わたしたちは平土間に移動した。
普段は座席が置かれているそこは、今日のために椅子を撤去してあるので大広間となっていた。
ホールとは比べ物にならない数の人が熱狂的に踊っている。
二人の世界に入っている恋人同士や、誰彼構わず引き込んで輪になっている集団。
興奮のあまり一人で大声を上げている人もいた。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「は〜い!」
「あら、メグね?」
「うふふん。そおよ〜」
真っ白な膝丈のドレスに羽飾りで髪を飾っている女の子が手を振って駆け寄ってきた。
明るい声ですぐにわかる。
後ろからは東洋の柄を刺繍したショールをまとった黒衣の女性……、きっとマダム・ジリーね。
「これ、子爵さまのお見立て?可愛いわ」
メグはちょい、とわたしのドレスをつつく。
「そうだよ。ミス・メグ・ジリー」
「あら、あたしの名前をご存知だなんて光栄ですわ。もっとも、といつも一緒にいるせいでしょうけどね」
うふふっとメグはからかうように笑う。
「おや、そんなことはないよ。君は才能のあるバレリーナだからね。あと何年かしたらプリマ・バレリーナになれると僕は思っているよ。これでも芸術を見極める目は持っているつもりなんだから」
「嬉しいことを仰っていただけたわね、メグ」
マダムはいつもよりは柔らかい表情で微笑み、ラウルに挨拶をした。
「あーあ。あたしも早くちゃんとしたパートナーが欲しいな〜」
メグは大げさに肩を落としたような身振りをする。
彼女は同伴の男性がいないようだ。
それでも申し込みが殺到していたことをわたしは知っているので、おそらくマダムがすべて断ったのだろう。
金髪で大きな青い目をした可愛い顔立ちなのに、零れ落ちんばかりの大きな胸にしなやかな細い腰を持つ彼女は、オペラ座に集まる男性のかなりの注目を集めているのだ。
「もう少し落ち着きが備わってくれれば、私もうるさいことは言わないつもりよ?」
「もう、ママったら」
同年代の女の子たちの中ではしっかりものと言われているメグもマダムにかかっては形無しだった。
わたしたちは顔を合わせてくすくすと笑った。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
その時、ひときわ大きな歓声が上がった。
口々に誉めそやす声と友人に教えるためであろう、指差す手が群集の頭の上に揺れている。
仮面をし、仮装をするのが決まりのこの舞踏会では、優れた衣装を着こなしている人に対して強い賛辞が送られる。
きっとそれだろうと声のするほうを探し――思わず身体が強張ってしまった。
賛辞は五番ボックス席にいる人物に送られていた。
口から上を髑髏の仮面で覆い、身体にぴったりした真紅の衣装を着ている。
襟と袖には金糸で刺繍がされ、スカーフと手袋は黒。
その男の発する官能的だが危険な雰囲気がそれらと混ざり合い、目に焼きついたら離れないような強烈な印象を残した。
彼だわ……!
わたしにはすぐにわかった。
だけど彼に賛辞を送る人々は、彼が《ファントム》と呼ばれている人物だなどと思っていない。
衣装の見事さもさることながら、《ファントム》が使っているといわれている五番ボックス席にいるということが、彼らには刺激的で勇気のある行為に見えるのだ。
この席がいつも空いていることはオペラ座の常連にとっては周知のことだし、マスカレードのような特別な日でもここに誰かがいるということはないのだから。
五番ボックスの椅子に王様のように腰掛け、軽蔑するように睥睨しているエリックは真紅の死神のよう。
その目で睨まれたら、わたしの心臓など簡単に止まってしまう。
わたしは悲鳴をあげそうになった。
彼はわたしに気付いてる!
この大勢の人々の中で、仮面をつけているにも関わらず、あの人はわたしがあの人を見ていたことに気がついた!
「あれは、もしかして……」
ラウルの呟く声にわたしはようやく我に返ることができた。
彼はわたしの表情からすべて読み取ったようで、ぎりっと拳を握る。
「ファントムか!とうとう姿を現したな!!」
五番ボックスに向かって、大声で糾弾した。
ああ、なんてことを!
ファントム……?
あれが大道具を殺したっていう怪人か?
もういなくなったって、聞いていたぞ。
本物か?
まさか。
だけど、あいつ……なんだか怖くないか……?
わたしたちを中心に、徐々にざわめきが広まりだし、はじめはふざけているのだと思っていた人たちも大広間の異様な気配に飲み込まれ、黙ってゆく。
五番ボックス席の怪人は、にこりともしないで階下の人間を見下している。
その威厳。
その迫力。
本物の死の国の王のようだ。
