「……ええ。これを無視したら今度はあなたが何をなさるのか恐ろしくて。これで満足ですか?」
わたしは精一杯の虚勢を張って横を向いた。
フ、とエリックが笑ったかと思うと、ぐいと顎をつかまれた。
「そういう言葉は私を見て言うんだな」
無理やりエリックと目を合わせられ、わたしは苦しくてうめき声をあげた。
途端、彼はぱっと手を放し、椅子に座り込んで頭を抱えはじめた。
その様子があまりにも切羽詰っているようなので、わたしは恐る恐る手を伸ばした。
「エリック、どうし……」
ドン、ドン、ドン!
激しく扉を叩かれ、我に返ったわたしははっと身を引いた。
どうやら浮かれた一団がボックス席の扉という扉を叩きまわっているようだった。
驚いて通路に飛び出した人もいるみたいで、ひときわ大きな笑い声が上がった。
「酔っ払いが……」
エリックは不快そうにぼそりと呟く。
「こういう日なんですもの、仕方がないわ」
答えてからわたしは二人の間にあった張り詰めた空気が和らいでいたことに気付いた。
「ああ、そうだな」
エリックは音もなく立ち上がる。
マントの裾が密かな衣擦れの音をさせて彼の動きを彩った。
「せっかくだ。少し歩こうか?」
エリックは右手を差し出す。
わたしはその手をじっと凝視した。
この手は、魔法のように不思議なものを生み出す手。
そして……殺人者の手。
「嫌ならば、『私の通路』を使って静かなところに行くか?」
いつまでも動かないわたしにエリックはもう一つの提案をした。
皮肉げな調子だが、突き刺さる感じではない。
彼の真意がわからなくて、わたしは困ったようにエリックを見上げた。
「選びなさい、どちらか。さあ」
エリックはただわたしを見詰める。
わたしは再び彼の手を取った。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
人通りの多い通路でもエリックの目立つことといったらなかった。
なにしろ男の人の間にいても頭一つ分飛び出ているし、帽子を被っているから尚更だ。手の込んだ真紅の衣装は色の洪水の中に入ってもまったく褪せることはない。
通り過ぎるエリックに感嘆の声をあげる人や、ふざけて触ろうとしてくる人もいた。
そういう人が出てくるたびに、わたしは胃の辺りが締め付けられそうになる。
『駄目よ!この人に触っちゃ駄目!
彼はファントムなのよ!』
そう叫びたくて。
だけどわたしの懸念など気付かない様子で、エリックは誰も近付けることなく歩いていた。
それというのも、彼は近寄ってくる者がいると、たとえ後ろからであってもすぐに気がつくのだ。
彼がさっと手を振り、あるいは一瞥すると、お調子者はそこに見えない刃があって近づいたら怪我をしてしまうという顔になってそれ以上エリックに近づくのをやめるのだ。
前にいる人たちも、彼が近づくとすぐに道を開ける。
騒然とするオペラ座は、一瞬にして緋色の王の宮廷になった。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
黒の皮手袋に包まれた手で導かれながら通路をいくつか通り抜けると、今年の流行というのがなんとなくわかってくる。
今年の流行色は白と金色のようだ。真紅とピンクのわたしたちとは正反対。
そう言うと、エリックは振り向いて
「清らかな白も輝く金も、私には似合わない。私にふさわしいのはこの醜さを隠す闇の色、それに私が流し、私が流させた血の色だ」
握る手に力を込めた。
「お前になら白いドレスも似合うだろうがな。……着てみたいかい?」
白いドレスという言葉には違う意味が込められているような気がしてわたしはぞくりと身体を震わせた。
だが、それが恐怖からだとはいえないような気がした。
「あなたは白がお嫌いなの?」
「嫌いではない。ただ眩しくて見詰めることができないんだ。どんな白でも私の罪を塗りつぶすことなどできないのだから」
どこか途方に暮れたような呟き。
いまは眼差しにも力がなかった。
「過去はいつまでも追ってくる。決別したところで逃れられはしない」
