飛蔭を追った魔法使いの後姿が見えなくなるまで見送ると、と騎士たちは黄金館に戻った。
帰り道の話題はガンダルフは飛蔭を捕まえられるか賭けようか、というものだった。
心配半分興味半分の言い合いの末、飛蔭の気の荒さと足の速さは、生粋のロヒアリムはもとよりにも充分理解できたので無理だ、まるで賭けにならないという結論に達した。
それにしてもわからない、と騎士の一人が呟いた。
飛蔭は元々王しか乗せないメアラスの長馬だ。
ガンダルフもそのあたりのことは承知しているはず。
身体の弱ったセオデンはともかく、王子セオドレドやゴンドールのボロミアすら乗るのをためらったという逸話を持つ飛蔭をなぜわざわざ選ぶのか―。
飛蔭ほどではないが足が速く扱いやすい馬は他にもいるのに。
これでは選び損ではないか?
その疑問に答えられるものはここにはいなかった。
逃走
館の入り口に着くと、そこには黒ずくめの小男が苦虫を噛み潰したような表情で腕を組んで立っていた。
「・・・何か?」
は真顔で問う。きっと自分に対して文句があるのだろうと察したのだ。
「自分のしたことがわかっているのか?ガンダルフなどに関わるとろくなことがないと私が忠告してやったのに、お前がどうしてもというから王へお目どおりを許すよう進言したというのに・・・。お前のせいでマークの宝が奪われてしまったではないか!」
珍しく大声を上げるグリマに、は目をぱちくりとさせた。
次に、眉が八の字になるほど呆れ返った表情になる。
「確かにガンダルフ殿が飛蔭を選んだのは驚きましたけど、だからそれが何だって言うんです。あなた本気であの方が飛蔭に追いつけると思っているの?」
少女の傍にいた騎士たちと、二人のやり取りが聞こえていた衛士たちは同意するように頷いた。
誰もそんなことができるとは思わないのだ。
それほど飛蔭は傑出した馬なのだから。
しかしグリマは少しもひるまない。それどころかますます激昂した。
「なんて馬鹿な女だ!奴は魔法使いなのだぞ。どんな術を使うか・・・わかったものではないわ!」
「ちょっと待ってグリマ」
は頭が痛いというように、米神に指を当てる。
「ということは何?ガンダルフ殿が魔法を使って飛蔭を捕まえるっていうのを心配しているの?それができるのなら逃げる前にとっくに使っているでしょうよ。それに、捕まえられたところで、乗れなきゃどうしようもないじゃない。だいたい、陛下は飛蔭やメアラスは選んではいけないとは言ってないわ。『どれなりとくれてやる』と仰っていたのは、あなたも聞いていたでしょうに。もう忘れたの!?」
少女の無礼とも言える口調に、騎士たちは息を飲んだ。
どれだけ国民に疎まれていようと、グリマはセオデンの気に入りの相談役である。
影で悪口を言って鬱憤晴らしをするくらいのことは彼らもするが、面と向かって言うことはできなかった。言えば、間違いなく首が飛ぶ。
すぐ後ろにいた騎士は反射的に少女の腕をつかんで後ろに引きずりこむ。
と、同時に隣にいた男は少女を隠すように前に立ちはだかった。
「ちょ・・・!」
は制止しようと前に立つ男の背に手を伸ばしかけたが、さらに横から口をふさがれ、動きを封じられた。
(「これ以上グリマを刺激しないでください!」)
口を塞いだ男は切羽詰った調子で囁く。
少女は自分たちが敬愛するセオドレドの想い人であり、無意味で残酷な刑罰を抑えてきた恩人でもある。
普段ならどんな思惑があれ、グリマに対しても礼節を保って接するの豹変振りにこの場にいる皆は背が冷える思いだった。。
グリマは瞼を半分下ろし、怒りの表情を作る。
しかし口の端は勝利の笑みを堪えるためにぴくぴくと震えていた。
「侍女の分際でこの私になんて口の利き方だ。まったく、若君が無分別に甘やかすから・・・。しばらく牢に入って頭を冷やすといい」
「若君に断りもなくそのようなことをして許されるものか!」
黄金館の入り口には騒ぎを聞きつけて騎士たちが続々と集まり始めている。
エルフヘルムやハマもその中の一人だった。
駆けつけたハマは声を張り上げて抗議した。
「これはこれはハマ殿。わざわざお越しになるとは。しかし、この娘が好き勝手に振舞うのは今日が初めてというわけでもない。身分の高い方の寵愛を嵩にきた振る舞いは誠に見苦しいもの。若君の許可と申しましたな?あの方が気に入りの娘を牢に入れることに同意するはずがないでしょう。あの方ご自身がこの娘に狂わされているのですからな。どうしてもとおっしゃるのならば、陛下に判断を仰いでも私は一向に構わないのですぞ」
セオデンに伺いをたてるということは、グリマの言い分がすべてまかり通ることを意味する。
そうなればに待っているのは牢屋の入り口ではなく、死出の旅路だ。
『寵愛を嵩にきているのはどっちだ!』そう言いたいのを堪えてハマは爪が食い込むほどきつく拳を握る。ここで自分までがグリマに食いついたら、それこそ敵の思う壺だ。
「別に牢に入れっていうのならそうしてもいいけど・・・。手遅れよ」
口を塞いでいた手を無理やり外し、は挑戦的に言った。
「手遅れ・・・?何がだ」
グリマは一瞬身構えるように睨み付ける。
「わたし、わかったもの。陛下の不調の原因。もちろん王に忠実な相談役殿はそのことはご心配なさっておいでよね?回復の邪魔したりなんて、なさらないわよね」
少女はにこっと笑ってみせる。
「本当ですか、殿!」
ハマが勢いよく叫んだ。
騎士たちの間に動揺が起こる。グリマも例外ではなかった。
『信じられない』と血色の悪いその顔に描いているようだった。
「ほう・・・。して、その原因というのは何だ?」
グリマは疑い深そうに目を細める。
「口で言うよりも実際にやってみたほうが早いわ。それに、説明するにしても裏を取っておかないと・・・。幸い明後日にセオドレド様がお戻りになると聞いていますから、その日にいたしましょうか」
自信満々にきっぱりとは言い切った。しかし、
「・・・読めたぞ。そのようなことを言ってこの場を切り抜ける気だな。若君が戻られるまで時間稼ぎさえできれば庇っていただけると踏んでいるのだろう。そうはさせん。衛兵!この娘をいますぐ牢へ・・・!」
「グリマ殿」
黙然と少女と相談役のやりとりを聞いていたエルフヘルムは人垣を割って前に出る。
「陛下のご体調は国民すべてが案じていること。ここで娘を投獄すれば、貴殿がなにか後ろ暗いことを隠すためにそうしたのだと思われますぞ。貴殿については色々とよくない噂が立っておられるが、身に覚えがないのであればここは一つ、若君がお戻りになられるまで保留としたほうがよろしいだろう」
背が高く威厳のある彼に厳かに諭され、グリマは言葉に詰まった。
エルフヘルムは現在においても王の信頼を勝ち得ている数少ない騎士の一人だった。
彼はセオドレドの結婚問題ではを認めていないがこの件に関しては譲る気はないらしい。
グリマの次の行動を見極めようと眉一つ動かさず見下ろしていた。
「・・・エルフヘルム殿がそこまでおっしゃるのでしたら」
嫌々と小男は答える。
守備隊長を務める男は「ふむ」と頷いた。
「しかし、万一のことがあった場合はあなたが責任を負うことになるのですぞ?」
「いいだろう。が、この娘にしても若君の顔に泥を塗るような真似はしないだろう」
エルフヘルムはグリマの脅しに微塵も動揺する様子もなく少女に視線を移す。
は当然だといわんばかりに真面目な顔で頷いた。
そそくさとグリマが中に入ったのを見届けると、集まった騎士たちに解散するようエルフヘルムは指示した。
当の本人は散ってゆく騎士たちの間を縫ってに近づいてゆく。
「裏を取るのにどれくらい時間がかかる?」
単刀直入に切り出す騎士に、は苦笑した。
エオル王家を命より大事にしているというこの男には、面と向かってセオドレドを誑かそうとしているのならばたたではおかぬと脅しをいれられていたのだ。
それがセオデンの病の原因がわかったと言った途端にこうだ。
良くも悪くも一直線な男なのだろう。
「この件に関わっている人がいるんです。その人がエドラスにいるのであれば、今日中にでも」
エルフヘルムは眉を寄せた。
「グリマではなく、か?」
「ええ」
「誰だ?」
は少し間を置いて、
「ここで言うのはちょっと・・・」
と周囲を見渡した。
ここは外である。周りにはまだ何人もの騎士たちがいた。
「エオウィン姫にまず確認をとろうと思っています。エルフヘルム卿でしたら、同席していただいても構いませんが」
どうします?とが目で尋ねる。
「では、そうしよう」
彼の決断は早かった。
エオウィンはガンダルフが退散した後、セオデンを自室に連れて行き、落ち着かせることに専念していたので外での騒ぎに気付いていなかった。
一段落するのを待って彼女を呼び出す。
どこか三人だけで話したいと言うと、エオウィンは自分の部屋に招いてくれた。
はセオデンの病の原因に見当がついたというと、彼女は非常に驚き、また喜んだ。
「それで、原因は一体なんです?すぐに治るのですか?なにか薬が必要でしたら、用意させましょう」
「その前にまず、わたしの考えが正しいかどうかの確認をとらなければいけません。それで、お聞きしたいのですけど・・・」
の質問に、エルフヘルムもエオウィンも怪訝な顔になった。
セオデンは私室で肘掛け椅子にゆったりと腰掛けていた。
夏の暑さは感じるものの、身体の奥からわきおこる寒さに毛皮が手放せない。
食も細くなった。
息子や子供同然の甥、姪。それに臣下たちが身体の弱った自分のことを心配しているのは理解している。
グリマが自分に何かをしているのではないかと疑われていることも・・・。
だがセオデンにとってグリマの『忠告』はどれも耳に甘く、退けることが不可能だった。
自身でも疑いを持ったことはあったが、それもすぐに消えてしまう。
病に冒された身は溌剌としているとはいえない。
思考はどんな形もなさずに崩れ去る。
それでも、穏やかではあった。
深く考えることは何一つないのだから―。
控えめなノックがセオデンの意識を浮上させた。
「グリマでございます。殿・・・お加減はよろしいでしょうか?少しお話が・・・」
「入れ」
僅かに扉が軋んだ音を立て、開く。
入り口で深々と腰を曲げ、彼の信頼する相談役が近づいてきた。
「お休みのところ、このようなお知らせをお耳に入れるのは誠に心苦しいのでございますが、他の者どもは殿に伝えようとしない様子。こうしてグリマがお伝えに参らねば、殿はかかる大事をいつまでも知らずにいたままになったでしょう」
「なんだ?」
ゆっくり瞼を動かし、セオデンはグリマを見やる。
「ガンダルフがまた厄介ごとを起こしたのです。殿の寛大なご処置にも関わらず、あやつは飛蔭を連れてゆこうとしたのです。どの馬なりと選ぶよう殿はおっしゃいました。しかしこれはあまりにも分不相応な振る舞いではありませんか。恩を仇で返したも同然です」
「飛蔭を・・・?」
セオデンの眉がピクリと動く。
「はい」
グリマは沈痛そうな表情でセオデンの足元に膝をついた。
「それで、飛蔭はどうしたのだ?」
「王以外は乗せないメアラスの長でございます。当然、魔法使いなど乗せずに逃走いたしました。しかし相手はガンダルフです。どのような手を使うか・・・。心よりご心配を申し上げます」
「・・・・・・・・・」
セオデンは考え深げに黙りこんだ。
グリマはちらりと目を上げて主人の様子を窺う。
「飛蔭はマークの宝です。むざむざと放浪者などに奪われて良いはずがございません」
「確かに。しかし一度はどれなりと選べと言ったのだ。それが飛蔭であっても撤回をするなど王たるもののすることではない。グリマよ、飛蔭を失うはマークにとって大いなる損失だ。なれど飛蔭一頭でガンダルフを厄介払いできたのであればそう高い犠牲ではないかもしれぬ。あやつには本当に苦労させられたものだからな」
「誠に、仰せのとおりでございます」
グリマは恭しく頭を下げた。
「ですが、殿。ガンダルフが飛蔭に乗れるはずもございません。わたくしが思いますに、あやつは飛蔭の後を追うなどといってマークのあちらこちらを探ろうとしているのではないでしょうか。ここは、ガンダルフの後を追ったほうが良いのでは・・・」
セオデンは思いがけないことを言われたというように、半開きだった目を開けた。
「なるほど・・・ありうるな」
グリマは我が意を得たりと唇に笑みを刻む。
「殿。ガンダルフの後を追うよう、ご命令ください。殿のことをお案じするグリマがその任に当たりましょう」
セオデンは亡羊とした眼差しをグリマに向ける。
「・・・命令」
力なくグリマの言葉を繰り返す。
「そうです、ご命令を」
黒ずくめの男は畳み掛けた。
「余を案じているか、グリマよ・・・」
「殿を案じているのはこのグリマです」
何度も繰り返す蛇の声に、英邁の誉れ高かった王の目は、ただ目の前のものを映すだけのガラス球と化した。
「グリマよ、ガンダルフがマークから出てゆくのを見届けよ」
「グリマよ、ガンダルフがマークから出てゆくのを見届けよ」
グリマが口にし、セオデンが続く。
支配者と腹心は立場を変えた。
命令を下すのは、蛇の舌と呼ばれる男の方になった・・・。
たちの話し合いは半刻ほどで終わった。
各自の務めに戻るためにエオウィンの部屋から出ると、館は先ほどよりもざわめきを増していた。
「騒がしいな・・・」
エルフヘルムは訝しげに眉を寄せる。
「何かあったのかしら」
エオウィンは美しい白い顔を不安に歪めた。
前方から来た騎士はエルフヘルムを認めると足早に近づいてくる。
「エルフヘルム殿!お聞きになりましたか!?」
「何事かあったのか?」
「グリマが王の命令でガンダルフを追跡すると言って、先ほどエドラスから出て行ったのです」
「何だと!」
エルフヘルムはかっと目を見開く。
「それで、若君のエオレドは追ったのだろうな?」
セオドレドは自身のエオレドの一部をグリマの監視に当たらせていた。セオドレドが西の谷へ行っている間もその者たちはエドラスに留まっている。
監視のことはグリマの承知しているはずだった。彼らはそれとなく見張っているのだが、それでも相手にわかるようにしていたからだ。
グリマは元からあまりエドラスの門の外に出ることはまれではあったが、監視が置かれて以降、一度も外出することはなかった。
「それが・・・王命による行動を邪魔するならばただではおかないとグリマが・・・。疑うのならば王に尋ねてみよと」
エルフヘルムは額に青筋が浮かぶほど歯軋りした。
「グリマが出て行って、どれくらいになります?」
は戸惑ったように頭を傾ける。
アイゼンガルドの主人のところに戻ったか、そこすら安住できないとさらに遠くに逃げたのか・・・。グリマの切り札でもあったセオデン不調の原因を気付かれての行動としか思えなかった。
「陛下が部屋に戻られてしばらくのことです。もう後を追うには遅いかと・・・」
「なぜ私を呼ばなかった!」
「も、申し訳ございませぬ!探していたのですが見つからず・・・っ」
エルフヘルムの館中に聞こえそうなほどの怒声に、騎士は身体を縮こませた。
エオウィンは胸の前で手を組んで騎士とエルフヘルムの間に割って入る。
「落ち着いてください、エルフヘルム殿。それよりもいかがいたしましょうか。セオドレドのエオレドが後を追えぬとなりますと、グリマが何をしようとしているのか、わからなくなりますわ。もっとも・・・」
エオウィンは眼差しに暗いものを浮かべて、床に目を落とす。
「二度と戻ってこないのであれば、何をしようとどこに行こうと構わないと思いますけれどね」
「・・・まあ、そうですよね」
も同意を示す。
「それでも、一応探した方が良いと思います。サルマンのところにでも行って余計な知恵を吹き込まれて戻ってきたらやっかいですし」
「そうね」
王の姪と王子の想い人のやりとりを聞いていた守備隊長はさっと歩き出した。
ばさりと緑色のマントが翻る。
「エルフヘルム殿?」
エオウィンの呼びかけに、安心するよう小さく頷いてみせる。
「我がエオレドに後を追わせましょう。あの男はろくに剣も使えん。『王命を実行する相談役殿の護衛』がいたところで不都合はないでしょうからな。なに、我が手の者は皆優れた馬乗りです。すぐに追いつけるでしょう」
白の姫に一礼をしてエルフヘルムは去っていこうとする。
そのすぐ後をは追っていった。
「エルフヘルム卿。どうせなら先回りもしませんか?」
すると彼は鼻白んだような、渋い顔になった。
「見くびるな、娘。それくらいのことは私も考えておるわ。グリマ捜索に一隊、アイゼンガルド方面に一隊、北と東に一隊ずつだ。南は放っておいて構わないだろう。ゴンドールがあるだけだからな。それから万が一西で何かがあっても、若君がこちらに向かっている途中であるし、それにエルケンブランド殿がいる。取り逃がすことなどありえん。これで文句はないか?」
じろりと見下ろされてはばつが悪そうな顔になった。
「申し訳ありません。出すぎた真似を・・・」
ふん、と鼻を鳴らしたエルフヘルムは小さく笑みを浮かべた。
「私のことよりも、自分のことを心配するのだな。この件が片付くまでに裏を取っておかんと―承知せぬぞ」
ぽん、と去り際に肩を幾分親しみがこもったように叩かれ、は破顔した。
「はい!」
あとがき 次へ 戻る 目次