ピコーンという軽い音がしてセーブが終了したことを告げた。画面にはこれまでプレイした時間が表示されている。
「マスター、二百時間超えましたね」
「越えたね」
 ぼそりと呟いた俺の方を見向きもしないで、マスターは答えた。きっと俺が言った言葉の意味だって考えてもいないのだろう。ただ反射的に反応しただけ。その返答だって、俺が隣に座っていなかったら耳にも入っていないと思うのだ。
 RPG系のやりこみをしているマスターほどそっけない人間はいないんじゃないかと思う。この時期のマスターは本当にたちが悪い。俺に歌を教えてくれないのはまだいいとしても――身体のある俺は歌以外にもマスターとコミュニケーションをとることができるから、まだ我慢できるから――おはようとかいただきますとかの通り一遍の挨拶くらいしか会話がなくなるのはどうかと思う。
「マスター、先にクリアしませんか?」
「やだ」
 言っても無駄だろうと思いつつも言ってみたが、やはり無駄だった。
 マスターは一軍キャラをすでにラスボス戦に挑めることができるくらいレベルは上げているのに、一向に最終バトルに向かう様子はなく、ひたすら敵を倒しまくっている。
 このゲームでは武器は武器屋で売っているものだけではなく、素材を集めれば強化できるという仕様になっているのだ。その素材は道具屋などで売っていることもあれば、宝箱に入っていることも、敵モンスターを倒したあとに入手できるものもある。
 現在マスターが探しているのは、モンスターを倒して手に入れるものだ。それも出現率が低い敵の、アイテムドロップ率も低いいわゆるレアアイテムというもの。そのためマスターは延々と同じ場所で単調な戦闘を繰り返している。そのモンスターが出現するエリアが限られているためだ。
「どうせクリア後にもまたやりこみ要素が出てくるんでしょう? RPGのお約束じゃないですか。隠しダンジョンが出てくるとかラスボスより強い敵が出てくるとか。俺、同じ場面ばかりでいい加減飽きましたよ」
 せめて話が進めばそれほど退屈でもないんだけど、と続ける。
「別にカイトのためにやってるんじゃないもん。飽きたなら別のことをしてればいいじゃない。隣にいろなんてわたしは頼んでないよ」
「それは、そうですけど」
 苛っとした口調で返されて、俺はうつむいた。ぜんぜん相手にされていないのがわかって、人間だったら心臓があるあたりがずきんとする。
 でも、もう我慢できない。寂しい。隣にいるのにマスターが遠い。
「マスター」
「なによ」
「ちょっとはテレビの画面だけじゃなくて俺の方も見てくれませんか?」
「これが終わったらね」
「いつ終わるんですか?」
「さあ。アイテムコンプリートするまでどれだけかかるかわからないし」
「ということはそれまで俺は放置ですね」
「そうなるね」
「……ちょっとくらい優しい言葉で否定してくれてもいいと思うんですけど」
「言ってもいいけど、実行できるわけじゃないし。結局嘘つくことになるくらいなら、正直に答えたほうがいいでしょう。それよりもあんまり話しかけないでよ、集中できないじゃない」
 この間、マスターはまっすぐテレビの方を見ていた。意地でもこっちに目を向けてやるものかとでも思っているみたいで、頬のところがぴくぴくしている。
 俺はため息をついて、伸びをするようにソファに背中を預けた。しょうがない、実行するか。
 軽快な効果音とキャラの決め台詞とともに戦闘が終わる。
 バトル画面からフィールドへ切り替わる数秒の間に俺はマスターを持ち上げた。
「何やってんの、あんたはー!」
 夜のしじまにマスターの絶叫が響く。
「マスター、近所迷惑になるので叫ばないでください」
 できるだけ淡々と聞こえるように俺は言った。案の定、マスターは動きを一瞬止める。
 その隙に俺はさっきまでマスターが座っていたところに身体をずらした。そしてマスターを下ろす。それから逃げられないようにお腹の前に手を回した。ソファに座る俺の上にマスターが座っている、そんな格好になる。
「ちょ……放してー!」
 身体をひねりつつ、マスターは蹴りと肘鉄を繰り出してくる。しかし蹴りはともかく肘鉄は体勢が不十分なのであまり威力はなかった。だから俺はまずマスターキックを封じることにした。
「マスター、夜中にどかどかやると下の階の人に迷惑です」
「誰のせいだと思ってるのよ!」
 声を押し殺してマスターは睨みつけてきた。
 時刻はすでに深夜十二時過ぎ。大声も大きな生活音も周辺住民の迷惑になる。ペット可のアパートなのでそれなりに防音はしっかりしているようだが、それでも蹴りが俺でなく床に当たったら、さすがに下に住んでいる人に聞こえてしまうのではないかと思う。階下の人がまだ起きていたらの話だけど。
 マスターも思うところがあったのだろう、蹴りの頻度を落としてきた。よし、ではあとは肘鉄だけ堪えればいい。
「マスターが構ってくれないから、勝手に構われることにしました。こっちは一ヶ月の間に二百時間も放っておかれているんですから、これ以上の妥協はできません」
 きっぱりと言い切ると、マスターはひるむ。
 そうだ。このゲームを始めて一ヶ月。学校とアルバイトとたまに友達と遊びにいくのと、あとご飯食べたりお風呂に入ったり寝たりする以外ずっとずっとずっと、マスターはプレイしまくっている。休みの日なんてひどいものだ。起きたら寝る時間まで、必要最低限のことしかしない。そしてその最低限の中には小次郎さんの散歩に行くというのが含まれているのが羨ましいやら妬ましいやら。せめてその時間くらいは俺も一緒に散歩に行こうと思っていたのに――ゲームをやってなければさすがにマスターも普通に俺と話をしてくれるのだ――俺はその時間は家に残ってレベル上げとかアイテム捜索とかやらされていたのだ。ひどい、マスターひどい!
「だからってこの体勢はなんなの。いいから放しなさい。これ終わったら新しい歌をやるって言ってるじゃない」
「それはそれです。マスター、気にしないでください。これ以上の邪魔はしませんから。ちゃんとテレビがまっすぐ見える位置にいるんだし、なにが不満だっていうんですか。俺は寂しくて仕方がないんですよ!」
 どう考えてもこの状態が不満だという顔をして、マスターは無言で肘鉄攻撃を再開した。やはり姿勢が姿勢なのでたいして威力はないが、時折クリティカルヒットが当たるので油断はできない。しかしそれもしばらくの間だけのこと。
 一分を過ぎたあたりだろうか、マスターは息を切らせて肩を落とした。それからうんざりとした様子で前に向き直る。
「カイト、その手の位置をそこから上にも下にも動かさないで」
 疲れたような声で彼女は言った。
「わかってます」
 俺の返事にマスターは大げさにため息をついた。それからゲームを再開する。キャラクターはまた敵を探してフィールドを全力疾走しだした。
 やっぱりなぁ。すぐに諦めると思っていたんだ。だってマスターの攻撃が三分以上続いたことなんてないのだから。単純に体力が続かないということもあるのだろうが、俺がてこでも動かないと理解したらそれ以上の攻撃は無駄だと思うらしい。忍耐の勝利だ。
 俺はマスターのお腹の前で再度両手をしっかり組み合わせる。セクハラになるのであとはじっとするのだ。このあたりのさじ加減は難しい。やりすぎてマスターが俺に危機感を持ったりしたら本当にアから始まる怖いことをされかねない。距離は少しずつ縮めないと。
 今回も上手くいって良かったと、俺はマスターに知られたら一ヶ月アイス抜きにされそうなことを考えていた。


♪・♪・♪



 それから時計の長針が二周するだけの時間が過ぎる。
「よっし、集まったー!」
 ふいにマスターが歓喜の声をあげる。とっさのことだったので俺はびくりとした。
「え?」
 俺の声に反応して、マスターが軽く振り返ってくる。
「だから、合成アイテムがそろったんだってば。これで町に帰って強化してもらえばラストバトル前に集められる装備の中では最強のものができるよ」
「で、ラスボスと戦ったあとにもまたなにかしらやることがでてくるんですよね」
「しつこいっての」
 言葉はきついが、マスターの声も表情も明るかった。目的が達成間近なので気分がいいのだろう。
 マスターは鼻歌まじりでキャラを町まで移動させると、アイテムを改造してくれる店に向かわせた。必要なアイテムを選択して合成を開始する。合成にはかなり高額な費用も必要になるのだが、モンスターと戦いまくったために造作もなく支払えた。
「あー疲れた」
 マスターは伸びをした。彼女の頭が俺の胸元に擦り付けられる感じになる。髪の毛が鼻先で揺れて、ちょっとくすぐったい。
「俺も疲れました」
 同じような場面ばかり見続けたので。本当に、マスターはよく飽きないよなぁ。
 マスターの肩に頭を乗せると、マスターが苦笑した気配をさせて俺の頭をなでてくれた。久々の柔らかい手のひらの感触が嬉しい。
「カイト、喉乾いたからコーヒー淹れて」
「明日が休みだからって徹夜することはないんですよ」
 お小言めいたことをいいながらも、俺はマスターを解放し、立ち上がる。
 ポットのお湯は夕方に沸かしたものだ。きっと冷めてしまっているだろう。沸かし直さないと。
 お湯が沸く間にカップの用意をする。マスターは本当に今夜は寝ないつもりなのかな。それなら何か軽くつまめるものでもあった方がいいかもしれない。もう二時過ぎだもの。お腹、すいたよね。
 冷蔵庫になにがあったかと、中を覗く。ゲームに夢中なマスターはしゃくに触るけど、でもマスターが楽しんでいることは続けさせてあげたいんだ。ああ、俺ってなんてけなげなんだろう。……放置はヤだけど。
「マスター、夜食もいりますか?」
 リビングに目を向ける。マスターからの返答はない。
「マスター?」
 キャラクターは往来のど真ん中で立ち止まっていて、通行人がぶつかっては脇へ逸れてゆく。
「マスター……?」
 こちらからだとソファの向こうのマスターの頭が傾いでいるのが見えるだけだ。不審に思ってマスターのところへ戻ると、彼女はコントローラーを半ば放すようにして目を閉じている。
「寝落ちですか?」
 マスターの顔の前で手を振ってみるも、ぴくりともしない。
「コーヒー飲まないんですか? ラストバトル、行くんでしょう?」
 軽く揺すぶってみると、ちょっと眉間にしわが寄ったが、すぐに元に戻る。規則正しい寝息で胸が上下した。
「……本当に寝ちゃったんですね」
 無理もないよなぁ。だってマスター、ここのところ睡眠時間も削ってたんだもの。
 でもいいか。明日は休みなんだし。このまま寝かせてあげよう。
 俺はマスターの部屋へ続くドアを開けると、ベッドの上掛けをめくった。それからリビングに戻ってマスターの手からそっとコントローラーを外し、起こさないように抱き上げる。すると息がもれたような声ともいえない声がして、マスターの頭ががくりと垂れた。
 その衝撃で目が覚めるかと思ったけれど、マスターは起きなかった。寝入ってすぐなのに、どれだけ熟睡しているのだろう。というより、どれだけ疲れているのだろうか。
(ゲームのしすぎで過労死なんて、俺は嫌ですからね……)
 いくらなんでもそこまでにはならないだろう、とは思いつつもやっぱり心配になってしまって、俺はマスターをぎゅうと抱きしめたのだった。




このカイトに言うこと聞かせるには一撃必殺で黙らせないと駄目なようだ。



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