エオウィンです。
セオドレド従兄上がアイゼンガルドから戻って早一週間…。
エドラスはずっと混乱状態に陥っています。









His dearest










セオドレドがアイゼンガルドから持ち帰った報告は、内外に大きな波紋を起こしました。
この報告があった翌日に兄エオメルはアルドブルクに戻り、またメドゥセルドへ参城する各地の領主の数はぐんと増えました。
伯父上はこの事態を憂慮しています。
セオデン王は、サルマンはあくまでモルドールと戦う用意をしているのだと主張し(そしてそれはグリマの主張でもあるのです)、セオドレドは違うと言い張っているのです。
そのせいで世論は大別してセオデン王派とセオドレド派に分かれているからです。
もちろん、セオドレドは自分の主張が父王の御意に適うものではないとわかっておりますので、セオデン王を立てて不要に事を荒立てないよう振舞っています。
ですがもう一つの混乱の要因である乙女の存在によって、セオデン王派にとってもセオドレド派にとっても混乱を容易に抑えることができなくなっているのです。
というのもセオドレドがを好いているらしい、ということが三日目にはエドラス内に広く知れ渡るようになり、先日、ついにセオドレド自身の口から語られたこともあり、彼女はセオドレドの妃の最有力候補になってしまいました。もちろんわたくしはその前から知っていたのですが…。
何が問題かといって、これがどこかの騎士の娘などであれば、戦争問題とお妃問題は別個の懸案事項だったのですが、は魔女であると知れてしまったのです。
必然、彼女がサルマンの手先なのではないかという疑いが持ち上がりました。
今ではグリマがサルマンの手下だと思わないものはおりません。
それと同じようにセオドレドを篭絡するために彼女はサルマンに遣わされたのだと考えるものは、それを口にしない者を含めれば相当な数になると思います。
否定する手段は今のところありません。ただ彼女の行いによってセオドレドに異変が起こらないことが(嫌な例えですが、グリマによって伯父が変わってしまったように、によってセオドレドが変わるようなことですわ)彼女の潔白を証明する唯一の手段になるのです。
これにはとても時間がかかることでしょう。
ここにお妃問題まで絡んできてしまうともうどうしようもありません。
セオドレドは既に四十歳です。ヌメノールの長寿の血はロヒアリムにはありません。ゴンドールの現執政殿がご結婚されたのは四十も後半になってからでしたが、従兄上がそれをしていいというわけではないのです。
わたくしたちの祖父センゲルもずいぶん結婚が遅かったといわれていましたが、それでも三十八歳でした。そして祖母であるモルウェン様は十七歳年下でゴンドールのお生まれの方でしたので、外国人との結婚自体は無理ではないのです。
ですがの素性を考えると、いくらエルケンブランド卿の養女になったといっても簡単に済む問題ではありません。
王と王太子、どちらの肩を持つにしても、の問題はまた別だ、と申すものがほとんどです。
ある者は、セオドレドもいい加減結婚しなくてはならなく、これ以上待てないのでこの際すぐにでも式を挙げてしまえと言い、またある者はサルマンの罠である可能性が高いので、そもそもエドラスに住まわせるべきではないといいます。別の者は、彼女は個人的な目的によって次期王妃の座を狙っているのだと言い、はたまた、どうやらはセオドレドとの結婚は気が進まないようなので無理に話を進めるのはよくない、と言う者もおります。
これによって連日のように宮廷や集落のあちらこちらで喧々囂々の言い争いが起こっています。
ここ数年、マークはずいぶんと暗い雰囲気が漂っていたのですが、俄かに活気付きました。
これが良いほうに向かってくれると良いのですが…。
さて、当事者たちは、と申しますと、それぞれ別々の理由で大変なことになっております。
の方がより重圧がかかっているでしょう。
なにしろ彼女はセオドレドと彼に味方する者たちからグリマ追放のための期待がかかり、セオデン派からは疑いを持った目で見られています。それに従兄上の算段ではもうじきわたくしの侍女になることが決定しましたので、そのための色々覚えてもらわなくてはなりません。また妃問題に絡んで、推進派からは侍女教育ではなく、お妃教育を受けるべしと言われ、反対派からはずいぶん嫌味を言われているようです。また従兄上に自分の娘を娶わせたがっている者からは個人的に煙たがられているようですし(そして水面下でお見合いをさせようという動きが活発化しています)、従兄上を慕う娘たちからは嫉妬されています。
わたくしが見たところ、これらのすべてがを取り巻いて、彼女を痛めつけているのです。従兄上がを馬鍬砦にやりたがったお気持ちは、わたくしにもよくわかりました。こうなることがわかっていらしたのでしょう。きっとセオドレドは彼女がマークに深く関わらなければ、ご自分のお気持ちを伝えることもなかったのだと思うのです。
でもは関わる方を選んでしまった。彼女はどこまでわかっていたのでしょうか。それを思うと、不憫でなりません。
従兄上は、戦争問題についてはをずいぶんと助けているのですが、ことがお妃問題になると彼女の味方にはなれなくなるのです。セオドレドが彼女を欲していることはもう誰の目にも明らかなのですから。
おおっぴらに皆の前で彼女を褒め称えたり愛の言葉を伝えるたりするわけではありません(そんなことをしたら、きっと彼女は逃げ出すことでしょう)が、彼女を見つめる眼差しがどれほど優しいか、彼を間近で見て、その心が偽りだと言える者はいましょうか?
の立場は微妙になってきました。
西の谷の領主の義理の娘。王の姪の侍女。それから王太子の想い人。
疑いを持つ持たないに問わず、彼女を「」と呼び捨てにする人々は急速に減りました。
代わって使われ始めたのは「レオフォスト」という呼び名です。これはマークの言葉で「最愛の人」という意味です。
セオドレドのレオフォスト、それが彼女についた称号でした。










はあ…。
「お疲れになりましたか?」
ユルゼに声をかけられては我に返った。
「…大丈夫です」
最近、知らず知らずため息が漏れるようになった。
(こんなことではいけない。まだ何も始めてはいないのに)

「やはり女性は着るもの一つでずいぶん変わりますわね」
ユルゼはそういって検分するように少女をまじまじと眺めた。
彼女はセオドレドの乳母で、侍女頭を務めている婦人だ。
セオドレドの母エルフヒルドはセオドレドの出産の時に亡くなったため、代わってユルゼが彼の母代わりになったのだ。
小太りで背が高く、きびきびと動く中年のこの女性は、実質マーク女性のナンバー2だ。
その彼女に、は侍女用のドレス合わせをしてもらっている。
それは簡素な形で、袖と襟に縁取りがしてあり、シンプルながらも可愛らしいものだったが、のサイズに合うものが一つもなかったため急遽仕立てられることになったのだ。
それまでのは、本当に「女の子」という年齢の子が着るようなものを着ていたのだ。そういうものしか丁度いいサイズがなかったのだ。
髪をおさげにして胴のところがストンとした子供用のドレスを着ると悲しいくらいに似合ってしまうのだ。今から思えば、マークの人たちが好意的だったのは、こういう子供じみた外見のせいもあるのかもしれない。
「丈はこれで大丈夫ですね。それから、仕事中は髪をまとめるように」
「はい」
「それにしても…」
ユルゼはの部屋を見渡して嘆息した。
「若君にも困ったものですわね」
彼女の嘆きにはわけがある。
身一つでマークに来てしまったには、自分の持ち物というものがない。当然、装身具などというものがあるはずはないのだが…現在少女の部屋には髪飾りに首飾り、耳飾り、指輪、腕輪と一式揃っている。
まだ出来上がっていないが、普段用と式典用のドレスも仕立てている最中だ。
これらのほとんどは西の谷の養父母から、領主の娘となるからには必要である、と用意してくれたものなのだが、部屋の中に徐々に増えて行きつつあるものの中には、セオドレドから贈られたものがすでにいくつかあるのだ。
最初は壁掛けや可愛い細工模様のついたランプなどの実用的なものだったのでも感謝して受け取っていたのだが、指輪を渡された時にはどうしようかと本気で悩んだ。
一応プロポーズされたとはいえ、はまだ承知したわけではなく、しかもプロポーズから一週間もたっていない。これはさすがに受け取るわけにはいかないと思ったが、気持ちだから受け取るだけ受け取って欲しい、といわれたので強く拒むこともできなかったのだ。
が…後日、この指輪はエルフヒルドがセオデンにもらったものだと聞いて卒倒しそうになった。
セオドレドは裏表がないあけっぴろげな人だと思っていたのだが、実はかなりの策士だということにが気づいたのは、この時だった。
「申し訳ありません」
はユルゼに向かってすまなそうに頭を下げた。
乳母である彼女はセオドレドを実の息子のように思っている。
その彼が外国人で妙な力を持っている女に入れあげたら、いい気はしないだろう。
詳しい事情を知っているエオウィンやエオメルが応援してくれてるのだって不思議なくらいなのだ。
「あなたが謝る必要はありませんよ」
ユルゼは意外そうな表情で、
「ただ、本気になった女性には、これほどまでに電光石火なのかと思いまして。今までお付き合いなさった方の誰も、若君にここまでさせることはできなかったものですから」
「最初は…偽装だと思ったんですけど」
が言いよどむと、ユルゼはさもありなんと同情したよう頷く。
「わたくしもそう思いました。でも指輪まで渡したのですから、誠心誠意、本気なのでしょう。驚きましたわ」
「ええ、わたしも驚きました」
は真顔で答えた。
「あの方のお年を考えれば、ここが限界でしょう。わたくしどもとしても若君の意に沿わないご結婚を勧めようとは思いません。ようやくあの方がその気になってくださったのですから、ここで一気に畳み掛けてしまいたいのですよ」
「………」
ここで『そうですね』と答えるわけにはいかず、はただ黙って笑顔になった。
無論、楽しいわけでも嬉しいわけでもない。
「あなたのことは色々言うものも多いですけど、わたくしとしてはあなたが若君の、引いてはマークの敵でさえなければ外国人だろうと異世界人だろうと魔女だろうと構っていられないんです」
ユルゼはきっぱりと断言した。相当切羽詰っているのだろう。
「ただ、若君は良いとしても、あなたの方がね。あの方は恋情を隠そうとなさらないから、そのしわ寄せが来ているでしょう。ずいぶんと乙女たちの嫉妬を買ってしまって…。あまりひどいようなら、わたくしからも彼女たちに一言いいますし、若君にご注進申し上げるのも…」
「それは駄目です、ユルゼ様。いい気持ちはしませんけど、ここでユルゼ様やセオドレド様が出てしまってはかえってこじらせてしまいますもの。まあ、すれ違う時に嫌味を言われたり、集団で固まってこっちを見ながらこそこそしゃべってるくらいですから、害はありませんよ。一人で面と向かって来ることができないのなら、いちいち相手はしていられません。身が持ちませんもの」
肩をすくめたにユルゼはふと微笑んだ。
「たくましいこと。あなた、何もできないお嬢さんのように見えるのに、実際はそうじゃないんですもの。差が激しくて慣れないわ。若君もあなたのそういうところが新鮮で、心強く思っておられるのでしょうね」
「…童顔なのはわたしのせいでは」
情けなさそうな顔になったに、ユルゼはころころと笑い飛ばした。
「きちんと年相応に装えばそれほどひどくはないですよ。そうね、少しお化粧をしてみたらどうかしら。それから髪を結い上げればちゃんと貴婦人に見えますよ」
仕事上の必要からするのは別にして、髪を結い上げるのは既婚女性の証だ。
「…ユルゼ様」
は勘弁して欲しいと目で訴える。
ユルゼはくすくす笑いをやめ、威厳ある侍女頭の顔に戻って切々と訴える。
「できうるならば、あの方のことを愛してさしあげてくださいませ」










エドラスの門から出た草原に多くの人馬が揃っている。
そこに集まっている人々はすべて鎧を身にまとい、手には盾と槍、腰には剣を佩いていた。
定例の軍事訓練の日だ。
あちらでは馬上での攻撃、こちらでは徒歩での守備と広い草原に荒々しい音が響き渡っている。
「若君、少々よろしいですかな?」
初老にさしかかった厳しい顔つきの騎士が兜を脱ぎ、恭しく礼をしてセオドレドの横に立つ。
「昨日と同じ話ならば聴く気はない」
「若君」
セオドレドが軽く受け流したので、騎士はむうと顔をしかめた。
「エルフヘルム、今は訓練の最中だぞ」
セオドレドは苦笑した。
エルフヘルムはエドラスの騎兵及び守備隊を束ねる隊長を務めている。
エドラスを守るのは第一軍団の管轄なのだが、その地位にいるセオデンは騎士としての務めが果たせなくなったため、エルフヘルムがセオドレドに任命される形で暫定的に首都を守る任についたのだ。オルサンクの脅威が明らかになった(と思われる)今、エルケンブランドを第二軍団長に任命し、セオドレドが第一軍団長になったらよいのではないか、という案が出たのだが、これはグリマによって却下されてしまった。しかしセオドレド自身もエドラスを案じる気持ちはあるものの、当面の問題になるのは西地域だとの思いから現状のままを望んだ。
「では、訓練が終わった後でしたらよろしいので?」
エルフヘルムは頑として譲らない。
「エルフヘルム、その話はもう…」
「終わってはおりませぬ。若君、セオドレド様。ご再考をお願いいたします」
睨みつけているようなエルフヘルムに、セオドレドは真顔になった。
がそれほど気に入らぬか?」
「気に入る入らないの問題ではございませぬ。危険が多うございます。あの方が魔女でさえなければ、まだ受け入れられたものを…。殿にサルマンの息のかかっていないと信じることはわたくしにはできませぬ。すべては最初から仕組まれていたのでは?」
「だとしたら、私はそれにまんまと引っかかった大間抜けだということになるな」
セオドレドは喉の奥で笑う。
「若君…、茶化さないでいただきたい。良いですかセオドレド様。自分がだまされているということは、自分にはわからないもののようです。殿をご覧になればおわかりになりましょう」
「では聞くが、が現れて以来、私は変わったか?」
エルフヘルムは一瞬言葉に詰まったが、すぐに頷いて、
「お変わりになったといえばなりました。あのご婦人への傾倒ぶりにはいささか情けないものがございます」
セオドレドは勢いよく噴出した。
「好意を寄せる女性に贈り物を贈るのは当然といえば当然のことですが、それも物の程度によります。どこの世界に婚約が決まったわけでもない女人に母君の指輪を渡す方がいますか!あれはもとはといえばセオデン王の母君、モルウェン様がお輿入れの際にロスサールナッハのご尊父から贈られたもの。それがモルウェン様から殿へ、殿からエルフヒルド様へと受け継がれた大切なものですぞ。それを…!」
「怒鳴るのはやめてくれ。あれが大切なものだというのは重々承知している。大切だからこそ、に渡したのだ。どうも、あまり私の気持ちが本物だと信じていないようだったのでな。が、立て続けに高価な贈り物をしては彼女も気後れするだろうから、しばらくは控えよう。今日のところは花にするつもりだ」
飄々と答えるセオドレドにエルフヘルムは盛大に肩を落としてため息をついた。
「殿…」
「戻ったようだな」
再び説得を試みようとしたエルフヘルムは、遠くから駆けてくる馬上の騎士に気付いて沈黙した。
セオドレドは笑みを浮かべていた顔を引き締める。途端にどこかいたずらっ子のような相貌は厳しい顔つきの為政者のものに変わった。
騎士はグリムボルドの配下の一人で、先日エドラスに近づいた不審人物の行方を追うよう命じられていた者だ。
彼はセオドレドの前まで来ると馬から飛び降りて、一礼した。
「ただいま戻りましてございます、セオドレド様」
「待ちわびていたぞ。して、報告は?」
「わたくしと配下の者は殿がお探しの人物をアイゼンの浅瀬付近で見つけました。奴は我々が追っていることに気付くと、川を渡り、西に逃げ去りました」
「に?」
セオドレドはぴくりと眉を動かす。
「は。そしてそのまま南北街道に沿って北上を…。それ以降の追跡は難しく、引き返さざるを得ませんでした」
セオドレドは軽く頷いて、
「それは仕方がないな。そのまま北上を続けても灰色川によって行く手は阻まれている。サルバドの橋は壊れているからな。その男、地の利があって西に向かったのか…?何にせよ、これ以上の進展は難しいであろうな。後は褐色人らに送った細作の報告を待つことにしよう」
「申し訳ございませぬ」
男は無念そうにうなだれる。
「よい、そなたらはよくやった。エドラスで身体を休めると良い。ご苦労であった」
「は。失礼いたします」
セオドレドとエルフヘルムに敬礼をし、男はゆっくりと去っていった。
王の息子とエドラス守備隊長は副官にこの場を任せ、訓練場から少し離れる。
「西とは…やはり褐色人が絡んでいるのでしょうか」
「その可能性は強い、といったところであろうな。今のところは。どのみち動きがあればすぐに知れる。アドーン川流域への警戒も強化しよう」
アドーン川はローハンの西側国境に当たる川だ。
そこから西地域は一応ゴンドールの領内になるのだが、白の山脈に遮られているので南の執政の威光はこの地までは届いていない。何度となく衝突を繰り返したためローハンをひどく憎んでいる褐色人たちはその地に少数で固まり、いくつかの部族を作って住んでいた。
アドーン川の内側には褐色人との混血も多く見られるため、「外」の人間が入り込んでも気付かれにくい。それゆえローハンが弱体化したときなどは、そこから褐色人たちは攻撃してくるのだ。
すっかり暖かくなった風に金色の髪をなびかせ、セオドレドは無言になる。
「この戦い、時間との勝負になりそうですな。わたくしはグリマがこれ以上有望な騎士たちを処刑しないよう、それとなく見張りを増やしましょう」
「そうしてくれるか?」
遠くを見つめながら低い声で確認するセオドレドに、エルフヘルムは目を伏せる。
「心得ましてございます」









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