「もとに戻ることなど……できるだろうか」

疲れたようなエリックの囁き。

「……辛いわね、お互いに」

振り返ってわたしは微笑む。


「だけど、わたしはあなたのために歌うわ。エンジェル」


《エンジェル》はくくく、と喉の奥で笑った。

「これだけ大騒ぎをしてなにも手に入らなかったとはな……。大山鳴動して鼠が一匹……か」

彼は水をざばざばと掻き分け、水中に落ちていた櫂を拾い、小船に乗せた。

「子爵殿、ここから地上へはお一人で帰れるだろうね?君が来たのとは逆方向の狭い水路を辿り、階段をずっと上がってゆけばいい。すぐに出発すれば群集とは会わずにすむだろう」

ラウルへ退場を促すエリックの表情からは、怒りも悲しみも消え去っていた。

「なっ……!」

「オペラ座を再建しなければ、オペラは上演できない。君がパトロンを続けるかどうかは君の問題だが、まあ、好きにするがいい。だが、続けるとしたら……自分の役割はわかっているだろうね?」

脅しているわけでも懇願するわけでもない、淡々とした口調。

「……逃げられると思っているのか?それに、この事件が新聞に書き立てられればが傷つく」
最後の抵抗のようにラウルは力なく拳を握った。
エリックはゆるりと首を振る。
「私は捕まらない。それに、スキャンダルくらい乗り越えられなくてはプリマドンナは務まらんよ」





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





人殺しを捕まえろ、と叫ぶ人々の声が近づいてきた。

ラウルの乗った小船が遠くに去るのを見送り、わたしはエリックの傍へ戻る。

「ひとまずここから離れよう」
「はい」

大きく揺れ動いた感情はいまは驚くほど平静になった。
わたしはエンジェルの後についてゆき、彼が壁の仕掛けを動かすのをじっと待った。

暗闇の中にさらに闇が口を開ける。


黒い後光を背に、エンジェルはわたしに向き直り、手を差し伸べる。

「もう一度私に誓うんだ、。私の音楽に仕えると」

わたしは小さく息を吸い―

「誓います、エンジェル」

彼の手を取った。