ローハンの人々は朝が早い。
それは角笛城でも黄金館でも変らなかった。
日が昇れば人々は働きだし、暮れれば休む。
初めはそんな生活に戸惑ったも今ではすっかり慣れていた。
なにより健康的だとさえ思っていた。
時間の流れはゆったりとし、一日一日が長く感じられる。
は遠くまで見渡せる草原を眺めるのが好きになっていた。
徐々に緑の割合を増やし、風には春の息吹が感じられる。
黄金館は丘の上に立っており、扉を出ると眼下には遠くまで続く草原が見渡せた。
遮るものはほとんどなく、放牧中らしい馬や牛、羊たちがのんびり草を食んでいる。
はセオドレド、エオメル、エオウィンという強力な後ろ盾を得られたおかげでエドラスの人々からも受け入れられつつある。ここでの生活には特別不自由することはなかった。
それでもの胸の中には埋めようの無い空隙が空いたままだった。家に帰れるかどうか心配だったことも原因の一つであったが、それだけではない。
何もすることがないのだ。
仕事が無いのは仕方の無いことだが、助けてもらったのにその恩を返すあてがまったくないのが忍びなかったのだ。
せめて何か手伝いを、と申し出ても客人にそんなことはさせられないと断られる。
これは彼らの厚意なのだとわかっていても、なんともやるせなかった。
銀色の王
エドラスに住むようになって五日がたった。
王の息子であり軍団長でもあるセオドレドは忙しい身の上で、アイゼンガルドへの出発はもう少し先ということになった。最初の日と次の日はエオウィンが付き添い、黄金館やエドラスの案内をしてくれた。王の許しは出ているので、やってみたいのであれば遠乗りに出かけても構わないということにもなった(ただし一人ではなく必ず護衛をつけること、ということだけは厳しく言いつけられた)。
忙しいのはセオドレドだけではない。エオメルも軍事の高位責任者の一人であり、また父親から継いだアルドブルグを治めるのも彼の役目だった。エオウィンは宮廷を取り仕切る立場にある。王妃のいないローハンでは、エオウィンがその役目を負っているのだ。彼女は侍女たちを指揮しながらセオデンの世話を行い、また様子伺いや報告などのために訪れる領主や豪族たちを歓待する。そのための料理の監督をし、食料や酒の備蓄に気を配り、部屋を整えさせる。尽きることのない忙しさという点ではエオウィンが一番かもしれない、とは胸中で呟いたほどだ。
そんな中、はなにをするということもできなかったが、格好の暇つぶしを見つけた。
馬の調教である。
軍馬として戦場を駆けさせるため、王直轄の牧場では何頭もの馬たちが調教師の声に合わせて走っている。
また今は出産シーズンであり、厩舎では毎日のように子馬が生まれていた。
やはり世話をさせてはもらえないが、熱心に見学をしている少女に伯楽たちは嬉々として馬のことをあれこれ話してくれた。
ローハンでは馬に詳しいものは珍しくも無いのだが、特に馬に詳しく目利きでもある伯楽ともなるとその数は多くはない。職務熱心で馬好きな彼らは久々に聞かせがいのある相手を見つけてご満悦になっていた。
「いつもそこの馬房が空いていますけど、使っていないんですか?」
今日は王族にしか乗れないという最も格の高い馬しかいない厩舎で仔馬が生まれたのでその見物にきていたは、ずっと気になっていたことを伯楽に聞いた。そこはずらりと並んだ馬房の中でもひときわ広く仕切られており、水や飼い葉の用意もされているのだが、そこに馬がいたためしがないのだ。
「ああ、ここは飛蔭の房だ」
伯楽の一人は汗を拭いながら答える。
「飛蔭?」
「ローハンの馬の長さ。飛蔭ほどの馬はわしらも見たことがない。堂々とした体躯に、日の光には輝き闇の中には溶け込む銀の毛並み。走る速さときたら風そのものだ。だけど一応調教はしたんだが、何しろメアラスの長だからなあ、俺らの言うことはあんまり聞かん。陛下がお元気だったころはまだ扱いやすかったんだが、今じゃ手がつけられなくなっている。あるとき自分で房の扉をぶち壊して逃げ出したんだ。捕まえようとはしたんだが、なにしろ飛蔭ほど速い馬を追いかけられる馬がおらん。だがな、やっこさん、何日か経ってから自分で戻ってきたんだよ。その後は毛にブラシをかけろ、マッサージをしろ、甘い果物を食べさせろと大騒ぎだ。それ以来、飛蔭は好きなように外を走っていて、俺らに何かして欲しいときだけ戻ってくるのさ。俺たちはいつ飛蔭が戻ってきてもいいように、飼い葉と水とブラシの用意をして待ってるんだ」
「飛蔭って、わがままなの?」
唖然としたに伯楽たちは一斉に笑った。
「そうじゃないんだ、お嬢ちゃん。メアラスというのはもともと誇り高い馬なんだよ。王以外には誰であろうとその背に乗せることはしない。調教にはどうしたって背に乗らんわけにはいかないからな。だから、いくら俺らが馬の扱いに慣れているとは言っても、メアラスだけは難しいんだ。これは青年王エオルの時代から変っていないことだ」
はふうん、と呟いたが、すぐに首をかしげた。
「だけど、ブレゴもメアラスなんでしょう?」
「たしかにブレゴはメアラスの血が混じってるが、純血じゃない。エオメル様の愛馬、火の足もそうだ。何しろ純血のメアラスは王以外乗せることを拒むからな。王の息子や甥であっても例外じゃないんだ」
「純血じゃなければ調教はできる?」
「ああ。しかも普通の馬より丈夫で足が速くて寿命が長い」
「イイコトずくめ?」
肩をすくめておどける少女に伯楽は指を左右に振った。
「それでも並みの騎士じゃあ、乗せてもらえんのさ」
「難しいんですね」
「それでも何とかするのが俺たちの役目さ」
にかっと笑って男は胸を張る。しかしすぐに外が騒がしくなったことに気がついて扉を開けに行った。日を遮るように額に手をかざしたかと思うと、すぐに戻ってきた。もう五十は過ぎただろうと思われる日に焼けた顔にいたずらっ子のような笑みが浮かんでいた。
「嬢ちゃん。うわさをすれば…だぜ」
「え?」
「飛蔭が帰ってきた」
「綺麗」
悠然と厩舎の前まで歩いてくる銀色の馬を見上げ、は思わず口に出した。
伯楽たちは飛蔭から少し離れるように後を追う。
その姿はさながら偉大な王とその従者たちのようであった。
は伯楽の指示で厩舎から出た。外に出ると飛蔭の帰還を聞いたエオメルが走ってやってきた。
「飛蔭よ、此度はずいぶんと早い帰参だな。どうしたんだ?」
飛蔭はエオメルの前で一度鼻を鳴らしただけで通り過ぎていった。
大きく開け放たれた扉からは中の様子がよく見える。
飛蔭は伯楽にも自分の房にも目をくれず、仔馬の生まれた馬房の前まで来ると、前足でがつんと叩いた。
「ああ、そうか」
エオメルは納得したような声をあげた。
「なにがですか?」
「今日生まれたのは、飛蔭の子なのだ」
「ああ、それで」
は微笑ましそうに飛蔭を見つめた。
飛蔭は伯楽が馬房の閂を上げるのを待ち、彼にはやや狭い入り口から大きな体を半分だけ入れた。
仕切りが邪魔で見えないが、飛蔭は仔馬に鼻をすり寄せているようだ。
「これでしばらくエドラスに落ち着いてくれればいいんだが」
エオメルは腕を組んで嘆息した。まるではじめから無理なことを願っているような口調に、は首をかしげた。
「でも、乗ってくれる人がいないのに、閉じ込めるのはかわいそうじゃないですか?」
「かもしれんが、飛蔭に何かあったらその方が問題だ。彼はマークの宝なのだから。飛蔭さえ許してくれるなら、私が乗りたいところなのだがな」
「そんなことしたら、火の足が焼きもちを焼くんじゃありません?」
がクスクスと笑った。
エオメルの愛馬火の足にも合わせてもらっただが、彼もブレゴ同様主人に非常に懐いていたのだ。
「いや、火の足とて飛蔭と己を比べることはできぬだろう。しかし焼きはしないが、すねるだろうな」
やはりやめておくか、とエオメルは人が悪いような顔で笑った。
そんなことを話している間に飛蔭は房から出、今度は伯楽たちの細かな道具が置かれている棚の前まで来た。前足をかつかつと地面に叩きつける仕草をすると、すぐに伯楽たちは頷く。
「蹄鉄を取り替えるんだな。用意しよう」
伯楽たちが準備を整えるのを飛蔭は尊大ながらも黙って待っていた。尻尾が何度か大きく揺れる。
「………」
エオメルがふと気づいたようにを見下ろした。
黄金館に到着した日こそお下げ髪にしていたが、普段は下ろして風に吹かれるがままにされていた。
真っ直ぐで艶のある濃い茶色の髪である。
高い位置で一つに結んだら馬の尻尾のように見えるだろう。
の背の高さならばポニーというところか。
深く考えずそう口に出すと、はものすごく複雑そうな表情になった。
エオメルとしてはそれはたいそう「可愛い」ものに対する純粋な褒め言葉なのだったが、いかんせん、身の回りに馬がいたわけではないにとってはあまり嬉しいとは思えなかったのだ。
もちろん、ポニーテールくらい何度もしたことがあるし、そのものずばりな名前なのもわかっているが、エオメルの言い方では馬が可愛いのか、ポニーテールの女性が可愛いのか判断が微妙なところだった。
これがマークの女性なら素直に喜ぶのだろうかと悩みながらも、一応礼を言った。
エオメルはエオメルで、褒めたのにどうしてが少しも嬉しそうじゃないのかがわからず、女性を喜ばせるのは難しいという己の認識を新たにしていた。
さらに日が過ぎ、ようやくアイゼンガルドに向けて出発できることになった。
「セオデン王陛下、今までお世話になったこと、お礼を申し上げます」
出発前にセオデンに謁見したは喜びを隠しきれない表情で恭しく礼をした。
「そなたの道中に幸運があらんことを。健やかにの、異郷の娘よ」
セオデンは型どおりの返答を返しただけだったが、警戒の色はすでになかった。
しかし宮廷の一同を驚かせたのはグリマであった。
セオドレドを敵視し、をなじった小男はそのときの態度など忘れたかのように丁重な言葉でが故郷に帰ることができるようにと告げたのだ。
グリマをよく知る者たちは彼の態度の変化をいぶかしんだ。
「わたしがいなくなるのがよっぽど嬉しいのね」
大広間を後にしたは誰に言うともなく呟いた。
「邪魔をしないだけありがたいと思おう。しかしあの態度、気になるな。私のいない間に何かしでかす気ではないか?」
セオドレドはの肩に手を置いた。控えるように後ろについてきたエオメルに振り返る。
「エオメル、グリマから目を放すな。おかしな行動を取ったならば、構わん、斬れ」
「承知しております」
エオメルは厳しい顔で力強く頷いた。
門の外には出発を待つ騎士たちがすでにそろっている。
今回は行軍ではなくサルマンとの会見が目的なため、付き従うエオレドの数はいつもの半分だった。それでも何が起こるかわからないのがマークの現状ゆえ、完全武装をしている。
エオメルと共にエオウィンも見送りに来ており、名残惜しそうに少女を抱擁した。
「また来てくださいと言いたいですけれど、それはあなたが帰れなかったということだから、やめておきますね。お健やかに。そして無事に故郷へ帰らんことを!」
「ありがとうございます。エオウィン姫」
エオウィンの抱擁が終わると、エオメルが進み出てきた。
「元気でな、」
頭に手を置いてぐしゃぐしゃとなでる。
「もし駄目だったとしても気を落とすな。その時はわが国に住めばいいのだから」
「エオメルったら!」
エオウィンが兄の無神経さをなじるように声をあげた。しかしエオメルは至って真面目な表情で妹を見返す。
「本当のことだろう?成功するか失敗するかわからん以上は、駄目だったときの場合も考えておかないとな。ああ、そうだ」
エオメルはいいことを思いついたとばかりに表情を明るくした。
「その時は、自分で馬を育ててみないか?エドラスの馬は王直轄ゆえ、私の自由にはできないが、アルドブルグの馬は私の管轄だ。この春に生まれた仔馬の中からどれでも好きなものをあげよう」
屈託のない笑顔で申し出たエオメルに、は苦笑しながら手を差し出した。
「その時は楽しみにしてますね」
エオメルはの手を取って握手を交わした。
「ともあれ、道中の無事を祈ろう。サルマンは気難しい御仁だ。失礼のないようにな」
「はい」
「では、出発しようか」
セオドレドの掛け声に騎士たちは一斉に騎乗した。
今回は急がない予定なのでも自分で馬に乗る。
セオドレドが片手を挙げると土埃をあげて一斉に馬が進み始めた。
エオメルとエオウィンは彼らの姿が見えなくなるまでずっと見送っていた。
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