時間が過ぎるのをこんなに怖ろしく感じたのは初めてだった。
何度も時計を見てそのたびに胸が杭で穿たれたように痛むのだ。
公演まであと十時間……。

五時間……。


三時間……。


一時間前。
もう着替えなければならない。





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





小姓の衣装に着替えて、舞台袖に控える。
エリックはもう五番ボックス席に来ているのかしら。
本当に、何かを起こすのだろうか。
どうしよう。どうしよう。……怖い!

その時、ぽんと肩を叩かれてわたしは思わず悲鳴をあげてしまった。
、大丈夫なの?」
「マダム……」
いつも厳しい表情のマダム・ジリーが心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
「真っ青だわ」
わたしは腰が抜けそうになって、慌てて手近な大道具にしがみついた。
「マダム、エリックは……彼は何をするつもりなんでしょう」
「わからないわ。だけど困ったことに、さらに彼の神経を逆撫でするようなことが起こってしまって」
マダムは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「……いったいなにが?」
「シャニー子爵が五番ボックス席にいるんです。そこしか席の空きがないからと」
「そんな……!」
最悪だ。
これで彼の「命令」は二つとも無視されたことになる。
もう今夜の舞台ではどんな異変が起こってもおかしくはない。





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





開演直前。
立ち位置である伯爵夫人のベットに登り、カルロッタの腰に手を回す。
彼女は見下したような視線で鼻をならした。
「あんたはセリフのない役なんですからね。そのところをよく弁えてなさいよ」
「……わかっています」
音楽が鳴って幕が開く。
コーラスが歌い終わり、すぐにわたしたちの出番になった。

逢瀬中に寝台の天蓋を開けられて驚く伯爵夫人と小姓。
ノックの音が鳴り、伯爵役のムッシュウ・ピアンジがよろよろした足取りで登場した。

伯爵と夫人のこっけいなやりとりのあと、夫が隠れて様子を見ているともしれない夫人の得意そうな歌が始まる。


可哀想なお馬鹿さん なんて可笑しいのかしら!
ハッハッハッハッ ハッハッハッハッ
そろそろ旦那様を取り替えましょう もっと素敵なお方にね!



『私の命令を忘れたか。五番ボックス席を空けておくようにといったはずだぞ!』

息継ぎの間を測ったように劇場中にエリックの声が響き渡った。

「彼だわ……」
あっけに取られていたカルロッタはわたしの一言を聞くとぎっと睨みつけた。
「あんたはセリフなしだって言ったでしょ。このチビガエル!」

『カエルだって?それは貴女のことではないかな?マダム』
わたしとカルロッタの間からエリックの声が聞こえた。
わたしたちにしか聞こえないほどの大きさだったけど、慇懃すぎるその口調から、彼がひどい怒りを押し殺しているのだとわかった。

「まったく、なによ!こんな子供騙し!」
カルロッタは毒づくと険しい表情を一変させて、アクシデントには動じていないという風にオーケストラ・ボックスに近寄った。
「マエストロ、ダ・カーポからお願いしますわ」

カルロッタの指示で再び音楽が鳴り始める。


セラフィーモ 変装はもういらない
口をきかないで 夫のいないときには
 ゲエッ……!

カルロッタの口からカエルのような声が出た。
自分の口から出た声だとは信じられないと彼女は口を押さえる。
だが音楽は続いているのですぐに気を取り直し、次の歌詞に移った。

可哀想なお馬鹿さん なんて可笑しいの グエッ!

グエッ  グエッ  グエッ ゲエッ……!

カルロッタはみるみる蒼白になり助けを求めるように左右を見渡す。
だが彼女の異変はコーラスたちにもバレリーナにも、ムッシュウ・ピアンジにもどうすることもできなかった。
煌びやかに着飾った紳士淑女たちは思いがけない余興だとばかりに笑いたてる。

「もう駄目、歌えない」
カルロッタは舞台袖に消えると、残されたわたしたちは笑い声の渦巻く中、右往左往した。

支配人たちが走ってきてすぐに幕を下ろすよう指示する。

「皆様、誠に申し訳ございません。舞台は十分ほどで再開いたします。なお伯爵夫人の代役といたしましてミス・が歌います」

ムシュウ・フィルマンはさっと幕に中に頭を突っ込んで「すぐに着替えるんだ!」と怒鳴った。
わたしはマダムに急き立てられて楽屋に急いだ。

「ええ、お待ちいただく間、観客の皆様には第三幕のバレエをお楽しみいただきます。マエストロ、バレエだ、早く!さあ!」
ムッシュウ・アンドレの切羽詰った声が後ろから追ってきた。


これで終わりかしら?
そうだったらいいのだけど……。