背中の悪戯(とはわたし自身は思っていないのだけど)と一人で地上に出たということは予想以上にエリックを打ちのめしたようで、彼はいきり立ったもののその後は力なく席に腰を下ろし、見るからに悲しげに両の拳をテーブルの上に置き、頭を垂れた。
 ちょっとやりすぎた気はしないでもないけど、こちらも二週間も放っておかれたのだ。これくらいはやってもいいのではないかと思う。それに、食料が尽きかけていたのは事実だったし。普通の人間は三食きちんと食べないと身が持たないのよ!
 でも、そろそろ許す頃合だろう。
 なんだかんだ言って、面白くないと思うよりも、がむしゃらに仕事をするエリックが心配だという気持ちの方が強かったのだし。
 電子レンジはない時代だから、時間が経つと味が落ちる焼き物や揚げ物じゃなくて、煮込み料理を用意しておこうと考えたくらいだしね。これなら火にかけて温め直すだけで済むもの。
 わたしは席を立ち、エリックの後ろに回って肩に手を置いた。
「エリック。わたしはあなたのように特別な才能を持っているわけじゃないし、音楽にも建築にも詳しい知識はないから、あなたの話を聞いても理解できるかどうかわからない。だけど、何をしようとしているのかとか、どれくらいかかるのかとか、そういうことを教えて欲しいの。わけもわからずほったらかしにされて、時計の針が進むのをじっと待っているのはとても辛いわ」
 エリックは顔をあげてわたしを見つめる。
「一人で食事をするのも、寂しい」
「あ……」
 エリックは片手で顔を覆う。
「そう、だね。私はよく知っているよ」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「それで、今度は何をしようとしているの?」
 わたしたちの喧嘩(というか、わたしが一方的に怒っていただけなのだけど……)はおしまいになり、食事を再開させた。
 今度はさっきまでとは違い、ちゃんとした会話をしながら、である。
「隠し通路を増やそうと思ってね。今までに作っていない場所だから少々手間取ってしまったんだ」
「隠し通路? それは、今作らないといけないことなの? マスカレードまでもうそんなにないじゃない。まだダンスの練習もしていないのに……」
 拗ねたように言うと、エリックは慌てて弁解した。
「すまない。ああ、実は思いついたことがあってね、マスカレードの日までに完成させたかったんだ。あともう少し、今日……はもう無理だが、明日で終わる」
「マスカレードで使うの?」
 会場までの直通、みたいなものだろうか。
 わたしが首を傾げるとエリックは少し目線を反らした。
「エリック?」
「ホールから客席へ続く大階段の踊り場に切り穴を作っているんだ」
「……なんで、そんなところに?」
 オペラ座内は詳しく知らないが、そこはオペラ座を訪れた者なら誰でも通るところのはずだ。
 公演が終われば誰もいなくなるとはいえ、出入りにも作業にも不自由しそうな場所にどうしてわざわざ……。
「マスカレードにちょっとした余興をしようと思ってね。少し、騒ぎになるかもしれないからな」
「?」
 わたしが首を傾げると、エリックはばつが悪そうに笑みを浮かべる。
「最近、支配人殿が主人に逆らいがちなのでね、オペラ座のファントムから直々に挨拶を送ろうと思っているのだよ。マスカレードは例年大変な人出だ。捕まりはしないだろうが……わかるだろう?」
 …………。
 この人は自分が隠れ住んでいる自覚があるのだろうか。
 何もしなければただの参加者Aで済んだものを、わざわざファントムだと名乗りをあげるというのか。
 騒ぎになるどころではないだろう。
 わたしは眉間に指を当てる。頭が痛いとはこのことだ。
「エリック……。わたしはあなたのすることに助言したり嗜めたりする権限があるとは思っちゃいないけど、それはやめておいたほうがいいと言っておくわ」
 エリックはテーブルに片肘をついて苦笑いをした。
「賛成してもらえないだろうとは思っていたさ。だがこちらにも意地があるのでね。なあに、身体に危害を与えるわけじゃなし、思うほど危険でもないだろう」

 うーむ。
 うーむ。
 そう上手くいくかなあ……。

 これは、多分、エリックなりに構ってもらいたい心情の表れなんじゃないかと思う。
 あの顔のせいでまともな人間関係を作れず、それでも人と関わりたい、自分の存在を知ってほしい、認めてもらいたいという想いが、こんな自棄のような行動に駆り立てているのではないだろうか。
 心理学に詳しいわけじゃないからはっきりしたことは言えないけど……。
 あ、もしそうなら、わたしがもっとたくさんエリックに構えばこういうことしなくなるのかしら?
 でも、もっと構うといっても一体どうすれば……。そもそもわたしとエリックは趣味がぜんぜん合わないのよね。
「まあ、なんにせよ、あんまりルフェーブルさんをいじめすぎると逃げられちゃうかもしれないわよ?」
 こんなことしか言えない自分が恨めしい。
 ごめんなさい、支配人さん。わたしは自分の日々の糧がどこから出ているのか、ちゃんと理解しています。
 エリックを止めるのは無理でも、あんまりご迷惑をおかけしないように務めるのが同居人の義務だということも。
「私は日々、オペラ座が素晴らしいオペラを上演できるよう忠告をしているだけだよ」
 エリックは真顔で答える。
 ……ごめんなさい。同居人はあまり役に立ててません。
「それなら……何か皆が喜ぶようなことをしてみたらどう?」
「喜ぶこと?」
 いきなりなわたしの提案にエリックは怪訝そうに眉を寄せた。
「そうよ。驚かすだけじゃなくて、何か皆を楽しませて喜ぶようなことをするの。確か、ファントムは悪戯好きだという評判もあるんでしょう?」
「それはオペラ座の人間が自分にとって都合の悪い事や馬鹿げた出来事を私のせいにしているだけだ。靴紐がなくなっただの、階段でけつまずいたの、そんなくだらないことを私がするわけがないだろう」
 あ、不機嫌になった。
「あなたがやっていなくても、オペラ座の人がファントムの仕業だと思っているのなら同じ事よ。ファントムには恐ろしい面とお茶目な面があるってこと。それを利用しましょうと言っているの。だって、あんまり驚かせすぎたら、そのうち幽霊退治に乗り出されるかもしれないもの」
 エリックの表情が呆れたというものになった。
「イギリスの昔話でミルクを毎日置いておくと、家の人が寝ている間に片付けをしてくれたり家畜の世話をしてくれるけど、姿を見てしまったりミルクをあげなかったりすると悪さをする家付き妖精の話があるじゃない。そんな感じで何かできないかしら」
「ここはフランスだぞ」
 もっともなツッコミが入る。
「たとえばの話だってば! とにかくファントムの悪評ばかりを強くするようなことは危険だわ。自分で自分の首を絞めるようなものじゃないの。あなたは楽しんでいるようだけど、わたしにはあなたが自分を追い詰めているようにしか見えないのよ。もう心配で心配で……」
 エリックはお手上げだというように両手を挙げた。
「わかった。お前がそこまで言うのなら……。しかし、喜ばせるといっても何をしたらいいんだ? 生憎私には有象無象の連中に施しができるほど裕福ではないぞ」
「別に一人一人にどうこうってことじゃないのよ。マスカレードを盛り上げればいいんだわ。ん、と。たとえば、こんなのはどう?あのね……」
 わたしはその場の思い付きをエリックに話して聞かせた。

「不可能ではないが、これから用意するのであれば、マスカレード当日にぎりぎり間に合うかどうかというところだぞ。ダンスの練習ができなくなる」
 話し終わるとエリックは渋い顔をし、難色を示した。
「しかし、お前がやりたいというのであれば、何とかしよう。せめてもの詫びだ」
「そんなつもりはないんだけど……。でもそうしてもらえれば嬉しいわ。あ、準備はわたしも手伝うわよ」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 結局この年、オペラ座のマスカレードは例年になく盛況に終わった。
 その原因についてはオペラ座側の用意した余興とも、「ファントム」の仕業とも囁かれたが、支配人は沈黙し、真相をしる者はほとんどいないという。



 しかし、アレはすごかったわ―。







たまさんからのリクエストで「マスカレード前後のエリックの観察。見られているエリックサイド付き」でございます。

あんまりまとまりがない出来になってしまいましたが、それというのも、JNさまのリク、「オペラを見に行く」話と内容がかぶってしまいそうになったので、何とか軌道修正した結果がコレです。
がんばったのですが、これ以上は駄目でした。
それと、マスカレード後も、あんまり詳しく書けませんでしたし。
重ね重ねゴメン、珠さん。

せめてものおわびとして、今回もオマケをつけました。
これは、人によってはこのページに来るまでにすでに読んでらっしゃるはずです。
4ページ目の、エリックでもヒロインでもない人の視点の話があったでしょ?それがそうです。(一回で読めたアナタは運が良かったです)
4ページ目なんてなかったよ!ってなアナタ。もっかいこのページをリロードしましょう。
リンクにが出現していると、4ページ目に進めます。

一回で出なくても、何回か戻ればそのうち現れますので、頑張ってください〜。


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