シュ……。

刃が空を切る度に精神が澄んでくる。
身体を動かすのは久しぶりだった。
従兄も兄もいない宮廷では自分がほとんど取り仕切らなければいけないので、満足に練習をすることができなかったのだ。

エオウィンは愛用の剣を構え、素振りを続けた。










二人の願い











半刻も剣を振り続けていたらさすがに汗をかいてきた。
リンネルでぬぐいながら片隅に転がっている古い壁の欠片―といっても椅子代わりに出来るほどの大きさがあったが―に腰掛ける。
太陽はまだ夏の名残の輝きを放っているが、風はもうすっかり秋のものだ。
「…姫。エオウィン姫」
遠くから聞こえる声にふっと顔をあげる。
そういえばそろそろ昼食の時間だ。戻らないと。
エオウィンは剣にリンネルを巻きつけ、まとめていた髪を下ろすと館に向かって歩き出した。
女の身でも剣を扱うことが珍しくはないマークではあるが「あまりにも熱心に練習をしている」とエオウィンが剣を振るうのを良く思わない者もいた。お転婆過ぎて嫁の貰い手がなくなるのではないかと心配をしているらしい。大いなるお世話ではあるが。
そのためエオウィンは館の正面から見えにくい小さな中庭のような場所で鍛錬に励むのが常であった。
長年のことであるので、彼女付きの侍女はそのことをよく知っている。
だがまだ新参である少女はエオウィンを探しあぐねているらしい。
「エオウィン姫―?」
「ここよ」
戸惑っている少女に声をかけると、驚いたように振り向いた。
「探しました、姫様。ユルゼ様からこのあたりだと伺ったのですけど、見つからないんですもの。もうじき昼食の時間ですので、お戻りください」
「このあたりは少し入り組んでいるから、わかりにくいのよ。ええ、そうだろうと思ったわ。すぐに戻ります」
にこっとエオウィンは笑う。
清清しい、いい気持ちだった。
汗を流しただけではなく、このところ伯父の体調が良くなってきているのも原因のひとつだ。
そしてこの変化はすべて目の前の少女がもたらしたものだった。
「姫、剣をお預かりします」
「いいわ。あなたには重いもの」
「ですが…」
「大丈夫よ」
エオウィンの荷物を持とうと腕を伸ばした少女にエオウィンはやんわりと断った。
剣は人に預けるものではないというのがロヒアリムのみならず戦士の常識である。
その例にもれず、エオウィンも自分の剣はすべて自分で手入れをしていた。
そうでなくとも鉄の剣は重い。鍛えている自分ならともかく、の華奢な腕には荷が勝ちすぎるだろう。
「それよりも、ねえ、。あなたは侍女といっても便宜上のことで、わたくしはお友達で同志だと思っているのだから、そう畏まって話さないでほしいの」
お友達どころか、近い将来義姉になる可能性が非常に高い。
王の病の原因究明で徐々に信用が高まりつつある今、それは時間の問題といえた。
このまま冬になっても例年のように悪化しなければ、ほぼ決まりだろう。
セオデンが回復することは、マークの民すべての希望なのだ。
その王を治したとあらば、少女を悪く思うものなどいなくなるに違いない。
残念なことといえば、グリマがアイゼンガルドと通じている証拠をとうとうあげられなかったことだ。
の放った八羽の鷲の中の一羽はアイゼンガルドに向かって飛んだのだが、そこに近づく前に黒い大きな鳥が行く手を塞いだのだ。
鷲がグリマを見つけたのは、西の谷もだいぶ過ぎてエドラスに向かう途中の頃だった。
当然ながらセオドレドはグリマはオルサンクに行ったに違いないと声高に叫び、グリマは行っていないと言い張る。にらみ合いはいつまでも続いた。
仲裁に入ったのはセオデンだった。
だが、それはエオウィンたちの願ったようにはいかなかった。
王はまだグリマを信用している。
証拠もなく相談役を疑うなとの仰せだった。
失望はした。
だが、宮廷内でのグリマの権力は目に見えて失墜した。
以前のようにあの男に膝を屈しなければならないことは少なくなったのだ。
いまはこれで我慢しよう。
きっとあの男の化けの皮が剥がれる日が来るのだから…。
「そういうわけには参りません。わたしは侍女なんですから、けじめは大事です」
頑固に言い募るにエオウィンは苦笑した。
「しかたないわね。でもいいわ。そのうち状況のほうが変わって嫌でもそうなることになるでしょうし」
ちょっとだけ意地悪な気持ちでエオウィンは言った。
の心は少しずつセオドレドに傾いてきているように見える。
なのに本人は絶対にそのことを認めないのだ。
それがじれったくて仕方がない。
「エオウィン姫…」
案の定、は困ったように俯いた。
口元を手で覆っているが、その下の肌は薔薇色に染まっている。
「そんなんじゃ、ないんですよ…?」
隣を歩く少女は小さく呟いたが、エオウィンは聞かなかったことにした。



少しずつ、光明が見えてきた。
マークを覆っていた暗雲が晴れてきた。
(だけど)
と、エオウィンは自問する。
(わたくしは何をしてきたのだろう。
あれほどお傍にいながら伯父上の病の原因にも気付けず、グリマの増長を止めることもできなかった。
はとてもよくやってくれているわ。
アイゼンガルドが敵に回ったことを知ったのも、もとはといえば彼女があそこに行きたいといったからですもの。
それに、不思議な力を持ってマークの役に立っているし…。
それに引き換え、わたくしは?)
考え出すと胸が締め付けられる。
自分の非力さが呪わしい。
(宮廷の留守番役などわたくしでなくてもできることだわ。わたくしである必要がどこにあるというの?グリマのような男さえいなければ、誰がやっても同じことだわ)
弾んでいた気持ちが急に萎えてくる。
エオウィンは顔が曇らないように引き締めた。
(わたくしはお役に立ちたいのだわ。伯父上やセオドレド、ひいてはマークのためになることをしたい。誰の変わりもできないことをしたいのだ。わたくし自身の力で…!)
だがどうしたらそんなことができるのか、エオウィンには見当もつかなかった。











モルドールへの警戒が解かれ、マークはいつもどおりの平穏を取り戻していた。
エドラスの門を出てすぐの草原には多くの人と馬の姿が見える。

の持ち馬となって半年になる仔馬、ブレードは夏の間に青草をたくさん食べ、すでに彼女よりも頭の位置が高くなっていた。
ブレードは乗馬用の馬として育てられることになっているが、何が起こるかわからない情勢であるため、基本的な軍馬としての訓練も受けることになった。
鞍に慣れ、人を乗せて指示を聞くだけではなく、狼やオークなどに襲われたときにも冷静さを失わないようにしなければならない。
専門家でなくとも慣れた者なら自分で調教するが、あいにくには経験がないため伯楽たちに任せることにした。
朝の世話が終わると彼らに預けに行き、その間は侍女の仕事を勤める。
特に何もなければ十時頃に一度休憩ができるので、その時に様子を見に門の外まで降りてゆくのが日課になった。
「エオメル様。何をしてらっしゃるんですか?」
いつものように仔馬の様子を見に来たは、自分の馬の手綱を引いているのが意外な人物だったため頓狂な声で叫んだ。
「見てのとおり調教だが?私がするのはおかしいか?」
まくった袖で汗を拭いながら、エオメルはの側まで歩いてきた。
シャツの上に革の胴鎧といったいでたちで、前髪をまとめて後ろで縛っている。
「いえ、少し驚いて…」
の慌てた様子にエオメルは笑みを浮かべた。
「小さい頃から世話をしてきたからな。今では軍馬を育てることもできる…。一人前にするまでは大変だが、彼らとともに草原を駆けることができると思うとつい熱心になってしまうんだ」
上機嫌のエオメルの後ろをブレードは楽しそうについてきている。
調教といってもまだ初期段階。仔馬にとっては遊んでもらっているようなものらしい。
エオメルが首をさすると、ブレードは頭突きをするような勢いで擦りついてきた。
「危ないっ!」
「おっと!」
仔馬といえど体重はエオメルよりも重い。
まともにぶつかってこられたら怪我をしてしまう。
慣れた様子でエオメルはとっさ避けて落ち着かせた。
「休憩中か?
「はい。エオメル様は?」
「今はこれが仕事なんだ」
ずっとこれだけやっていられたらいいのだがな、と小声で続けたのではクスクスと笑った。
「ブレード、どうですか?」
「親馬からいっても軍馬になれる素質はあったんだが、やはりそうだ。今年生まれた馬の中では特に有望だな。将来が楽しみだ」
エオメルは弾んだ声で答えた。
馬と関わるのが楽しくてたまらないという様子である。
「それなら、乗馬用にしてしまうの、もったいないんじゃありません?」
はくりんと首をかしげる。
ほつれた髪がふわりと風に舞い上がった。
「まあ、少しはな。だが気にするな。数が足りないというわけでもないからな」
エオメルは目を細めて少女を眺めた。
彼がエドラスにいなかった二ヶ月の間にはずいぶん落ち着いたようだった。
特に最近は物腰にも余裕が感じられる。
セオドレドから大役を任され、ひと悶着あったもののそれを乗り越えたことから自信がついたのかもしれない。
少女がブレードを大事に世話していることも好感を持てる要因だった。
育ち盛り、暴れ盛りの仔馬に引き回されているところはあるが、彼女の腕力では仕方のないところだ。
それよりもこちらでちゃんと調教し、主人のいうことを聞かせるようにすれば良い。
ブレード自身はに懐いているのだから。
「綱を引いていてやるから、少し乗るか?」
「え、でも…大丈夫ですか?」
不安げに眉をひそめる少女に、エオメルは胸を張る。
「大丈夫だ。私が付いているから、怖がることはない」
「いえ、そうではなくて…。この子、まだ生まれて半年でしょう。わたしが乗ったら重いんじゃないかしら」
は自分よりも大きな仔馬をじっと見つめる。
どうやら本気でそう思っているらしい。
エオメルは思わず噴出してしまった。
「エオメル様、わたし、本当に心配してるんですよ!」
「…っすまん。いや、まさかそう来るとは思わなかった」
気を悪くしたに、エオメルは精一杯謝った。
それでも笑いがこみ上げてくるのでいささか説得力が足りなかったが。


早速エオメルはの大きさに合わせて鞍を選んだ。
両足で跨げる男とは違い、女は長いスカートを穿いたまま馬に乗るので、足はどちらか片側に預けることになる。
自然、あぶみは一つだけで済む。
「これでよし。では、乗ってみろ」
手早く鞍とあぶみを付け終わると、エオメルは少女を促した。
はまだ半信半疑といった様子で首を捻りながら仔馬に近づく。
「…本当に平気なんですか?」
「あのなあ、ブレードはもうお前の二倍以上は体重があるんだぞ?」
「…わたしの体重、知らないくせに〜」
少女は半目になってエオメルを睨んだ。
しかし娘相手に体重の話をしてはいけないということに気付かないエオメルは、
「見ればだいたい見当はつくだろうが」
と当然のように言い放ち、さらには少女の脇の下に手を入れて持ち上げたのだ。
「ほら、軽いもんじゃないか」
「………!」
は絶句した。
濃い茶色の目はますます見開かれて大きくなり、小さく口を開けたまま凍りついた。
足は宙に浮き、ぷらぷらと揺れる。
はエオメルを見下ろすような格好になった。男の灰色の目が間近にある。
地に足がついていない心もとなさと恥ずかしさとではじたばたしだした。
「降ろして!降ろしてくださいっ!」
「おい、暴れるな」
「降ろし…きゃあっ!」
思わずエオメルが手を放してしまうと、は尻から地面に落ちた。
「いったぁ…」
打ったところをさする。
「大丈夫か?」
エオメルは膝をついて少女の様子を確かめた。
頑丈な自分と違って華奢でか弱い娘なのだ。
怪我でもさせたら大変だ。
、大丈夫か!?」
大丈夫だとが答えようと口を開いた時、別のところからかけられた声に少女は顔を上げる。
「セオドレド様?」
立ち上がってきょろきょろと見回すと、ブレゴに跨ったセオドレドが二人の方へ来るのが見えた。
王の息子は瞬く間に近づき、愛馬の背から降りる。
「セオドレド様もこちらにいらっしゃったのですね」
セオドレドは頷くと心配そうに少女を引き寄せた。
「大事無いか?
「はい、平気です」
「申し訳ございません従兄上。少々ふざけが過ぎました」
エオメルは殊勝に頭を下げる。
セオドレドはわざとらしいしかめ面を作り、
「お前もなぁ、身内ならばいざ知らず、年頃の娘にみだりに触るものではないよ」
責任問題に発展するぞ?といたずらっぽく肩頬をあげて笑った。



「ところで、。私は午後は休みなんだが…」
出し抜けに言うセオドレドには面食らった。
「聞いております。いつもお忙しいのですもの、たまには必要ですわ」
「せっかくだ。遠乗りに出かけないか?」
「無理です。セオドレド様が休みでも、わたしはそうではありませんもの」
あっさりと断る少女に、エオメルはこっそりため息をついた。
だからどうしてこの少女は従兄の願いを無下にするのだ。
やきもきしているエオメルとは反対に、セオドレドは「なるほど」と得心したように頷いた。
だが、の返答に納得したわけではないらしい。
「で、午後の予定は?」
あくまで食い下がるつもりのようだ。
「急な来訪がなければ、いつもどおりですが…。それから明日、天気がよければ冬用の衣類を虫干しするそうですから、その用意を…」
はエオウィン付きの侍女である。
その彼女が扱う衣類といえば彼女たち自身のものではなく、王家のものと決まっていた。
セオドレドは再び「なるほど」というと、
「では問題ないな。エオウィンにはそなたを借りると言っておこう」
にこやかに笑った。
「そんな、勝手に決めないでください」
困惑したようには頬に手を当てた。
「虫干しなど一日二日遅れたところで困るものではない。なんなら私のものは後回しでいいぞ。まだ充分暖かいからな」
セオドレドはあっけらかんとしてエオメルを振り返った。
「お前も構わんか?」
「もちろんですよ」
エオメルはすかさず同意をする。
この機会を逃してたまるものかという気迫だ。
「となれば父とエオウィンの分だけだ。それなら侍女が一人いなくとも負担にはなるまい?」
「セオドレド様。ゴーインです」
はがっくりとうな垂れた。



そんなを宥めすかしたエオメルはブレードにを乗せ、自分は引き綱を持ってゆっくりと歩いた。
仔馬に負担になっていないか、始めの頃こそ心配そうに様子を窺っていただったが、人間だったら鼻歌でも歌っていそうなほど軽々と歩いているブレードにようやく安心したのか、次第に笑みを取り戻してきた。
ブレードの隣には話ができるほどの距離をとって、セオドレドが並んだ。
「ふふっ」
少女は突然噴出した。
「どうした?」
と、エオメル。
「右手にセオドレド様、左手にエオメル様なんて、贅沢すぎて色々な方面から文句がきそうで怖いです」
怖いといっているが、顔は笑っている。
隣ではセオドレドも噴出していた。
「うむ。ちょうど文句を言いそうな御仁が向こうからやってきたぞ。このまま進むか?」
「どなたです?」
馬上の二人はともかく、歩いているエオメルには遠くは見えない。
「エルフヘルム殿です」
背をかがめたは耳打ちしてきた。
鼻腔をくすぐる甘い香りに、エオメルの胸が高鳴る。
(…?)
一瞬、自分の身に起こった異変にエオメルは首をかしげた。
(なんだ、今のは…?)
「エオメル様、どうかしましたか?」
エオメルは呼ばれて顔を上げた。
少女は怪訝そうな表情で見下ろしている。
エオメルは数秒の顔を凝視したが、その顔はいつも通りの実年齢の割りに幼いものだった。
「…いや、なんでもない」
「そう、ですか?」
じっと見つめられたのが気になったのか、は納得しかねているようだった。
(なんともないな。さっきのはなんだったんだ?)
釈然としないものを感じたが、大したことではないだろうと結論付けたエオメルはもう気にしないことにした。
はすでにセオドレドと別のことを話しているようで、屈託なく笑っている。
軽やかな声は耳に心地よく、淡黄色の肌は柔らかくなった日差しに輝いて見える。
綺麗に伸ばされた背筋は精神の明晰さを表しているようだった。
絵になる娘だ。と密かにエオメルは思った。
それも、セオドレドと一対で完成する絵だ。

まだマークを取り巻く情勢に油断はできないが、すべての問題が片付いたら少女もセオドレドと向き合ってくれるだろう。
彼の愛情を受け入れれば、彼女も帰りたいとは思わなくなるはず。
マークは美しく、セオドレドは類稀な男なのだ。
少女の故郷にも、そこに住まう人間にも負けるとは思えない。
そうしていずれ王太子が王となり、少女が王妃となったら、絵師が腕によりをかけて二人の肖像画を描いてくれるだろう。
まだエオメルの頭の中にしか描かれていないそれを民の誰もが眼にするのだ。

それは胸の躍ることだと思えた。







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