「これは…一体?」
セオドレドの口から混じり気のない困惑がこぼれ出る。
「どうしたというのだ」
胸中にひやりとした不安が忍び込む。
我知らずセオドレドはブレゴの手綱を強く握り締めていた。










足元の影











アイゼンガルドは霧ふり山脈の南端と白の山脈の北端の間にある盆地であり、城壁のような岩によって周囲を囲まれていた。
入り口は南にある門が一つだけ。
中にはオルサンクと呼ばれる石の塔がある。
サルマンはそこに住んでいるのだ。
セオドレドはサルマンに会ったことは数えるほどしかない。
マークと白の魔法使いの関係は良好ではあるものの、頻繁に交流があるというわけではないのだ。彼の住むアイゼンガルドはゴンドールの直轄地であり、サルマンが塔の管理をする者として鍵を預かっている。彼は室内に篭っての研究と探索を好んでいるため、外を歩く姿が目撃されることも少ない。最も、見かけたからといって気軽に挨拶を送るような民は一人もいない。背高く、威厳があり、不思議な技を使うとされていた老人は、マークの民からは敬われているものの、それ以上に恐れられているからだ。
セオドレド自身アイゼンガルドに来たのは、成人になり正式にマークの世継ぎに指名された時の一度だけだ。それ以外ではエオレドを率いて草原を駆けていたときに何度か姿を見かけ、そのうちの二度か三度は言葉を交わしたが、つまりはそれくらいだ。
それでも緑の谷間に囲まれたアイゼンガルド、その中心にそびえる滑らかな石でできた黒のオルサンクの美しさに感嘆したこと、言葉を交わしたサルマンの、深い叡智を湛えた眼差しと胸の内に染み入るような声に魅入られたことははっきりと覚えている。
思いがけない事から再びアイゼンガルドに来ることになったが、またあの美しい光景を見ることができるだろうという期待は、門を潜り抜けてすぐに砕け散った。

セオドレドたちはエドラスを出発して六日目の昼近くにアイゼンガルドの門の前に到着した。
前もって知らせを送ってはいないが(これはいつものことだ。知らせを送らずともサルマンにはわかるらしい)、セオドレドらが馬の足を止めると、待っていたかのように門がゆっくりと開いてゆく。岩を穿って作られたそれは、長いトンネルのようになっており、門はそれぞれの両端にある。
松明を用意するほどではないのでそのまま馬を進めたが、夜よりも暗く、また音が反響するため不安そうになったから手綱を引き取った。しっかり握り締めていないと暴走する恐れがあるからだ。
次の門が開き、差し込む光に目を細める。
そして光に慣れた目に映ったのは…。
変わり果てたアイゼンガルドの姿であった。
門から塔への道は平石で舗装されているのは以前と変らないが、何度も泥にまみれたせいか、禍々しい色合いに変色していた。泥には鉱物が混じっていたのかもしれない。
道以外のところは並木や果樹の木立が所狭しと茂り、その根元には短く整えられた青草が生えていたが、今は一本の木もなく、草も見えず、ただ剥き出しの地面には川となった澱んだ泥水が流れ、工事用の足場や水車が置かれている。
地面にはあちこちに穴が掘られていた。穴は相当深いのだろう。重い歯車の回る鈍い音や武具を作っているだろう槌音が地面全体から響いてくるのだ。
ただし、地上で作業をしている者は一人もいないのだが。
「大掛かりな工事中みたいですね」
が呟いた。
顔だけそっと動かして彼女を見ると、濃い茶色の目を落ち着きなく何度も瞬かせている。
表情も硬い。彼女も警戒しているのだ。
そう、アイゼンガルドの様子はおかしい。
何かに挑もうとし、そのための牙を研いでいるようなのだ。
春めいた空気はここには存在せず、ひやりと背筋が寒くなるような、剥き出しの警戒と緊張に満ちている。
引き返すべきだ。
セオドレドの脳裏に強い警告が浮かぶ。
何度も戦場に繰り出し、生死の境をさ迷ったことのある戦士としての勘とでも言うべきものだが、こういうときの予感は必ず当たるのだ。
馬首を返そうと後ろを振り返る。そこで目にしたのはさっき通った重い鉄の門だ。
あれがサルマンにしか開閉できないものならば、例え引き換えしたとしても開いてはくれないだろう。
「…セオドレド様」
「殿」
と副長がほぼ同時に呼んだ。
この中で以前の美しかったアイゼンガルドを知るものはセオドレドだけだ。初めてこの地を目にした者ならこういう場所なのだと考えてもおかしくないが、それを許さないほどの異様さがここにはあった。
門が開かないのを覚悟で引き返すか、このまま進んで、サルマンとの会見に挑むか。
「行きましょう」
緊張で強張った顔を塔へ向けては断言した。
「戻っても、多分門は開きません。それくらいなら、サルマンに会いましょう。それで、なんとか…」
言葉を切って、は口をつぐんだ。自分でも信じていないのだろう。
「ごめんなさい…」
うつむいて、声にならないほどの声で呟く。
小刻みに揺れる肩が泣くまいとする決意を伝えてくる。
もう誤魔化すことはできない。
我々は敵の懐に入ってしまったのだ。
彼の敵意がどこに向けられているかはまだ知れないが、マークが彼の道筋にある限り、彼は国土を省みることなく踏みつけるだろう。
セオドレドはブレゴをの馬の脇に寄せると、手袋をつけたまま少女の頭をなでた。
「行くぞ」
ははっとしたように顔を上げた。
「でも…」
「このままではどうすることもできん。サルマンに会おう」
だけど、と少女は口にしかけて、止めた。
「はい」
は青ざめながらも大人しく頷いた。
セオドレドは手振りで後方に控えていた騎士たちに合図をするとゆっくりと馬を歩かせた。



「ようこそセオドレド殿。マークの世継ぎの君よ」
アイゼンガルドの入り口は階段を上った上にある。セオドレドたちが階段の足元に到着する頃にはサルマンもまた出迎えるべく下りてきていた。
サルマンは白いローブを身にまとい、杖を片手に慇懃に挨拶した。
それは以前にも会ったことのあるサルマンと変ってはいないはずなのだが、セオドレドは胸中にかすかな違和感を覚えた。
「お久しゅうございます、サルマン殿」
馬から降りたセオドレドは緊張を隠すこともできないままサルマンに礼をした。
「して、本日の御用の向きは、そちらのご婦人に関することですかな?」
サルマンが穏やかそうな様子でに視線を向ける。
は小さく息を飲むと、すぐに意を決したように一歩前へ踏み出すと恭しく頭を下げた。
「わたしはと申します。セオドレド様のエオレドの方に助けられ、黄金館でお世話になっておりました。故郷を遠くはなれ、帰る術を持ち合わせておりません。お噂でサルマン殿のことを聞き、お知恵を拝借いたしたく参上いたしました」
サルマンは軽く頷いた。
「それは難儀なことでしたな。詳しいことをお伺いしましょう。さあ、中へ。申し訳ありませぬが、セオドレド殿、殿の騎士方にはこちらでお待ちしていただきますが、よろしいですな?」
他国の宮廷を訪れた時には、主人と身分のある者はともかく、それ以外の者は中に入ることはできない。オルサンクは宮殿ではないが、ゴンドール直轄の地であり、その鍵を預かる者としてのこの要請は当然といえた。
しかし、不安は消えない。
「あ、ああ、もちろん」
セオドレドが一拍置いて同意すると、サルマンは好々爺のような笑みを浮かべた。
「ここがこのような有様でご心配なのですな。確かにアイゼンガルドは今、戦いの準備を整えている最中です。東の影が密かに、しかし確実に動き出していることは殿もご存知でしょう。それにローハンの平原をオークが我が物顔で通っていることも。わしは外の世界とは距離をとっておりますが、だからといって差し迫りつつある影に無関係でいられましょうや?影から遠く離れているからと、目を閉じ、耳を塞ぐと?その者は目の前に影の手が伸びても見ぬふりをするつもりかと、わしなら問うてみますな。それは愚か者のやり方です。殿よ。殿はわしが塔に閉じこもるのに飽いて宝と権力のために戦いに身を投じたのだとお思いですかな?ローハンを打ち滅ぼし、南はゴンドール、北はエリアドールにこのサルマンの手を伸ばそうとしているのだと。いいや、そのようなことをわしは考えてはおらぬ。ご安心めされよ、殿。アイゼンガルドの軍は暗黒の塔の主を打ち滅ぼす目的によって作られているのですから。またそれゆえにローハンには一つの備えが増えたのですから」
サルマンは一旦言葉を切ると様子を窺うように睥睨した。
「すべての用意が整ってからご覧いただけたのなら、すぐにご理解していただけたのでしょうが」
そして残念そうに結んだ。
「いいや…」
セオドレドがふらりと前へ踏み出した。
「申し訳ござらん。確かに私は疑っていた。そなたがマークを敵視しているのかと。そうでなくとも、そなたが敵に向かってゆく際に、マークもまた蹂躙されるのだろうと。それは間違いだったようだ。このような非礼、どれだけお詫びしても足りることはないだろう」
セオドレドは兜を脱いで膝をついて頭を下げた。
サルマンの意図を曲解していた自分が卑小で恥ずかしく思えたのだ。本当ならば地面に額をつけて謝りたいのだが、世継ぎの自分がそこまでしてしまったら、控えている騎士たちは騎士を辞めるくらいはしなくてはならない。さすがにそこまでは、と思い跪くだけにしたが、
「頭を上げ、お立ちください、殿よ。殿はお疲れなのですから。内にも外にも敵がおり、枕を高くして眠ることができないのですから。そう、わしは知っておりました。殿の父君、セオデン王にそば近くに仕える、グリマという者が宮廷中を不安と怒りに導いているということを。しかしわしはどこの国にも属さぬことを誓う魔法使いでしてな、内政干渉はできぬのです。そう、あの、己の領分をわきまえず図々しくも無礼に歴代のローハンの王、ゴンドールの執政にあれこれ助言と称して指図をする灰色のガンダルフとは違いましてな。しかし、わしの元に訪なう者には助言を惜しみませんぞ。殿はようやくわしの元においでくださった。わしはそれを心より嬉しく思う」
一切責めず、セオドレドを気遣うサルマンにセオドレドはまたもや跪きたい衝動に駆られた。耳に快く流れる低い声は物柔らかで、心が蕩けるようだった。いつまでも聞いていたいと思わせ、声が途切れるとひどく残念に感じるのだ。
セオドレドは鷹揚で慈悲深い君主に言い諭された若者のように縮こまり、彼の厚意をありがたく思った。




残される騎士たちも今や安堵し、主の帰りを快く待つと申し出た。
サルマンを先頭に、塔の中にはセオドレドとのみが入る。
長い階段を上り、サルマンの部屋と思しい場所に案内された。
サルマンは手ずからワインを用意し、自分と客人の前に置いた。
「申し訳ありません」
はそっとサルマンを見上げる。
「ワインは飲めないのです」
「失礼を、サルマン殿。この子は子供で、強い酒は飲みつけないのです。果汁で割った蜂蜜酒程度しか…」
ただそれだけのことなのに、セオドレドは妙に焦る。がサルマンの機嫌を損ねたのではないかと案じたのだ。
しかしサルマンは愉快そうに笑っただけだ。
「これは失敬。だが生憎と蜂蜜酒は用意がありませんのでな。お小さいご婦人にはお茶にいたしましょうか」
「そうしていただきますと…」
はあからさまにほっとしたような表情になった。
では少々失礼、と部屋を出るサルマンの後姿を見送って、はセオドレドの顔をつかむ。
「セオドレド様?」
「…
セオドレドは困惑したように少女を見つめた。
「魔法使いの言葉を信じましたか?」
は切羽詰ったように、セオドレドの目を覗き込む。
セオドレドはばつの悪そうな表情になった。
「…信じていた。彼が私に話しかけている間は。サルマンが話している間は、何もかもが彼の言うとおりで、不審や不満を唱える必要を感じなくなる。なのに、いまは不安だ。彼の目的は、本当に暗黒の塔の主にあるのか?私は…私は、サルマンの声を聞くまで、アイゼンガルドは敵の側に回ったのだと、そう思っていたのだ」
ふう、とは息を吐いた。
「サルマンの声は、人を魅惑するようですね。聞き続けたら、自分の意思がなくなってしまう。いえ、自分の意思だと思っていることがサルマンの意思になる。目的がなんにせよ、こういうやり方をしてくる相手は、信用できません」
セオドレドはふと少女を疑うように見下ろした。
、お前、サルマンが部屋から出るように仕向けたな?」
「しましたよ。だって、そうでもしなくちゃ、セオドレド様、まともに考えることができなくなるじゃないですか。わたしは免疫があるから《声》くらいなら平気です。それから、サルマンが部屋にいないとはいえ、今わたしたちが話していること、あのひとに知られていないと思わないほうがいいでしょうね」
は真剣な眼差しでセオドレドを見返した。
セオドレドは口の端を上げると、額に手を当て、軽く頭を振った。
「なるほど、ここは魔法使いの塔だからな」
は頷く。
「出発間際のグリマの様子がおかしいと思っていたが…これがそのわけなのだろうな。なるほど、今にして思えば、やつの物言いや振る舞いは、サルマンのそれに良く似ているわ!」
セオドレドはぎりっと拳を握り締める。
「子供の真似事のようなものですけどね。それに、グリマには《魅惑の声》はありません。あればわたしが気付きます。でもグリマでもあれほどできるのですからサルマンなら尚更でしょう。わざわざ《声》を使うほどではない。なのに使った…」
「つまり、私にアイゼンガルドの異変を知られたくはなかったが、それよりはサルマンが私を始末するか、傀儡に仕立てるかするほうがよほど好都合だと考えたのだろうな。はっ!きっと今頃、奴は私のいない宮廷で酒盛りを開いているだろうよ。己が野望の成就に酔いしれてな!」
はセオドレドの胸に手を当てた。
理性によってぎりぎりまで声を潜めているが、その分だけ怒りが増しているかのようなのだ。絶望に満ちた目はすっかり血走っている。いつ爆発するかわからなかった。
「落ち着いてください。わたしが何とかしますから」
「なんとか?」
セオドレドはの華奢な肩を力を込めて握った。
「簡単に申すな!私が魔法に疎いからといって、何もわからぬほど愚かではない。そなたにはサルマンほどの力はないであろう」
は顔をしかめたが、迷うことなくセオドレドを見つめている。
「わかってます。でも、あなたがここに来たのは、わたしのせいなんですもの。それに下で待ってるエオレドの方たちも…!あなた方は生きて無事にエドラスに帰らなくちゃいけないんです。そしてアイゼンガルドの変節を知らせなければいけないんです。お願いです、わたしにやらせてください。魔法使いに対抗するには、騎士よりも魔女の方が分があります」
セオドレドはあっけにとられたように小さく口を開けた。
「そなたは存外無茶を言う」
「無茶でもなんでも、しなくちゃいけないんです」
は極度の緊張によって、小さな顔に汗を浮かべていた。心なしか声も震えている。
セオドレドは自分の半分の年の娘よりも先に取り乱したことを恥ずかしく思った。
肩から手を外し、覚悟を決め、少女の小さな手を取った。
「私は何をすれば良い?」
は小さく笑う。
「サルマンの《声》に飲まれないよう抵抗してください。サルマンの言葉を正しいと思い始めたら、エドラスのセオデン王を、それからアイゼンガルドを目にしたときの気持ちを思い出してください」
ちょうどそのとき部屋の扉が開いてサルマンが湯気の立つカップを盆に乗せて入ってきた。
「お待たせいたしましたな」
「いいえ」
は何もなかったように微笑みを浮かべた。しかしその笑みはいつものよりも精彩を欠き、出来の悪い面のようだった。
セオドレドも平然とくつろいでいる風を装ったが、どうやらサルマンにはばれているらしい。
魔法使いの目は少しも笑っていなかった。
「さて、ではお話を窺いましょう」







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