七月も半ばに入り、日に日に暑さが増してくるようになった。
黄金館は広さはあるが窓は以外に少ないため、この季節は暑さがこもるのだ。
そのため昼食が終わると、館の住人は休息をとる。
この時間は夜の次くらいに静かな時間帯だった。
だがこの日はいつもよりざわめいていた。
それというのも昼前にエオメルの部下が客人が来るとの知らせを持ってきたからだ。
現在のマークは旅人の通行を厳しく取り締まっているが、同盟国であるゴンドールの人間は別だ。特にエオル王家ともゆかりのある者であれば歓迎をするのは当然だった。
客人はゴンドールの執政家長子ボロミア。
彼はエオメルと合流し、黄金館に向かっているという。
南からの旅人
「ようこそおいでくださった、ボロミア殿。ゴンドールの様子にお変わりはないか?」
玉座のセオデンは暑い最中であるというのに毛皮の裏打ちのしてあるマントを着ていた。
顔は白く、杖に寄りかからなくてはじっと座っているのも苦痛の様子だった。
はエオウィンの侍女として廷臣たちの後ろに控え、南の国からの訪問者との謁見の様子を眺めていた。
「お久しゅうございます、セオデン王。オロドルインの火口からふたたび煙が立ち上ってからというもの、黒い国の力はますます大きくなってまいりましたぞ」
一礼して顔をあげたボロミアはセオドレドと同年ほどの背の高い戦士だった。
旅塵で汚れてはいたものの、その立ち姿には威風堂々とした力強さと誇りがある。
ボロミアはセオデンの様子に一瞬目を見張ったがすぐにもとの表情に戻り、よく通る声でゴンドールの出来事を話して聞かせた。
「―そして六月の二十日、モルドール側の攻撃を受けオスギリアスに駐屯していた我が部隊は全滅したのです。数において劣勢でありはしましたが、それだけが理由ではありません。というのも敵側には以前とは違う力が見受けられたのです。その力とは目で見ることが出来るという者もおりましたが、正体はわからぬのです。ただ月下の暗い影のごとくそれが現れるや、我が方はどれほど剛の者であっても恐怖に襲われ、堪えきれずに逃げ出してしまい、一方敵側は狂喜で意欲満々と襲い掛かってくるのです。しかしオスギリアスの東側は失われたとはいえ、西岸はまだ我らの手中にあり、今なお戦い続けているのです」
玉座の下にうずくまるように座っていたグリマはここで立ち上がり、仰々しく礼をして口を開いた。
「それではボロミア殿の此度のご訪問は赤い矢の使者としてのものでしょうかな?執政殿がお遣わしになられたのでしょうか」
赤い矢とは、鏃(やじり)の先端が赤く塗られた矢のことであり、ゴンドールからローハンへ危急の印として送られるものだ。援軍を乞いにきたのかと聞いたのだ。
丁寧ながらもじっとりとした話し方にボロミアは不快そうに目を細めた。
「グリマ殿とおっしゃいましたな。わたくしはセオデン王に話しているのです。たとえ貴君が王の相談役といえど、主君に先立って口を開くとは無礼ではないか?」
執政とは王の補佐役のことだ。しかし王が失われて久しいゴンドールでは実質的に最高権力者である。その執政の長子であり次期執政である男は容赦なく一喝した。
これにはグリマも怯んだ。
「ボロミア殿におかれましてはご不快もごもっともです。しかしお分かりの通り、セオデン王はお加減が悪く、謁見をするのも難しいのです。ボロミア殿はわが国にとって大切なお客人ゆえ、陛下は病をおしてお出になられましたが、それだけでひどくお疲れになるのです。それゆえ以後のお相手は不肖わたくしグリマがさせていただきます」
ボロミアの機嫌を伺うように上目遣いでグリマは腰を曲げた。
「わたくしは陛下から代行を任ぜられておりますゆえ」
「ふむ」
ボロミアはいたし方があるまい、というように頷いてからエオメルをちらりと見た。
年若い軍団長も目だけで頷く。
黄金館に来るまでに宮廷の様子はあらかた伝えていたのだ。
ボロミアはそれ以上激することもなく、話を続ける。
「わたくしが赤い矢の使者かと問われましたが、それは違います。いずれ救援を求めることがあるかもしれませんが、今ではありません。わたくしはある使命を帯びてこれより北方に向かうところなのです」
「北方に?しかし、ここより北は古の道も大いに荒れ危険も多い。どのような使命なのですかな」
意外な答えにグリマは重そうな瞼を持ち上げる。
「折れたる剣を求めよ。
そはイムラドリスにあり。
かしこにて助言を受くべし、
モルグルの魔呪より強き。
かしこにて兆(しるし)を見るべし。
滅びの日近きにありてふ。
イシルドゥアの禍(わざわい)は目覚め、
小さい人ふるいたつべければ」
ボロミアは突如朗々と響く声で詩を詠じはじめた。
最後の一節が高い広間の天井に反響し、消え去るのを待って執政の息子は再び口を開く。
「これは攻撃を受けた日の夜にわが弟ファラミアが見た夢の中で聞こえた声です。弟は同じ夢を何度も見、一度はわたくしも見た。しかしわたくしたちにはこの言葉の意味が理解できなかったので、父デネソールに相談いたしました。イムラドリスというのは遠い北方に存在する谷の名前で、そこには伝承の大家である半エルフのエルロンドが住まっていると伝えられていると父は申しました。しかし、それ以外の事柄…折れたる剣や兆、イシルドゥアの禍、小さい人というのはわからないと。しかしこれで夢のお告げは差し迫ったものであると感じた弟は熱心にイムラドリスを探し求めました。が、途中の道が不確かで危険に満ちていたのでわたくしが代わって旅立ったのです」
「それではボロミア殿はどこにあるか定かでないエルフの住む谷に行こうというのですか!」
グリマは驚いたような呆れたような声で叫んだ。
「定かではないが求める価値はあるでしょう。さて、そこでお尋ねしたい。ローハンにはイムラドリスについて何かご存知の方はいるだろうか?」
ボロミアは先の不安を感じさせない自信に満ちた様子で広間をぐるりと見渡した。
その時背の高い諸侯たちの後方に、隙間から顔を出すように立ち並んだ侍女たちの中にどう見てもロヒアリムには見えない少女を見つけ、一瞬釘付けになった。黄色味がかった肌の可愛らしい顔立ちの娘だった。あどけない顔は宮廷の他の者同様、ボロミアの問いかけに戸惑っているようだった。
「まことに残念ですが、われらが知っているエルフの住む所といえば、アンドゥイン上流のドウィモルデーネのみ。そしてそこに住むのは伝承の大家ではなく、女妖術師だといわれております。彼女の織る惑わしの網はそこを通る者を捕らえて決して放すことはないという…。もっとも、当宮廷の中にはそこから来たのではないかとわたくしが考えているものがおりますが」
グリマの当てこすりはに向けられてのものだったが、ボロミアが気付くはずもない。面白そうに片頬をあげ、
「それは興味深いお話です。ぜひその者と会ってみたいものですな」
「お戯れを。その者はマークの宮廷に無用の嵐を起こしているのです。ボロミア殿がお気にする必要はございませぬ」
グリマはいかにも心痛しているように顔を歪めた。
「ボロミア殿」
やっと振り絞ったような声でセオデンが呼びかけた。
ボロミアは拝聴の意を表して軽く礼をする。
「お役に立てず申し訳ない。しかし今日はわが館に泊まり、旅の疲れを癒されるのがよかろう。そして出発する際にはわが厩からどれでも好きな馬をお連れになるといい。わが国の馬は荒れ野でも充分に速く走れるゆえ」
ボロミアは顔を輝かせた。
「それは願ってもないこと、ありがたくお受けいたします」
歓迎の宴を催そうというセオデンの申し出を丁寧に断り、ボロミアは夕食をすませるとセオドレドの部屋へ向かった。
久しぶりに会う旧友と積もる話があったからだ。
その席にはエオメルも同席している。
酒盃を傾けながら交わす言葉は情勢の悪化を憂いて自然と重くなりがちだった。
「エオメル殿から伺ってはいたが、セオデン殿のお加減はずいぶんとお悪いようだな。ロヒアリムにしてはずいぶんと早く老け込まれたようじゃないか。しかし相談役のあの男はなんなのだ?はっきり言って、気に食わん」
セオドレドはボロミアの歯に衣を着せない物言いに吹き出した。
「ああ…すまん、相変わらずはっきり言うのだな、ボロミア。まあグリマの奴を気に入っている者は宮廷の中でも父くらいのものだ。もっとも正気を取り戻されてからもあの男を相談役にしようと思われるとは私には思えんが」
ボロミアはぴくりと片方の眉を上げた。
「やはりあの病は自然のものではないのか?」
「わからん。私は違うと思っているのだが、いかんせん病でない証拠が出てこないのだ」
「伯父上がお体を悪くされたのは四年前からですが、それ以来毎年夏は特に容態が悪くなるのです。それ以外の季節はさほどひどくはありませんが、そもそも薬も効いているのかどうか…」
エオメルは若々しい顔をぎゅうと顰めた。
昔から人懐こかったこの若者はずいぶんと男ぶりがあがったが、時折見せる表情は子供の時と同じだとボロミアはほほえましく思った。
「ところでボロミア、北に向かうというが、どの道を通るつもりだ?」
「ん?まあ最初は集落の多いほうが話も聞きやすいだろうから、アイゼン川を渡って南北街道に出ようと思っているが」
セオドレドはそれを聞くと考え込むように腕を組んだ。
「…それは危険かもしれない」
「なぜだ?」
「褐色人の動きが不穏なんだ。前から彼らとの間には確執があったが、本格的な争いに発展しそうになっている。彼らは小集落を作っているから大きな騒ぎになることは意外に少ない。が、今回は例外と考えている。それというのも彼らを煽り、纏めている統率者がいるからだ。オルサンクの、魔法使いだ」
「サルマンが!?まさか、彼がローハンと敵対するなど、考えられない!」
ボロミアは驚きのあまり杯を倒してしまった。
黄金色の飲み物がテーブルに広がり、床に滴り落ちる。
「ああ、すまん」
ボロミアは思わず立ち上がったがセオドレドはそれを制した。
「そのままでいい。すぐに代わりを持ってこさせる」
エオメルは従兄の代わりに立ち上がり、扉前の夜番の兵に新しいジョッキを持ってくるよう言いつけた。
「私は今年の春にアイゼンガルドに行き、サルマンに会ったんだ。オルサンクの様子は一変していた。サルマンもすでに白の魔法使いではない―」
セオドレドはアイゼンガルドで見たことをボロミアに語った。
ボロミアは徐々に真剣な顔つきになり、話が終わると打ちのめされたように顔を覆った。
「何てことだ…!」
「私はこの事を知ってからアイゼンガルド周辺と浅瀬の向こうに斥候を何人も送った。彼らの報告ではやはりアイゼンガルドには褐色人が大勢出入りしている。それだけじゃない、通常のオークよりもずっと体の大きい種類のオークがいるようなのだ。いくつかのエオレドがそれらと戦っている。やっかいなことに、それらは日の光を恐れないのだ」
「何だと…?」
ボロミアは信じられないと大きく目を見開く。
部屋の中に沈黙が広がる。
その時ノックをする音が響いた。
「入れ」
「失礼します」
入ってきた侍女の姿に、ボロミアの目は自然と吸い寄せられた。
広間で気にかけたあの少女だったのだ。
「セオドレド、この娘か?」
セオドレドの話では異世界から来たらしいという少女は侍女をしているという。ではこの娘なのだろうと察した。
「そうだ」
王の息子ははにかむように微笑んで頷いた。
「彼女がだ。、この後の仕事は?」
「ありません。おそらくセオドレド様はわたしを同席させたいのだろうからと、エオウィン様がおっしゃいまして」
読まれていたか、とセオドレドは苦笑した。
は机の上を手早く片付け、男たちにビールを注いで回るとボロミアに断りを入れて同席させてもらった。椅子が足りないので部屋の片隅に置かれているスツールを代わりにする。
ボロミアとは改めて自己紹介をしあった。
「しかし、魔法使いには会った事があるが、魔女は初めてだ」
「あまりお役には立てていませんけれどね」
が情けなさそうに言うと、ローハンの従兄弟たちは声をそろえて、
「そう思っているのは本人だけだぞ」
と真顔で訂正した。
事実は何もできていないと思い込んでいるのだが、「マーク王の代理人」である相談役の理不尽な命令はここのところ出ていない。それはこの少女の牽制が効いているからだろうと思われているのだ。
「魔法使いで思い出した。サルマンが変節した以上、いま一人もそうでないとはいいきれまい。ガンダルフがどうしているか知っているか?」
「ミスランディアか?」
ボロミアの返答には不思議そうに首をかしげた。
「ミスランディア?」
「ああ、わが国ではそう呼ばれている。灰色の放浪者という意味だ。ミスランディアならば昨年ミナス・ティリスに来たぞ。書庫に秘蔵されている古い書物や巻物類を調べたいと言ってな」
「何について調べていたんだ?」
「それは私は知らん。彼は少々苦手なのでな。だが弟はミスランディアに懐いていたから何か聞いていたかもしれない。彼はしばし滞在したあと、目当てのものを見つけたのか、急いで北へ旅立っていった。それ以降彼には会っていない」
「そうか…」
セオドレドは両肘をつき、組んだ両手に顎を乗せる。
「様子はどうだった?今までと違うようなことは?」
「ない、と思う。気付かなかっただけかもしれんが。…いや、それはないな。そうであれば父や弟が何か感付くはずだろう」
ボロミアは断言した。
「それからもう一つ。ニホンという国を聞いたことがあるか?」
セオドレドの問いには反射的にぴくりと身体を強張らせる。
「いや、すまんが私は知らない」
ボロミアは申し訳なさそうに少女を見下ろす。
「そうか…そうだろうな。異世界なのだから」
セオドレドは残念そうな、ほっとしたような表情で小さく息を吐いた。
「なんだか嬉しそうだな、セオドレド」
ボロミアはいぶかしそうに眉を寄せる。
セオドレドは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「いや、まあ、喜んでいいことではないが、帰しようがなければずっとここにいてくれるのではないかと思ってな。私は彼女と結婚したいと思っているから…」
「セオドレド様、だからそういうことをほいほい言いふらすようなことは…!」
がたしなめるように言いかけると、向かいでボロミアが盛大に咳き込みだした。
飲みかけのビールを危うく噴出しそうになったので急いで飲み下したところ、器官に入ってしまったのだ。
「大丈夫か?」
「ああ、ちょっと驚いただけだ」
咳き込みすぎてボロミアは涙目になっていた。
「ご覧の通りよい返事はもらっていないがな」
セオドレドはやれやれと首をふった。
しかしその声は楽しげだった。
「お前が結婚したら、こっちはいよいよもって見合い話が断れなくなるなあ」
ボロミアはぼやいた。
お互い四十にもなるといい加減結婚しろという声がうるさくなってくる。
いままでボロミアは「ローハンのセオドレドもまだ独身だから」という言い訳になっているようななっていないような理由でやりすごしていた。(そしてセオドレドも同じく「ゴンドールのボロミアもまだ独身だから」という言い訳を使っていた。)
ボロミアの知るセオドレドという男は、欲しいものはなんだかんだといってちゃんと手に入れているので、少女がセオドレドに落とされるのも時間の問題だろうと思った。
「悪いな」
少しも悪いと思っていない口調でセオドレドは笑った。
「…どうして誰も彼も決定したように言うんでしょうか」
は声を荒げる気力もないと遠い目になる。
その言い方が気になったボロミアは、
「殿はセオドレドでは不満なのか?友人だから言うのではないが、彼は良い漢だぞ」
言い訳材料がなくなるのは惜しいが、それと友情は別だ。セオドレドが幸せになるのなら、応援をするべきだ。
「やはりそう思われますよね、ボロミア殿!」
ボロミアの後押しにエオメルはわが意を得たりと拳を握り締めて叫んだ。
はしばし黙るとふいに笑顔になった。
「この話はやめましょう。理由はいくつかありますけど、それをここでいう気はわたしにはありませんから」
「いや、しかしな」
「終わりです」
「殿」
「お・わ・り・で・す」
は唇に人差し指を当てる。透明な眼差しには有無を言わせない強さがあった。
「あ、ああ、わかった。すまない…」
ボロミアのみならず、マーク王の息子と甥も一緒になって頷いた。
少女の仕草があまりにも可愛らしかったので見ほれてしまったのだ。
お互いの頬が酒のせいではなく赤くなっているのに気付いて、なんとも気まずい空気が流れた。
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