蛇と魔女










エドラスの門を出てすぐの広い平原には冬以外の季節は毎日のように馬が放牧されている。
囲いはないが、遠くに行きすぎてもすぐに連れ戻せるように八方に見張りを配置していた。
身体の大きな馬たちが思い思いに草を食んだり駆け回っている一方、今年の春に生まれたばかりの仔馬は母馬のあとをちょこちょこ追いかけている。
「いつみても壮観だなあ」
ボロミアは腕を組んで満足そうに呟いた。
ゴンドールにも多くの馬がいるが、擁する兵の数からすれば騎馬を持っているのは全体の一部でしかない。一方ローハンは兵の数こそゴンドールに及ばないが馬持ちでないものは一人もいなかった。
歩兵と騎兵では移動速度に天と地ほどの差がある。また、騎兵の集団が攻めかかれば武具のみならず馬の蹄によって敵を蹴散らすこともできた。
ローハンの強さはまさにその機動力と集団的な攻撃力にあった。
ここにいる馬はのんびりしているように見えても、躍動する筋肉の力強さは隠しようもない。今はまだポニーよりも小さい仔馬も、三年もすれば臆することなく戦場を駆け回るだろう。
活気に溢れる放牧場の様子に、ボロミアは知らず口元に笑みを浮かべていた。
「どうだボロミア、気に入ったものはいるか?」
セオドレドはのんきな調子で後ろから近寄ってきた。
午前中であるとはいえ、夏の最中にもかかわらずシャツの上に鎖帷子を身につけ、袖なしの上着を着ている。
万一のことを考えて外に出るときはいつもこうなのだ。
シャツの袖は肘までまくっているが、暑いものは暑い。
それは同様の格好をしているボロミアにはよくわかっていた。
「どれも立派な馬で正直目移りがしている。だが、あそこにいる馬は他とは比べ物にならないな」
ボロミアが視線を動かすと、セオドレドは人の悪そうな笑みを浮かべた。
そこにいるのは銀色の毛並みの大きな馬―飛蔭だった。
「飛蔭に挑戦してみるか?振り落とされずに乗りこなせるのなら、父も駄目とはいうまい。もとより、お前の気に入った馬をやろうと言っていたのだから」
ゴンドールとローハンの世継ぎたちのやりとりなどまるで気にも止めない様子で飛蔭は悠然と歩いていた。後ろには若い馬が何頭か嬉しそうに後を追っている。彼が通りかかるとどの馬も敬意を表すように耳を立てた。と同時に口が開くので笑っているように見える。
臣下の礼を受ける王のような飛蔭をボロミアは感嘆したように見つめていたが、すぐに残念そうに首を振った。
「いや、とても私に乗りこなすことはできないだろう。あれはローハンの馬の王ではないか。マーク王その人ならばともかく、私などではとても乗せてもらえまい。例え乗せてもらえるにしても、ロヒアリムの馬たちから彼らの王を奪うわけにもいかないだろう」
セオドレドは笑った。
「お前は時々我らのようなことを言うな。馬たちを乗り物としてではなく、友として見る…。お前のそういうところが私は好きだよ」
「からかうなよ、セオドレド」
ボロミアは半目になる。
「褒めているんじゃないか」
セオドレドはにやりと笑った。

めぼしい馬を教えようとするセオドレドの提案を断り、ボロミアは一人で放牧場の中を歩き回った。
事は旅の成功を左右する。同伴者となる馬はぜひ自分で見つけたかった。
人馴れしているローハンの馬は見知らぬ人間が近寄っても取り乱したりしない。それどころか興味深そうに眺めてくる。
どちらが観察しているのかわからないなとボロミアは心の内で呟いた。

彼の熱意は小一時間ほどで報われることになった。
「アルドールにしたか」
ボロミアが選んだ馬をセオドレドの前に連れて行った。
草原に腰を下ろしていたマークの世継ぎは馬の顔を見て、満足そうに頷いた。
「アルドールというのか」
ボロミアは艶々の明るい茶の毛並みで覆われた太い首をさする。
立派な体躯を引き立てるのは、顔の真ん中に入ったストライプだ。
「ああ、ブレゴの弟だ。少々落ち着きがないがその分物怖じはしない。力も充分ある。旅には向いているだろう。よい馬を選んだと思うよ」
ボロミアは素直なセオドレドの賛辞に屈託なく笑った。
馬の司であるロヒアリムから見る目有りと認められたのだ。嬉しくないはずがない。
「そうか。ではありがたくアルドールを借りよう」
「気に入ったのならそのままゴンドールへ連れ帰っていいぞ。お前の馬は先に帰しておけばいい」
セオドレドはいかにも当然の提案だというような口ぶりで言う。
ボロミアは目を丸くした。
「エオル王家のなんと寛大なことか。これほどの名馬をあっさりと旅人に譲ると言うのか!」
セオドレドは声をあげて笑った。
「お前だからだよ、ボロミア。マークの盟友、ゴンドールの勇士たる執政家の長子に、これくらいの贈り物はたやすいことだ。旅路の困難を考えれば、荷運び用と替え用にもう二、三頭連れてゆけと言いたい所なんだぞ」
「いや、それは遠慮しよう。今は夏だが暖かいうちに避け谷へ着けるかわからんからな。寒くなればそれだけ餌の調達が困難になる。アルドールだけならばなんとかなるだろう」
「そうか、残念だな」
「…ところでセオドレド、さっきから何をしているんだ」
ボロミアはとうとう我慢ができなくなって、恐る恐る尋ねてみた。
なんとなれば、セオドレドはボロミアと話している間、ずっと花を編んでいたからだ。
夏らしい色濃い華やかな花弁の花を器用に編んで作った綱は片腕ほどの長さになっている。
脇にはこれから使うためのものらしい花が置かれていた。
完成はまだのようだが、色の配色といい、形の整えられ方といい、見事なできばえである。
長さからすれば多分、首飾りか冠にでもするのだろう。
しかしこれが可憐な乙女が繊細な手で作っているのならば眼福の光景なのだが、実際に作っているのは背が高く恰幅の良い、さらにいうといい年した髭面の男なのであまりにも―あまりにもそぐわないのだ。
「花冠だ。にやろうと思ってな」
あまりにも予想された返答をされて、ボロミアは心の中でこっそりため息をついた。
「お前、仮にも王の息子だろう。もう少しよいものを贈ってやったらどうだ。ドレスとか宝石とか…」
「むろん贈ったとも。贈りすぎて最近では受け取ってもらえないんだ。今までつきあったことのある婦人は、遠慮しつつも最後には受け取ってくれていたものだから、のようにきっぱり断られてはどうしたらいいかわからんのだ。私に出来るのはとにかく押しまくることくらいだからな。だが花ならばまだ飾ってくれている。しかし花束だけというのも芸がないのでこうして形を変えているんだ」
放っておけばドライフラワーになるだろうかと首をひねる。
実際のところ、編んだ花をそのまま乾燥させても綺麗なドライフラワーにはならないのだが、セオドレドもボロミアもそこまでは知らなかった。
「そうか…結構苦労しているのだな」
きっと何度も作ったのだろうなあと思いながらも、友人の熱心さにボロミアにはそれ以上深く追求しないことにした。
「…遠いところから来たからな」
ぽつりとボロミアの耳に聞こえるかどうかという声でセオドレドは呟いた。
「ん?」
「本当にふいに現れたんだ。色々あって、今はエドラスにいてくれている。毎日を忙しく過ごし、少しずつ民にも受け入れられている」
低い声には切なげな響きが込められている。
ボロミアは友人の独白を黙って見守っていた。
「だが、ここはの故郷ではない。あの子は口にはださないがずいぶん寂しがっているんだ。しかしあの子は私に仕事のことでは相談してくれるが、こういったことは何一つ頼ってくれない。甘えてくれない。それが口惜しいんだよ、ボロミア。あの子は頑固で情に厚くていじらしいほど一途なんだ。グリマの件が…というより、アイゼンガルドの件が終わるまでは約束を守ってここにいてくれるだろう。そういう律儀なところも気に入っているのだが…。終わってしまえばあの子はただ帰還のみを願うだろう。だが私はな、ボロミア、を帰したくないんだ」
セオドレドは花に視線を落としながら、淡々と言葉をつむぐ。
「何があっても、何をしてでも、にはマークに残ってもらう。どうしても望みがないのなら、結婚はしなくてもいい。ただ、私の知らないところで、私の知らない世界で、幸せになることを祝福することはできない。ボロミア、今の私にとって恐ろしいことは、殺されることではなく、現れたときのようにあの子がいなくなってしまうことなんだよ」
ボロミアは暗い輝きを帯び始めた眼差しに危険なものを感じ取り、荒っぽく肩をつかんで揺さぶった。
「セオドレド、騎士たるものにあるまじき行いは…」
「ボロミア」
見上げてきたセオドレドはもういつも通りに戻っていた。
灰色の目には人を食ったような楽しげな光がある。
「怖い顔だな。私がに無体を強いると思ったのか?そこまで分別をなくしてはいないよ。には彼女の意思でマークに残ってもらうさ」
ふっと頬を緩める。
ボロミアは額に手を当てて呻いた。
「お前なあ…」
セオドレドはにやりと笑うと花綱の端を手早く始末して、綺麗な輪にして掲げてみせた。
どうだ、と出来合いを尋ねてくるが、いかにも手馴れたように作られた花冠は華やかだが可憐だった。
その時アルドールが興味深そうに鼻面を寄せ、食べられそうだと判断したのかぱっくり口を開けたので、ボロミアは慌てて手綱を引いた。











昼食が済むとボロミアは再び旅装に身を包んだ。
セオドレドと彼のエオレドもまた武装し、門の前に集まっている。
見送りに出てきたのはエオメルとエオウィン、それに留守役の騎士たちだ。
侍女を代表してユルゼとが彼らから少し離れたところで控えている。
セオデンは外に出られる体調ではなかったため、この場にはいない。相談役であるグリマも同様であった。
エオウィンは道中の無事を願った別れの杯をボロミアに差し出した。
「お飲みください、フーリン家のボロミア殿。お健やかに、往きて還りますように」
ボロミアは葡萄酒の入った杯を受け取り、飲み干した。
「お健やかに、エオル王家のエオウィン殿。帰りにまた寄らせていただきます。その時には珍しい北の地の話をしてさしあげられるでしょう」
エオウィンは嬉しそうに笑う。
ここのところ笑顔の少なくなったマークの姫の、久しぶりの明るい表情だった。
「楽しみにしておりますわ。ボロミア殿」
ボロミアは次にエオメルと別れの挨拶を交わしに行く。その間セオドレドはエオウィンに留守中のことを頼んでいた。
結局、状況が定かでない霧ふり山脈の東側を行くよりはと、ボロミアはアイゼン川を渡って南北街道を行くことにした。それならばとセオドレドは自身のエオレドを率い、途中まで送ることにしたのだ。彼自身はそうそう国を離れるわけにはいかないため西の国境であるアイゼン川までしか行かないが、二十人のエオレドをサルバドまでつけることを約束した。セオドレドはそのあとしばらく角笛城で西地域の様子をみるつもりでいた。二月は戻れないだろうと踏んでいる。
「ではエオウィン、留守中、父と館を頼む」
セオドレドは従妹の肩に手を置く。
「お任せくださいませ、セオドレド。道中お気をつけて」
エオウィンは微笑を浮かべて頷いた。
「ああ」
従妹の額に口付けして、セオドレドはその場を離れた。
「花冠はつけてくれないのかい、お嬢さん」
「仕事中…ですから」
からかう様な口調のセオドレドをは困ったように見上げた。
「若君、あまりを困らせないでくださいませ。何事も、ほどほどが一番ようございますよ」
ユルゼは精一杯しかつめらしい表情にしてみせたが、息子同然のマークの世継ぎが血気盛んな若者のように娘にかまい倒しているのだ。長い間彼が奥方を迎えないことに悩んでいた彼女としては念願が叶いそうなのであまり強くもいえない。しかし宮廷の風紀を監督する立場である侍女頭としては、たとえ王の息子といえどもあまりおおっぴらにやられては苦言を呈しないわけにもいかなかった。
「しばらくの間だがと離れていなければいけないのだ。今日は大目にみてくれ」
セオドレドはしおらしそうに頭を下げた。母とも慕うこの婦人にはさすがの彼も頭があがらないのだ。
「エオウィンを頼んだぞ、ユルゼ」
「承知いたしました、若君」
ユルゼはスカートをつまんで優雅に礼をする。
「ではな、。あまり無茶をするんじゃないぞ」
セオドレドは少女の頭をなでた。
「いってらっしゃいませ、セオドレド様。あまり無茶はなさらないでくださいませ」
は苦笑しながら切り返す。
肩を揺らして笑いながら、セオドレドは片手をあげて立ち去っていった。



見送りが済んだ侍女たちは通常の仕事に戻る。
もっともこの時期は昼食後に午睡をとる習慣になっているため、当番の者以外は各自の部屋に戻っていた。
はこの時間を利用して館にあるあらゆるものを検査して回っていた。この行動の評価はさておき、少女は働き者だといわれるようになったのだが、なんのことはない、彼女には昼寝の習慣がなかっただけなのだった。朝早く起きるとはいえ、以前の生活に比べればずいぶん早く就寝するので、特に睡眠が足りないということもない。
館の主な部屋や通路などは終わり、現在はセオデンの使う道具を中心に視ている。
貴重な品も多いだけに、必ずエオウィンかユルゼが同席していた。
今日もエオウィンの部屋に衣服を二着と身の回りの品を五つほど運んで『検査』をしてみた。独特の呼吸法で精神を研ぎ澄ませ、調べる対象に手をかざし、魔法がかけられているかの有無を見極める。
今のところ、そのような品は一つも見つかっていなかった。
セオドレドの肝煎りで勤めだしてもうじき三ヵ月になる。はかばかしい結果が出せないだけに、焦りの色が見え始めていた。
今日の結果も同じだった。

いつものことだと思いながらも、いつもと同じでは駄目だという思いから落胆を隠しきれずには今日の検査で使った服を返しに衣裳部屋を向かう。小物はエオウィンがセオデンの部屋に行くついでに返却するのだ。
「おや、これは…」
物思いにふけっていたは声をかけられて我に返る。
向こうからグリマが苦虫をかみ締めてような顔で歩いてきていた。
グリマはの持ち物と表情から彼女がなんの成果もあげられなかったことをすぐに読み取り、勝ち誇ったように鼻で笑った。
「いい加減、諦めたらいかがか、殿。ありもしないものを探すなど、愚の骨頂というものではないですか」
「諦めたらそこで終わりです。それにまだすべて検査し終えてはいません」
は冷ややかに返した。
「だけど最近は、探し方を間違えているような気がしてきているの。このことに関してあなたはあまりにも自信たっぷりになるのですもの。きっとわたし、見当違いをしているんでしょうね」
唇の端をあげるだけで目は少しも笑っていない。
『魔女の微笑み』と呼ばれるようになった少女の笑みは、宮廷でグリマと対抗できる数少ない技とされていた。
グリマは反射的に立ち止まる。気圧されるものかと忌々しげに少女を睨み付けた。
「言葉を選んだ方がいいぞ、小娘。若君の後ろ盾があるからと好き勝手に振る舞いおって。陛下もご子息には甘くていらっしゃるから、貴様の不敬を咎めようともせん。いつまでもマーク王の相談役に楯突くのであれば、相応の報いがあると思え」
「セオドレド様がいなくなったから早速脅しにきたってわけ?やれるものならやってみなさいよ」
丁寧な口調をかなぐり捨てて、少女はグリマに対峙していた。
挑発的な言葉に、グリマは激昂する。
「私にできないと思っているのか!?思い上がるなよ、魔女め!」
「それならそれでもいい。わたしが死んだら、セオドレドは腕ずくでもあなたを処分するだろうから。あなたがいなくなれば少なくとも一つは悩みの種がなくなるのだもの、悪くないわ」
「な…」
男は圧倒されて一歩後退した。
「わたしがどれだけセオドレド様に感謝してるか、あなた、わかってないわ。異世界から来ただなんて、自分で経験しなければわたしだって信じられなかったわよ。なのにセオドレド様は信用して受け入れてくれた。何度も励ましてくれた。この人がいれば大丈夫だと何度思ったか。わたしはあの人のためならなんだってするわ」
「ほう、その割には若君の求婚はずいぶんすげなく断っているようじゃないか」
ひるませるかのようにグリマはの痛いところを突いた。少女は寂しげに笑う。
「しかたがないわ。わたしはロヒアリムではないのだもの。外国人でも異世界人でも構わないと応援してくれる人もいるけど、でもやっぱり、良いわけないでしょう?余計な騒動の種になるだけだもの。あのひとの気持ちは嬉しいけど、応えるわけにはいかない。わたし、この件が終わったら、迎えがくるまで馬鍬砦にいようと思っているの。西の谷だとセオドレド様に会わないわけにはいかなくなるだろうから」
しばらく間を置いてグリマは低く呟いた。嫌悪の色は薄らいでいるが、軽蔑に満ちた声音だった。
「あんたが離れてゆけば、若君は追ってゆくだろう。なんの解決にもならん」
「そうかもしれないわね」
は自嘲した。
「…本気でアイゼンガルドに勝つ気でいるのか?」
サルマンとのつながりを認めたとも取れる発言にははっとして目を見開いた。
「グリマ、あなた…」
グリマは重そうな瞼で半分閉じているような表情で、何を考えているのかまでは読めなかった。だが、今なら男と腹を割って話せるかもしれないという想いがよぎった。はこの男に関して前から疑問があったのだ。
「あなたがどう言おうと、あなたの行動がすべて語っているわ。あなたはサルマンの側についてる。そしてマークを内側から壊そうとしている。でも、どうして?」
「……」
「あなたもロヒアリムなのに。わたしみたいに余所から来たのじゃない、この地で生まれてこの地で育ったんでしょう。何年か前までは普通の、というのがどういう感じなのかわたしにはよくわからないのだけど、普通の相談役だったって皆言ってたわ。そのマークを売るような真似をするどんな理由があったの?」
は魔女の微笑みを引っ込め、真っ直ぐグリマを見つめた。涼やかな声にも真摯な思いが満ちている。
「あなたには魔法がかかっているようには見えないの。だから、サルマンに操られているわけではないわね。でも魔法なんか使わなくても人をいいように扱うことはできるわ。一つはあなたもさっきやったわね。脅迫よ」
「そんなことはされておらん」
疲れたようにグリマは答えた。
反応が返ってきたことに力を得て、は熱心に言葉を続けた。
「では見返りを約束されたの?それとも待遇に不満があったの?なんにせよ褒められたことじゃないわ。サルマンの言い分を本気で信じたわけでもないでしょう?あの魔法使いが堕ちたる者だとわからないわけがないもの。マークの人たちも今ではアイゼンガルドが敵になったと信じているわ。あなた一人が庇い立てしてもどうしようもない、ううん、だからこそ、あなたは裏切り者だと皆も信じるようになったのよ。そうやって一人で皆を敵に回して、得られるなにかがあるというの?」
「知った風な口を利くな、小娘」
グリマは憎しみのこもった口調で吐き捨てた。怒りのために青白い顔色がどす黒くなっている。
「貴様のようなめでたい頭の持ち主に私の想いがわかるものか。ロヒアリム、馬の司だと?つまらん戦ごとにしか興味のない山賊の集まりじゃないか。頭でものを考えることもできん愚かな連中に、私がさげすまれるいわれなどない!」
激しい口調には息を呑んだ。
「…それが、不満だったの…?武勇の方が、知恵よりも重んじられたから?」
は改めてグリマを仔細に眺めた。
日光にほとんど当たっていないだろう血色の悪い肌。体躯は小柄で痩せている。
一応ロヒアリムではあるのだから馬の扱いはできるのだろうが、武器を持って戦えるかは怪しいものだった。
思い返せば、マークの官吏にも武官と文官がいるが、文官にしても皆なかなか立派な身体の持ち主ばかりで、ぱっと見では武官と文官の違いはわからない。
グリマのような男はここでは例外なのだ。
(コンプレックス…?たしかにグリマはライオンの群れに混じったネズミみたいだもの、疎外感を感じてもおかしくはない。でもグリマはさげすまれると言った。わたしはグリマが悪者だと思われていたからそうなんだと思い込んでいたけど、そうなった原因があったのかも。ロヒアリムたちがどうがんばっても戦士にはなりそうもないグリマを馬鹿にしたとか…)
はローハンで過ごした今までのことを思い返す。
(ありえないといえないところがどうにも…。ロヒアリムって、嘘はつかないけど、その代わり感じたことは何でも口に出すからなあ。悪気がないからなお更きついのよね…)
グリマはそれ以上語ることはなかったが、にはなんとなく理解できるものがあった。
異色という点では二人は同類だったのだ。
だが、外から来たは「違う」ことが当然のこととして受け入れられたが、マークで生まれながら国人らしくないというのはそれよりも遙かに耐え難いに違いない。
は腑に落ちるものを感じ、それからグリマに同情した。
ばつが悪い思いはあったが、グリマを放っておくわけにはいかなかった。
「あんたの気持ち、わからなくもないけど、やっていいことと悪いことがあるでしょう?このままサルマンの手下でいるなら、あなただって、無事ではすまないわよ。勝つ気があるのかって、さっき聞いたわね。わたしも聞きたいわ。あなた本気でマークを牛耳るつもりなの?成功するって思っているの?サルマンは誠実な取引相手だと思っているの?」
グリマはしばし沈黙し、これ以上の話は無用とばかりに歩き出した。
とすれ違い、数歩進んで思い出したように振り替える。
「忠告しておく。私がエドラスを追放されようと、セオデン王のお加減はよくならん。また、たとえ良からぬものがあったとしても、私を糾弾することはできん」
「それはどういう…」
グリマはの疑問を遮る。
「今更、引き返すことができるものか」
さっと背を向け、グリマは廊下の暗がりに溶けて見えなくなった。
取り残された少女は男が見えなくなってもずっとその場に立ち尽くしていた。







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