「ねえ、エリック……」

半歩先を歩いていたエリックは振り返り、どうしたと聞くように軽く首を曲げた。

「その……」

わたしはこれから言おうとすることに恥じらいを感じて俯いた。
エリックは辛抱強くわたしは口を開くのを待っており、それがさらに羞恥心を煽った。
こんなこと、女の口から言うものではない!
だけどわたしの方から言わなければ、エリックは絶対に腕を組んではくれないだろう。
彼がわたしに触れるのは、感情が高まりすぎた時だけで、あとは紳士的にエスコートするだけなのだ。

?」

わたしが黙り込んだままなので心配そうに顔を覗き込んできた。
―こんな時でもわたしが不意に動いても触れない位置で止まるのだ―

それがなぜだか無性に腹立たしくて、わたしはぐいと顔を上げた。
「腕を組んでもよろしいかしら、ムッシュウ?」

エリックはぽかんとしたように口を開け、次に彼にしてみればらしくないほどぎくしゃくと近づいてきた。
「気がつかなくてすまなかった……。マドモアゼル、お手を―」

差し出してきたエリックの腕に手を絡めると、布地越しにしなやかに引き締まった筋肉の感触がした。
エリックはわたしが触れた瞬間、感極まったように大きく息を吐く。
わたしたちはどちらからともなく見詰め合いじっと立ち尽くした。


ぱしゃん……。

湖で魚が跳ねたらしい水音でわたしたちは我に返った。
「いつまでもこうしていたいところだが……行こうか、
「……はい」

それからの散策は一言も言葉を交わさなかった。
ただエリックが囁くような声で歌い、わたしは彼の歌声に包まれていた。

甘美な夢に、酔ってしまいそう――。





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





二時間ほどで馬車に戻り、再びオペラ座へ向かう。
揺れる車内では行きのときよりも離れて座ったが、座席の真ん中ではわたしの手の上にエリックの手が置かれていた。


オペラ座が見えてくるあたりでエリックが口を開いた。
わたしは上ずった声になりそうだったので、口の動きだけで返事をする。

「生まれてから今まで、私にとって世界は逃げ出すことのできない檻だった。悪意と冷たさに満ち、向けられる感情といったら、怒りと蔑みと下卑た好奇心だけ。あの屈辱、あの焦燥、あの……悲しみは、世界中の言葉を使ったとしても言い表せない」

エリックは静かに眼を閉じた。

「長い年月を経て、ようやく暗闇の中に安息を見出し……やっとまともに息をすることができた。誰にも見られることもなく、静かに暮らすことがやっと……ね。満足だった。長年虐げられていた者としてはずいぶん大人しいだろう?世の中に対して復讐をする代わりに、世の中に対して背を向けただけなんだから」

「オペラ座には私の手がずいぶん入っている。私の愛する音楽のために、建築家としての能力を注ぎ込んだんだ。支配人には忠告することもあったが、それとて『親』の身としては当然のことだろう?仮にも支配人を名乗るのなら下手な歌姫や踊り子を使い続けるなど、音楽に対する侮辱は当然控えるべきなのだからね」

軽い衝撃があって馬車が止まった。
もうオペラ座の前だった。

「美しい音楽に抱かれて、闇の中に朽ちようと思った。それさえできれば充分だと。だが、

「私は今夜、幸福というものを初めて知ったよ」

「こんなに温かく、甘く、優しい気持ちを感じたことは今までなかった。胸が締め付けられて痛いが、その痛みすら心地良い」

エリックは目を開けてわたしの手を取った。

「ありがとう、。今夜のことは忘れない」





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





馬車を降りると、わたしは関係者用の玄関に向かった。
エリックはわたしが中に入るまで見送ってくれた。
中に入ったわたしは急いで二階の踊り場まで走り、窓から下を見下ろした。
黒い人影がスクリブ通りに向かってゆく。
わたしたちは同じ建物に住んでいるのに、帰る場所は別々なのだ。
わたしは地上に。
彼は地下に。

『ありがとう、。今夜のことは忘れない』

エリックの声が甦り、わたしは震える自分を抱きしめた――。