あの馬と乗り手は何処へいった?吹きならされた角笛はいまどこに?

兜と鎧かたびらは、風になびいた明るい髪の毛は、どこに?

竪琴をかなでた指は、赤く燃えた炉辺の火は?

春はどこに?稔りの時と丈高く熟れた穀物は、どこへいったか?

すべては過ぎていった、山に降る雨のように、草原を吹く風のように。

過ぎた日々は、西の方に、影を負う山々のうしろに落ちてしまった。












思いがけない拾いもの












(暗いな…)
オークの一部隊を殲滅し、数日ぶりにエドラスに戻った私は慣れ親しんだ館を覆う影にわずかに顔をしかめた。
まだ昼を過ぎたところで、日は高い。
空には雲がわずかにある程度だ。
春を迎えたばかりの大地には冬枯れの茶の枯れ草と、萌え出たばかりの緑の若草が混じりあっている。
もうじき、春植えの作物の種がまかれるだろう。
もうじき、雌馬たちは仔馬を産むだろう。
冬の間息を潜め、寒さが去りゆくのを待っていた命がいっせいに動き出す。
地にも風にも、躍動する息吹が感じられる。
だが―――。
今のマークは、その輝きを前にしても尚、暗い。



厩番に手綱を渡し、足早に館に向かう。
兜を脱いで脇に抱えた。
衛士が開けるより早く扉を開け、中に足を踏み入れる。
変らずに赤々と燃える炉辺。
光の矢を落とす高窓も。
このマークの、黄金館に巣食う影を取り払うことはできない。



王の前まで歩み寄り、一礼をしてこの度の成果を報告した。
気がつけばマークの男にしては異例の速さで年老いた王が、若干のねぎらいをかけた。
私の用は、それで充分だった。
王の隣で訳知り顔にべらべらとしゃべる蛇に用など無い。
苛立ちを堪えてグリマが口を閉じるのを待った。
奴の口から出る言葉はどれもこれも歪んでいる。
王が一つ話せば奴が十を話す。
それも王のご意志だとぬけぬけとほざく。
それが一番腹立だしい。
何度斬って捨てようかと考えたことか。
だが、グリマを相談役に任じたのは王その人であれば、エオル王家の者といえど勝手に処分することはできなかった。
もとより民を導く立場の私がそのようなことをしたら、マークは秩序を失ってしまう。
耐えるのだ。
今は。
今だけは。
奴の目的と、王をたぶらかした証拠を誰の目にも見えるように明らかにしたら、その時は…

殺してやる。





エドラスに十日ほど滞在し、私は己の守るべき領域の警戒に戻った。
昨今はオークの往来がはげしくなっており、知らせを待っているだけでは手に負えないのだ。
いや、それはマークに限ったことではない。
南のゴンドールから届く知らせも徐々に血なまぐさくなってきている。
大規模な戦争が始まるのも近いだろうと、盟友ボロミアは書き送ってきた。
力が欲しい。そう書いて、何本もの線で消そうとした跡が私の胸を突いた。
こちらにいらぬ気遣いをさせまいとする彼の気持ちを思うと、私もそれに応えたいと思ってしまう。
それで、勝利が得られるのであれば。
得られぬまでも、一時的にでも平穏が取り戻せるなら。
…その望みは、ほとんどないが。



「セオドレド様!」
名を呼ばれ、私ははっと顔を上げた。
物思いに耽っていたことに気付き、私は顔を引き締めた。この辺一体は最近オークの掃討をしたばかりだが、油断は禁物だ。
「何事か」
斥候を務めているウィドファラが馬を並べてきた。
「道からはずれた草原に倒れているものが…。子供のようです」
「子供?一人だけか?見覚えは?」
「一人です。変った服装をしておりましたゆえ、マークの民ではありますまい」
「……」
となると旅人かマークに敵対する輩の家族か・・・どちらにせよ、マークかゴンドールの民でもない限り、王の許しなく勝手にこの地を歩かせることはできない。
「案内しろ」
私はウィドファラに続いて道を逸れた。
エオレドがその後ろに続く。
枯れた丈高い草が一部倒れているところがあった。
土煙を上げながらぐるりとそこを囲い込む。
なるほど、確かに子供が伏せている。
濃い茶色の髪はまっすぐで、背中を覆って広がっていた。
それだけでマークの民でないことがわかった。
ロヒアリムは金髪が多く、波打っているのだ。ゴンドールの民と結婚する者も少しはいるので色の濃い髪の者もいるが、それとは明らかに様子が違う。
ブレゴから下りて抱き起こす。
土がついてわずかに汚れているが黄味がかった肌は滑らかで、頬はふっくらとしている。
髪と同じ色のまつげは長い。
子供は女の子で、だいぶ幼かった。
十を超えたくらいだろうか。
愛らしい顔立ちをしていた。
瞳の色が見えないのが残念だ、と思った。
このようなところにひっそりと臥せっていたので死んでいるのかと思ったが、そうではなかった。
服のどこを見ても血がついている様子はない。
熱があるわけではないので、多分病気でもないのだろう。それよりもずっと風に当たっていたせいで身体が冷え切っている。そちらの方が心配だった。
ウィドファラの言うように、着ているものも見たことがない型だ。
袖の長い、前で合せる形のものを何枚か着ているようで、襟元は重なっているところが覗いている。一番上は白かった。胸から少し下で結んでいるスカート(もしくは幅広のズボン)は鮮やかな赤。その上に羽織っているのは透けた素材の上着。足元は白いブーツだった。
私は立ち上がって、この子供の連れか、もしくはかどわかされ、何かの事情で打ち捨てられた可能性があるので見慣れぬ者がいないか探すようエオレドに命じた。
隊の三分の二が捜索のため、八方に駆け去ってゆく。
子供は馬の蹴立てる地響きのような音にも目覚めなかった。
「さて、話を聞こうにも起きてくれないことにはどうしようもないが…」
普通に寝ているだけなら、いくらなんでも起き出すはずだ。
「エドラスに戻られますか?」
ウィドファラが胡散臭げに少女を見下ろした。
「いや、まずは私が検分する。ヘルム峡谷へ連れてゆこう。その方が近い」
「しかし…」
ウィドファラは苦い顔をした。
気持ちはわかる。
こうしている間にも私たちのやりとりを見ているエオレドが、不安そうに囁いているのだ。
ドゥイモルデーネ、エルフ、と。
ドゥイモルデーネはマークの東の境となっているアンドゥインの上流にあるというエルフの国だ。ロヒアリムの中で好んでその森に行こうとする者などいない。森にはエルフの奥方が魔術の網を張り巡らし、入ったが最後、出ることは叶わないと伝えられているからだ。
つまりこの娘は、子供のエルフではないかと思われているのだ。
私も子供にせよ大人にせよエルフは見たことがないゆえ、肯定することも否定することもできない。
しかしこれが怪しい風体の男ならば警戒もしようが、相手は子供だ。必要なのは剣を向けることではない。
「どのような素性かはわからぬがこの子供、肌も爪も手入れが行き届いているし、織りも仕立ても上等の衣服を着ている。顔立ちからしてマークの民でもゴンドールの者でもないだろうが、身分卑しからぬ生まれだろう。私が話を聞き、その上でエドラスに連れてゆく。なに、娘一人のことだ。大騒ぎすることではあるまい」
「は」
マントを脱いで娘をくるむ。
馬上に戻り、落ちないよう娘を前に乗せた。
「ヘルム峡谷へ!」
不審者の捜索に向かったものに伝言をするために五人を残し、残りの騎士を率いて出発した。





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