何事もなく一幕は終わった。
今は姿が見えないとはいえ、厳戒態勢の大勢の警官は誰もが目にしたのだ。
いつもと様子の違う雰囲気に集まった上流の人々もどことなく落ち着かないように見える。
……でも何よりも良く見えたのは、食い入るように舞台を見詰めてくるラウルだった。





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





二幕目が始まる。


コーラスの合唱、続いてドン・ファンと従者パッサリーノが悪巧みを確認しあう。
ドン・ファンは一度舞台から消える。

アミンタの出番。
わたしは愛の歌を歌う。


再びドン・ファンの登場。
パッサリーノの外套を着、襟巻きで顔を隠している。
だからアミンタはドン・ファンをパッサリーノだと勘違いするのだ。


お前はここに来た
心に潜む衝動に導かれ
今このときまで静かに眠っていた望みを追い求め―



ドン・ファンは誘惑するように歌う。
アミンタはその姿を追いかけるが、ドン・ファンはそのたびに視線をかわし、翻弄する。
と、すぐ後ろに彼が座っていることに気付いておずおずと近づいてゆく。





……なんだか、ムッシュウ・ピアンジの様子がおかしいような気がする。
エリックの忠告にも関わらず、彼の体重が減ることはなく。
そのため練習の甲斐なく、ピアンジのドン・ファンが誘惑する場面は、聴衆を魅了しなければいけないにもかかわらず、どこか滑稽なのだ。
そのムッシュウ・ピアンジが滑るように、優雅に舞台を動いている。
どんな変化があったのかしら……。





あなたはわたしを連れてきた
どんな言葉も枯れ果てるこのひと時
どんな語らいも沈黙に飲み込まれてしまうこのひと時―


アミンタの赤裸々な告白。
誘惑に負け、ドン・ファンの手に落ちる。




わたしはドン・ファンの後ろに回り、そのまま抱きしめる。
もふっとした感触がいつもならするのに、今日はぱふんとした感じだった。
わたしは頭の中を疑問符でいっぱいにしながらも歌を続ける。
外套越しに頬を寄せ……。

えええっ!?

顔に感じる堅い感触に、叫びだすところだった。
今この舞台でドン・ファンを演じているのはピアンジではない。
エリックだ!

声が動揺しないように歌いながらも、わたしは混乱していた。
今までのは彼の声真似だったのだ。
天使のような声を持つ彼は、何の恐れも感じなかったレッスンの日々にも役に応じて高低さまざまな声を出していたのだ。
テノールのピアンジの声が出せても不思議はない。
だけど、ピアンジはどうしたのだろう。
問いたくとも彼の顔はフードに隠れて見る事が出来ない。




もはや退けない
行く手にあるのはただ一つの道
橋は渡ってしまった
共に見よう
その橋が燃え落ちる様を―





ドン・ファンとアミンタの二重唱。
エリックの声は徐々にピアンジのものから本来の彼のものへ、どんなオペラ歌手にもかなわない、天上の響きに変わった。
力強く、美しく、蠱惑的で、挑発しているよう。

わたしは徐々に自分がアミンタそのものになってしまったように彼に身体を預け、官能すら呼び起こす響きに心を溶かした。
彼の他には何も見えない。
何も聞こえない――。