「おや、どうして静まりかえるのだ?諸君らは構わずマスカレードを楽しむといい」
エリックは組んでいた足をおろし、立ち上がった。
こんなに大勢の人がいるのに、彼のマントが床にこすれる音が聞こえたような気がした。
「それとも私がいなくて寂しかったのかな?ご覧の通り、健在だ」
ゆったりと腕を広げる。
「、すぐ戻る」
ラウルはわたしの耳に囁くと、離れていった。
途端に心細さが襲ってくる……。
と、奥の方からばたばたとした足音が鳴った。
羊の角を模した被り物と雄鶏形の帽子を被った支配人たちが走ってくる。
「ファ、ファントム!?」
「本物か!?」
指差し、震える声でムッシュウ・フィルマンとムッシュウ・アンドレは叫んだ。
エリックは肩をすくめ。
「私がもし偽者ならば、今頃は本物のファントムに縊られているところだろうさ」
馬鹿にしたような響きに、支配人たちは絶望の表情を浮かべて顔を見合わせた。
「だが丁度いい、お二人とも。君たちに次の要望を伝えよう。私はオペラを書いたのだよ」
楽譜の束を取り出し、ムッシュウ・アンドレに投げつけた。
ムッシュウ・アンドレは思わず、といった感じで腕を伸ばし、楽譜は落ちることなく彼の手に渡った。
「《ドン・ファンの勝利》という。次の公演ではこれをやりたまえ。そして私の指示には余すところなく従ってもらおう。さもなければ想像を絶する恐ろしいことが起ると思え」
受け取った楽譜をどうしたらいいのかと、ムッシュウ・アンドレはおろおろとあたりを見回す。
持っているだけで恐ろしいのだ。
「・」
エリックははっきりした声でわたしの名を呼んだ。
わたしは金縛りにあったようにその場に縫い付けられた。
「お前はまだ放さぬ。私のために歌ってもらおう!」
仮面の奥で見開いた目が、わたしを引き寄せる。
目をそらすことができない。
ふらっと歩みかけたその時、銃声が鳴った。
五番ボックスに向かって発砲された弾は、手すりに当たって細かな塵を飛び散らせた。
さっとカーテンが下ろされ、エリックの姿がその奥に隠される。
「逃がすか!」
ラウルは再び駆け出した。
「どこへ行くの!?」
「五番ボックスだ!こんな大勢の前から逃げられるはずがない!!」
「待って、わたしも行く!」
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
少し遅れて追いつくと、ラウルは五番ボックスの扉の前で仮装した人たちと言い合いをしていた。
「誰も出てこなかっただって?本当だろうな。髑髏の仮面をつけた真紅の衣装の男だ。剣呑な雰囲気の」
「だから、そんな奴いなかったって。誰もここから出てないよ、兄さん」
「そうそう、あたいもずっとここにいたもん。だーれも出てないよ」
大広間にいなかった人たちは、そこで起きたことを知らないらしい。酔っ払ってはいるものの、意識はまだしっかりしてそうだから、エリックは本当にここからでてはいかなかったのだろう。
五番ボックス席の扉は開け放たれているが、中には誰もいない。
ラウルは銃を構えたまま中に入り、カーテンを開けた。
支配人たちとエリックがそっちにいったかどうかを確認しーもちろん、そんなことをしたとは思っていないようだったがーボックスの中を点検した。
わたしとラウル、後からやってきた支配人たちでボックスの中を調べたが、どんな仕掛けも見つかることはなかった。
その仕掛けを作ったのがエリックなのだから、そうであっても不思議はなかったけれど……。
