れないというので、私が教える事になったのだが、私自身、やり方は知っていても踊った事はない。大丈夫だろうか、ということや。
マスカレードではあの子が他の男に誘惑されないよう、よくよく気をつけなくてはいけない、とか。
それから彼女が迷子になってしまわないように手を繋いだりしてもいいものだろうか、とか。
せっかくの機会なので、地下からはわかりにくい地上階部分を観察してなにかルフェーブルの脅迫材料にできそうなものも探そう、ということや。
(そういえばルフェーブルといえば最近私の忠告に従わなくなってきたな。手紙ではなく、直接声をかけてみるか……。後で支配人室に行こう)
いや、もっと良い事を思いついた。
マスカレードにオペラ座の主たる怪人からの余興をプレゼントしようではないか。
ふ、ふふふ……。
私は早速準備に取り掛かることにした。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「……これでよし、と」
私は握っていたペンを放り投げ、大きく息を吐いた。
しばらくまともに睡眠をとっていなかったが、身体の疲労とは反対に、頭は冴え渡っていた。
首を左右に曲げると、骨の鳴る音がする。
お茶でもいれて休憩にしよう。
そういえば、今は何時だろうか。
「……」
ポケットから懐中時計を取り出すと、ゼンマイはすでに切れていた。
やることが多くありすぎて、巻くのをすっかり忘れていたのを思い出す。
まあいい。居間に行けば別の時計がある。
私は大きく伸びをし、椅子の背もたれに身体を預けた。
と、カサカサという音と供に、背中に異物感を覚えた。
「何だ……?」
私は後ろを振り返るが、背もたれには何も付いていなかった。
そこでガウンを脱ぐと――そこにとんでもないものを発見した。
『食事の用意ができました』
『もう休みます。あまり根を詰めない様に……』
『お茶の仕度ができました。気がついたら居間に来てください』
『一体何をやっているの?』
『いつになったら終わるんですか?』
等々書かれたメモがピンで留められていたのだ。
……いたのか、。
そういえば、何か言っていたような気もするのだが、よく覚えていない。
しかし、信じられない。この私が、背後に人がいたことばかりか、こんな悪戯まがいのことをされても気づかなかったなんて……。
地上で暮らしていた頃だったら、寝首を掻かれてもおかしくはないぞ。
まあ、が私の寝首を掻きにくるなどありえないだろうが。
そうだ。いたのがだからだ。
安心しきっていたからだ……。
そう自分に言い聞かせていたが、私は自分がずいぶん長い事彼女をほったらかしにしていたことを認めないわけにはゆかず、また彼女が気分を害していることも簡単に予想できた。
とにかく謝ろう。
身支度を整え、被ったままだったスモーキング・キャップに手を伸ばし――そこにもまたカサリとした感触を覚え、気が遠くなりかけた。
《馬鹿》
スモーキング・キャップにもやはりピンで留められたメモがあり、そこには一言こう書かれていた。
日本語なので読めないのだが、文句や怒りの言葉の類であることは想像に難くない。
怒って……いる、のだろう……な。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
せめてもと身なりを整えてから書斎を出る。
居間には人影は無く、キッチンの方から物音と良い匂いが漂ってきた。
途端、腹が鳴り、自分が空腹だったことを思い出す。
一体最後に食事をしたのは何時間前だったのだろうか……。
キッチンに続くドアを開けると、髪をまとめ、エプロンをつけたが調理台の前で忙しく働いていた。
「」
「あら?」
声をかけると、彼女はすぐさま振り向く。
顔が険しくないので、幾分気が楽になった。
「その……久しぶり」
「そうね」
くすり、と彼女は笑う。
よ、良かった。機嫌は直っているようだ。
「その、すまない。ずいぶん長いこと君のことを放っておいたようで……」
「ああ、いいのよ」
不自然なほど明るくにこりと笑う。そして。
「ここはあなたとアイシャの家なのだから、居候の身で文句なんか言わないわよ?」
言うだけいうとくるりと背を向けて鍋をかき回しだした。
怒っている。
ものすごく怒っている!
これまで生きてきた中でも危険なことは多々あったが、今回はまた格別な危機的状況にあると瞬時に悟った。
対応を間違えれば彼女は出て行こうとするかもしれない。
だがここは私が作り上げた迷宮の奥底。あの子一人ではとうてい出られまい。
そうなれば……私は二度と彼女を連れて外出することはないだろう。ここに閉じ込められたは私を憎むようになるかもしれない。
そんなのは、嫌だ!
「……。あー……。悪かった。本当にすまないと思っている。作業は一段落ついたんだ。だから……」
はちらと振り返るが、
「いいって、言ったじゃない。いやあね。どうしたの?」
しかし口調は非常にそっけない。
本心から許してもらえているとはとても思えん。
「手伝おう」
手を伸ばすが、
「もうほとんど終わっているの。あとはセッティングするだけよ」
と断られる。
「そうか」
私はがっかりしてその場を離れようとした。
「エリック。ずっと起きてたんでしょう?」
「あ、ああ」
「なら、先に一寝りする? それとも食べる?」
「……食事にするよ」
「そう」
頷いたは鍋を火から下ろした。
少なくとも、食卓を供にする光栄は持ち続けられるらしい。
バゲットにバターとジャムの壷。
メインはポ・ト・フ。
ゆで卵にチーズ。ゆでたカリフラワー。
籠にはリンゴが盛っている。
燭台に火を灯し、ワインを開ければ素敵なディネになった。
しかしほとんど会話らしいものもなく、私たちは食事を進めていた。
(ん?)
ふとを見ると、バゲットにジャムをつけて口に運んでいた。
いや、それは普通のことなのだが、ジャムの色が私の記憶にあるものと違っているのだ。
たしかアプリコ・ジャムしかなかったはずなのだが、今彼女が食しているのは緑っぽいのだ。
不審に思い私も一口食べてみてそれがなにかわかった。
リュバルブだ。
しかし、私はリュバルブも、リュバルブのジャムも買った覚えは無い。
それに、そうだ、確か、バゲットは私が最後に食事をしたときに最後の1本になったので、ベルナールが地上の入り口に隠しているだろう食材ともども地下に降ろさねばと思って、そのまま忘れていたのだった。
ああ、そういえばポ・ト・フに入っている子羊の肉も切らしていたはず……。
と、いうことは、つまり……。
「一人で地上に出たのか!?」
思わず立ち上がると、は一瞬目を丸くし、ついで勢い良く噴出した。
「やっと気付いたのね。そうよ」
外に出かけるときには必ず私が付き添うというのは暗黙の了解となっていた。
だのにあっさりと肯定する彼女に二の句が告げず、私は何度か口を開け閉めした。
「どうしてそんな勝手なことを―!」
裏切られたような気持ちで声を荒げると、
「エリック」
恐ろしいほど冷静な眼差しで彼女は私をその場に縫い留めた。
「あいにくと、わたしはアイシャみたいにここで食料調達をすることはできないのよ。あなたのように食事することを忘れる事もね。だったら自分で取りに行くしかないじゃない」
「それは……私の落ち度だ。すまない。しかし、どうやって上まで行けたんだ?」
「そんなの、五回も六回もお出かけしているのに、わからないわけがないじゃない。わたし、そんなに物覚えは悪くないわよ?」
呆れたような表情になった。
いやしかし、私は仕掛けを動かす時にはにはわからないようにしていたはずなのだが……。
甘かったようだ。
しかしそうなると、はここにいたくないと思えば自由に出てゆけることになる。
最悪だ。
これからはいつ彼女を失うのかという恐れに始終怯えることになるのだろう。
輝かしいと思われた未来は消え去り、私はまた失意のどん底に突き落とされた。
だが、それも私自身が原因である。
……彼女を責める事は、できない。
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