「今日はイル・ムートにしよう」
「わかりました」

早朝のレッスン。
基礎の発声練習が済むと、その日に歌うオペラは気分で決めていた。
エリックが決めるときもあれば、わたしが歌いたいものを提案することもある。
最近の人気タイトルのものばかりでなく、古典もよく歌った。
エリックはわたしをどんなオペラでも歌える歌姫にしたいのだ。そのことに異存はないので、わたしは従順に従った。
……音楽に関して、彼に逆らう気は最初からなかったのだけど。

翌日もイル・ムートだった。
その翌日も、さらに次の日も。
エリックはわたしが完璧に歌えるようになるまで同じ曲をなんども歌わせることがよくあったので、これもそうだろうと、わたしはなんの疑問も持たずに伯爵夫人のパートを歌った。

だが――。





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





「あんたの仕業ね!あんたが子爵にねだったんでしょ!?」
支配人室に呼ばれたわたしは、エリックのことを聞かれるのじゃないかとびくびくしながらノックをした。
中に入った途端、カルロッタが掴みかからんばかりに叫んだのだ。
「な、なんのことですか?」
彼女が荒れている理由がわからず、わたしは困惑した。
「とぼけたってムダよ、この女狐!これを見てもまだシラを切るつもり?」
ずいと手紙を突きつけてきたので、わたしは反射的に受け取り、読んだ。

今日この日をもって君はプリマドンナの座を退くこと。
明日からはが歌姫となる。
もし私の指示に従わなかったら、恐ろしい災難が起きるだろう。

O.G




エリックの字だった。
なんてこと!
ここ数日のレッスンは、いつの日か歌うためのものではなかったのだ。
わたしは裏切られた思いで涙が浮かんできた。
どうして!?
こんなことは止めると約束してくれたのに。





「ミス・。こういうものも来ているんだがね」
ムッシュウ・フィルマンが別の手紙を差し出してきた。

紳士諸君
私は君たちに私のオペラ座の経営方針に関する手紙を何通か送らせていただいた。
さらなる改善のための新たな提案がある。
明日から上演するイル・ムートではカルロッタを小姓役にし、ミス・は伯爵夫人の役にすること。
小姓役にはセリフがない。
伯爵夫人役は聴衆の心を動かす歌い手に。
これが私の望む配役だ。
素晴らしいと思わないか?

追伸

私はいつもの五番ボックス席から拝見させていただく。
この席は私のために常に空けておくように。
この命令に背いた場合、諸君の想像を絶する災いが起こると心得よ。

では親愛をこめて O.G




「で?何かいうことはないのかね?」
アンドレ氏が犯人のわかりきったいたずらをした子供に対するように、慇懃に、辛抱強くわたしがこの手紙を書かせたのだという言葉を待っていた。
だけどわたしは書いた人を知ってこそすれ、こんなことは頼んでいない。


その時かつかつとした足音がしたかと思うと、支配人室の扉が開け放たれた。
「失礼!ムッシュウ・フィルマン、ムッシュウ・アンドレ!」
「子爵様!」
「子爵様!」
「ラウル!」
飛び込んできたのはラウルだった。
!?」
わたしたちはそろって声をあげ、誰から話し始めるのか探るようにお互いの顔を見合わせた。

「これで役者はそろったってとこね」
と、カルロッタ。
「どういうことです?」
ラウルはカルロッタに視線を向けた。
「子爵様までとぼけるつもり?この小娘にあたくしの歌うべき伯爵夫人の役を譲るよう手紙を書かれたでしょう?」
「まさか、そんなことはしていませんよ」
今度はラウルがカルロッタと支配人に来た手紙を読む番だった。

「なんなんだ、この手紙は……」
「子爵様が書かれたものではないので?」
機嫌を窺うようにムッシュウ・フィルマンは尋ねた。
「もちろんだ。どちらも私が書いたものではない。それどころか、私のところに来た不愉快な手紙と同じ送り主からのものだな」
「子爵様のところにも手紙が?」
「ああ、そうだ」
ラウルは胸ポケットから手紙を取り出して読み上げた。

ラウル・ド・シャニー子爵
幼馴染たるミス・への度重なるご厚情、師として御礼を申し上げる。
だが彼女は音楽に身を捧げた身。
俗世の介入はこれ以上控えていただこう。
音楽の天使がその羽の下で彼女を守っている。
君の役目はもう終わったのだ。
二度と彼女に近づかないように。

O.G




「どういうことだ?」
フィルマン氏は呆れたような声をあげた。
「O.Gというのは誰なんだろう。心当たりは?」
ラウルはわたしをチラッと見た。
「ありますとも、有名です。オペラ・ゴーストと言うのだそうですよ」
とアンドレ氏は肩をすくめた。
「オペラ・ゴースト!幽霊がいるだなんて本当に思っているんじゃないだろうね」
ラウルは顔をしかめる。
「本当にあなたがこれを書いたんじゃないんでしょうね?」
カルロッタはまだ言っていた。
「まだ疑っているんですか?違いますよ」
「ならいいわ。じゃあこの手紙はこの子に入れあげた頭のおかしい奴が書いたってことなんでしょ」
ふん!とカルロッタはそっぽを向いた。
彼女は腰に手を当てて優しい笑顔を浮かべた。目はちっとも笑っていないが。
「で、どうなさるのかしら、支配人さん。O.G氏の命令どおり、あたくしを小姓役にしてあの子を伯爵夫人役にするの?」
Yesとでも言おうものならすぐにでもヒステリックに騒ぎ立てるだろうということは誰の目にも明らかだった。
「と、とんでもない!」
「そうですとも、こんなイカレた命令など、聞く必要はありませんとも!」
ムッシュウ・フィルマンとムッシュウ・アンドレは必死になって首を振った。
「プリマドンナはあなたです!」
「ラ・カルロッタ!我がオペラ座の看板歌手!」