人の波を掻き分け、通路を横切り、扉を開け、階段を下り……ついた場所はメグとわたしが使っている楽屋だった。


地下にありながらも地上との結びつきが強いこの部屋には微かに地上の喧騒が届く。

ラウルの出現はわたしたちの間に流れていた甘やかな結びつきに亀裂をもたらした。

エリックはわたしを無表情に見下ろしていたが、わたしは彼の目を見返すことが出来なかった。





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





「毎日がマスカレードならば、誰も私を恐れたりはしないだろうにな。誰にも私だと気付かれない……。私以上にそのことを喜んでいる人間はパリ中を探してもいないだろう」
長い沈黙のあと、エリックはぽつりと呟いた。
「多くは望んだことなどなかった。ただ太陽の下を歩いていてもいちいち嫌悪や恐怖の目で見られたりひそひそ囁かれたりしない、普通の、そのあたりによくいる、まったく無害な人間のように扱ってくれれるだけでよかったんだ。それだけで、私は罪を犯すことも、重ねることもしなかったはずなんだ」
帽子をとって、顔を隠すようにおろしてゆく。
「地下に逃れてようやく安息を得たが、心の中ではわずかな希望がくすぶり続ける。何度も踏みにじられ、期待するなど無駄だと言い聞かせていたのに。ただ一人でいい、私を愛してくれる人が現れたらと……」
ははっとエリックは苦しげに笑った。
「子供じみた願いだろう?」
歪んだ口元は、泣くのを堪えているようだった。

「わたしも……ずっと願っていたわ。わたしを導き守ってくれる人が現れますようにと。それは最初、形のない存在だった。だって、わたしの願っていた人はパパが話してくれた音楽の天使だったから……」
「お前は私のことなど醜悪な過去のできごととして葬り去ってしまいたいのだね」
「いいえ、いいえ、それは違うわ、エリック」
わたしは大きく首を振った。
「違わないよ。お前はさっきからすべて終わったことのように話している。私はお前にとって天使でもなければエリックでもない。ただの怪人になったんだ。そういうことなんだろう!?」
「違います!」
エリックは話しながらだんだん興奮してきたようだった。
「たとえお前が私と離れたいと思っても、させるものか!子爵のところへなど行かせない。お前はわたしの音楽に仕えると誓った身なのだ。それを忘れるな!!」
帽子を叩きつけ、ぎらぎらと光る目で見下ろしてきた。
「過去から逃れることなどできやしないんだ。たとえ誰も知らなくたって、私自身が覚えている!私が咎人だということをな。血塗られた道を歩むしかなかった。なにもかもが過ぎ去ったことだ。そしてこれからも変わることはない。救いなどないんだ!」

荒く息を繰り返すエリックをわたしは半ば霧がかかったように判然としない頭で見詰めていた。

伝えたいことはあるのに、言葉にならない。
ひどく激昂したエリックは、その目の力と全身から放たれる威圧感だけで部屋中のものを破壊しかねない様子だった。

なのに、今のわたしは彼を以前のようには恐れていなかった。
わたしにはわかってしまったのだ。
怒りに覆われた彼の内側には、寂しさと不安が満ち溢れ、その中心には絶望に心を食い荒らされた小さな子供がいるのだということを。

「過去は、向き合い、乗り越えなければいけないの。なかったことにしても先へは進めない。あなたお別れを言ったのは間違いだったと今ならわかるわ。だけど……」

ゆっくりと、想いを言葉に変える。
どうか、ちゃんと届きますように。
祈りを込めて、わたしは彼に向かって一歩踏み出した。

「どうしたら乗り越えられるかがわからないの。こうして再びあなたに会ってからわたしの心はどんどん揺れ動いている。あなたの顔のことは、もう恐ろしいとは思っていないけれど、あなたの心は怖い。人を傷つけ、手にかけ、笑っていられるあなたが怖い」

自分を守るために、自分を拒絶する者を拒絶する。
そんなふうにしか生きられなかった彼を心から哀れに思う。

エリックが息を飲むのがわかった。

「可哀想なエリック……。どうしたら、あなたを救えるのかしら?」