は腕組みをして眉間にしわを寄せている。
「…でも、喜ぶべきですわよね?悪化はしていないのですもの」
エオウィンは頬に手を当て、困惑した表情だ。
「だけど、成果は出ていないんですよね」
は大きく息を吐き出した。
一進一退
が侍女となって働くようになって、一ヶ月以上過ぎた。
色々と特別措置がとられたものの、侍女としては一番の新参ということに変わりはなく、仕事内容は古参侍女の使い走りが多い。
とはいえ仮にもエオウィン付きの侍女だ。普通の者には入れないようなところに入れる機械も多い。はそんな場所に行く度に神経を研ぎ澄ませ、不審物がないかを確かめていった。
そして現在、成果は一向に上がっていなかった。
「陛下の状態は、知れば知るほど不自然です。絶対何か裏があるに違いないというのに、どうしてこんなに何も掴めないのかしら?」
苛立ったようには爪を噛む。
本日の仕事を終え、エオウィンの部屋で女性二人で現在までの状況の確認と、今後どうするかの相談をするために話し合っている。
「あまり気を落とさないで、。グリマのことは置いておいても、そのことはわたくしたちもずっと気にかけていました。食べ物も飲み物も、身につけるものにも注意を払っています。それでも今まで、伯父がどんな毒物にも触れた形跡がないのです」
一方エオウィンは長い間膠着状態であったことから、よりは気持ちに余裕があるようだった。余裕というよりは、「急によくなるはずがない」という諦めに近いものなのだが。
セオデンの症状というのは主に消化器系のものだった。
その症状が出始めたのが、四年前。その直前まで病気で短期間寝付いていたため、そのせいであると思われていた。
しかし、一月経っても半年経っても一向に治らない。
六十の後半になっていたため、やむを得ないと思うものも多かったが、セオドレドもその従兄妹たちも、不審を唱えたのだ。
病気になる前のセオデンは健啖家だった。病床時も食欲は失せていなかった。原因が老齢によるものだとしても、このように急激に変化するものだろうか?と。
それ以来王の口に入る物はすべて、入手先から調理時まで厳しく監督されることになった。毒見がされるのはもちろんのこと、王家の子供たちは出来うる限り王と同じ食事をとった。しかし今のところそれでセオデンの症状に変化はなく、また彼と同じ症状が出た者もいない。
「今の時期は例年も症状が軽いのです。あとは秋ですね。夏が一番症状が重くて、冬もそれなりに…」
「重い、というのは、どのような?」
「夏と冬には手足のしびれがあるようなのです。料理の味がわからなくなる時もありますから、舌もですね。ひどいときには歩くこともままならなくなります」
「…」
はますます眉間のしわを深くした。
「ご気分がすぐれないのはもちろんのこと、咳と、それがひどくなると呼吸が上手くできないこともあります。はじめは感冒だと思っていたので、症状に効く薬草を煎じていたのですが、まったく効き目がありません。それで、これは病気ではないのではないかと思いましたの」
エオウィンは目を伏せた。気丈にしているが、美しい白い顔には疲労の色が濃い。
「その時、疑われたのは…?」
「グリマですわ。彼もその時期からずいぶんと変わったのですもの」
エオウィンは目を開けてじっとに注いだ。
もエオウィンの視線を受け止める。
「でも、証拠はでてこなかった…?」
「そうです。いっそ、サルマンの技によるものであれば、あの魔法使いに戦いを挑んででも治す方法を聞きだすのに…」
「姫」
はたしなめるように呼びかけた。
「わかっています。今はまだ大きな戦いができる状態ではありません。わかっているからこそ腹立たしいのです」
エオウィンは静かな声で呟いた。抑揚の少ないその声には彼女の絶望が刻み付けられているようだった。
はためらいがちに口を開く。
「わたしはまだ陛下の執務室と寝室には入っていません。陛下一人に症状が出ているのですから、長時間一人でいることのある部屋に問題のものがある可能性は高いのです。わたしの働きではまだ中に入ることはできないでしょうが、覗くだけでもさせてもらえませんか?」
こんなことを要請し、またエオウィンが許すとなると、白の姫に対する風当たりも強くなることはわかっていた。ひいきに過ぎると周りは思うだろう。
それでもセオドレドとの約束を果たすことがここにいる意味だとは自分に言い聞かせる。
「わかりました。では近いうちに」
エオウィンは頷いた。
「申し訳ありません。ありがとうございます」
は感謝をこめて頭を下げた。
同じ頃、黄金砦のセオドレドの部屋にはエドラスで任務についている諸卿ならびに滞在中の領主や豪族たちがそろっていた。
「まさか、ここまでわかりやすい結果が出るとはな」
セオドレドは苦笑しながらぐるりと居並ぶ騎士たちを見渡した。
鹿爪らしい表情の男たちがそっと互いの顔色を伺っている。
どう切り出せばよいものか、誰が口火を切るのか、探り合っているのだ。
無言の要請を請けて、最初に発言したのはエオメルだった。
「状況は依然として好転しておりません。しかし一切悪化してもおりません。が宮廷にいるようになって、処刑されたものは一人もでておりませんから。これこそが最大の成果だと思われます。彼女の存在は、確実にグリマを抑えるに一役買っています」
エオウィン付きの侍女は彼女がいつでも呼べる距離に待機するのも仕事の一つだ。当然、エオウィンが広間にいる時間はも広間にいる。そこではグリマが王の口の如く振舞う様を誰もが忌々しげに見るのが恒例となっているのだが、最近は少し変化が起こってきている。
とグリマの間で静かな探りあいが行われているのだ。
少女はグリマが見ていないときには、他の者同様、不快感をあらわにした眼差しでじっと見ている。
これにはグリマも鬱陶しげに睨みつけるのだが、その時にはすでに慎ましく目を伏せ、しとやかな令嬢そのものの態度である。
蛇の舌を睨みつける者は多い。彼女はその中でも特に強力に睨みつけているわけではない。ただ何かの力が込められていると言われたら信じてしまいそうなほど真っ直ぐと、瞬きをほとんどせずに視線を固定しているのだ。
広間にいる間中、ずっとこの視線に晒されているグリマはだんだんと落ち着きをなくしてゆき、ヒステリックにわめきだすようになった。そうなるとセオデンは、疲れているようだからとグリマを下がらせる。グリマはそれを固辞するが、なんといってもローハンでは王の権力は絶対だった。
この繰り返しを目撃した者たちの間には、の視線には本当に何かの力があると信じている者も少なからずいるほどだ。
「グリマがサルマンに通じているのもほぼ確かです。若君のご報告後も何度か不審な人物がエドラス周辺に出没しています。グリマと連絡を取ろうとしているようです。この際ですから、国家騒乱罪で訴えてみますか?」
エルフヘルムはやや渋い顔でセオドレドに提案した。
グリマは王の相談役としては徐々に力を失いつつある。宮廷内ではに動きを抑えられ、外部とはエルフへルムの部下らによって接触できない状況だ。
喜ばしいには違いないが、に関して言えば魔女の本性を現してきていると考えているエルフヘルムには文句を言えないのが不満なのだ。
セオドレドはそんなエルフヘルムの気持ちを見通しているので多くを言わなかった。
「そうだな。そのためには証人が欲しい。マークの全諸卿に命ずる、不審人物を見かけたら今後は取り押さえるよう。出来うる限り、殺すな」
屈強な男たちは王の息子の命令を神妙な面持ちで受けた。
しかし部屋の中の空気は宴がもうじき始まる時のように浮き足立っている。
長い間膠着していた状態が動き出す気配に、誰もが喜びを感じているのだ。
「諸君らの働きいかんによっては、明日にも事態は動くであろう。期待しているぞ」
セオドレドは一同をしっかと見渡し、力強い笑みを浮かべた。
朝。
は起きて顔を洗うと厩に行くのが日課になった。
それというのもエオメルが約束通り馬を贈ってきたのでその世話をするようになったからだ。
残念なことにアルドブルクまで行っている時間がなく、エオメルが選んで連れてきたものだったが、黄金色の毛並みに白いたてがみの美しい子馬には一目で魅了されたのだった。初めて育てるようだからということから選ばれたらしい子馬はおとなしい性格で、ブレード―マークの言葉で『花』という意味の言葉だ―と名前付けられている。
「ずいぶん大きくなったな」
がブレードの身体にブラシをかけていると、急に後ろから覗き込まれた。
「エオメル様?」
「おはよう。馬の世話もだいぶ慣れたな」
前をはだけたシャツ姿という軽装のエオメルは片手に火の足の手綱を握って笑っていた。
「おはようございますエオメル様。これから遠乗りですか?」
は手を止めて軽く頭を下げた。
ブレードは興味深そうにまだ小さい頭を持ち上げてエオメルを見上げている。
「いや、今日の午後にアルドブルグに戻るから行けそうにもないな。たまには気ままに火の足を走らせてやりたいものだが」
エオメルは残念そうに肩をすくめ、
「おはよう、ブレード。とはずいぶん仲良くなったようだ。嬉しいよ」
とろけそうに甘い顔でブレードの首筋をなでる。
その様子には、マークの男の馬好きは度が外れている、と思った。
セオドレドがいまだに結婚していないのも、エオメルに恋人がいないのも、原因の一端はここにあるのではないか。彼らは例え恋人がいても馬の方を優先するのではないか。それが懸念だけではないことを、はすでに何度か経験していた。
エオメルはブレードと存分に戯れると、火の足を繋ぎに離れていった。
やれやれとブラシを再開したところにエオメルが戻ってくる。
「少しいいか?」
は腰に手を当て、
「今すぐですか?」
邪魔をするなという意志を込めて軽く睨みつける。
「すまん、あまり人に聞かれない方がいいのだ」
本当にすまなそうな表情だったので、は仕方ないですね、と苦笑した。
朝の厩は意外に人が多い。
自分の、あるいは預かりものの馬の世話をする者が何人も出入りするからだ。
彼らの間をすり抜け外に出ると、人気のないところまで歩く。
「お話って、なんですか?」
は一つにまとめてあった髪を解き、軽く頭を振った。
エオメルはまぶしいものを見るように目を細める。
「私が口を出すのはお門違いなのだが、気になってな。セオドレドとのことはどうするつもりだ?」
「どうって…」
直球の問いをかけるエオメルには困惑して眉を寄せる。
エオメルはぐいとの二の腕をつかみ、真剣な表情で覗き込む。
「セオドレドの気持ちに応える気はないのか?」
「あの、ちょ…エオメ」
「彼の何が不満なんだ?年が離れすぎていることか?」
「いえ、そういうのはあまり…」
離れようとするのだがエオメルの力から逃れられるはずもなく、じりじりと気持ちだけ後ずさる。
「だったら、なぜ何も言わない!?」
「痛…っ!」
掴まれた二の腕のあまりの痛さには思わず悲鳴をあげる。
「すまん、」
エオメルは慌てて手を離した。
はエオメルからさっと離れ、一定の距離をおいた。
エオメルが近づくとその分下がる。
「悪かった。少し興奮してしまって…」
エオメルはくしゃくしゃの金髪に指を入れ、がしがしと掻き毟った。
「だがな、好奇心から聞いているんじゃないんだ。セオドレドはお前のことが好きで、そのことをはっきり言っている。なのにお前は何も言わん。これではセオドレドの立つ瀬がないではないか」
「何を言えというんです?わたしはここの生活に慣れるのが精一杯なのに。明日のことすらままならないのに、将来のことを決定しろと?流れにゆだねてしまえと?真っ平ごめんです」
反抗的とすら思えるのきっぱりした物言いに、エオメルは唖然とした。
出会ってまだ三ヵ月ほど、エドラスにいないことも多いせいもあって話す機会は充分あったとはいえないが、少女の性格はわかっているつもりでいた。なのにいつも違和感が起こるのは、しっかりした性格なのに、おっとりした雰囲気のある容姿のせいだろう。
中身と器が合っていないのだ。
エオメルは気を取り直した。
「それは、セオドレドのことはなんとも思っていないということか?」
「そういうわけではありません」
「ではどういうことなのだ?好きなのか、嫌いなのか?セオドレドはお前の答えを待っているんだぞ」
「好きですよ」
「好きって…ええ?」
恥ずかしがるでもなくあっさりと答えられて、エオメルはまた絶句した。
「だったら、なぜ!?」
混乱して同じ台詞を叫ぶ。
彼にとって愛情は隠すものでもためらうものでもない。ただひたすら真っ直ぐに奉げるものなのだ。好きならばなお更、何も言わない彼女の真意がわからない。
不可解なものを見るように少女を見下ろすエオメルに、は、
「好きには種類があるんですよ?あの人のことは尊敬してますし、こういうのが許されるなら、得がたい友人だと思ってます。愛を囁かれれれば、そりゃわたしだってどきどきしますけど、でもそれは恋とは別のものですよ」
年下の少年に言い諭すように、ふんわり笑う。
エオメルはぱちくりと瞬いた。
「つまり、セオドレドに恋はしていないと…」
は頷いた。
「では、どうしたらあんたはセオドレドに恋してくれるのだ?」
今度はが唖然とする番だった。
「どうしたらって…恋愛なんて、しようと思ってするものではないでしょう?」
「いや、まあ、そうだろうが」
エオメルはばつが悪そうに頬を赤らめた。
「だがな、私は女の気持ちというのがよくわからんのだ。エオウィンはさすがに妹だから他の女よりはわかるが、それでも言葉と実際の気持ちがずれているのではないかと思うことはたびたびある。だからお前の気持ちもどこまで本気なのか、私には判断できない。
私は、セオドレドに幸せになってほしいんだ。今が不幸だといっているんじゃない。苦労はなさっているが、私も妹もセオドレドの支えになっていると思っている。伯父上も、今は少々惑わされていらっしゃるが、従兄上を愛している。気心の知れた友人も、忠実な部下もいる。しかし、それだけで済む時期はとうに過ぎているのだ」
は黙ってエオメルを見上げた。
「彼には奥方が必要だ。心身ともに支えになってくれる人が。セオドレドはそれをお前にと望んでいる。だったら、私はそれを叶えてやりたい。…レオフォスト、頼む」
誰もが囁きながら、しかし面と向かって本人には言ったことのない名で少女を呼ぶエオメルの眼差しには切実な光があった。願いを叶えるからひざまずけと言われたらその通りにしただろう。
は諦めと共に小さく頭を振った。
「エオメル様、努力で恋ができるのなら、わたしはとうにあの方の恋人になっていますよ」
エオメルは息を呑む。
「せめて、わたしがロヒアリムだったら…。西の谷の養父君と養母君が本当の両親だったら、ためらわないで済んだのに」
「…」
エオメルはうなだれた少女の肩に手を伸ばしたが、
「ごめんなさい」
は一瞬深く頭を下げで駆け去って行った。
やり場のない手を握り締め、失望に肩を落とす。
ふと下を見ると、乾いた土に水滴が落ちた跡があった。
それから一月、大きな変化は何も起こらなかった。
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