黄金館の広間は、かつてないほど緊張に満ちていた。
一身に注目を集めているのは、王太子セオドレドだ。
彼は玉座の前に立ち、固唾を呑んで父王の返答を待っていた。
「よいだろう、セオドレド。お前に任せよう」
セオデンの口からゆっくりとした肯定の言葉が出ると、セオドレドは安堵の息を隠さずに破顔した。
「ありがたき幸せ!ご期待に報いるよう精進いたします、陛下」
父に一礼をすると、セオドレドは玉座の足元に座っている小男に勝ち誇った視線を向けた。
「グリマよ、聞いたであろう。今後一切、そなたの独断で事を起こす事はできぬ。どのようなできごとであろうと、そなたはただ提言をすることのみが許されており、一切の判断をするのは私であることを肝に銘じておくがいい。このことに背けば、そなたも牢屋行きだ。わかったな!」
グリマは血色の悪い顔に不機嫌そうな表情を浮かべているが、激昂するようなことはなかった。
「陛下がお決めになったことだ。反対する理由はない」
ふてくされているとも見える淡々とした口調だが、相談役は王の発言に異論を唱える事はなかった。
事実上のグリマの敗北宣言とも取れるこの発言に、広間からは爆発的な歓声があがった。










果たされた約束










「長かった…!」
セオドレドは感極まったように呟いた。天を仰いで目を覆っているのは、涙を堪えているからだろうか。

広間での会議が終了した後、セオドレドの部屋にはエオメル、エオウィン、そしてが集まっていた。
セオデンの病の原因が特定されて二ヶ月。エオウィンを始めとする侍女たちの徹底的な換気と、の提案による食餌療法によって、セオデンは僅かずつだが回復の兆しを見せていた。
すでに朝晩の冷え込みは厳しくなり、日中も暖炉に火を入れなければならない日が多くなったが、の指摘通り、セオデンの容態は悪くならなかったのである。
身体が楽になってきているせいか、意識が明瞭としている時間も多くなった。
セオドレドはこの機にグリマの権限を剥奪するために父王に掛け合ったのである。
『たとえ王の信任厚い相談役であるとはいえ、エオル王家ではない者に民びとの命を委ねてよいものでしょうか?陛下がご容態を悪くしてからこちら、政の一切はそちらの相談役殿に任せていらっしゃいますが、民はグリマにではなく陛下に忠誠を誓っているのです。王の仕事で、民に影響を与えないものなどございません。それゆえ、重い責任を担っている事、このセオドレド若輩ながらも承知しております。陛下、わたくしもエオル王家の末裔であれば、そして父上の子でございますれば、かかる重荷を背負う覚悟はできております』
セオデンはよほど考えるところがあったと見え、意見をしようとするグリマを押し留め、しばらく考え込んだのちに諾の返答をしたのだ。
これによって、グリマは以前通りの相談役の地位に戻る事になり、国王代理はセオドレドが務める事になる。
これからのグリマは勝手に法を定める事も、民や騎士を処罰することもできない。
マークは正当なるエオルの家の子の手に戻ってきたのだ。
「本当に、信じられません。ありがとう、あなたのお陰です」
エオウィンは目に涙を浮かべて小柄な少女の身体を抱きしめた。
「私からも礼を言おう。こんな日が来るとは、思ってもみなかった。感謝している」
しかつめらしいが嬉しさを隠せない面持ちでエオメルは頭を下げた。
「いいえ、皆様のご協力があってのことです。わたしのような、どこの誰とも知れない者の言を信用してくださって……。わたしの方こそ感謝しております」
エオウィンに抱きしめられながらは頬を染める。彼らに喜びをもたらせたのが自分であるかと思うと、誇らしさが後から後から湧いてくるのだった。

セオドレドの呼びかけに、エオウィンは我に返る。
従兄を見ると、彼は順番を待つようにじっと少女を見つめていた。
自分が独占してしまったが、セオドレドこそを抱きしめたいと思っているに違いない。
そう思ったエオウィンは、ぐいと袖で涙を拭うと従兄に少女を押し付けた。
「ごめんなさい、セオドレド。さ、思う存分感謝をお伝えくださいな」
「ちょ…、エオウィン!?」
焦るに、セオドレドは苦笑した。
「では、遠慮なく」
「ふ…っ!」
セオドレドは長い腕を広げて少女をかき抱いた。
は拒んだものか迷ったが、喜びに水を差すのも悪いだろうと、ここは大人しく抱きしめられることにした。
セオドレドの厚い胸板と太い腕に挟まれるのは、いささか苦しい。
思わず自分を抱えている男の二の腕を掴むと、セオドレドはにやりと笑って頬に口付けてきた。
「…っ!そこまでしていいとは言っていません!」
セオドレドは明るく笑って、少女を解放した。
「…もうっ」
拗ねたように膨れているが、の顔は耳まで真っ赤になっていた。それが可愛らしいやら可笑しいやらで、エオル王家の三人は一斉に破顔した。
「失礼いたします、若君」
「待っていたぞ、ユルゼ」
扉を叩く音に気がついたセオドレドは自ら訪問者を招きいれた。
盆に杯を四つ載せ、女官長のユルゼが静々と入ってくる。唇には大きく笑みが刻まれていた。
ユルゼは杯を置いて回る。の前に行くと目礼をされた。侍女の身で諸将を差し置いて王家の内々の祝いの席に呼ばれたことを気にかけているのだろう。
しかし、一体誰がそのことを責めるというのだろうか…。この少女の功績は、公然と言うことができないにしても皆が知っているというのに。
ユルゼは感謝の気持ちを込めて頷いた。
「とうとう蛇の舌から毒牙を抜くことができた。異なる世界の知恵者へ、感謝を」
セオドレドが杯を掲げて厳かに告げると、エオメルとエオウィンもそれに倣った。
一拍置いて瑞穂は両手で掲げる。
女二人は半分ほど、男二人は一息で飲み干すと、エオウィンはユルゼに指示を出した。
「今日は目出度き日です。各部署に一樽ずつビールを回して良いわ。ただし、あまり騒がないようにね。伯父上はまだグリマを見限ったわけではないのだもの、あの男が失墜したのを喜んでいるとは知られたくないわ」
エオウィンは唇の人差し指を立てて秘密めかした。
ユルゼは心得顔で承知する。
女官長が退室すると、男たちの顔はふいに鋭くなった。
「グリマから権限を奪い返せた事は嬉しい事だ。しかしまだ奴の罪を言及できたわけでもなければ、宮廷から追い出せたわけでもない。今後も引き続き、奴の動向は監視する」
セオドレドは杯に目を落とし、重々しい口調で告げた。エオメルは当然だと言うように頷いて賛同を示す。
「現状、あの男はまだ広間への出入りは許されています。必要でしょう。しかしそれもそう長いことではないと思われます。伯父上のご容態がさらに良くなれば、直々に処罰を下してくださるでしょうから」
「伯父上は宮廷の荒れ様から、グリマに政を任せるのはおやめになるだけ。それもグリマでは力不足だと考えられてのこと。あの男の悪意は理解してくださったわけではありませぬ。まだ先は長うございます、兄上。あまり楽観するのはどうかと」
エオウィンは形の良い金色の眉を潜める。
も難しい顔をしていた。
「それに、セオドレド様がいらっしゃる間は良いとしても、館を明けることも多いでしょう。その時にはどうするのですか?火急の用件がないとも限りませんもの」
「そうね、そのことも考えないと。またグリマに口出しされてはたまりませんし…」
見回り、掃討、視察と館を空ける機会が多いセオドレドだ。留守番組である二人の心配は尤もである。
男たちは顔を見合わせた。
「そうだな…。エオメルがいる時には当然エオメルがすればいいだろうが」
「え!?」
従兄の発言にエオメルはぎょっとした顔になった。
「当たり前だろう。他に誰がいる。しっかりしろ、エオメル」
「は、申し訳ありません」
セオドレドに叱責されてエオメルは冷や汗をかいた。彼は従兄を補佐するのが自分の役目であると思い込んでいるので、軍事以外の決裁をすることなど考えてもいなかったのだ。
「私もエオメルもいないときには…そうだな。頼んでもいいだろうか、エオウィン。お前にばかり苦労をかけるが…。騎士も民も、エオル王家の者以外が王代理をするのは納得すまい」
エオウィンは息を飲む。
「…宮廷の切り盛りならばともかく、マークそのものの采配はわたくしには難しゅうございます。どなたかを補佐としてつけていただけますのなら、承知いたしますが…」
セオドレドは顎に手を当てて考え込む。
「それならば、適任は…やはりか?」
王太子の視線を受けて、少女は首を振った。
「いいえ、わたしは新参者ですから、多くのことをわかっておりません。こういうことはマークのことをよく知っていらっしゃる方が適任です。エルフヘルム殿などはどうでしょうか。あの方は館を空けるにしてもそう長い事はありませんし、なにより陛下や騎士たちの信用が厚い方ですから」
「ふむ…。そうするか。仕方が無いな」
「なんだか残念そうですね、セオドレド」
エオメルは不思議に思って聞いた。
確かには知恵があるようだが、まだ二十にもなっていないのだ。エオウィンと二人で、ということであっても荷が重過ぎるだろう。
エドラスでこそ少女は受け入れられているが、その他の地域ではまだ彼女の存在を知る者は少ない。養父母のいる西の谷と、第三軍団の本陣があるアルドブルグがせいぜいだろう。
そんな彼女が国王代理補佐を務めるのは大変な無理がある。
「いや…。がいればグリマは余計な事はせんだろうし、エオウィンの決定にならば民は従おうから、良いかと思ったんだがな。マーク史上、最も可憐で美しい統治者たちだ。心躍ると思わないか?」
「…セオドレドっ!」
あっけらかんとした王太子以外の三人は、そろって盛大にため息をついた。
こういうあたりが、この男のすごいところだ、と思いながら。





そんなセオドレドであったが、実のところひどく悩んでいた。
それというのも、当初が彼と結んだ約束はすでに果たされたからである。
がマーク宮廷に深く関わるようになったのは、グリマの悪行を暴くという任務を引き受けたからである。より詳しく言えば、『セオデンの不調の原因、もしくはグリマの裏切りの証拠のどちらかを探す』ことだ。
セオデンの病の原因ははっきりした。
裏切りの証拠は、はっきりとしたものはないのだが、状況証拠はずいぶんある。
そうであるからはもう養父のいる西の谷へ帰ろうと、どこかへ長期の見物に出かけようと、はたまた侍女の務めを辞するのも自由なのである。特にセオドレドとしては侍女の役は少女にスムーズに事に当たれるようにするために誂えただけであって、本当に侍女として働かせ続ける気は毛頭無かったのだ。それでも、あまり他の侍女と扱いに差をつけるのはよくないと、ユルゼとエオウィンとで基本的な仕事や作法はしっかり身につけさせられている。本人もずいぶんと侍女らしくなってしまった。これはセオドレドにしてみれば大誤算であった。
とにかく、はもう細作のようなことをしなくていいのである。
さらに言えば、迎えが来てしまったら、セオドレドには止め立てすることはできないのである。
そこが問題だった。
(しかし、はこのことを確認しにこないな…。まだ終わっていないと思っているのだろうか。何にせよ、あの子が何も言わないのをいい事に、このままずっと宮廷におこうとするなど、私はなんて卑怯な男なのだ…)
冗談めかして言ったが、セオドレドは自身とエオメルがいない間の国王代理をエオウィンとが共に治めるするというのは、本気だったのである。
マークに滞在した日数が少ない分、多くの経験をさせることがこの国へ同化する最良の方法だと思ったのだ。
それに――。
に私の妃になってもらうためにも、ぜひにも宮廷の治め方を学んでもらいたいのだ。あの子はロヒアリムではないし、マークとつながりのあるゴンドールやエスガロスの生まれでもない。どのような国なのかまったくわからないのだ、そこで反対してくるものもいよう。だが、素質の点では誰にも反対できないようにすれば…。そのためにもエオウィンのそばにおいておきたい。自然と覚えてゆくだろうから)
セオドレドは自分にそう言い聞かせた。
しかし、肝心な点が抜けている事を認めないわけにはいかない。
にはその気がないのだ。
(どうしたらあの子は私を一人の男として見てくれるのだろうか。どうしたら、私を愛してくれるのだろうか)
それも、故郷を捨てさせるほどに、である。
難しい問題である事は間違いなかった。










十二月になった。
下草はすでに茶色く枯れ、風に吹かれるたびに乾いた音を立てる。
この時期は雪が降る事はあっても積もるのはまれなのだが、朝晩の冷え込みは厳しく、毎日のように霜が降りる。
吐く息は白く、太陽が出ている日であっても空気は刺すように冷たい。
畑仕事は春までの休みに入った。
家畜たちは雪が積もるまでは外で運動させるので、もう少し手がかかる。
自然と共に生活するマークでは、冬は主だった仕事はすべて休みになるのだ。



その一方で季節を問わず仕事がある者がいる。騎士もその一つだ。
マークの王太子セオドレドは、部屋で決裁書類と格闘していた。
騎士はいついかなるときにも戦えるよう、冬でも訓練は怠らないが、他の季節に比べれば格段と少ない。
その分書類仕事が増えるのだ。
特に秋が終われば作物の出来具合や、来年の春に生まれそうな馬や家畜の報告、それにともなう収支、備蓄の確保、やらねばならないことはいくらでもあった。
今日も机の上に出来上がった紙の丘を切り崩しにかかっていると、伝令からの報告を携えてきた近衛が慌ただしく入ってきた。
「失礼いたします、セオドレド様。ご報告したいことがございますが、よろしゅうございますか?」
「ああ、構わん」
握りっぱなしだった羽ペンを置き、疲れた手を振りながらセオドレドは促した。
「先ほど、西の谷からの連絡で、アルドールが戻ってきたとの由、ただいまエドラスに向かっているとのことでございます」
無骨な指にペンだこができたのを悲しく思っていたセオドレドは、意外な報告に動きを止めた。
「アルドールが?ボロミアも一緒か?」
「いいえ、アルドールだけでございます」
アルドールはどこにあるのかもわからないエルフの国を探しに行くというボロミアにあげた馬だ。あれから三ヶ月ほどが経つ。
そのアルドールだけが戻ってきたということはボロミアの身になにかあったのではないか?
セオドレドの表情が曇る。
「もう来ているのか?」
「いいえ。ですが、夕刻には到着するかと」
「わかった。着いたらすぐに知らせてくれ」
「畏まりまして」
近衛は一礼をして退室していった。



夕刻になり知らせが入ると、セオドレドは執務を打ち切りすぐに部屋を飛び出していった。
坂道を登ってくるアルドールは、見たところ痩せてはいないようだった。
しかしたてがみはずいぶんともつれて艶がなく、手入れをされていないようである。
鞍はまだ馬上にあったが、雨に打たれてそのままなのだろう、湿った皮の臭いが遠くからでもわかるほどだった。
「アルドール!」
居ても立ってもいられなくなったセオドレドはアルドールに駆け寄った。
「いったいどこで見つけたのだ?」
アルドールに付き添ってきた西の谷の兵に訪ねる。
「三日前にアイゼンの浅瀬を見張っていたものが南北街道の方から渡ってきたのを見つけたのだということです」
「ボロミアは…」
「一緒ではございませんでした」
兵は首を振る。
「そうか…。アルドールから鞍を外してやってくれ。それからエサと水。それが済んだら身体を拭いてやってくれ」
兵が一礼をして厩にアルドールを引いて行く。
セオドレドも後ろからゆっくりと歩いていった。



「セオドレド、アルドールが戻ってきたのですって!?ボロミア殿はご一緒ではないの?」
エオウィンが息を切らせて厩に駆け込んできた。
セオドレドが答えるよりも早く、白き姫はアルドールの姿に気付き、側に駆け寄る。
飼い葉桶に頭を突っ込んでいる茶色の毛並みの馬を心配そうな表情で見つめる。
「アルドールは一頭だけで戻ってきたそうだ。ボロミアがどうなったのかはわからない。振り落とされたのか、わざと逃がしたのか…。後者であればいいが」
「まあ…」
そこへ再び厩の入り口が開き、が入ってきた。
少女はエオウィン以上に息を切らせている。
白き姫と少女は同じ部屋にいたのだが、エオウィンの脚力に追いつけず、ようやく到着したのである。
「エオウィン様…。足…速いんですね…」
ぜーぜーと腰を曲げて膝を押さえている少女の後ろから、今度は背の高い若い男が現れる。
「大丈夫か、
「久々に全力疾走しました」
ふうっと息を吐いて、少女は扉の前から移動する。
エオメルはするりと中に入ると、気遣わしげにアルドールに近づいた。
「大きな怪我はしていないようだが、ずいぶんと疲れが溜まっているようだ…。何があったのでしょうか」
「わからん。ボロミアがいないことにはな…」
「無事だといいですが」
セオドレドは黙したまま頷いた。
ボロミアとは頻繁に会えるわけではないが、大事な親友である。二人とも戦場に立つ身であるので、いつ何時果てるとも限らない。
しかし戦場であれば、少なくとも何が起こったかを知る者がいるものだ。
だが一人旅ではそうもならない。
「若君!鞍の皮と金具の間から油紙に包まれた通信文が出てまいりました」
「何と!」
兵が差し出してきたそれを急いで開封した。
「…ボロミアの手(筆跡)だ」
セオドレドが安堵の息と共に呟くと、固唾を呑んで見守っていた三人がほっと肩の力を抜いた。
「何と書いてあるのです?」
気になって仕方がないというように、エオメルはせかす。

『我 目的地を 見つけたり
 また 目的も 叶えたり
帰途は 同行者ありて 徒歩になる故
 一足先に 我が旅行きの同伴者 アルドールを お返し致す 
 我 戻りし時まで お預かり願う』

「追伸、彼は素晴らしい相方だった。…最後にボロミアの頭文字が書いてある。間違いないな、無事に裂け谷へ着いたようだ」
セオドレドは満面の笑みを浮かべて紙面を弾いた。
エオメルは歓声をあげる。
「ああ、私にも見せてください、セオドレド!」
セオドレドはエオメルにそれを渡すと、同時に覗き込もうとする従弟妹たちに苦笑した。
ボロミアからの手紙は内容をぼかしてはいるが、それは万一敵の手に渡ったときのことを考えてのことだろう。
ゴンドールの執政家の英雄と誉れ高い長子が、探索のため戦場に出ていないのだ。これが冥王の側に知られたら、何かあると思われるのは必死だ。しかし事情を知っているセオドレドたちであれば、これで充分伝わる。
「アルドールは立派に務めを果たしたのですね」
いつの間にか隣に来ていたは笑みを浮かべてセオドレドを見上げていた。
「ああ、そうだな。アルドールには十分に休んでもらわなければ」
華奢な肩に手を置く。
は目を細めた。
「裂け谷というのは、人ではない種族…エルフというものが住まっているのでしたね。一体、どのようなところなのかしら…」
少女の口調に、漠とした郷愁が滲んでいるように感じて、セオドレドの眉がぴくりと動いた。
「気になるか?」
「散々エルフじゃないのかと疑われた身としては、当然ですよ」
少女はセオドレドの変化に気付かず、ふふ、と笑う。
セオドレドはそんな彼女に罪悪感を覚えた。少女が約束を果たして久しい。しかし彼は未だにその事を伝えていなかった。
偽りを憎むロヒアリムの性が、セオドレドを責め苛むのだ。
…」
「はい?」
少女は小首をかしげる。
セオドレドはの肩に両手を置いて、目線を同じにするべく膝を曲げた。
「どうかしたのですか?」
セオドレドは生唾を飲み込む。
「行ってみたいか?」
はきょとんとする。
「…裂け谷にですか?まったく興味がないわけではないですけど、どこにあるのかわからないのですし、それにわたしは侍女の仕事があるのですから」
無理だ、と言外に告げるが、セオドレドは首を左右に振った。
「いや、ボロミアが戻れば場所はわかるのだから、護衛をつければ問題ないだろう。お前は務めを果たしたのだから、もう、何をするにも自由なのだ」
「セオドレド、様…?」
は不安げに目を揺らす。
従兄の様子がおかしい事に気づいたエオメルとエオウィンも笑いを潜めた。
「我々の間でなされていた契約は、父の不調の原因かグリマの裏切りの証拠のどちらかを見つけるというものだった。私はこの二つが同根から発しているのだと思っていたからそう言ったのだが、どうも違ったようだ。しかしそうであっても、すでに父の病の原因ははっきりしたのだし、グリマのこともほぼ同様だと見てよい」
「従兄上…!」
セオドレドが何を言わんとしているのかを察したエオメルが、悲鳴のような声をあげた。
しかしセオドレドは少女を見詰めたまま、微動だにしなかった。
「ボロミアの文から考えて、エルフというものは魔法使いよりは危険ではないようだ。そして少なくとも、我々にはない知識を持っている。万に一つの可能性とはいえ、そなたの故郷へ戻る手がかりが無いとは言い切れまい。だから…」
「だから…?」
セオドレドが言葉を切ると、は震えた声で先を促した。
「…だから、もし、そなたが望むのであれば、旅の手配でもなんでも、私にできることであれば叶えよう、ということだ」
「…セオドレド様」






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