くるり。
水気のない細い茎を指と指で軽くつまむ。
くるり。
わずかに力を込めるだけで軽くなった花は茎を軸に回転した。

くるり。


くるり。










文月、葉月、長月









セオドレドが出かけて一週間が過ぎた。
もともと忙しい王の息子が留守をするのは良くあることだというが、にとってはこんなに長くセオドレドと離れたのは初めてだった。外へでることを一切しなくなったセオデンに代わって視察にでることもあったが、たいていは三日もすれば帰ってきていたのだ。だが、今回は西方面の哨戒を兼ねるため、二ヵ月は帰ってこない。
(参ったなあ…)
仕事が終わり、部屋に戻ればあとは寝るくらいしかすることはない。
日中は雑事に忙殺され、一つのことを長く考えることはできないが、一人になると故郷のことよりもセオドレドのことを考えていることが多くなった。
(依存してるとは思ってたけど、こうもセオドレドのことばかり考えるようになるとは思わなかったな)
は花をもてあそぶのをやめて、憂鬱そうにため息をついた。
ぱたりと力なく腕を下ろす。それでも花をつぶさないよう、手首は持ち上げたままだ。
(でも、好きとか…そういうことじゃないわ。離れてみて初めて相手が大切な人だとわかるなんて、少女マンガもいいとこよ。わたしはセオドレドに付いていくって決めたときからあの人をこの世界で一番尊重しようって決めたんだから。これは恋愛とは別問題よ。そうよ、こうして色々思い煩うのは、話したいことがいっぱいあるせいよ)
頭の中で組み立てた理屈は疑いの余地がないほど彼女の中では明確なことではあったが、胸のあたりに漠然とした靄がかかっているのも確かだった。
はセオドレドに構われることでずいぶんと精神的に助けられていたのだと改めて認めた。少女がローハンに来てからセオドレドが関わらなかったことはないと言ってよい。それだけに彼が戻ってくるまで会話もままならないとなると、ストレスも溜まるし調子も出なかった。セオドレドがいなくても侍女仲間からいじめられるようなことはなかったが、王の息子のお気に入りだということで一線を引かれている。
もっとも、気兼ねなく話が出来る相手といったら、セオドレドかエオウィンくらいのものだが、彼がいない今、エオウィンはセオドレドの分の宮廷での役目も受け持っている。自分のために使える時間はほとんどなかなかった。
(とにかくセオドレドがいないうちはわたしがグリマをどうにかしないと。裏切りの理由がわかったところで何も手を打たないんじゃ、いつまで経っても終わらないもの。でも、今までしてきたことを考えれば許して水に流せば済むって問題でもないし…)
グリマの変節は己が省みられないことからの恨みによるものらしいと見当をつけたものの、だからといって事態が変わったわけではなかった。
彼は相変わらず王の権威を楯にして粗探しをし、隙あらば重臣であろうと小者であろうと処罰しようと息巻いていた。家臣団も数年に及ぶことであるので各々で注意を払い、グリマの追求をかわす。連日の猛暑とは裏腹に、蛇の舌と騎士たちの間には冷え冷えとした空気が流れているのだ。
そうなるととしても魔女の微笑みを浮かべないわけにもいかない。
グリマから思いがけない話を聞けたことで光明が差したかに思えたが、その光はもつれていた糸が考えていた以上に絡まりあっていたことを見せ付けただけに過ぎなかった。
せめてが知ったことを彼女自身の感じたことを交えて聞いてくれる人がいたら、と思った。
年若い娘の言だと馬鹿にするでもなく、感情的になって撥ね付けるでもなく、ただ聴いたことを吟味し、理性的に判断できる人物。さらに言えば自身が腹蔵なく話せる相手が良かった。そうした結果であれば自分の考えが間違っているといわれても納得もできよう。
だが、それに該当する人物はセオドレド一人であり、彼は不在だった。
(なんか…堂々巡りしてるなぁ)
くるり。
は手持ち無沙汰になって、また花を回した。
それはセオドレドから出発前に贈られた花冠の中から茎の痛んでいないものを一本抜き取ってドライフラワーにしたものだ。何度もセオドレドから花を贈られたが、ただ萎れさせるには忍びないと、もらうたびに一本だけ残しておくようになった。その乾燥した花はすでに小さな束になっている。
一番新しい花の乾燥状態を調べようと摘み上げたものの、すぐに考え事に没頭してしまい、知らない間に弄んでいたのだった。










八月も半ばになると、暑さもピークを迎えて寝苦しい夜が続いた。
吹き抜けのある広間ならばともかく、私室の窓はごく小さく作られているため、昼の熱い空気が夜になっても抜けきらなかった。
すでに深夜近くなり、館は静まり返っている。
エオメルは寝る前に夜風に当たろうとシャツの襟元を緩めながら歩いていた。
扉を開けると、冷気を含んだ風に思わず目を細める。
生き返った心地だった。
と、こんな時間だというのに人の話し声が聞こえてきた。
黄金館の入り口には昼でも夜でも衛士が守っているが、男の声ではなかった。
柔らかな響きの声はエオメルも良く知る少女のもので、こんな時間に何をしているのかといぶかしく思った。
?何をしているのだ、こんな時間に」
扉を大きく開け放ちながらエオメルが問うと、が驚いたように振り向いた。
と、同時に衛士たちがばつの悪そうな表情で立ち上がり、エオメルに一礼をした。
「お前たち、何をしている?」
珍しい取り合わせにエオメルは困惑した。
いたずらが見つかったような子供のように、少女と衛士たちは顔を見合わせる。
扉の両側には石を切り出しただけの腰掛があり、衛士は異常なしと考えられている間はここに座ることを許されていた。黄金館は高台にあるので、座っていても眼下が良く見えるからだ。
扉前にいる衛士は通常二人。まだ年若い衛士はその腰掛けをに譲り、自分はその下の階段に座り込み、もう一人は―これは近衛隊長のハマだった―少女の脇に立っていた。
ようやく状況を飲み込んだエオメルは強い調子で叱責する。
「そなたたち、衛士の務めはどうした。たとえ悪しき輩や早馬の類が見られぬにせよ、娘と話しこんでいて言い訳ではなかろう」
「エオメル様違います。邪魔をしたのはわたしの方なの。わたしが話しかけたから…。ごめんなさい、ハマさんたちを叱らないで」
エオメルは衛士たちの前に立ちふさがって少女が頭を下げたので、ハマたちを決まり悪そうな目で見つめた。
ハマはに気付かれないよう、再び目礼をした。理由はどうあれ、仕事中に話し込んだのは確かだったからだ。
エオメルは咳払いを一つして、
「お前も、こんな時間まで起きていては明日が辛くなるだろう」
「はい、すみません」
「寝苦しいのはわかるが…」
はにこりと笑った。
「ここは風が通って涼しいんですよね」
「…ああ」
自身も涼みに来たエオメルはふっと頬を緩めた。
雲のない夜空は、半月と輝く星とで視界に不自由することはない。
しかし昼よりも濃い影は周囲の風景に神秘的な陰影を与えている。少女の相貌も大人びて見えた。
は襟元が広く開いたゆったりとした部屋着をまとっている。華奢な鎖骨を縁取るように金色の細い鎖が流れており、その先はドレスで隠れていた。
鎖の先に何があるのか、あえて問う者はいない。
皆知っているのだ。
セオドレドから贈られた指輪があるのだと。
「さて、と」
は勢いよく立ち上がった。はずみでドレスが風をはらむ。
「わたし、もう行きますね。お休みなさい、エオメル様、ハマさん、ホルンさん」
「なんだ、もう行くのか?」
話らしい話もしていないのでエオメルは拍子抜けした。
「もう充分涼みましたもの」
少女はいたずらっぽく部屋着の裾をつまんで礼をする。
「部屋まで送ろう」
エオメルは立ち上がったが、少女は押しとどめた。
「平気ですよ、夜道を通るわけでもないんですから」
手を振りながら扉の向こうに少女が消えると、置いてきぼりを食ったような表情のエオメルと気の毒そうな笑いを押し殺している衛士たちが残った。
「…と何を話していたんだ」
エオメルはさりげなく尋ねるが、その表情は複雑だ。
もともと女性の扱いが苦手だということもあるのだが、特にには今でもどう接して良いのかよくわからないのだ。機嫌良さそうに笑っていたから、自分がなにか少女に気を使わせたとか、不快な思いをさせたということではないだろう、とは思う。しかし少女と話をするのは、エオメルにとって困惑の連続なのだ。
妙に気を張ってしまう。
それは生まれ育った環境が違うせいもあるだろうし、もしかしたら将来義姉(あね)になるかもしれない相手だからかもしれなかった。
「いやなに、たいしたことではございませぬよ。その日にあった出来事ですとか、マークのことなどですよ」
ハマはそんな青年の胸中を察して微笑を浮かべた。
少女は自分では気付いていないようなのだが、王家の兄妹たちの中で、エオメルとはあまり接点を持っていないのだ。なにかというと頼りにするのはセオドレドであるし、同性で年も近いということでエオウィンには親しみを覚えている。エオメルはそのどちらでもない。会えば普通に話はするが、それくらいだ。
「ふうん」
エオメルは釈然としないと首をかしげた。
そんな話なら自分にもしてくれてもいいではないかと思ったのだ。
「近衛の中でも衛士の番についている者はその日にエドラス内であったことのほとんどを知っております。外からの知らせを取り次ぐのが我々の役目ですからな。思うに、レオフォスト殿は西からの便りを待っているのではないかと…」
「セオドレドのか?」
エオメルは意外そうに目を瞬かせた。
「レオフォスト殿から問われたことはございませんが、聞かれずとも察せられます。今は大分落ち着いたようですが、初めの頃はそれはそれは心もとなさそうなお顔をしておりましたからな」
は毎夜ここに来ているのか?」
「そうですな、たしか若君が出発されてから一週間ほど経ってからだと思います。当番の者は毎日違いますゆえ、我々が気付いたのはもっと後だったのですが」
エオメルは絶句した。
近衛の中でも年若いホルンはうきうきとエオメルに答えた。
「ちょっと出てきてはしばらくしてお戻りになられるので、誰も不審に思わなかったのですよ。当番が一巡してようやくわかった次第でして。発覚した日はちょっとした騒ぎになりましたね。今ではレオフォスト殿と話をするのが楽しみだという近衛はずいぶんいるんです。初めは魔女だというので警戒していましたが、知ってみれば、ずいぶんと可愛い方なんですよね」
「勤務中の私語は慎むべきではあるのですが…」
ハマは口の軽いホルンを目で制した。しかし隊長である自分も話しに加わっていたので、強くはいえない。
「…あまり褒められたことではないが、長時間でないのならばまあ、構わないだろうが。しかしなぜだ?セオドレドからの定期報告は来ているのだろう?そんなに寂しがっていたのか。気付かなかったな…」
少しすねた様な表情のエオメルに、エオメルにハマは苦笑した。
「報告は届いておりますが、それはレオフォスト殿宛てではございませんし、それに距離が埋められるものではございますまい」
「女性の心は男のわたくしなどにはわかりかねますが、待たねばならない身というのは、なかなか辛いもののようでございますよ。レオフォスト殿は二重の意味でお辛いのでは?頼りとされている若君のお帰りはまだ先ですし、故郷からのお迎えが来る様子もありません。もっとも、後の方については本当に来るものだろうかと疑っているのですが」
若者らしい直接的な物言いのホルンにハマはたしなめるように肘でつついた。
エオメルは考え込むように顎に手を当てる。
「確かに、本当に来るのかどうか疑わしいな。我らにはどうすることもできないことだし、時間ばかりが過ぎてゆくようなら、我らの手でいずれどこかに嫁がせなくてはならなくなるだろう。はエルケンブランドの養女、西の谷の姫なのだから」
「若君はレオフォスト殿を熱望しておられますから、いずれ押し切ってしまうかもしれませんね」
ホルンは楽しそうに頷いた。
異世界から来た少女は畏怖に満ちた視線の中、ゆっくりと己の居場所を築きつつある。それができたのもセオドレドに忠実であるということが最も大きいだろう。
ハマやホルンの様子から、近衛隊はに好意的になったようだ。それは喜ばしいことだと素直に思う。
だが、セオドレドに及ばぬとはいえ、を人々の偏見から守ってきたと自認するエオメルにとっては少女が己が手を離れてしまったようで一抹の寂しさもある。
「そうかもな」
エオメルは月を見上げてそっと呟いた。











九月も半ばを過ぎると、暑さも大分和らぎ、過ごしやすくなってくる。
春に種をまいた穀物や野菜の収穫ももうじきだろう。
門の外に作られた畑は金色を帯び始めている。
旺盛に茂った草原はまだ青々としているが、勢いを失いつつある。
秋が近づいているのだ。

それはさておき。

黄金館では、近くで完全武装をした騎士が全力疾走をしているとすぐにそれとわかる。
というのも。
どどどどど…。
と地響きのような音がするからだ。
控えの間で手を動かしつつおしゃべりに興じていた娘たちは、その足音に一斉に口を閉ざした。自然と視線は扉に向かっている。
ここは侍女の控え室だ。娘たちの私室にも近いこの近辺には騎士たちが出いるすることはほとんどない。
それゆえ何事かと皆が顔を見合わせたときに、
「失礼する!」
と息を切って駆け込んできた年若い騎士に、年かさの侍女は反射的にしかりつけた。
「まあ、ホルン!なにをしているの、ここは侍女の間ですよ!」
「申し訳ない!レオ…じゃない、殿!やっぱりここにいましたか、すぐに来てください!!」
「は、わたし?」
飛び込んできたホルンは叱責にも躊躇できないほど慌てており、ずかずかと中に入り込む。
「何かあったんですか?」
は磨いていた杯を置き立ち上がったところで腕をつかまれた。
「あ、ちょっ…あー!」
テーブルにぶつかった弾みで杯が倒れる。そのまま転がってゆき、テーブルの端から落ちそうになる手前で側に座っていた娘が拾い上げた。
侍女の仕事は多岐にわたる。セオデンやエオウィンの側に四六時中侍っているのは侍女の中でも一握りだけで、たいていは侍女頭のユルゼと彼女の腹心たちだ。それ以外の侍女たちは侍女用の控え室で各自の仕事を行っている。王家の人々の衣服の手入れをしたり、刺繍をするのも彼女たちの役目であり、また薬草から各種薬を作りおくこともそうだった。金銀でできた高価な品―特に食器類―を磨くのもそのうちの一つで、侍女としては一番格下のは主にこの部署を担当している。もちろんグリマがセオデンの近くにいる間はそちらにいなくてはならない。今は比較的手の空いている午後も遅い時間帯だったため、はこちらにいたのだ。
「ありがとう!」
礼を言っている間にもは引っ張られ、少女はあっという間に連れ出されてしまった。
残された侍女たちは、呆気に取られながら見送った。
「なんだったの…?」
「さあ…」
ホルンの足音が遠ざかったのと入れ違いで、ユルゼの命を受けた侍女が部屋に飛び込んできた。
セオデンが興奮しているので落ち着かせるための薬酒を取りに来たのだ。

「自分は今持ち場を離れていますので、蛇の舌にみつかるとやばいんです。この時間ならおそらくあなたは陛下のお側にはいらっしゃらないだろうが、相手が相手だけに殿には知らせたほうがよいと隊長が…。あ、隊長は陛下にご報告をしに行かれています」
ホルンは早足で歩きながら小さな声でまくし立てた。
廊下と廊下が交錯するところではグリマが現れないかと確認するように見渡すので落ち着きがないことこの上ない。
「彼が敵なのか味方なのか我らには判断できません。あなたに会っていただくのが一番いいと思うのです。味方ならグリマが彼が来たことをあなたの耳に入れてはいけないと言うかもしれないですし、敵ならば陛下に会わせるわけにはいけません」
訳がわからないながらも促した方が早く話は進むだろうと、は訪ねる。
「わかりました、誰かが来たんですね?誰です?」
ホルンは深刻そうな表情で告げた。
「ガンダルフ、灰色の魔法使いですよ」
「魔法使い!」
ははっと息を呑んだ。






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