場所を屋上に選んだのには深い理由はない。
ただ滅多に人が来ない場所を、という点でここにしたのだ。

ラウルには連絡もしないまま、もう何日も会っていない。
怒ってきてくれないかも……。





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





わたしの心配は杞憂だった。
どころか、そんなわたしの考えはラウルに対して失礼極まりないものだったのだ。
彼はわたしが屋上に着いた時にはすでにいて、わたしを見るなり憔悴した様子で抱きしめてきたのだ。

!ああ、やっと会えた!」
心からの安堵と再開の喜びに震える彼の声を聞いて、わたしの胸は罪悪感で押しつぶされそうになった。
これからこの人にお別れを、それも婚約破棄を伝えなければいけないのだ。

「今まで一体どこにいたんだい?練習にはでていたそうだけど、僕はその時間はほとんどオペラ座に行くことができなくて……。それ以外の時間は誰も君がどこにいるか知らないし、何度部屋を訪ねてもいないし……。気が狂うかと思った。もしかしたらあいつに……ファントムにさらわれたんじゃないかって」
わたしがびくりと身体をこわばらせると、ラウルははっとした様子でわたしの腕を強く握った。
「まさか……本当にそうなのか?」
「ラウル……」
わたしは両手を祈る形に組み、顔をそらした。
ラウルをまともに見ることができない……。

「なんて奴だ、ファントムめ!」
ラウルは激昂した。
「恥知らずな悪党め!新作のオペラのことといい、どこまで卑劣な奴なんだ。ああ、、怖かっただろう。もう大丈夫だ、一緒にここを出よう。すぐに馬車を用意させる」
怒りのあまり涙ぐんで、ラウルはわたしを再び抱きしめる。
「違うわラウル!そうじゃないの」
わたしは彼の胸の中で激しく頭を振った。
「え?」

「わたし……あなたにお別れをいわなくてはいけないの」
わたしは激しく打つ心臓を叱咤し、やっとの思いで声を振り絞った。
?」
「他に大切な人ができたんです。婚約を破棄してください」





ラウルは呆然と、何を言われたのかわからないといった様子で立ち尽くした。
「なぜ……?いや……誰の……」
信じられないと何度も小さく首を振る。
わたしは組んでいた両手を外し、薬指にエリックの指輪がはまっている左手を彼に差し出した。
ラウルは目を見開き、次の瞬間激しい怒りを露にした。
「ファントムだな!あいつが君に僕と別れるように命令したのか!どこだ、どこにいる、ファントム!いるんだろう!?隠れていないで出て来い!この卑怯者!」
屋上いっぱいに響き渡る怒号に、わたしは身をすくませた。
「エリックはここにはいないわ!それに、わたしが彼を好きになったのよ、ラウル!」
「エリック?それが幽霊の名前なのか?ああ、、いくら僕が若くて世間知らずなところがあるからって、そんな嘘を信じるはずがないだろう?君はあいつに脅されて僕と別れるように言われたに違いない。わかってる、。大丈夫だ、僕が君の自由を守る」
ラウルはわたしの手首をつかみ、屋上から中に向かおうとする。
いけない、このままだと本当に連れて行かれてしまう!

「嘘じゃないの。本当にわたしはエリックを愛しているのよ!」
「信じられるものか、だって君はあんなにあいつのことを怖がっていたじゃないか!」
ラウルは激しく首を振った。
「そうよ、それでも愛するようになったの」
わたしがはっきり言い返すと、ラウルはだらんと腕を下ろした。
「……本当に?」
「神さまに誓って」

「あいつは糾弾すべき犯罪者だ。オペラ座の人間をさんざん脅かし、金を奪い、人を殺した。君だって何度も恐ろしい目に会ったじゃないか」
「ええ」
「なのにあいつが好きだっていうんだね?」
わたしは頷く。
「……どうして」
ラウルは絶望に掠れた声で呟く。
「……ずっと惹かれていたの。彼を音楽の天使だと信じていた頃から。彼の真実の姿を知って、その恐ろしさに逃げ出していたときにも。わたしはエリックの激しすぎる感情や殺人すら躊躇しない心を厭いながらも、彼のことがいつも気にかかっていた。ラウル、わたしはあの人と向き合って、やっと本当のあの人を見つけることが出来たわ。そうなってしまったらもう、自分の気持ちを偽ることはできない」

「……君は僕の事を愛してはいなかったのか?」
「愛していたわ。優しい幼馴染さん。だけどそれは子供の頃のままの、幼い愛情だったのね。ごめんなさいラウル。本当にひどいことをしたと思っているわ。だけどもう、わたしはエリックなしの人生は考えられない……」

ラウルは重々しいため息をつき、目を押さえた。
「君を愛している。なぜ、僕では駄目なんだ……」
わたしは答えられなかった。

「罪は裁かれなくちゃいけない。多くの罪を重ねてきたのなら、尚更……。、僕は支配人たちと相談してファントムを捕まえることにしたんだ。《ドン・ファンの勝利》を上演すればあいつは必ず現れるだろう。あらかじめ武装させた警官を潜ませておいて、奴が現れたところを……」
「そんな……!」
、君のその愛情の先にあるのは破滅しかないんだ。本心からファントムを愛しているのだとしても、諦めてくれ。僕は君が不幸になるところを見たくない」