夜もまだ明けやらぬ早朝。
は風に当たりに城壁に上がった。
昨日はほとんど休みなしでアイゼンガルドから逃げ帰り、その後は会議に参加してくたくただった彼女は、セオドレドに言いつけられるまでもなく寝室に戻るとあっという間に寝入ってしまった。
本当はセオドレドにいわれたことをよく考えようとしていたのだが、疲労には勝てなかったらしい。
しかしその分早くに目が覚めたので、まだぼんやりする頭をはっきりさせるために部屋を出た。
早朝とは言っても、ローハンの人々の感覚では早すぎるわけではないらしい。
起きている人の気配はあちこちからしているし、台所にも火が入っているようだ。
(なにか具体的な手を打たないと、ここも戦場になるのかもしれないのよね)
馴染みつつある異国の穏やかな朝の様子を、は沈んだ様子で眺めた。
この国はが驚くほど戦いが身近にある。
男たちは招集をかけられるとすぐにも戦装束に身を包み、戦地に赴く。それが見回り程度のものであっても、楽観はできない。オークの一団に遭遇した場合には何人か帰らぬものが出るのが常だったからだ。
それでも女たちは男たちを送り出す。
そうしなければ、この国はとうに滅びていたのだろうから。
武器を持ち、戦わなければ生きていけないというのはどれほどつらいものなのか。
はその一端を知り、自分も彼らのために何かをしたいと思った。
恩返しの意味もあったが、ここで暮らす以上はそれが義務なのだと思ったからだ。
いつまでもお客さんではいられない。
(でも、具体的になにをしたらいいのか、セオドレド様、教えてくれないのよね…)
がこの件に加わるのであれば、最後まで関わらなければいけない。
それは当然の要求だろうと思うが、だったら、セオドレドは自分に何を求めているのだろう?何をさせたいと思っているのか。
会議での彼の表情を見る限り、どうやらそうとうやらせたくないことのようだ。それも、おそらくが傷つくからという理由で。
その考えはをひどく萎縮させた。
役に立ちたいのに、尻込みしている自分がいる。
(どうしたら…)
朝の冷涼な風に触れ、はっきりと覚醒した意識は深い思考の淵の中に沈み込んだ。
ぼんやりと自分でも知らない間に歩いていたは、後ろからぶつかってきた何者かによって前のめりになった。
「あきゃ…!」
「も、申し訳ございません!」
すんでのところで踏みとどまったは、甲高い子供の声に振り返る。
「ああ、ハレス。びっくりしたわ」
その子供には見覚えがあった。黄金館の近衛隊長であるハマの息子だった。見習い騎士になるにもまだ早い年齢なのだが、エドラスの不穏を感じ取ったハマが息子をここに送ったのだ。
ハレスは藁を腕いっぱいに抱えていた。
そのせいで前がよく見えなかったのだろう。
「ごめんね、ぼんやりしていたものだから…」
「いえ、わたくしこそ失礼いたしました。お嬢さま、おけがはございませんでしたか?」
精一杯丁寧な物言いにしようとしゃちほこばってしまう少年を、いつもなら苦笑交じりで見守るだったが、ものすごく違和感のある一言に、思わず顔が引きつってしまった。
「はい?」
聞き間違えたのかと思い、聞き返すに、ハレスは
「あの、どうかしま…いえ、なさいましたか?お嬢さま」
「ちょ…何それ、お嬢さま!?」
彼の思惑 彼女の選択
「殿下―――!!」
セオドレドの部屋の前には見張りの兵が控えている。彼らに断る余裕も向かう先が男性の私室だということもすっかり頭から抜け落ちた少女は血相を変えて王の息子の部屋に飛び込んだ。兵たちはといえばの慌てふためいた様子に止めることなく素通しした。無論、止めようと思えば止められるのだが、なんとなくそうしてはいけないような気がしたのだ。
彼らの前を風のように通り抜けていった少女の背中を見送り、後で自分たちが叱られるかどうかを賭けると、何事もなかったかのように元の勤めに戻っていった。
「…」
セオドレドは額に手を当てて肩を落としていたのだが、は気づかずにずんずんと詰め寄る。
「わたしがエルケンブランド様の養女って、どういうことですか!?」
するとセオドレドは、納得したように軽く頷く。
「ああ、もう聞いたのか」
あっけらかんと言うセオドレドに、はめまいがするといったように両手で顔を覆う。
そう、ハレスに聞き出したことこそ、この「昨日、がエルケンブランドの養女になった」ということだった。ハレスは友達から聞いたというし、その友達は自分の父親から聞いたというのである。その父親はもちろん騎士である。
は王家の客人という身分であったので丁寧にもてなされていたが、基本的に若くて朗らかで人好きのする笑顔の持ち主であるため、人々はざっくばらんに話しかける。名前もたいてい呼び捨てで、礼節を非常に重んじる性格の持ち主だけが「殿」と呼ぶくらいだ。
「どうしてわたしのいないところで勝手に決めるんですか!?」
「エルケンブランドでは不満か?」
「そういうことではありません!」
セオドレドの飄々とした対応に妙に疲れを感じたはがっくりとひざを付いた。
「朝食のときにでも話をしようと思っていたんだがな。だが、知ったのなら話は早い。そういうことになった。そなたがどのような選択をするにせよ、グリマが手を出しにくい立場であるほうが望ましいと思ってな。エルケンブランドはマークの重鎮の一人。たとえ血のつながりがなくとも、彼がそなたを娘と呼ぶならばそなたとエルケンブランドは親子とみなされる。私としてもその方が安心できるのだ」
「…エルケンブランド様は何て…」
おずおずと問う少女を楽しげに見やって、セオドレドは、
「ん?二つ返事で承諾したぞ。彼には息子はいるが娘はいなかったからな」
と笑う。
「でも、セオドレド様がそうしろって仰ったからじゃないですか?」
そんなセオドレドをは恨めしげに見上げた。
「打算が何もないとはいわん。だが彼とてただ私の言うことを唯々諾々と聞くような御仁ではない。気に入らなければそういうし、耳に痛い忠言もしてくれる。そなたを養女に迎えるのは、私にとってもそなたにとっても、また彼にとっても有意義だと考えたからだ。ああ、だが、もし他に養父になってもらいたい人物がいるのであれば再考するが…。私はただ、そなたが知っている人物の方が安心すると思って彼を選んだのだが」
「そういうのは、ないですけど…」
「ならこれ以上私から言うことはとくにはない。まだ納得いかないようならば、エルケンブランドと直接話しなさい」
はセオドレドの表情を観察するように見つめる。
「…昨日の答えですけど、本当にエドラスに付くまで猶予を下さるのですか?」
「無論、そのつもりだが?」
セオドレドは不思議そうに聞き返す。なぜ話がそっちに飛んだのか、理解できない表情だ。
「わたしをここに置き去りにするために養女だなんて言い出したのかと…」
「なんと!」
セオドレドは呆れたように声を上げた。
「…申し訳ありません。疑って…」
は顔を真っ赤にして項垂れた。
セオドレドは腰に手を当てて首を振る。
「いやいや、これは私の落ち度だな。なるほど、そなたが慌てるのも無理はない。不安にさせてしまったのだな。そなたに義父(ちち)ができるのも、エルケンブランドに義娘(むすめ)ができるのも、なんら隠し立てすることではないと、特に口止めをしなかった…どころか、皆も早く知ったほうがいいと触れまわさせたからなあ。悪かった。まずはそなたに伝えるべきだったな」
「本当ですよ。ものすごく驚いたんですから」
「すまん」
まだ顔を赤くしてそっぽを向いたままの少女に、セオドレドは軽く頭を下げた。
「ところで…」
「はい?」
「一応話も区切りが付いたようだし腹も空いている。朝食をとりに行きたいのだが、着替えをさせてくれるかな?お嬢さん」
茶目っ気一杯の表情で、セオドレドは片目をつぶる。
「………」
ここにいたっては己の軽率さに思い至った。
ノックもせずに他人の部屋に(しかも王の息子のだ)入ったのだ。それに起きていたからまだ良かったものの、まだ寝ていたのであれば失礼なだけではなく、はしたない娘だと思われてしまうだろう。
もっともセオドレドの服装はシャツにズボンという軽装で、これは鎧や上着の下に着るようなありふれた衣類なのだが、よほど裕福な家のものが自宅にいる時くらいにしか専用の寝巻きを着ないという事実をすでに知っていたは、この時ようやくセオドレドが起きたばかりなのだということに気がついた。
はぎくしゃくと礼をすると消え入りそうな声で、
「失礼…いたしました」
と言ってくるりと踵を返した。
背後から心底愉快そうなセオドレドの笑い声が追いかけてきた。
エルケンブランドは笑い出しそうな、しかし笑うのは悪いという微妙な表情をしていた。
腹筋に力を込めているようで、上半身がわずかに震えている。
「…笑いたいのでしたら、笑ってください。エルケンブランド様」
は半分諦めたように乾いた笑みを浮かべる。
朝食が終わってもうじき出発という時間だが、セオドレドの薦めもあったので一度エルケンブランドと話すことにした。話の流れから、養女の件を知ったことを言わざるを得なくなったのだが、話し終わった途端に西の谷の老将はこんな具合だ。
同席している夫人は笑いをこらえている夫をたしなめるような眼差しを送っている。
エルケンブランドは咳払いを一つすると、
「いや、失敬失敬。しかし、急ぎの用であっても、やはり男の部屋に駆け込むのは慎まれたほうがよろしいですぞ」
と、今更のようにしかつめらしい顔をした。
「ええ。以後気をつけますわ」
しっかりとね、とはこっそり拳を握って自分に言い聞かせた。
「さて、養女の件ですが」
と、エルケンブランドが切り出したときにはすでに真剣な顔つきになっていた。
「すでに聞いておるようですので改めて言うまでもないですが、昨日わたくしはセオドレドの殿より殿を養女に迎えてほしいという要請を受けました。どんな形であれ今後マークで生活をする以上は客という身分よりも確かな身内がいたほうが良いというご判断からです。わたくしはそのことに否やはございませぬが殿にはご不満がおありなのでしょうか」
「不満というわけではありません。ただあまりにも急なので驚いているのです。ですがエルケンブランド様、それにヒュイド様、後見人に、というのならばともかく、養女というのは問題ではありませんか?マークの重鎮である方が、こういうことを急いで決めるというのは、内外に問題を起こすことにはなりませんか?」
エルケンブランドは眉を片方持ち上げ、興味深そうにを眺める。
「強引であることはわたくしも殿下も承知しております。しかしあなたはご自分で自覚している以上に危険な立場にいるのも事実です。これからエドラスへ戻るわけですが、断言してもよい、たとえ馬鍬砦にいようとも蛇の舌はあなたを狙うだろう。あなたの能力を多少知ったとはいえ、まだわれらにとって未知数です。グリマにとってはなおのことそうでしょう。どこで足元を掬われるかわからないという恐怖から理不尽な命を出し、あなたを処刑しようとするかもしれないのです」
「でも、わたしは陛下から認められた客分ですし…」
エルケンブランドは沈痛な面持ちで頭を振る。
「すぐに片がつけられるのでしたらそれでもいいのですが…。陛下が蛇の毒に犯されている以上楽観はできないとわたくしどもはみております。蛇の舌のささやきで、客人の身分は奪い去られてしまうでしょう。それに、わたくしどもの養女というのも、実はそれほど強力な守りにはならないということも、予め知っておいていただきたい」
「……?」
はエルケンブランドとヒュイドを見比べた。
「わたくしどもには二人の息子がおりました。長男はエオメル様麾下のエオレドに、次男はエドラスで近衛隊に配属されました。しかし次男は昨年の夏、グリマの姦計によって処刑されたのです」
「それは…」
が悔やみの言葉を言おうとするのを制してエルケンブランドが続ける。
「われらの嘆願がエドラスに届く前に、言い掛かりとすら言えない罪状を被せられ、息子は殺されました。あなたが滞在していたときに一度も起こらなかったのは幸いなことです。が、マークでは今までにこうして何人もの忠節の騎士、将来有望な若者が殺されているのです。ですから、あなたも巻き込まれるおそれは十分あります。とはいえ今まで具体的な対抗手段をとらなかったのはわれらの落ち度です。ただただ陛下が毒の息吹から目覚め、グリマを処罰するよう申し上げるだけだったのですから。真の敵も知らず…。しかしようやく機は至りました。われらは反撃にでます。遠からず、マークとアイゼンガルドの間で戦が、それも大規模なものが起こるでしょう。ここは前線地帯となり、エドラスもまた危険にさらされるでしょう」
西の谷の領主は厳しい顔に思いやり深い表情を浮かべ、少女をまっすぐ見つめた。
は引き込まれるように義理の父となった騎士を見上げる。
「あなたは選択を迫られている。どのような答えを出すか、わたくしは今は聞かないことにいたしましょう。だがこのことだけは覚えておいていただきたい。セオドレド殿下が仰ったことはたしかに厳しいものでしたが、そうしなければならない事情がマークにはあるのです。一時の同情で選んではいけません。われらがマークを愛するように、あなたにも愛するものがあるでしょう。命をかけようというのなら、あなたの愛するもののためにするのです。秤にかけて、悔いのない道を選びなさい。それは罪ではないのですから」
エルケンブランドは父が娘に言い聞かせるように優しい声で懇々と説く。の両目からは涙が溢れていた。
「わたし…っ、なにかしないではいられないんです。助けてもらったのに、お返しが出来ないのが心苦しくて…!でも、もし、関わるなら帰れなくなるかもしれない。それが怖いんです。わたしには故郷と決別する勇気は…」
は口元を手で覆ってすすり上げる。エルケンブランドは痛ましそうに少女を見つめた。
「帰りたいんです。でも、まだ短い間しかいないけど、マークも好きなんです。本当に…。猶予がエドラスに付くまでだなんて短すぎるんです。二日もないじゃないですか。もう少し時間があれば心を決められるのに!」
嗚咽を上げ、泣き崩れる少女の傍らに膝をつき、エルケンブランドはゆっくりとかみ締めるように言い含めた。
「非情なようですが、それが現実です。おおいに迷い悩み、結論をお出しなさい。どちらを選んでも、セオドレド様は責めますまい」
「あの方は、セオドレド様は、わたしに対してはどうこうしてほしいとは言ってくださらない。勝手に決めるか、わたしがどうしたいかと聞くだけ!何を望んでいらっしゃるのかわからなければ、わたしだって答えようがないのに!」
はきっと顔を上げて流れる涙もそのままに叫ぶ。
戸惑いは怒りへ変じた。
セオドレドがの意思を尊重しているのはわかっている。
危険なことに巻き込むまいと案じていることも。
だがセオドレドがあまりにも自分には具体的なことを言ってくれないので、かえって遠く感じるのだ。
だが頭の中の冷静な一部が、自分は怒っているのではないと告げている。
自分は悔しいのだ。
こんなふうに、地団太を踏む子供のような振る舞いは、自分が未熟だからに他ならないのだと。
自分の力のなさをセオドレドに、そして目の前の騎士に当たっているだけなのだと。
「あの方はわたしにどうして欲しいのですか?エルケンブランド様ならご存知でしょう?」
「…伺っております。だがお話しすることは出来ません。あの方の胸の内を知れば、あなたは引きずられてしまうでしょう。それでは意味がないのです」
「エ」
「ですが、セオドレド様はあなたを大切になさっています。お話を伺ったときには正直、どうしてそこまで、と思いましたぞ。あなたが異国人で、マークに来てまだ一月ほどしか経っていないことを考えると、驚くべきことです」
は叫ぶのも忘れて、力が抜けたように呆けた表情になった。
、とヒュイドが心配そうに声をかける。
はしばらくぼんやりとしたまま宙を見つめると、ややあってのろのろと立ち上がった。
「申し訳ありません…取り乱して」
「大丈夫かね」
は目を閉じて何度も頷いた。瞼を閉じた拍子にわずかにまつげに残っていた涙がほと、と落ちる。
「大丈夫です。ええ、大丈夫です」
門の方からから出発を促す召集の声が聞こえた。
「大丈夫…」
角笛城を出発してから日が暮れるまで、昼の休憩を取る以外はずっと走りとおした。
よほどの急ぎでもない限り、野営の際はテントを張る。それにも慣れてきたはなかなか手際よく仕度を済ませ、パンとチーズと干し肉という簡単な夕食を食べた。
その後は特にやることはない。
見張り以外はあまり遅くまで起きているものはいないし、第一疲れているのだ。
いつもならすぐにもまどろんでしまうのだが、今日はやけに目が冴えて眠れない。
原因は無論セオドレドの突きつけた選択のことだ。
はすでに徹底的に関わろうと心を決めている。
しかしまだセオドレドには言っていない。
朝には出発前に言おうとしたのだが、結局勇気が出なくて言えず仕舞いだった。
だったら次の休憩のときに、と決意したが、言おう言おうとすると息が詰まるような感覚に襲われて、頭が真っ白になり、その時も伝えることはできなかった。
日が暮れてくると今度は、もうそろそろ野営の準備か、まだ走るのか、と徐々に迫ってくる休憩時間を思い緊張で身体が震え、気が付くと手袋の中は汗でぐっしょりと濡れていたほどだった。
そして今に至る。
(わたしの意気地なしー!)
毛布に包まって、は頭を抱えた。
情けなくて涙が出てくる。
夕食はセオドレドと彼の側近二人とで取ったのだが、その時も結局言うことが出来なかった。
何度も言おうとしてちらちらとセオドレドを見たのが、彼が視線を向けるてくるとどうしても言葉が出なくなるのだ。
当然セオドレドと側近たちもそのことには気づいており、自然と会話はぎこちないものとなった。
気まずい夕食が終わると―緊張がひどすぎて、夕飯は半分残してしまった―しばらく焚き火の前に座っていたのだが、やはりどうしても「引き受ける」の一言がでてこなかった。
(どうして言えないのよ!?決めたじゃない、決めたじゃない、決めたじゃない!)
毛布の中でごろごろしているとだんだん息苦しくなったので頭を出す。
(明日こそ、言うのよ。絶対。時間がないんだから。エドラスに着いちゃったらもう終わりなんだから!)
そう言い聞かせて、明日のためにも眠ろうとしたが、空気の塊に押しつぶされているような圧迫感にさいなまれて、とろとろ眠ったかと思えば覚醒するということを何度も繰り返し、朝が来るまでまともに寝ることはできなかった。
だが次の日の朝にも、昼の休憩のときにもやはり言うことは出来なかった。
太陽がやや西に傾く頃、草原の向こうに王城のある丘が見えてくるとの心臓は大きく跳ね上がった。
(あ…あ…、どうしよう。早く言わなくちゃ。早く…!)
はやや前方を走っているセオドレドの背中に目を移す。
少し馬足を速めて隣に並べばいい。
わかっているのだが、どうしてもできない。
心臓が引き連れているように痛み、どくどくと脈打つ鼓動が自分でも聞こえるほどだ。
浅い息をなんども繰り返すので、かえって息苦しくなる。そのせいで頭がぼうっとして、手綱を握り締めているのがやっとという有様だ。
このままエドラスに到着し、なにもかもなかったことにするというのか。
それはそれで楽だろうな、とは思い始めた。
空が赤く染まりだす頃にエドラスの門の前に到着した。
門を開けた兵のねぎらいの声に答えるために、セオドレドは馬足を弱める。
はくらくらする頭を持ちあげて、門の上に目を向けた。
黄金館の入り口には風に翻るマークの旗が掲げられている。
旗の足元には金色の髪をなびかせた人影が見えた。
ドレス姿の婦人はエオウィン、鎧を着ていない背の高い男はエオメルだろう。
「あ…」
もう、駄目だ。
そう思ったとき、の手は自然とセオドレドのマントに伸ばされていた。
「…?」
「やります」
セオドレドが振り向くと同時に、胸の中の空気をすべて吐き出すように声に出す。
「やります。わたし、馬鍬砦には行きませんから」
「後悔を…」
するのではないか?と問おうとするセオドレドに、は泣き出す寸前といった風情で顔を真っ赤にしてまくしたてた。
「もうすでに後悔しています。ああもう、とうとう言っちゃったわ。でもやらなくたって後悔するに決まってますもの。どうせ後悔するなら、やれることをやってから後悔する方がいいって、言うじゃないですか!ああ、もう、本当に、どうしよう…!」
泣いているようにも怒っているようにも笑っているようにも見える表情でセオドレドを睨み付けている。
セオドレドは混乱する少女をなだめるように頭を軽く叩くと、「ありがとう」と囁いた。
厩の前まで速度を落として乗り進めていくうちに、少女は幾分落ち着きを取り戻した。
「それで、わたしはなにをどうすればいいのですか?」
セオドレドはふむ、とあごに手を当て、少々困ったように眉を寄せた。
「初めが肝心なのだが、打ち合わせをしている時間がないな…。関わるにしてもこんなぎりぎりに返答をもらえるとは思っていなかったから。、私はそなたを馬鍬砦に送る算段を考えていたところだったのだぞ。だが、せっかくの申し出だ。十分働いていただこう。何はなくとも、グリマの正体を皆の前で暴くのだ。奴が何を言おうと、ひるむな」
「了解。ぐずぐずしてたのはわたしのせいだものね」
は肩をすくめておどけて見せた。
身体が小刻みに震えているのは、きっと武者震いだろうと言い聞かせて。
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