All or Nothing
は話し終わるとじっとサルマンを見上げた。
「なるほど。事情はわかった。しかし難しい」
サルマンは深い色を湛えた目を閉じ、熟考するように低い声で呟く。
「難しい。世界を超えるとは、さしものわしにもどうすることもできなんだ」
「…そうですか」
は落胆を隠しきれない様子でうつむく。
サルマンはどうやら敵側になったらしいと感づきながらも、当初の目的も実行するべく一切の事情を魔法使いに話した。
一つは時間稼ぎであり、もう一つは、サルマンに対する警告だった。
異世界の魔女である自分はマークとセオドレドに多大な感謝の念を抱いており、オルサンクの魔法使いが彼らに害を与えるのなら黙ってはいないと。
無論このようなもの、はったりもいいところだ。
本来の能力は攻撃向きではなく、さらに世界が異なるためか、今は使える能力が大幅に限られているのだ。
にはサルマンの力の程がおおよそわかるが、それ以上にサルマンはの力を見切っただろう。
そこでは自分の守護者である半神のことをやや大げさに話したのだ。
『彼』はを捜しており、いつかとは言えないが必ず来る。
『彼』が来るまでにに何かがあったら。
それが意図された害意によるものだとしたら。
『彼』はその害意の主に報復をするだろう。
そう思わせるために。
虎の威を借る狐そのもので少女にとってはまったく気に入らないことだったが、背に腹は代えられない。
自分のプライドよりも、セオドレドたちの安全が優先だ。
もっとも、サルマンがの世界を知っている可能性がまったくないわけでもなかったので、素直に落ち込んだ部分もあったのだが。
「しかしながら、殿、望みはまったくないわけではないですぞ」
サルマンはいとも優しげな声で話しかける。
「わしの書庫に有する書物は膨大なものでしてな、まだ目を通していないものも多いのです。古の時代から伝わる貴重な知識を記したものであるからして、おいそれと外部の者には見せておらなんだが、事情が事情です、殿にでしたらお見せしましょう」
はすばやく瞬きをした。
「ここに残るのですか?」
顔はあくまで穏やかに、しかしわずかな間にサルマンの真意を汲み取ろうとする。
「エルフの魔法の技を記したものもありますぞ。帰郷のための手がかりになるものもあるかもしれませんな」
魔法使いは善意からの申し出だというように頷いた。
は可愛らしく小首を傾げる。
「でも、わたしは字が読めないんです。残念ですけど…」
そう言った表情はひどく悲しげで、愛らしくもあった。
口を開きかけたサルマンは一瞬押し黙った。
「読めぬのであれば、覚えればよろしいだろう。わしがお教えしましょうぞ」
すぐに何かを振り払うように首を振り、厳かな調子で諭す。
「まあ、ご親切に」
にこりとは微笑む。
「では、あとはセオドレド様のお許しを頂くだけですね。セオデン王が仰ったんです。サルマン殿がわたしの故郷を知っていたときは戻る必要はない、でも知らないようだったら、その後の身の振り方はセオドレド様が決めるようにと。セオドレド様?」
はセオドレドを振り仰ぐ。
「こういうことですので、わたしはオルサンクに残りたいのですけど、お許しいただけますか?それからそのことを陛下にお伝えしていただきたいの」
その表情は無邪気そのものであった。
だが、それが本心からのものではないとセオドレドは見抜いていた。
が話し始めてからというもの、魔法使いと魔女の真剣勝負といった感になり、結果としてサルマンはセオドレドへの対応を一切封じられることになった。
そのおかげで冷静を保ったまま二人のやりとりを眺めることが出来た。
魔法使いの老人と魔女の少女は穏やかさとにこやかな雰囲気で談笑しているようだったが、水面下では熾烈な抗争が行われているらしい。
らしい、というのはセオドレドには肝心な部分が窺い知ることができなかったからだ。
剣の達人同士の鍔迫り合いが、素人には見切れないのに似ている。
だが、の小柄な身体からは鮮烈な風の如き覇気が溢れ、サルマンの黙って座っていても尚逆らいがたい威厳を吹き飛ばそうともがいている様子がなんとなくわかった。
戦況としては、芳しくないことも。
なぜなら、このままでは全員揃って逃げ出すことができないからだ。
彼女の申し出は、セオドレドと下で待っているエオレドたちを門の外へ逃がすための方便にすぎない。
とこの場にいないの背後を護っていた存在が辛うじて盾となり、セオドレドを魔法使いの杖から守っているのだ。
このまま彼女の提案を受け入れれば、セオドレドとエオレドはアイゼンガルドの門の外に出られるだろう。追っ手はかかるだろうが、それはまた別だ。
だが、彼女は出られない。
殺されることはないかもしれないが、どんな目に合わされるかわかったものではない。
受け入れることなど出来ない。
「文字ならば、私が教えよう。その後もう一度ここへ来て、書庫を見せていただいてはどうだ?帰る手段がすでに見つかったのならばともかく、そうではないのだから、焦ることはあるまい。私と共に一度エドラスへ帰ろう」
「でも、セオドレド様はお忙しいでしょう?」
セオドレドがやんわりと拒絶したために、の眼差しは激しく揺れた。そんなことをしてはいけないと目で訴えている。
「それに、書物はローハンの言葉で書かれているわけではありません。古のエルフの文字で書かれているのです。セオドレド殿がお教えするのは無理ではありませんかな」
サルマンも不快の念をこめながら腕を組んだ。
袖の長いローブが衣擦れの音と共に揺れる。
その時ようやくセオドレドはサルマンと再会した折の胸中の違和感の正体を理解した。
サルマンのローブは、白ではなく、さまざまな色糸で織られており、彼が身体を動かすたびに目を迷わせるほど色が変っているのだった。
サルマンは真実、白の魔法使いではなくなったのだ。
セオドレドは腹を括ってサルマンに向き合った。
ここにいるのはマークの敵だ。
王の息子として、軍団長として、魔法使いの野望を阻止しなくてはならない。
エドラスに戻り、態勢を整えるのだ。無論、も連れて帰る。
(娘一人守れないで、騎士が務まるものか!)
セオドレドは胸をそらして腕を組み、快活な笑顔を浮かべた。
「ご心配には及びません。私はエルフは好みませんが、エルフの文字は読めるのですよ。我が家には祖父センゲルがゴンドールで学んだ折に書き記した書物がありまして、私は子供の頃から何度となく読んでいるのです。かの国の古文書もエルフ語を使って書いておりましたからな」
それに、と言葉を切った騎士の目には強い意志が浮かんでいる。
「若い娘にはなにかと世話が必要です。失礼だがサルマン殿、こちらには身の回りの手助けをする女がいないのではありませんかな?は父も認めたマークの大事な客人です。不自由な思いをさせるのは国の沽券にも関わります。やはり一度戻らなくては」
サルマンを見据えて断言すると、返事も待たずにに笑いかける。
「女の子が部屋に篭って勉強ばかりするのも身体に悪い。エオメルが馬を譲ると言っていたから世話をしたり、乗れるほどになったら遠乗りをしたり、気分転換をしながら少しずつ学んでゆくといいだろう。それにそなたがエドラスにいればエオウィンも喜ぼう。どうだ?」
セオドレドは反対など許さないといった気迫でに詰め寄る。
はセオドレドの迫力に押されるように背をそらし、戸惑ったように眉を歪めた。
サルマンの様子を横目で見ながら、小さく、だがはっきり聞こえるように呟いた。
「ええ。馬は育ててみたいと思いましたわ」
セオドレドは猛獣のような笑みを浮かべてサルマンに言い放った。
「そういうことですので、いずれまたお伺いいたしましょう」
そしてセオドレドは少女の腕をつかみ、さらうようにして塔を出た。
翌日の昼、セオドレドとは角笛城城主エルケンブランドと西の谷の大将であるグリムボルドの両雄を交えて内密の話し合いを行った。
アイゼンガルドからは辛くも全員が脱出できたが、その時の恐怖と魔法使いに対する怒りは一息ついた今も消えてはいない。
王の息子の厳しい表情に、話を聞いているエルケンブランドとグリムボルドの表情も自然と険しいものになった。
「そのようなことが…」
「信じられませぬ」
一通りの話を聞き終わると、二人の騎士は驚愕と困惑の表情を浮かべる。
「ああ、私もこの目で見るまでは信じられなかったぞ」
セオドレドが皮肉げに笑う。
「だが、アイゼンガルドの変化は、どう贔屓目に見たところで善きことに向けられているようには見えなかった。かの地はいまや美しいものすべてが踏みつけられている」
「わたしは、地上で作業をしている者が誰もいなかったことが気になっているんです。まるで、わたしたちに見られないようにしていたみたいでした。地下からは金属を打つような音や、重いものを動かしているような音がしていましたし、地上にはいくつもの足場が組まれていました。ですから、一人くらいは仕事をしているものの姿を見てもいいはずなんですけど…」
アイゼンガルドからの帰りは全速力で馬を駆けさせたため、長距離をようやく乗れるようになったばかりのは角笛城に着いた頃には息も絶え絶えであった。
疲労の極みで灰色になった顔色は、着付け代わりに飲まされた葡萄酒のおかげでだいぶましになっている。
それでも本来女性が参加することのない軍事会議にほとんど休憩も取らないまま連れて行かれると知ったエルケンブランドの奥方は、セオドレドに一時間だけでも休ませるよう懇願した。しかし自らが早急な対策が必要であり、自分も加わらないわけにはいかないと奥方を説得し、会談後は必ず横になって休むことを約束したのだ。
セオドレドはの言葉に同意した。
「普段のアイゼンガルドにどういった類の住人がいるかは知らないのだが、ああまで厳重に隠すのであれば、見られると困る輩がいるのではと勘繰りたくなる。そもそも、以前のアイゼンガルドにはいなかったのだ。いくらなんでも魔法使いの杖の一振りで空中から湧いて出るものでもないだろう。ならばどこから呼び寄せたものか?」
「サルマンがマークに対して敵意を持ったとなれば、一番考えられるのは褐色人でしょうな」
エルケンブランドは皺の深い口元を引き締める。
王の息子と大将も深く頷いた。
「西に細作を送る必要があるな」
「あの…よくわからないんですけど」
だけが話についていけなかった。しかしセオドレドも老騎士たちも優しげな笑みを浮かべるだけだ。
「彼らとの間には長年に渡る遺恨があるのだ。それを語って聞かせるには丸一日あっても足りはすまい」
セオドレドは、そなたは気にすることはないと言うと再び厳しい顔つきになった。
「アイゼンガルドはいつ攻めてくるかわからん。エルケンブランド、角笛城の修復を急がせろ。篭城の準備も怠るな」
「はっ!」
「グリムボルドは西エムネト一帯の監視の強化に努めよ。特にアイゼンガルドに向かうようなものがいたら捕らえるのだ」
「承知いたしました」
「それからだが」
「はいっ!」
自分にも役割が振られるものと思ったは気合を入れて返事をした。
「そなたは馬鍬砦に行け。サルマンはそなたが魔女だと知ったのだ。利用しようとするか、殺そうとするかわからんが、どの道狙われることになりそうだからな」
「そこはエドラスから近いんですか?」
ぱちくりと目を瞬かせながらは聞いた。
「いや、だがそこに行くまでの道は一つしかないから、そなたを狙おうとしてもおいそれとは近寄れぬだろう。ここは堅固な要塞だがアイゼンガルドに近いし、エドラスはグリマがいる。奴とは遠からず決着をつけるが、その間、そなたに危険が及ばぬとも限らないからな」
「ちょっと待ってください!」
は勢いよく立ち上がった。
「それじゃ、わたしに何もするなって言うんですか?ただ解決するまで待ってろと!?」
「そうだ」
「納得できません!狙われるとしたら、わたしよりもセオドレド様が先でしょう!?」
は叫んだ。
「だからこそだ。いいか、。私が狙われているにしてもはグリマはそうそう私には手を出せぬ。なぜなら第二軍団長という務めがあり、エドラスに入られないことが頻繁にあるからだ。しかし逆にいえばその間、そなたを守ることはできん。エオメルにもだ。彼もまた第三軍団長の務めがあるからな」
「自分の身くらい自分で守ります!」
「ろくに術も使えないと自分で言ったではないか」
「でも!」
「」
静かな声で呼ばれては続きをいえなくなった。
力なく椅子に腰を落とし、泣くまいと下唇を噛んだ。
「そなたの気持ちは本当に嬉しいと思っているよ。だが大事な客人に、危険なことはさせられぬ。そもそもなぜそこまでしようとする?私とエオレドを危険に近づけたからか?それならば不要な心配だ。我らは誰一人欠けることなく戻れたのだし、こうしてアイゼンガルドに対する対策を練ることができる。彼の地に行くことがなければ、そう遠からぬうちに我らは手酷い損害を受けていただろう。そなたはマークの未来そのものを救ったのだと私は考えているのだが」
「それでもわたしにやれることがまだあるはずです。どうして使えるものを使おうとなさらないの?」
痛いところを突かれたように、セオドレドは顔を歪めた。
「私は騎士であり王の子でもある。譲れぬものもずいぶんと多いのだよ。確かにそなたの協力を仰げば、グリマを早く叩き出すための有力な証拠が出てくるかも知れぬ。父の病が治るかもしれぬ。しかしそのためにそなたが魔女と皆に知られよう。そうなればいわれのない悪意や中傷を受けることにもなるだろう。それほどまでに我らは魔法を恐れているのだ。私自身、そなたを深く知る前はそうであったのだから」
「しかしながら殿、陛下がグリマを処分しなければあの男は変わらず宮廷にのさばることになりましょう。わたくしとしましても年若いご婦人を危険にさらすのは本意ではございませんが、それでも殿の協力は必要かと存じます。騎士は剣を持って戦うことが本分、魔法には抵抗する術がございませぬ」
エルケンブランドは慎重に口を開いた。
「殿の仰ることにも一理ありますが、しかしながらそこまで悲観することもないかと思われます。結局人はその人の振る舞いを見るものです。身分や財産を持ち、力に優れようと、驕った態度、悪しき振る舞いをするものには人は心から頭を下げたりはしないものです。逆もまた然りです。無論何も起こらんとは申しません。一朝一夕に受け容れられるものでもないでしょう。しかし殿が真心からエオル王家に忠誠を誓い、その通りに振舞えばいずれ解決する問題です」
グリムボルドは顎鬚をしごきながら渋面を作った。
老雄二人にとりなされて、セオドレドは苦笑を浮かべた。
「あとは、本人がそのことを理解したうえで実行するかどうかですな」
最後に少女のほうをちらりと見て、グリムボルドは口を閉じた。
エルケンブランドも同意をこめて頷く。
「覚悟はしていたつもりですけど、改めて言われますとさすがにきついですね。はっきりいって、ちょっと腰が引けました。でも落ち着いて考えれば、やはりわたしはセオドレド様のお役に立ちたいと思うと思います。あとは一歩を踏み出すだけ…」
はしばらく手を組んでじっとしていたが、やがて晴れ晴れとした表情になった。
わかっていたことではないか。今更しり込みしてどうするのか。
しかしセオドレドはの微笑に苦痛を感じているような表情になった。
「私が懸念しているのはそれだけではない」
「と、いいますと?」
「そなたが是非にもこの件に関わるというのであれば、やってもらいたいことはある。無論グリマの動向を探り魔法使いの罠を回避することだが、そなたにはいずれ迎えが来るのだろう?それがいつなのか自分にもわからないと。となれば今日明日にでもいなくなってしまうかもしれない。たとえそなたが首尾よく宮廷に溶け込めたとしても、そうなってしまえば何もかも水の泡だ。だから途中で迎えが来ても帰しはしない。それ以前にどのように変化するかも読めないのだ。それゆえそなたが予想していないことを命令するかもしれない。しかしその時も拒否権はないのだと思って欲しい。物理的に不可能なことを命じることはしないが、精神的にできないということをさせてしまうかもしれん。それは闇に紛れて敵を殺せという類かもしれないし、そう命じられた方がはるかにましだと思うようなことかもしれない。そして何度も言うが安全の保障すらできぬ。やるか、やらぬか、ただこれだけだ」
は突きつけられた要求の厳しさに呆然となった。
エルケンブランドとグリムボルドも口を挟むことができないでいる。
「このことをよく考えて結論を出してくれ。それでも関わるというのであれば、私は歓迎しよう」
少女の顔から血の気が失せたのを見て、セオドレドは痛ましそうに目を細めた。
は返事をしようとして口を開きかけ、何も言えずに閉じた。
『やる』といいたいのだ。そうしなければ自分は後悔するのだと感じていた。
しかしそう答えたらもう後戻りはできない。最悪、帰ることすらできなくなるだろう。
が言葉に詰まっているのを察して、セオドレドは立ち上がった。
「…今日はこれまでにしよう。返事はエドラスに着くまででいい。着くまでに返事がもらえなかった時にはこの話はなかったことにする」
「…!」
は反射的に首を振ろうとした。セオドレドがそれを制する。
「部屋まで送っていこう。もう休め」
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