マスカレード当日。


夕方になってわたしはエリックから贈られた仮装用のドレスに着替えた。
廊下からは仮装の出来を批評しあったり、ふざけあったりしている楽しそうな女の子たちの声が聞こえているのに、わたしだけは重苦しい気持ちで礼拝堂で祈りを捧げていた。



エリックにはもう会わないと言ったが、自分の意思を貫き通すだけの強さをわたしは持ち合わせていなかった。
ドレスに挟まっていたカードにはどんな感情も読み取れることは書いておらず、それが不気味で、とても無視することができなかった。
再三に渡るラウルの誘いは断った。その理由を言えなかったのも、わたしの弱さのせい。

お祈りを終えて、わたしは礼拝堂を出た。
五番ボックス席に向かうために……。





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





二階の五番ボックスは舞台からも平土間席からも中が見えやすい。
この席は他の観客から見られるためのものなのだから当然といえば当然なのだが。
もちろん奥に引っ込めばその限りではないけど、ただでさえ人が多いというのにこの場所を選んだのはなぜだろう。

通路に溢れている人の間を縫って目的の場所に着くと、念のために知っている人が見ていないかを確かめるために左右を見渡した。
誰も彼も仮面をつけているので、知っている人がいるのかどうかはわからなかったが、皆思い思いに騒いでいるため、特にこちらを意識している人はいないようだった。

中に入ると通路の騒ぎなど比べ物にならないほどの大歓声と人々の熱気が伝わってきた。
エリックはまだ来ていない。
ほっとして椅子に腰掛けた。
……こんな時でなければ特等席でマスカレードを鑑賞するという状況を楽しめただろうに。


どのくらい時間が経ったのだろう。
緊張していたこともあって疲れを覚えるほどあの人を待っていると

いきなり声をかけられた。
わたしは思わず立ち上がり、手すりのそばまで後ずさる。
「遅れてすまなかったね。支配人に野暮用があったものだから。私のオペラを届けにいったんだ。次の公演はこれをやってもらおうと思ってね。そうそう。主役はお前になっているよ。嬉しいだろう?」
淡々と、事務的な口調で彼は告げる。
そして手すりにへばりついたままのわたしに向かって、
「そんなに寄りかかっては落ちてしまうよ、
とにこりともせずに咎めた。
「いつの間に……」
「私が表の通路を使うと思ったのか?ここは私のボックス席だ。いつでも好きなときに出入りできるんだ」
鼻から上を覆う髑髏を模した仮面をつけていたので顔では誰だか判断できないが、こんな声を持つ人が二人といるはずがない。
彼の衣装は燃えるような真紅で、頭には大きな羽飾りのついた帽子をかぶっていた。
床に引きずるマントも同じ色。
鮮やかな色彩が彼の細身だが引き締まった体躯を見事に引き立てていた。
わたしがどう口を利いてよいのかわからず、困惑したまま手すりにしがみついていると、下から歓声があがった。

どうやらエリックの衣装の素晴らしさに気がついた人々が褒め立てているようだ。
下りてくるように叫ぶ者もいる。

エリックは口もとに何の表情も浮かべないまま手すりのそばまでくるとさっとカーテンを下ろした。
途端に残念がる声があがる……。
ああ、ここにいる誰よりも目立つ人がオペラ座の怪人だなんて、誰が思うのかしら!?





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





エリックは仮面の奥からじっとわたしを見詰め、微動だにしなかった。
わたしは彼が何か言うのを待っていたけれど、あまりにも何も起こらないので焦れて叫んだ。
「エリック、何かおっしゃって!わたしをここに呼んだのは、何か用があるからなんでしょう?」

「……ああ」
一瞬間をおいて、エリックは頷く。
その間もわたしから目を離さないので、わたしはぎゅうとドレスを握りしめた。

「これだけ大勢の人間がいれば、いくら怖がりのお前でも私に会ってくれると思ったのだ」