わたしは支配人たちがカルロッタのご機嫌を取っている間に支配人室をそっと抜け出した。
エリックの所へ行って撤回するよう頼まないと。




、待ってくれ!」
ラウルがわたしが抜け出したことに気がついて追いかけてきた。
、ムッシュウ・O.Gのところに……いや、君がエンジェルと呼んでいる人物に会いに行くのかい?」
「ええ……。こんなこと、させたくないの」
ラウルは一瞬はっと息を飲んだ。
「……僕も行く」
「何を言うのラウル、駄目よ!」
「オペラの配役を代えようとしたり、高額な金を要求してくるような奴のところに君を一人でやれるものか!僕が行って、もう二度と君に関わるなと言ってやる」
「そんなことしては駄目よ、あなたが危なくなるの!」
、だったらもう二度とエンジェルのところへ行ってはいけない。今回のことも、彼に会わずとも解決はできる。あいつのいいなりにならないというこちらの態度を見せればそれで充分だ。このオペラ座もも彼のものじゃないんだってね!」
ラウルの正義に満ちた言動にわたしは慄然とした。

彼は正しい。
わかってる。
だけどそれならエリックを裏切り、見捨てることが神の御心に適う行いだというのだろうか。

いいえ。
違う。
それだけは言える。

「ラウル、わたしにはエンジェルを裏切ることは出来ないわ……!」
わたしは叫ぶと全速力で走り出した。
!?」

ラウルは呆気にとられていたがすぐさまわたしの後を追ってきた。
ドレスを着ているわたしと男性のラウルではまるで勝負にならない。
あっという間に追いつかれたが、間一髪のところで楽屋に着き、中から鍵を掛けた。

!!」
ラウルはどんどんと扉を叩く。

「ごめんなさい……。でも、止めるから、こんなことは……」
わたしはエリックから教わった鏡の仕掛けを動かして、地下へ続く隠し通路を進んだ。

「鍵を持って来るんだ!鍵だ!早く!!」
鏡が閉まる直前、ラウルの切羽詰った叫び声がかすかに聞こえた。





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





、よく来たね」
小道をたどり、船に乗ってエリックの住処に着くと、上機嫌な彼が出迎えてくれた。
彼はいつもわたしの前ではきっちりと服を着込んでいるのだが、今は上着は脱いでおり、ドレスシャツの胸元がはだけている。
いつもはこんな風にくだけた格好をしているのだろう。
少し照れたように手早くシャツのボタンを留めながらエリックは尋ねた。
「どうしたんだい?何か困ったことでも?」
「困ったなんてものじゃ……。エリック、いいえ先生。どうしてあんな手紙を出したりしたんです」
「ああ」
エリックは納得したように仮面に隠れていない方の眉を持ち上げた。
「それで上は大騒ぎ、ということか。気にすることはないよ、。お前は明日のことを考えていればいい」
わたしは言葉を失ってエリックを見上げた。
この人は脅迫したことになんの罪悪感も持っていない。
それどころか命令は実行されるものだと信じているのだ。
「そんなことできないわ。エリック、オペラ座に嫌がらせや事故を起こさないと約束してくださったじゃないですか。それを破るんですか?」
「まさか。彼らが『ファントム』の命令を実行しさえすれば、そんなことはしなくて済むんだ。それにね、。私は暇つぶしに地上の連中をからかうことは確かに止めたが、音楽に関して妥協するつもりはないよ。この数ヶ月はお前のお陰でとても楽しかった。だがそろそろ『音楽の天使』も地上に戻らないと……。私のオペラ座で質の低いオペラを上演するなど許されることじゃない。わかってくれるね?」
「そんな……」
エリックの顔が愉悦に歪む。
そんな彼の姿は地獄の天使と被って見えた。