「信じられないわ。本当にグリマを説き伏せてしまったのね」
翌日のセオデンの予定にガンダルフとの謁見が追加されたことを報告に来たに、エオウィンは目を丸くして驚いた。
「説き伏せたといいますか……。売り言葉に買い言葉といいますか……」
ごにょごにょと明後日の方を見るにエオウィンは
「え?」
と首をかしげる。
「いえ、なんでも」
は首を振った。
「それで、謁見までガンダルフ殿はどうしたらよろしいでしょうか、姫さま。館にお招きしてもよろしいのでしょうか?」
セオドレドの細作からエオウィンの侍女へと表情を改めたにエオウィンは考え込むように頬に手を当てる。
「ガンダルフ殿は陛下の知己でいらっしゃるのですから、そうしてももちろんいいのだけれど・・・。グリマが騒ぎ立てないよう、今日のところは控えましょう。館から少し下ったところにある屋敷に部屋を用意させます。あちらにはあちらの召使いがいるのだけれど、もしガンダルフ殿と話がしたいのでしたら、あなたもそちらへ移って良いわ」
今度はが考え込む番だった。
ややあって少女は答えた。
「やめておきます。少なくともあの方は敵ではないことはわかりましたし、必要なことは明日聞けるでしょう。それに、わざわざ移ったりしたらグリマに勘ぐられるだけでしょうし、それも癪にさわりますから」
あっけらかんとした少女の調子に、エオウィンは小さく吹き出した。
一筋の光明
翌日。
黄金館の広間はいつになく緊張に包まれていた。
関係が良好だと信じて疑わなかったアイゼンガルドの魔法使いの変節が伝えられてから数ヶ月たち、セオドレドによりもたらされたその知らせを疑うものはエドラスではほとんどいない。
たぶらかされている父であり王その人であるセオデンを除いては。
今日の謁見に立ち会おうとする騎士、廷臣の数は普段より多い。
もう一人の魔法使いであるガンダルフがサルマンの手先か否か、その一挙一動を見極めようとでもするかのようだった。
騎士たちの後ろに、他の侍女たちと並んでも控えている。
何かが起こるかもしれないと、柔和な顔はいつになく緊張に強張っていた。
重たいものを引きずるような音がし、セオデンが奥からゆっくり歩いてくる。
右手で杖をつき、左手はエオウィンに支えられていた。
その後ろに背を丸め、苦々しい表情で続くのはグリマだ。
セオデンは大儀そうに玉座に腰を下ろし、杖を一つ、床に打ち鳴らした。
エオウィンは玉座の後ろへ、グリマは足元に控える。
騎士たちが一斉に敬礼をした。
続いて広間の入り口がゆっくり開く。
まだ高くない日の光が入り口から差し込み、秋めいてきた涼しげな風が吹き抜ける。
灰色のマントをまとった老人が姿を現した。
居並ぶ騎士たちに値踏みされるように見られているのを気に止めていないように、杖をつき、灰色のマントと青い帽子をかぶったまま慎重な足取りでセオデンの前まで進んだ。
「ごきげんよろしゅう、センゲルの息子セオデン殿。わしはマークに関わる非常に重大な知らせを持ち来たった。そのことの一部はすでに当宮廷に伝えられているご様子。じゃがさらなる詳しいことをわしは語ることができましょう」
ガンダルフは昨日と同じくくたびれた姿ではあるが、目には炯炯と光が灯り、しっかとセオデンを見据えていた。
対するセオデンは疑い深く魔法使いを凝視する。
「久しぶりよの。しかしお主も相変わらずのようだ。何年も姿を見せず、来たと思えば何がしかの厄介ごとを背負っておる。そのたびにマークはそなたに振り回されるわ。今回もそうなのであろう?」
ガンダルフは軽く頭を下げた。
「殿におかれてはご不快ごもっとも。今回わしは殿への助言を与えることができますが、殿からの援助も求めておりますのでな。すでにお聞き及びのようじゃが、アイゼンガルドは悪の側につきましたぞ」
「お前もそれを言うか。ガンダルフよ。一体なにゆえ、そろいもそろってサルマンを悪と思わせようとする?」
セオデンは不快そうに杖を打ち鳴らした。
ガンダルフはふっと目を半ば閉じる。
「そろいもそろってとは、殿はご子息の言をお信じになられないのですかな?」
「彼ほど高潔な魔法使いが悪に堕したなど、信じろというほうがおかしいのだ」
「しかし彼は変わった…。アイゼンガルドには魔狼やオークが収容され、美しかった谷間は鉄工所で埋まっておる。工事場や作業場から昇る黒い煙は、西の谷からなら見ることができるじゃろう。サルマンは自分のための大軍勢を整えつつある。今のところはサウロンに対抗するために集めているようで、冥王と手を組んだとは言い難い。しかし彼はサウロンに取って代わろうと目論んでおる。さよう、そのためにわしに手を貸すように言ってきたのだからな」
途端、セオデンの身体はぐらりと傾いた。エオウィンが動くよりも早く足元にいたグリマが立ち上がって支える。後ろを向いたグリマの口がひっそりと動いたが、そのことに気付いたものはいなかった。
セオデンはぎろりとガンダルフを睨みつける。
「それで、お前はなんと答えたのだ?ガンダルフよ」
「サルマンはわしに選択を迫った。それは言ってしまえば、サウロンとサルマン、どちらに屈するかを選ぶかということに他ならなかった。わしはどちらも選ばなかった」
「お前がサウロンに取って代わるためにか?」
セオデンは冷笑した。
「わしは誰の王にもならぬ」
ガンダルフは静かに答えた。
セオデンは鼻をならした。
「それで、そなたの助言とは?」
ガンダルフはふうむと呟き、グリマをちらりと見る。
「初めはの、ご子息の言を聞き入れ、戦いの準備を怠りなく整えるよう忠告するつもりじゃった。ローハンの危機は、王が思っていらっしゃる以上に大きいのじゃとな。しかしそれ以上にそこのお足元にいる相談役殿を遠ざけることが先決でしょう」
セオデンは怒りで顔が真っ赤になった。だが、ガンダルフは容赦なく続ける。
「さきほど、何を吹き込まれましたかな?セオデン王」
「余を愚弄するつもりか!」
「殿、殿はマークの殿御としてはずいぶん早く老けられましたなぁ。一体何事があったというのですかな?マークを覆う暗雲は、ずいぶんと前からこの地に潜んでいたと見える。殿、その相談役殿を遠ざけなされ。そして外に出て、ご自身の目で国の様子を確かめなさるがよろしかろう。さすれば何が本当に信に値するか、自ずとわかるでしょう」
「ガンダルフ!」
グリマは立ち上がり、魔法使いをにらみつけた。
「一度は即刻退去するよう命じたあんたを、昔のよしみで目通りを許すよう殿にご進言した者に対して、何たる無礼だ!あんたをここに通したのは、あんたがマークに関係する事柄をなにがしか知っているからであって、宮廷につまらん諍いごとを起こすためではない!」
「つまらん諍いごととな?」
グリマはセオデンに向き直り、跪いて顔を上げる。
「殿、これは陰謀です。わが国に接する強力にして友好的な地の主を殿の敵と思い込ませ、我らの目がそちらを向いている間に本当の敵が殿を狙っているのです」
「本当の敵だと?」
セオデンは怪訝そうにグリマを見下ろす。
グリマは口を開くのをためらうように一度顔を背け、しかしまたぐいと王を見上げる。
「このようなことを申し上げるのは、誠に遺憾でございますが、殿を、引いてはマークを狙っているのは、誰あろうセオドレド殿下でございましょう。若君は早々に殿に取って代わろうとなさっているのだと思われます。なぜなら―」
グリマはずるそうな目でちらと王の様子を窺う。
「なぜなら、白の賢者ほど知恵に優れ、力のある魔法使いはおらず、もし彼が真実悪の側に寝返ったのだとしたら、彼より劣るこの灰色の魔法使いが悪の側に立っていないなどということが考えられましょうや?それよりも権力を欲した若君がガンダルフをも巻き込んで、アイゼンガルドへの間違った認識を殿にさせようとしたのだと考えた方がはるかに納得がゆきます。違いますかな、殿よ」
セオデンはしばらく顔が胸にくっついてしまうほどうなだれ、考え込んでいたかと思うと、力のない声で、
「そうだな・・・」
と呟いた。
広間は声にならない不満と苛立ちに色めき立った。
グリマはさらに畳み掛けるように、同情と理解を込めたような口調でセオデンに囁きかける。
「セオドレド殿がこのような暴挙に出られたのも、殿が若君よりもグリマの方を重用していると若君には思われたからではないでしょうか?武勇よりも知恵が重んじられることに不満があるのでは?若君は世継ぎとしてはほぼ申し分のない方だ、と申し上げましょう。
民の信用も厚く、武勇に秀で、頭も、まあお悪くはございません。しかしあまりにも軽率な振る舞いが多うございます。特にここ数ヶ月は、傍若無人と言ってもようございます。まるでご自分がマークの王だといわんばかりではありませんか。このようなことは許されていいことではございません」
粘つくようなグリマの言葉に飲み込まれるように、セオデンは小刻みに身体を震わせた。
「殿、これ以上裏切り者と交渉をするなど、してはいけません。灰色の魔法使いを即刻マークから追放するのです」
セオデンはがたりと音を立てて立ち上がる。
「ガンダルフよ、そなたをマークより追放する。二度と、この国に現れることは許さぬ」
魔法使いはしわの深い顔にどんな驚きも見せず、
「わしは北の地に急いで戻らなければならん。馬を一頭お貸しいただけますかな?」
彼の居直りともとれる発言にセオデンは激昂した。
「どれなりとくれてやる!即刻立ち去れ!」
ガンダルフは悪びれもせず頭を下げ、広間を辞していった。
(…なんて、期待はずれだったのかしら……)
激しく期待を裏切られたは落胆して嘆息した。
サルマンとの接見から、魔法使いというものはマークの国民ではないが影響力は非常に大きいものだと思っていた。だからガンダルフがセオデンに忠告しさえすれば、すぐにでも状況は改善するものだと思っていたのだ。しかし、実のある結果はまったくないに等しい。
(グリマの哄笑が聞こえてくるような気がするわ)
うんざりしたように額にかかる髪をかきあげ、少女は魔法使いの後を追った。
エオウィンに断りを入れてから外にでたため、すでに老人は門の近くまで行ってしまっていた。ドレスの裾を持ち上げ、ぱたぱたと走る。しばらく雨が降っていないので道は乾ききり、色の薄い侍女用のドレスの裾は埃で黄色っぽくなった。
「ガンダルフ殿―!待ってくださーい!!」
ようやく声が届くくらいのところまで追いついて、少女は叫んだ。
逆光で表情は良く見えないが、ガンダルフは立ち止まり、が追いつくまでそこにいた。
「お前さんか」
「お前さんか、じゃないですよ」
息を整えながらはガンダルフと並んで歩く。
「もう少し、何か起こるかと思ってましたわ。せめてグリマだけでもどうにかしてくださるものかと・・・」
不満そうに魔法使いを見上げる少女に、ガンダルフは厳しい表情で答えた。
「わしは裁きを下すことはせんよ。わしが行うは忠告することじゃ。それも、求めておらん者にはできぬ」
「求めるもなにも、セオデン王はグリマに誑かされているんです。グリマがそう仕向けているから、あなたの忠告を聞かないようにしているのでしょう?」
「いいや」
ガンダルフはゆっくり首を振った。
「え?」
「セオデンは確かにグリマに誑かされておる。王は相談役の甘言に惑わされ、覚めぬ夢の中にいるようなものじゃ。周りが見えず、誠実な言葉は届いておらぬ。しかし、惑わしの罠でああまで老いらせることができるとはわしには思えぬ。なにかの手妻でも使わん限りはのう」
「グリマがしたのは讒言だけで、陛下のご病気は自然のものだと?」
の表情は硬くなった。
それでは、なんの解決にもならない。
知らず、スカートをぎりりと握りしめている少女の拳に魔法使いは軽く触れた。
しわだらけの乾燥した手は温かく、何かの力が込められているかのようにの肩から力が抜けた。
「物事は複雑に見えることが案外単純であったり、その逆もある。賢者と呼ばれるものは己が知りぬいたことのみ話すもの、簡単に結論付けてはならん。あんたは少し力が入りすぎて余裕がないようじゃのう。外に出て、周りを見てみるといい。この忠告は何もセオデンに限ったことではないのじゃよ」
はじっとガンダルフを見つめる。
濃い茶色の目には不満や苛立ちが拭われ、代わりに奥の奥まで読み取ろうとする意思が現れた。
「…そう、ですね。確かに。ここはあまりにも故郷とは違いすぎて…でも、早く皆の中に溶け込まなくちゃ、成果を出さなくちゃって、焦っていたみたいです」
「お前さんの故郷は、こことそんなに違うのかね?」
世間話をするように、ガンダルフは尋ねた。
「大違いです。外見も、生活習慣も、なにもかも。日常的に馬に乗ることなんてなかったし、オークとか、そういうのもいませんでした」
「朝と夜の別がなく、魚が空を泳ぎ、獣が水中で走り回ったりするかの?」
魔法使いのおどけたような口調に、は吹き出した。
「まさか、そんなことはありませんよ」
「あんたの世界の人びとは、暑さに喘ぐものに暖炉を進め、寒さに凍えるものに氷水を浴びせたりするかね?地を耕し、家畜を育て、布を織り、家を作り…そういうことはどこも変わらんのではないかね?あんたはロヒアリムらと同じじゃよ。ちょいと、毛色は違うがの。それだけじゃ、なにを気張ることがある?」
「…それは、そこまで大雑把にわければ、そうでしょうけど」
腑に落ちないというように、は首をかしげた。
「あんたはセオドレド殿に同調し、グリマを疑っておる。なぜじゃ?セオドレドに信じるに足るものがあることを見出し、グリマはそうではないからじゃろう。宮廷の様子を見てよくわかったが、セオデン以外の者は皆、あんたと同じ判断を下しておる。ロヒアリムではないお前さんがロヒアリムと同じ考えを持つ。それは、あんたの世界と通じる価値基準があるということではないか?」
「………」
「しかしお前さんはやっぱりロヒアリムではないからのう。お前さんから見ればおかしいと思うことうや不自然に思えるものもあるじゃろう。そしてそのことに元々そこで生まれた者は気付かないものじゃ。それがその者にとって当たり前であればあるほどな」
「…不自然な、もの…」
は視線を落として呟いた。
ガンダルフは立ち止まった。
すでに馬の放牧場に到着していたのだ。
「わしは急ぎ北へ戻らねばならん。セオデン王の様子も気になるが、長居はできぬ」
魔法使いは話をしながらも、目を左右に動かし、馬たちを吟味していた。
「あんたにはアルダの人間のものとは違う知恵があるようじゃ。それがお前さんに味方をしてくれるじゃろう」
「…ここでも通用すると思いますか?」
「試せるものは試してみればよい」
は目を閉じた。
眉間にしわが寄り、衝撃に耐えているようだった。
思い当たることがあるのだ。
それを確かめればいい。
ガンダルフの一言は、に一筋の光明を与えたのだ。
(道が開けた…!)
ゆっくり目を開けると少女は魔法使いに深々と頭を下げた。
「ご忠告、ありがとうございました。…ようやく見当がつきましたわ」
緊張にやや引きつってはいたが、紛れもない喜びが顔に溢れていた。
魔法使いは一つ頷くと、では、と言って足早に立ち去っていこうとした。
「ガンダルフ殿、王は二度と来るなとおっしゃいましたが…また来ていただけますか?」
「わしが必要とされているときにはな。おう、彼にしよう」
ガンダルフは借り受ける馬を見つけたようで、一直線に歩いていった。
は魔法使いの視線の先を追い、彼が目をつけた馬を見てあっけにとられた。
「え…?飛蔭ですか?無理ですよ、ガンダルフ殿。飛蔭は誰も乗せないんですから!」
「事は急を要する。とびきりの駿馬が必要なのじゃよ」
は叫んだが、ガンダルフは聞く耳を持たない。
ガンダルフとの後ろには、宮廷から何人かの騎士がついてきていたが、彼らも魔法使いの選んだ馬が飛蔭であると気付くと、驚いたように走りよってきた。
「ガンダルフは飛蔭を選んだのか?」
唖然として立ち尽くす少女に、顔見知りの騎士が声をかけてきた。
「そうみたいです。あの…いいんですか?」
困ったように見上げると、騎士はこれまた困ったように頭を掻く。
「いいもなにも…飛蔭は乗りこなせないだろうし…。どうするんだろうな、この場合」
「あ、飛蔭が逃げた!」
もう一人の騎士が叫ぶ。
彼の言うとおり、飛蔭はガンダルフが近寄ったのを不快に思ったのか、軽やかに走り出し、瞬く間に銀の点となって見えなくなった。
ガンダルフは飛蔭が駆け去った方へ走ってゆく。
「…追いかける気か、あのご老体は」
「無茶だ…」
晴れ渡った秋空に、騎士たちの呟きが空しく消えていった。
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