「どうした。なぜ静まり返る?私がいなくなったとでも思ったのか?」
馬鹿にしたように階下を睥睨する。
一歩踏み出すと、階段にいた人々は彼を避けるように一歩下がった。
「詰まらない思いをさせてしまったかな?私はオペラを書いていたのだよ。君たちのためにね」
丁寧に話しているのに、心臓が縮み上がってしまうほど恐ろしい。
一歩。
一歩。
ファントムが降りてくる。
真紅の死神が。


「これが完成した楽譜だ。《ドン・ファンの勝利》という!」
エリックは踊り場で立ち止まり、楽譜の入っている袋を叩きつけ、剣を抜いた。
「この場を借りて諸君らには言っておくことがある。私の指示には完璧に従ってもらおう」
剣を構えながら階段を降りる。

、すぐ戻る」
ラウルはわたしの耳に口早に囁くと、エリックをぎりっと睨みつけてどこかへ行ってしまった。
一人残されて、わたしは瞬く間に不安に飲み込まれる。

エリックはカルロッタの羽飾りを戯れるようにつつきながら、
「カルロッタは演技を学ばねばならない。いつものように舞台を気取って歩き回られてはたまらない」
カルロッタにとっては予想外の『命令』だったらしく、剣で突かれているにも関わらず口をあんぐりと開けた。
ピアンジはそんなカルロッタを庇おうと前に出たが、すぐに丸い腹に剣を向けられて立ち怯む。
「ピアンジは減量の必要がある。君の年でその体型は健康的とは言いがたいからねぇ」
テノールの第一人者はむっとしたような顔になったが、エリックはそれ以上は彼に興味はないというように、すぐに背を向ける。
次に矛先が向いたのは、支配人たちだ。
「あなた方にはぜひ学んでいただきたいことがある。それは、支配人の居場所は事務室だということだ。芸術には口を出さないでもらおう」


わたしはずっとエリックを見詰めていた。
恐ろしいと思っているのに、目を背けることができずに。
いや、わたしだけではない。
彼の生み出す闇の魔力に、皆がその場に縫いとめられ、逆らうことなど思いつかないでいる。
オペラ座の真の支配者に――。




  
◇   ◇   ◆   ◇   ◇





エリックはゆっくりと顔を動かすとわたしに目を注いだ。
暗い情熱を秘めたその眼差しに、わたしは魂が震えるのを感じた。
「さて、ミス・
ただ名を呼ばれただけなのに、身体の中を雷が通り抜けたような衝撃が走った。
ああ、この声を耳にしないまま、どれだけの月日が経っただろう。
それはとんでもない喪失に思えた。
「彼女はもちろん最善を尽くしてくれるだろう。彼女の声は素晴らしい。だがまだまだ学ばねばならない――」
わたしを見詰めたままエリックは近づいてくる。
剣は下ろされていたけれど、逃げることはできなかった。
あと一歩というところで、エリックの足が止まる。
「その気があるのなら、私の元へ戻ってくるのだ」


これはきっと最後通告。
ここで戻れば、彼は許してくれる。
だけど二度と地上に戻ることは出来ず、暗闇の中であの人はわたしの中にずっと君臨し続けるのだ。


逃げてしまいたい。
彼の目の届かないところ。
決して手の届かないところへ。
なのに、あの声で呼ぶから、わたしは惹き込まれてしまう――!


ふらり、と前に踏み出した時、彼の目から怒りがほとばしり、胸元の指輪を引き千切った。
「お前を離すものか!」
エリックは唇をかみ締め、背を向ける。
わたしは彼から解放されたことに安堵と少しの失望を感じた。



エリックが踊り場まで戻った時、銃声が響いた。
それと同時にエリックの周囲から煙が立ち上る。
と、一瞬後、踊り場には穴が開いており、彼の姿は消えていた。
舞台ならばともかく、大勢のお客が行きかうこの場所にまで仕掛けを作っていたのだろう。
彼の姿が見えなくなったことで、その場にいた人たちが騒ぎ始める。
ラウルがそんな人々を掻き分けて踊り場まで走ってくると、ためらいもせず中に飛び込んだ。

「ラウル!?」