朝になったので、俺はいつも通りにパソコンから抜け出した。
 さて、今日の朝ご飯は何を作ろう。鳥ハムの残りがあるから、細く裂いてサラダにしようかな。それともサンドイッチにしようか……。
「あれ?」
 外の光景に違和感を感じて、俺は首を傾げる。
 俺より背の高い家具なんて、うちには無いはずなのに、全てのものが俺より大きい。パソコンデスクも、テレビも。ソファーなんて、俺の目線と背もたれの高さが同じだ。
「え? え? なんで?」
 パソコンの中にいるときは、モニタに表示させる大きさは任意で変えることができるけど、そんな感じで小さくなったまま外に出てきてしまったのだろうか。今まではただ飛び出しているという感じでいたから、あんまり気にしたことはなかったけど。というより、サイズを変えられるとは思っていなかったのだけど……。
 なんとなく、下を見下ろしながら両手を広げてぐーぱーしてみると、自分の手がなんだかいつもより丸いような気がした。丸いだけじゃなくて、指も短いんじゃないかって……。
「えー……」
 俺は慌てて洗面所に走った。あっちには鏡があるから。だけど。
「み、見えないー!」
 鏡がある位置まで背が届かない。かろうじて俺の頭のてっぺんが見えるくらいだった。
「あ、そうだ!」
 そうと理解すると俺はマスターの部屋に駆け込んだ。彼女の部屋には入ってすぐ目に入るところに、姿見がある。その前に誘い込まれるように向かった俺は、鏡に映った自分を見て思わず息を飲んだ。
「子供になってる……!」
 いつもの姿が縮小されたんじゃない。四歳か五歳くらいの子供の姿になっていたのだ。目なんてくりくり大きくて、顔のラインもずいぶん丸い。ほっぺたなんてむちむちしてるほど。手足も短くなってる。服だけは、いつものKAITO装束が身体に合うように小さくなっているだけだったけど。
 はっとして、俺は「あー、あー」と声を出した。意識して聞いてみれば、声も子供っぽい感じに高くなっていた。
 でもどうして? なんで急にショタイトになっちゃってるの?
「マスター、マスター、おーきーてー!!」
 俺はくるりと鏡に背を向けると、マスターのベッドにダイブした。腕が短いので中腰で揺り起こすことができないからだ。
 布団にくるまってるマスターをべしべしと叩き起こす。
「かいと、うるさいー。何時だと思ってるのよ」
 マスターは籠もった声で言うと、布団の中に潜り込もうとする。ああ、もう、マスターったらねぼすけなんだから。
「もう七時過ぎです。とにかく起きてください、マスター!」
「今日は休み。あとにして」
 ……うう。ひどい、マスター。目も開けてくれないなんて。
「マスター。マスター。お願いです、起きてください。……助けてください!」
 自分に何が起きたのかわからない。マスターしか頼りにできる人はいないのに、そのマスターは惰眠をむさぼることに執着している。これが不幸でなくてなんだというのだろう。
 ベッドの下にぺたりと座り込み、せつない思いで見上げる。と、マスターは潜り込むのをやめて浮上してきた。
「ん〜?」
 寝起きでばさばさの髪をかき分け、片肘をついて身を起こす。まだ寝ぼけているのか目は半分閉じたままだ。
「……カイト、なんか小さい?」
「はい、小さくなってしまいました。マスター、どうしましょう」
 勢い込んで立ち上がる。俺は必死だった。
 こんなんじゃ、ご飯を作ることも一人で買い物に出かけることもできない。マスターのお世話ができない俺なんて存在価値がないってことで、実体化禁止とか言われるかも……。
 マスターはのろのろと起きあがると、目をこすった。
 眠たげに何度か瞬きをするが、やおら俺の顔を両手で挟み込む。
「ああ、夢じゃなかったのか」
 夢だと思ってたんですか、マスター。
 マスターはようやく目が覚めたようで、興味深そうに俺を見下ろしてきた。ベッドに腰掛けている状態のマスターが、立っている俺より大きいなんて、初めてのことだ。
「なにこれ、ショタイト化してるの? 可愛いじゃない」
 にこにこ、というよりはにやにやという感じで、マスターは俺の頭をなで回す。頭をなでてもらえるのは嬉しいけど、なぜだか今日は素直に喜べなかった。
「マスター。俺、どうしましょう」
 怒られはしないらしいとはわかったが、不安は消せない。俺はどうしてしまったんだろう。壊れてしまったのだろうか。元はデータの集合体なんだから、その一部が破損してたり、とか。
「どうしようって、どっか体調が悪いとかあるの?」
 俺の恐怖心がまったくわからないらしいマスターは、気楽そうにそう尋ねる。
「いえ、そういうことは……」
「今までの記憶とかはちゃんと全部残ってる?」
「もちろんですよ」
 マスターと出会ってからの記憶は、俺の大事な宝物だ。欠けたりしたら絶対にわかるはず。
「見た目は子供になってるけど、中身はいつものカイトなんだね」
「そうです。ちゃんと俺です。マスター……」
 マスターにはことの深刻さが理解できないのだろうか。不安で、悲しくて、涙が出てくる。
 マスターは真顔になると、ばつが悪そうに髪をかきあげた。
「カイトはロボットってわけでもないから、姿が変わるのも有りなような気がしてたけど、そうでもないんだね」
 よしよし、と今度は慰めるような優しい手つきで頭をなでてくれた。
「エラーか何かかな。あんまり深刻なバグだったらあたしにはどうすることもできないけど、再起動かけたら直るエラーも結構あるし、それ試してみた?」
 再起動。やってなかった。そうだよね、まだ絶望するには早すぎだ。
「ま、まだです」
 すでに鼻が詰まってきていたので、ぐずぐずした鼻声で答えると、マスターは苦笑する。
「じゃあ、まずやってみようか。その前に、鼻をかみなさいよ」
 そういいつつも、ティッシュで涙を拭ってくれたのも、鼻をかんでくれたのもマスターだったりする。初めて会った時はティッシュボックスを渡されただけなのに、小さいというだけでこうも扱いが違うものなのか。絶対に元の大きさに戻れるというのなら喜んでいたところだけど、さすがに今の俺にはそんな余裕はなかった。


♪・♪・♪



「そんなに落ち込むことはないよ、カイト」
「でも……」
「時間を置いたら直るかもしれないじゃない、ね?」
「でも……」
 一度パソコンに戻り、再起動をかける。その状態でもう一度外へ出た。
 でも、俺の姿は子供のままだったのだ。
 さすがにマスターも焦っているのか、普段は俺に向けられることはないよそ行き声で慰めてくる。電話しているときとかに出す、ちょっと高めの甘い声。
「でも、こんなんじゃ、ごはんを作ることもできません。マスターに迷惑をかけるだけで……」
「そんなの、気にすることはないって。カイトはカイトだもん。もう元に戻れないって決まったわけじゃないんだから。しばらくは休暇だと思ってゆっくり過ごしたらいいじゃない。家のことはあたしがやるよ」
「でも……」
 マスターを見上げる。と、鼻を摘まれた。
「マスターがそれでいいって言ってるの。あんたには拒否権はないんだからね」
 そう言うマスターの表情は優しかった。
「……はい」
 それからマスターはわざとらしいほど明るい声でじゃあ朝ご飯作るかーと、言いながら立ち上がった。
 できあがった朝食は鳥ハムのサンドイッチとスクランブルエッグ。飲み物はカフェオレ。でも俺の分のサンドイッチにはマスタードが入ってなかったし、カフェオレもずいぶん甘かった。子供の姿になったから、味付けも子供向けにされてしまったようだ。そりゃあ俺は辛いのよりは甘いものの方が好きだけど、マスタードくらいなら食べられないってこともないし、コーヒーの苦みも嫌いじゃないんだけどな。でもマスターが気を使ってくれたんだからと、黙って全部食べた。
 食後の片づけも掃除も、やっぱりマスターがやった。今の俺には掃除機も大きくて扱えなかったから。
 今日が休みで良かったとマスターは笑いながら言ったけど、それは俺も同意見だ。こんな日に一人で残されたら、不安で不安でしょうがなかっただろう。
 そのあとは俺の気分を持ち上げようとしてくれたのか、珍しくマスターの方から調整しようかと聞いてきた。マスターは学校もあるし、帰ってからもレポートを書いたり、学校のものとは関係ない勉強もしたりと結構忙しい。なので一ヶ月に一曲仕上げられれば良いほうなのだ。数日前に一曲できあがったばかりで次にやる曲を何にするか、まだ決めていない状態なんだけど……。
 こんな風にマスターに気を使わせるばかりではボーカロイド失格だ。小さくなっても俺は俺。この先どうなるのか、不安はあるけれど、低くなった視界や高くなってしまったしゃべり声にも慣れてきたし、もう大丈夫だって、伝えないと。
「新しい曲はあとでいいです。マスター、お休みになったら久々にゲームのやりこみがしたいって言ってたじゃないですか。そうしてください。俺はもう平気ですから」
「え……。いやでも……」
 マスターは困ったように眉をよせる。
「本当に、本当に大丈夫です。だからいつものマスターに戻ってください。さっきからあんまり優しいので気味が悪いくらいですよ。気がついてますか?」
 俺は挑発するようなことをわざと言ってみた。
「……見た目が大人だったら蹴っとばしてるところなのに」
 マスターはため息をついた。
 それから俺の頭をぐりぐりなでると、苦笑する。
「じゃあそうさせてもらうね。でも何か体調が変だとかなんとか、何かあったらすぐに言うのよ」
「はい!」
 マスターはそれからやりかけのゲームを始めた。俺は隣に座ってマスターのプレイしてる画面を見ている。ソファは低いものだけど、それでも足が届かなくてプラプラしてしまう。
 朝からずっと近寄ってこなかった小次郎さんが、この頃になると慣れたのか、ようやく近くに寄ってきた。でもまだ俺だとわかっていないのかもしれない。ふんふんと匂いを嗅いでくるので、好きなようにさせる。それからソファに登りたそうな様子を見せたので、俺は小次郎さんを抱きかかえた――。
「ひゃあ!」
「ちょ、カイト!」
 小さくなった俺には小次郎さんは重すぎて、頭から床に倒れ込んでしまった。
「い〜〜!!」
 顔が痛い。それに首も。なんかぐきって音がした気がする。
「だ、大丈夫、カイト!」
 コントローラーを放り出して、マスターは俺を抱き上げた。俺が落ちてきたのでびっくりしたらしい小次郎さんが甲高い声できゃんきゃん鳴く。なんという騒ぎだろう。ああ、でも、小次郎さんをつぶさないで済んで良かった……。
「カイト、手をどけて。どこ打ったの、見せてみて」
 よしよし、と言いながらマスターは顔を押さえる俺の手をどかそうとしてくる。
「あー、おでこが赤くなってる。あと、鼻打った? 鼻血はでてないみたいだけど……。他にどこか痛いところある?」
 マスターは心配そうな顔で俺の額をさする。
「首が痛いです」
 どこが痛いのか聞かれたので素直に答えると、マスターはますます心配そうな顔になった。首はやばいんじゃ、とかつぶやきながら。
「首って、後ろのほう? えびぞりになってたもんね……」
「あい」
 マスターはかけ声と共に俺を持ち上げると、頭を抱えるように抱き抱えた。いや、抱き抱えたというか、これは抱っこ、というものだ。小次郎さんがよくマスターにしてもらっているので、俺は何度も羨ましく思っていたのだけど、そうかあ、今まで抱っこしてもらえなかったのは、俺が大きかったせいなのか。小さければこうしてやってもらえるのか。なら当分このままでもいいか、なんて考えてしまった。
「マスター」
 首の後ろをさすられていると、だんだん痛みが引いてきた。でもそんなことよりマスターにひっついていられることが嬉しくて仕方がない。自分でも驚くくらい甘えた声を出して、マスターの首にしっかりと抱きつく。そのまま頭をすりよせると、マスターは痛かったねと言いながらなでてくれた。小さい身体、万歳。
「それにしても、カイトって今は幼稚園児くらいの大きさよね」
「たぶんそうですね」
 ぽつりとマスターがつぶやいたので、俺はマスターに抱きついたまま頷いた。
「結構重たいものなのね。小さい子のいるお母さんって、大変なんだなぁ。カイトは元々は大きかったからまだおとなしい方だろうけど、本物の幼児だったら親の言うこと、聞き分けてくれなかったりするんだしね」
「俺、重いですか?」
 頭を巡らせてマスターを見上げると、マスターはいたずらっぽく微笑みながら俺の頬を指でつついた。
「さすがに小次郎よりはね」
「なら、下ります」
 もっとくっついていたいけど、マスターの負担になりたいわけじゃないし……。
 マスターは首を傾けて、俺の顔をのぞき込む。
「もう痛くない?」
「そんなには。だから、大丈夫です」
「そう……」
 言いながらも、マスターの両腕は俺を抱えたままだ。
「もうちょっとこうしてていいのに。あんたのほっぺた、ぷにぷにしてて気持ちいい」
 マスターはもしかして、小さい俺の方が好きなのかなぁ。
 気の済むまでマスターにほっぺたぷにぷにをさせてあげていると、ふと他の人が俺たちを見たら親子だと思われるのではないのかと、思い至った。
「マスター、もし俺がずっとこのままだったら、お外にでた時にはマスターのことをお母さんって呼んだほうがいいの?」
 この身長差だと、俺がマスターを名前で呼ぶのはおかしいような気がするし。『マスター』とは呼ばれたくないわけだし。
 と、俺の頬をつついていた指の動きが止まる。
「お母さんって……。いくらなんでもヤンママすぎるでしょうに。せめてお姉ちゃんにしてよ」
 マスターは心底嫌そうに顔をしかめる。
「えっと、じゃあ、お姉ちゃん?」
 名前なしでお姉ちゃん、がいいのかな。マスターの様子を窺うと、彼女は目を見開いて俺を凝視していた。
「……今の、もう一度言って」
「へ?」
 今のって。
お姉ちゃん?」
 マスターはじっと俺を見つめたかと思うと、そっと俺をソファに座らせ、反対側に倒れ込んだ。
「マスター?」
 ただならぬ様子におろおろしていると、
「あたし、ショタ属性って特にないはずなのに〜〜」
 頭をかかえて呻く。
 どうやら俺はツボを突いてしまったらしい。小さい姿はなんて偉大なんだろう。


♪・♪・♪



 それからも俺は小さい姿を堪能しまくった。
 ゲームをしてるマスターの足の間に座らせてもらったり、ご飯を食べているときに頬についたご飯粒をとってもらったり。なでてもらう回数も、大きい時とは段違いに多い。マスターの気を引くために足にしがみついたりしても怒られたりしなかったし。お風呂はさすがに断られたけど――パソコンに戻れば多少の汚れや怪我はリセットされるようなので必要はないんだけど、濡れてもショートしたりはしないので、たまに気が向いたら入ることもある――、今晩は一緒に寝ても良いという許可はもらえた。
 朝は不安で怖くて仕方がなかったけれど、ずっとこのままでもいいや、なんて思うほど素敵な一日だった。元の大きさに戻っても、今度は自分の意志で大きさを変えられるように練習してみよう。とにかく、小さければマスターは俺のことを構ってくれるとわかったのだから。
 温かいお布団と、温かいマスターの腕に包まれながら、俺は夜中そんなことを考えていた。


 翌日――。
 朝になったら元の大きさに戻っていた、なんてことは全くなくて、俺は相変わらず子供のままだった。しかし時間も置いたことだし、今度は元に戻れるかもしれないからまた再起動をかけてみるようにマスターに言われた。
 昨日とは逆に、俺は元に戻らなければいいのにと思いながら、実行する。
 再び外へ出た俺は、すっかり高くなった目線に思わずがっかりしてしまった。ああ、儚い夢だったなあって。
 しかし。
「カイト?」
「はい?」
「あんた、なんかちょっと変じゃない?」
 マスターはけげんそうに俺を見つめる。
「そうですか? まあ、昨日の後遺症がちょっと残ってるようですけど」
 すっかり幼児ではなくなった俺だけど、まだ元通り、とはならなかった。身長はマスターと同じくらい。声もまだ少し高いみたいだ。
「いや、そういうことじゃなくて……。ちょっとごめん」
「あああっ!!」
 急に腕を伸ばしてきたマスターが俺の胸を揉んできた。それで俺も気づく。俺に……おっぱいというものがあるということに。
「KAIKOになってるー!!」
「ちょ……。あたしより大きいかも」
 両手をじっと見つめながらマスターは呟いた。
「何のんきなこと言ってるんですかぁ。俺、俺、女の子になっちゃったんですよ。ど、どうしよう。どうしましょうマスター!」
「明日になったら直るんじゃない? 赤くなったり黒くなったりするかもしれないけど」
 どうせそのうち元に戻るよ、とどことなく冷たい声でマスターは言った。うう、そんなに胸のサイズが俺に負けたのが悔しいんですか……?
 でも女の子の姿だなんて……。大きい俺だったら一緒に出かけるだけで周りからはデートしてるって思われるだろうし、小さい俺ならコブ付きってことでマスターを狙う馬の骨を牽制できるのに、女の子が二人でいても、しょうがないじゃないですか。抱っこもしてもらえないし、抱きついてもなんとも思われない。利点の一つもありはしない! がっかりです!!
「ねえ、カイコ。あたしのスカート履いてみる?」
 さっきまでの不機嫌さもどこへやら。マスターは楽しげに聞いてくる。
「マスター、遊ばないでぇ!」
 神様。小さいままでいい、なんてわがままはもう言いません。どうかお願い、元に戻して!




お題「女装・男装」に続く…のか?
KAIKO化は女装ではないかもしれないが。 




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