久しぶりの帰郷にセオドレドは安堵と懐かしさと、消すことのできない不安を覚える。
父は、義妹は、義弟は元気か。
何か問題が起ってやしないか。
特にあの男。
蛇の舌グリマ。
一刻も早く宮廷から追い出してやりたい・・・!

荒れそうになる感情を押さえ込む。
勇猛果敢なロヒアリム、しかし裏を反せば直情径行だともいえる。
一介の騎士ならばそれでも構わないだろうが、指揮官までが冷静さを失ってはならない。


セオドレドは異世界から来た彼の愛する少女を思い浮かべる。

自分がいない間、心細い思いをしていないだろうか・・・。
自分がいないことを、少しは寂しいと思ってくれただろうか・・・。

ささくれ立ちそうな気持ちが少し静まった。











忍び寄る影












「セオドレド!セオドレド!お帰りなさいませ。ああ良かった!わたくしではもう手に負えないのです!」
黄金館の入り口まで行くと、泣きそうな顔をしたエオウィンがドレスの裾が翻るのも構わずに駆け寄ってきた。
館へ向かう道すがらはいつもよりざわめき、不安に満ちていた。
セオドレドの姿を見つけると口々にすがるような眼差しで声をかけてくる。
自然、顔が引き締まった。
エドラスでは何事かがあったようだ。

そしてエオウィンの様子も尋常ではない。
「今戻った、エオウィン。一体何があったのだ・・・?」
宥めるために肩を抱き、頭を撫でる。
気が緩んだのか、顔をあげた白い姫の目には涙が一杯に溢れている。
それでも声をあげて泣くまいと、唇をしっかりと引き結んでいた。
「おお!若君。お帰りをお待ちしておりました。どうか早く中へお入りください。ここ二日の間に多くのことが一時に起ったのですが、陛下のご指示もなく、我々には対処しきれないのです」
セオドレドの帰還を聞いて中から出てきた諸将がセオドレドを取り囲む。
代表して口を切ったのは近衛隊長のハマだった。
セオドレドは一つ頷くと、皆に中に入るよう促す。そして彼と共に帰郷した部下たちには事の次第がはっきりするまで武装を解かないでいるように命じた。すぐさま戦場へ行かねばならないかもしれないのだ。ゆっくりと休んでいることはできない。
馬を預け、兜を脱いだだけの姿で中に入ったセオドレドは、広間に集った人の多さに瞠目した。
北と東の領主やその高官、それにエオレドの団長たち。各地域、軍団の有力者ばかりだ。
これだけの人々が集ったからにはその知らせは早馬で知らせるだけでは駄目だということだ。
「父は?」
手近にいるものに問う。
玉座は空だった。
これだけの人間がいる時には例外なくその場にいるはずのグリマの姿もない。
「殿はご容態がすぐれなく・・・」
「グリマは?」
続けて問う。返ってきた答えに、セオドレドは目を見開いた。
「あの男ならば、逃げたようでございます」
意外な返答に眉がぴくりと動いた。
「逃げた!?」
「はい。事の次第は・・・当事者に説明してもらった方がよろしいかと。殿はいらっしゃるか?」
最後は呼びかけるように言うと、男は一礼をして後ろに下がった。
?」
一体何をしたんだあの子はと訝しがっていると、人垣が割れて、奥から侍女の装いをした少女が押し出されてきた。
久しぶりに見た少女は弓形の眉を不安そうに下げ、動揺しているのか、瞳が揺れている。
少女はまずセオドレドにお帰りなさいと出迎えの言葉を告げた。
そしてガンダルフが来たこと。そのガンダルフはサルマンに捕らえられ、逃げてきたこと。グリマを遠ざけ、戦の準備をするよう忠告したが、グリマの妨害もあってセオデンは聞き入れなかったこと。馬が欲しいというので選ばせたら飛蔭を選んだことを話す。
ここまで聞いたセオドレドは「飛蔭を?また無謀な」と呆れた。
そのことで激怒したグリマはガンダルフを追うという形でエドラスから出て行ったこと。
「だけど・・・」
は言葉を切る。
「グリマが出て行った理由は、おそらくわたしが陛下のご容態を悪くさせている原因に気付いたせいではないかと思うんです」
「わかった・・・のか」
は小さく頷く。
「はい。馬を選んでいる間、ガンダルフ殿と話をしたんです。その時に気付きました。わたしの考えが正しいのなら、陛下に出ている症状、それに陛下以外には症状が出ない理由、それから夏と冬に病状が悪化する理由、すべてに説明が付くんです。ただ、これはわたしの故郷では割と知られていることなのですけど、こちらではどうか、わかりませんでしたし、その原因となるものが本当にそれなのか、つまり、わたしの故郷にあったものと同じようなものがここにもあるのかを調べなければならなかったんです。だけど、十中八九、間違いないと思って『わたしは原因がわかったわ』とグリマに言ったんです。そうしたら・・・」
「逃げた、と」
「はい」
セオドレドはの説明を頭の中で反芻する。
これで勝負がついたのか更なる手を打ったほうが良いのか考えを巡らせようとした。
しかしその前に、
「それで、エルフヘルム卿がグリマ追跡を命じましたの。それ以降のことは、卿から説明を・・・」
すでに近くに控えていた背の高いエルフヘルムは一礼をすると淡々と話し始めた。
グリマを追跡するために手の者を送ったこと。それは北、東、西の三方面とグリマが向かったという方角。追跡隊がすぐに追いつけたなら重畳、追いつけなかったら各方面に向かった者たちが取り押さえられるだろう。そう考えてのことだった。
だが・・・。
「今朝のことですが、グリマ追跡に向かった騎士十名が、何者かによって殺されたと知らせがもたらされました。それはどうやらオークの類ではなく、もっと忌まわしいものによるようなのです」
「どういうことだ?」
エルフヘルムは隣にいた男にちらりと視線を走らせる。
東エムネトの小領主であるこの男はエルフヘルムに軽く頭を下げ、説明を引き継いだ。
「昨日のことです。全身を黒装束で覆い、黒い馬に乗った十名ほどの一行が我らの村近くを通り抜けて行きました。それらが近づいてくるだけで言い知れぬ恐れが沸き起こるのです。わたくしもマークの騎士の一人、敵に恐れ、遅れを取るなど恥ずべきことではありますが、正直に申しますとあの時はまるで身体が動かなかったのです。黒い恐怖に縫いとめられてしまったかのように」
己の不甲斐なさを恥じるように男は一瞬目を逸らすと、再び言葉を続けた。
「民の中には恐ろしさに闇雲に逃げ出したものも出てきました。暗黒の国の軍勢がすぐ近くまで迫っていると思ったようなのです。わたくしもそう思い、わたくしの手の者をすぐさま呼び集めましたが、黒の一行の後に続く軍勢はどれだけ待っても現れませんでした。そこでわたくしは、奴らが何かの目的のために通ったのだと。そしてその目的は良からぬことであり、マークにとっても害になることではないかと考え、こうしてエドラスまで参上した次第でございます。ここに集った各地の諸将も同様でございます。そしてわたくしがエドラスに向かう途中にエルフヘルム殿のエオレドが殺されていたところを見つけたのでございます」
「モルドールの手の者か・・・?」
「おそらくは」
セオドレドの呟きをエルフヘルムが肯定した。
王の息子は廷臣たちを一瞥する。
どの顔も皆緊張していた。
南の変異はマークには伝わり辛い。こちらから使者を出すか、ゴンドールからの使者の到着を待つかだ。先だってのボロミアの話にあったモルドール側にいたという正体のわからない影というのがそれではないかと思ったが、そうだとしたらどのような手で倒せるというのか・・・。そしてマークに来た理由は?斥候であるのならば、ただちに全土に召集をかけなくてはならない。父は戦場に出られないだろう。そうなると自分が大将にならねばならない。独断専行になるが止むを得ん。
「死体の中にはグリマもいたのか?」
セオドレドは考えながらも疑問点を問いただす。
そうであるのなら、面倒ごとは一つ片付いたと言える。
だが、
「いいえ。ございませんでした」
そこまで都合よくはいかないようだと彼は心の中でひとりごちた。





セオドレドは結論として、各軍団に非常召集をかけた。
セオデンは指揮を取れないので第一軍団はセオドレドが預かり、彼が抜けた第二軍団はエルケンブランドの指揮下に置かれることになった。エオメルは第三軍団の軍団長として現在アルドブルグで事態の収拾に努めているという報告が上がっている。二人には急ぎの早馬が向けられた。
逃げた民人はどうするか、またエドラスを初めとする各都市の住人を避難させるかが問題だった。
遅きに失すればマークは一気に滅んでしまうだろう。
しかしこの国はその大部分が起伏に乏しい平原だった。
大勢の非戦闘員を受け入れられる砦は少ない。
非難が長期化すれば、今度は畑や家畜の世話が出来なくなり、結果として国土は荒れる。
見極めが難しいところだった。
「あの、セオドレド様?」
速急の支持はあらかた出し終え、周囲の人の数は半数以下に減った。
セオドレドのすぐ傍にいるのはと腹心の部下が少しだけだ。
立ったまま考え込んでいるセオドレドにおずおずとが話しかけてきた。
彼は熟考していたために一瞬反応が遅くなる。
「ん?どうした」
「あの・・・モルドールとかいうところの軍勢がマークに向かっているかもしれないから、こんな風に慌ただしくなっているんですよね?」
「ああ、そうだ」
の慎重な言い方が少し可笑しかった。
遠く離れているとはいえ、モルドールはマークにとっても脅威だった。
騎士であるのならば誰もが肌身に染みている。
だがこの少女は違う。
マークどころかこの世界に来てまだ半年ほどしか経っておらず、エドラスと西の谷しかろくに知らない。
彼女の話では、彼女のいた国ではもう長い間戦争はなかったという。
彼女自身は魔女であることから、命の危険を覚えたことは何度かあるというが、それでも敵を屠り、自らは生き残ろうとする、戦特有の熱を知らないのだ。
いや、とセオドレドは心中で頭を振った。
彼女は女なのだから、戦場を知らなくても無理はない。
それでも、マークの女なら当然持っている、愛するものを戦地へ送り出す不安、残される恐怖、それでも誇らしさも感じるという、矛盾した葛藤をまだ知らない。
しっかりした娘だと思う。極限というものを知らないわけではない。
にもかかわらず、彼女が発する赤ん坊のような無垢さは、こうしたことが原因のように思えた。
それすら、セオドレドにとっては愛しいと思えるのだが。
ずっとこのままでいて欲しいと願ってしまうほどに。
話し辛そうにしている少女に続きを促しながらセオドレドはそんなことを思った。
「今、知りたいのは、本当にそのモルドール軍が来ているかどうか、ですよね?」
「そうだ」
「それなら・・・」
「うん?」
少女が声を潜めるので、自然とセオドレドは身をかがめることとなった。
「陛下に禁じられている『魔女』の力を使えば夕方になるまでにはわかると思うんですけど・・・。やってもいいですか?セオドレド様は知らなかったことにして」
つまり、は自分が勝手にやったことにしてしまえと言っているのだ。
「そなたはたまにものすごく無謀なことをするよなぁ」
二日前にもグリマを挑発して牢に入れられそうになったという話をエオウィンからすでに聞いていたセオドレドは遠い目になった。
エルフヘルムの取り成しがあったから良かったものの、そうでなければ本当に牢に入れられていただろう。
頭は回るが、先読みが足りない。
セオドレドはそう思った。
今回の申し出だって、自分ひとりが罪を被ればそれで済む、ぐらいにしか考えていないのだろう。こちらがどれだけ少女を案じているか、わかっていないところが泣けてくる。
セオドレドは頭を振った。
「いいや、私も立ち会おう。どうせなら誰の目にもわかるようにやってくれ」
セオドレドはあたりをちらっと見やる。ついてこいという意味だ。
周囲にいた部下たちは小さく頷いた。
「でも、それだとセオドレド様が」
少女は不安そうに声を潜める。
「非常時だ。だが一応聞いておこう。危険は?」
「ありません」
「本当に?」
念を押す。
「ええ」
信用してないんですね、と情けなさそうには呟いた。





はセオドレドに用意してもらった羊皮紙にペンでなにやら書き付けると、それを複雑な形に折った。
数は全部で八つ。形はみな同じなようだった。
それらを持って館の入り口に行く。
宣言したとおり、セオドレドは部下を引き連れて付き添いに行く。
帰途するために仕度をする諸将諸官がそこここにいたが、構わずやるようにセオドレドは告げた。
はくりんと目を上げて王の息子の様子を窺ったが、中に戻る気はないらしいと見て取ると、仕方がなさそうに肩をすくめた。
瞬間。
セオドレドは周囲の空気が一変したように思えた。
はっとして周りを見渡したが周囲の人間以外、いたって通常と―戦の前の、という但し書きが必要だが、通常と変わりはない。
友人と話をする者、馬の世話をする者、これからなにが起こるのかと興味深そうにこちらを見ている者と様々である。
の傍にいるものしか感じないのだろう。
セオドレドは何が始まるのかと生唾を飲み込んだ。
いつになく自分が緊張していると感じる。
は右手の平を上に向け、その上に畳んだ紙を置き、目を閉じている。
紅を塗ってもいないのに赤い唇が軽く開かれると、呼応するかのように一陣の風が吹く。

風が歌った。

セオドレドにはそう感じられたのだが、実際に歌いだしたのはだった。
緩急のある調べは風が吹いているようだった。
艶のある歌声に誰もが思わず目を向ける。


ふいに高い音で歌声が途切れた。
と、ひゅういと風がの周りに集まり、手の中の紙を一枚、さらっていった。
紙はあっという間に飛んで―は行かず、風に流されるままひらりと舞いながら見る見るうちに変じていった。

鷲だった。

周囲からどよめきが上がる。
セオドレドも声こそあげなかったが驚愕に身体を強張らせていた。

その後も風は、ひゅうい、ひゅういとの手から紙を奪い、紙は次々鷲に変じて八方に飛び去ってゆく。

が最後の一羽に手を振ると、それはくるりと方向転換して少女の腕に止まった。
「多分、もうおわかりだとおもいますけど、この子達に様子を見てきてもらいます。モルドールは南にあるということですけど、念のため北にも送りますね」
は腕に止まった鷲の出来を確かめるようにくちばしを撫でる。
鷲は誇らしげに胸をそらし、女主人の愛撫を受けていた。
「・・・ああ」
セオドレドは呆けたような返事をした。
何をするのかまでは聞いていなかったが、何があろうと驚くまいと決めていた。
しかし実際に目の前で行われたことは彼の決心を簡単に崩してしまった。
「驚いた・・・」
「ですから、こっそりやりますと言ったのに」
は苦笑する。
セオドレドは気を取り直すと、まじまじと鷲を見つめた。
普通の鳥に見える。
「こういうことか?この鷲たちが見てきたことを報告してくれる、と?もしかして喋るのか?」
セオドレドは手を伸ばしてそっと鷲に触れてみた。
ふかふかした羽毛は本物そのものだった。
「いい勘していますね。ええ、喋れるんですよ、この子」
と、の声で答えたのは、少女の腕に止まっている鷲のほうだった。
セオドレドがあんぐりと口を開けると、
「これは式紙といって、紙に動力・・・動かす力を与えたものです。自分で思い浮かべることができるのなら、どんな形にもなります。今回は速さを重視して鳥にしてみました。鷲にしたのは、他の大型の鳥に襲われないようにしないといけないなあって思ったからなだけなんですけどね」
鷲はくちばしを開け閉めして少女の声で話しまくる。
その間は無言でにこにこしていた。
セオドレドはめまいを感じて、両目を手で覆う。
「刺激が強すぎました?」
は心配そうに覗き込んでくる。
セオドレドは大きく深呼吸をすると、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。
波がかった金色の髪は鳥の巣のようにもつれてしまったが、セオドレドには気にしている余裕はなかった。
「少しな」
「話を続けても?」
「ああ」
今度はちゃんとの口が動く。
「あの子達はわたしと繋がっていて、見ているもの、聞いているものはわたしにもわかります。つまり、あの子達はわたしの目であり耳でもあるんです。ついでに口でもあるから、話せるんです。わたしの声になってしまうんですけどね」
にこっと笑うと、鷲はそれに応えて翼を広げる。
いささか小ぶりだが、淑女を守る誇らしげな騎士のようだ。
「・・・なるほど。しかし、八羽同時に見たり聞いたりしていたら混乱するのではないか?」
「それは大丈夫です。チャンネルを切り替えられますから」
「チャンネル?」
意味がわからなくて聞き返すと、はおとがいに手を当てて難しい表情になった。
「どう説明したら・・・。八羽分の見てることも聞いてることもわかるけど、その情報を受けている場所が違うといいますか・・・」
「そうなのか・・・?」
わかったようなわからないような返事をすると、も察したようで
「とにかく混乱はしません」
と、細かい説明は省いて断言だけした。
二人のやり取りに、もう行っても良いと判断したのか、鷲は空中に飛び出し、瞬く間に去って行った。











の鷲にしろ早馬にしろ、決定的な報告が来ない限り、エドラスから動くことはできない。
セオドレドはセオデンの部屋に行き、西の谷での出来事と先ほどの決定をセオデンに報告した。
セオデンは動きこそ億劫そうであったが、意識は最近の中では珍しく明瞭としていた。
報告を聞き終えたセオデンは、
「ご苦労だった、セオドレド」
とねぎらいの言葉をかける。
「モルドールの手の者がすでに国内に入ったとは、由々しき知らせだ。・・・暗黒の影はますます力を大きくしておる。戦いは避けられぬのだろうな」
「おそらくは」
セオドレドは軽く目を伏せた。
「・・・余に戦う力が残っておれば、な」
セオデンは自分の手を見下ろし、自嘲気味に笑った。
かつては軽々と剣を振り回した手は皺だらけで力なく、見る影もない。
セオドレドはどう言葉をかけてよいかわからず、苦いものが胸中に広がった。
慰めを言っても今のセオデンにはかえって酷だろう。
だがこのように覇気を失い、小さくなった父を見るのは忍びなかった。
セオデンは息子の手に己が手を乗せる。
「そのような顔をするな、息子よ。この件はそなたに任せる。・・・マークを頼んだぞ」
「承知いたしました。父上」
セオドレドは父の手の上にさらに自分の手を置く。
そのまま深く頭を下げた。
「それから父上。父上の病の原因がどうやらわかったようです。もうじきお体も楽になりましょう。今しばらく辛抱してください。・・・すべてが良くなりますよ。きっと」
願うように。
力を込める。






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