再びノックの音がした。
わたしの顔は真っ青になっているに違いない。
本当に頭から血が下がっていく音が聞こえたようなしたのだから。
なぜならノックは壁の向こうからしたのだ。
エリックがいる――!
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
安全だと信じていた自分の部屋に彼が来るなど思いもよらなかった。
どうしよう。
きっとあの人、怒ってるわ!
あの人はきっとずっと待っていたのだろう。
だけどわたしに勇気がなくてこの三ヶ月の間、一度も地下へもそこへ行ける楽屋にも行かなかった。
あの人はとうとう待ちきれなくなったのだ。
ああ、なんて馬鹿なことをしたんだろう。
ラウル。
ラウル。
助けて。
お願い、戻ってきて!
がちがちと震える手で祈る形に手を組んだ。
ラウル。
ラウル。
ラウ……
『』
声を聞いた瞬間、わたしの抵抗はあっさりと破られた。
力が抜け、腕がぱたりと落ちる。
「エンジェル」
まだわたしが彼を音楽の天使だと信じていた頃のことが次々と思い出された。
厳しいけれど辛抱強くわたしを導いてくれたエンジェルの声。
わたしの信仰、尊敬、憧れ……、恋にも似た思いもすべて捧げていた。
『もう忘れたのか、お前の天使のことを』
囁き声。だけどわたしにははっきりと聞こえる。
「いいえ」
わたしはゆっくり立ち上がって、音のしたほうへ近づいていった。
「歌を歌うたびに、わたしの中にあなたの声が甦ったわ。わたしがあなたを忘れるなんて、できっこない……」
壁に触れる。
「ここにいらっしゃるのね」
『そうだ』
「さぞわたしを怒っていらっしゃるでしょうね。地下にも行かず、楽屋も変えてしまったから」
『そしてお前はあの子爵の求婚を受け入れた。私がいなくてさぞ嬉しかっただろうね』
エリックの突き刺すような口調にわたしはきゅっと拳を握った。
『この三ヶ月というもの、私はずっとオペラを書いていたんだ。長い時を費やしていたがようやく完成した。お前のお陰でね』
「それはどういう……」
『お前が私を拒み、逃げ出したからだ!あの時の屈辱と哀しみ、怒りが私のオペラを完成させる原動力となったんだ』
壁を通って彼の激しい感情が伝わってくる。
胸に迫るその声にわたしは泣きそうになった。
あの地下の家で、荒れ狂い、叫び、怒りを露にしている彼が徐々に声を潜め、ゆっくりと悲しみに押しつぶされてゆく様が思い浮かんだ。
『だが。子爵との婚約を解消し、再び私のもとへ戻るというのならば許してやろう。お前はプリマドンナになるんだ』
威嚇する声。
なのになんて悲痛な響きがあるのだろう。
「エリック。何も知らなかったあの頃からなんて隔たってしまったのでしょうね。あの頃はずっとあなたを信じていた。パパが送ってくれた音楽の天使だと」
壁に額をつける。
ざらりとした感触。
「今でも信じたい。だけどあなたの犯した罪が恐ろしい。なぜ多くを傷つける真似ばかりするんです。なぜ……?」
『この顔が私を光のある世界から遠ざけたのだ。誰もまともに私を見ない。だからこうする以外他にないんだ』
「だけど、わたしはあなたの声を聞いたわ。コーラス・ガールの中に埋もれていたわたしをあなたが見つけてくれたから」
ふっとエリックの気配が弱まった。
『ああ、君はわたしの声を聞いてくれた。……君だけが、私に応えてくれた……』
「世界の人間がわたしとあなただけだと感じたレッスンの日々はとても幸福だった」
『あの頃に戻ろう。私が教え、お前が歌う』
そうできたらどんなにいいか。
だけどそれは夢。
砕け散るだけの、長く続かない夢。
「エリック、わたしはもう小さなロッテではなくなった。天使を夢見るでもない。過去は過去として決別をしなければ、前に進むことは出来ない……」
壁の向こうから戸惑った気配が感じられる。
「わたしはあなたが恐ろしくて、一緒にいると不安で……でも好きだった。本当に。今でも……」
『?』
「でも、もう、あなたには会えません」
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
エリックに別れを告げた後、わたしは寝台にもぐりこんで何も聞こえないように耳をふさいだ。
どんなに怒られてようと、そう、たとえ首を絞められてもエリックのいうなりにはならないように。
