「あ〜、ミス・。実はこんなものが来ているのだがね」

マスカレードから三日後、わたしは支配人室に呼ばれた。
中に入ると一昨日までは血色も機嫌も良かった支配人の二人は疲れきった様子でわたしに紙の束を放り投げた。

いぶかしく思いながらめくると、それは楽譜だった。
タイトルは《ドン・ファンの勝利》。
誰が書いたのかなんて、一目瞭然。
エリックの字だもの。
ということは、これが完成したオペラなのだ。


それは恐ろしく難解で、頭の中で音を思い浮かべるのも難しいものだった。
最初の数枚を読み終わると頭がひどくくらくらした。
必死になって楽譜を追っていたので、知らずに息を止めていたみたい。
これを歌うのだとしたら、今までの何倍もの練習が必要になるにちがいない。


「ミス・?」
呼ばれてはっと顔をあげた。
そういえば、支配人室にいたのだった。

「すごいスコアです」
わたしはほう、と息を吐きながらいうとムッシュウ・フィルマンはやれやれと頭を振った。
「ファントムは君にとてもご執心のようだ。わざわざオペラを書き上げ、主役を君にしてこれを上演しろを命令してきた」
「マスカレードの華やかなる成功が覚めやらぬうちにこれを支配人室で発見した私達の驚きと嘆きを理解してもらえるかね?」
ムッシュウ・アンドレは触るのも不快だという感じで親指と人差し指で手紙をつまんでひらひらと振った。
それに色々と注文が書かれているのだろう。
「それは……もちろんです。あの、やっぱり従わないと恐ろしいことが起きると書いてあるのですか?」
おずおずと尋ねると、彼らが口をそろえて、
「もちろんだとも!」
と怒鳴った。

「ファースト・バスーンやサード・トロンボーンを変えろだの」
「コーラスが使い物にならないだの」
「カルロッタが端役にまわされていた!」
「我々は芸術の場へ顔を出すなと言うんだ!」
「なんたる横暴!」
「イカれてる!!」

ムッシュウ・フィルマンとムッシュウ・アンドレは口々にわめく。
わたしは彼らの剣幕に後ずさってしまった。


ぜいぜいと肩で息を切らせたムッシュウ・フィルマンは怒りで半眼になったままずいと身を乗り出してきた。
「それから君への注文はこれだ、ミス・。『は無論のこと最善を尽くすだろう。彼女の声は素晴らしい。だがまだまだ学ばなければならないことが多い。師の元へ戻ってくるように』」

わたしは身体を硬くした。
そうだ。
これはわたしがエリックのもとへ行くと心を決める前に支配人室に置かれたものなのだ。
もしもわたしが五番ボックス席に行かず、恐怖に怯え部屋に一人残っていたとしたら。
あるいはラウルの元へ逃げていったとしたら。
このスコアは恐ろしい枷となってわたしを縛り付けていただろう。

だが、運命は逆転した。
わたしはすでに彼のものなのだ。
そのことに幸福を感じるほどに。


「それで、このオペラは上演するんでしょうか……?」
支配人たちが断る可能性はある。
だがそうなっても、今のエリックならば許してくれるような気がする。
とはいえ、彼の作品を上演してみたいという思いはわたしにもあるのだ。
わたしたちはもうじき長年暮らしてきたここを離れることになるだろう。
その最後の思い出として……。

「こんな馬鹿げた命令に従う気はない。が……」
「ブケーのこともあるからな」
支配人たちは苦虫を噛み潰したような表情になった。

「あの、ムッシュウ・アンドレ」
「なにかね」
「このオペラをファントムが作曲したのだということを一度忘れて考えていただきたいんです。作品の出来をどう思われますか?オペラ座で上演するに不足だと思われますか?」
ムッシュウ・アンドレに聞いたのは、彼の方がムッシュウ・フィルマンより音楽の造詣が深いからだ。
案の定、彼はますます渋面になって、頭をかきむしった。
「作品だけについてならね、興味はなくもない。ただ斬新すぎる。これを理解できる人間はそうそういないだろうと思うよ。特にご婦人方には刺激が強すぎる」
と、自分がファントムのオペラを理解できる音楽通だということをアピールしつつも難色を示した。
「そうかい?この程度の内容なら他にもあるだろう」
口を挟んできたムッシュウ・フィルマンにムッシュウ・アンドレはしかつめらしい顔つきで首を振る。
「いやいや、私達が話しているのは音楽のほうですよ。話の筋は確かにとびきり珍しいというものではないですがね」
ムッシュウ・アンドレの自慢の入り混じった訂正に、ムッシュウ・フィルマンはむっとしたように唇を結んだ。
「新作のオペラをやるのは構わんが、それは名の通ったしかるべき作曲家によって書かれたものであることが望ましいというのが私の見解だ。オペラ座で上演するオペラにはそれ相応の品位というものが必要なのだよ、ミス・
「だいたい、幽霊が書いたオペラだなんて、馬鹿馬鹿しくてプログラムに書けるものか!」
オペラ自体には興味を持たないムッシュウ・フィルマンは商売人らしいセリフを鼻息荒く吐き捨てた。

「だが……」
「ああ」
すぐにがっくりと二人はうなだれた。
「これで本当に命令を無視したら、何をされるかわからん」
「どうするんだ……?」
「私に聞くなよ」
「やるしかないのか?」
「やらなきゃならんのだろうなあ」
盛大なため息をついたあと、彼らはそろってわたしを睨みつけてきた。
「君も覚悟を決めるんだな、奴は君を主役に持ってきたんだから」
「そう、断ろうなどど考えるんじゃないぞ」
「は、はい」

わたしはただ何度も頷いた。