は震える唇で言葉を紡ごうとした。
『務めが終わったら、もうわたしは必要ないのですか?』
と。
しかし、その台詞は声になることはなかった。
自分の居場所
セオドレドからの思いがけない申し出はを困惑させるには充分だった。
思わず自分は用済みになったのかという問いを発しそうになり、そして気付かされた。
(わたしは、この役目が終わったらセオドレド様から離れようと決めていたはず。何を、今更…)
はスカートを強く握りしめた。
困惑は動揺となり、全身を揺さぶってくる。
これを収めるのは骨が折れるだろう、との冷静な部分は告げていた。
「そう…。そうでしたね。すっかり忘れていました」
の答えに、セオドレドの顔が引き締まる。
「忘れていた?では、言わないほうが良かったかな」
両腕を組んで、自嘲するようにセオドレドは低く笑った。
「そんなことは…。だけど…」
(どうしよう)
の頭に浮かぶのはそれだけだった。
確かに自分たちが交わした契約はとうに終わっていたのだ。
そしてこの件が終わったら、自分は西の谷ではなく馬鍬谷へ行くつもりだった。
の養父母は西の谷の領主夫妻だが、セオドレドは西エムネト一帯を受け持つ第二軍団長だ。そして本陣はヘルム峡谷である。となれば、がそちらに移ったところで、接する機会はここにいる場合とさほど変わらない。
背後に白の山脈を控え、また国境からも離れているために安全度の高い馬鍬砦ならば、セオドレドに頻繁に会うこともなく、帰還する日まで過ごせる――そう踏んだのだ。
彼の求婚を受けるわけにはいかない以上、期待を持たせることは慎むべきである。
だが思い描いていた決断とは裏腹に、エドラスを離れる事を思うと身を切られるような痛みを覚えた。
この地に住まってまだ一年と経っていないが、ずっとここで暮らしていたように錯覚していたようだ。
人びとと親しく言葉を交わすことも増えた。自分のことを気にかけてくれる人もいる。風習や価値観の違いに戸惑うことはあるが、なんとか乗り越えられていると思う。
ましてやセオドレドを始めとするエオル王家の若者たちとは一種の共犯関係のような間柄だ。いつまでも、ずっと一緒にいるのだと、臆面もなく思い込んでいた自分を発見しては顔から火が出る思いだった。
(わたし…馬鹿だ。いつまでもここにいられるわけじゃないのに。いつか、帰らなくちゃならないのに)
果たすべきことは果たした。
もう引く時である。
これ以上関わってはならない。
(そんな…)
は目を閉じてうな垂れた。
(だって、まだ全然終わっていないわ。グリマはまだ宮廷にいるのだし、戦争は近づいているし、侍女の手だって足りてないもの。ここでわたしが抜けてしまったら、差しさわりが…)
そこまで考えて頭を振った。
すべて、言い訳でしかない。
グリマ対策の一環としてセオドレドの手助けをすることになったが、が来る前からエドラスは日々の生活を営んでいたのだ。少々バランスを失していたが。
今ここでがいなくなったとしても、それは変わらない。
(これは甘えだ)
帰還を望むなら去るべきだ。馬鍬砦でも、その他のどこかでも。
このままここに留まれば、いつか自分はセオドレドに惹かれる心を押しとどめられなくなるだろう。
恋といえるかどうかわからないが、確かににとってセオドレドは「特別」なのだ。
「セオドレド様」
は顔をあげる。
「ああ」
セオドレドは神妙な表情で見下ろしていた。
「よく考えて結論を出します。それまでは、どうかこのままで…」
「わかった」
頷くと大きな手を少女の肩に置いた。
「出来うるならば、春までには結論を出してほしいものだ」
思いがけなく長い猶予期間を与えられて、は目をぱちくりとさせた。
現在は十二月。ローハンでは四月くらいにならなければ春とは言えない。
しかし四月まで待ってもらえるのであればはローハンの一年を知ることができる。
(もしかして、そのために?)
が我知らずセオドレドを見つめていると、彼は照れくさそうに鼻の頭をかいた。
夕餉を告げる知らせが来たので、四人は厩を後にした。
仕事をしなくてはとは一足先に館に駆けてゆく。
少女の後姿を見送ったセオドレドは、ふいに立ち止まったかと思うと雄叫びをあげた。
「セ、セオドレド!?」
「どうなさいましたの?」
エオメルとエオウィンは面食らったように従兄を見た。
「よおおおっし!」
セオドレドは拳を握りしめ、気合を入れるように両腕を腰まで引いている。
くしゃくしゃになった顔は喜びに溢れていた。
「聞いただろう二人とも!望みが見えた。あの子はきっとここに残るぞ!!」
呆気に取られたエオメルは素朴な疑問を従兄に発した。
「先ほどのやり取りで、どうしてそこまでわかるのですか?」
「そんなことは簡単だ。以前のならきっぱりと『どこか別のところへ行く』と答えただろうからだ」
「はあ…」
そういうものだろうか、とやや納得しないままエオメルが引き下がると、今度はエオウィンが問うた。
「ですけど、春まで待つというのは、一体どうしてなんですの?従兄上のことですから、すぐにでも返事を聞かせてほしいと言うのかと思いましたわ。…まさかもう結婚の準備を進めるのですか?」
従妹も真剣な顔に、セオドレドは苦笑した。
「まさか、さすがにそこまではせぬよ。ただ、冬の間はエドラスを離れる事はほとんどないから、いつでも返事が聞けると思ってね。それくらいなら、待てるだろうと思ったのだよ。それに、あの子がここへ来たのは三月じゃないか。ほぼ一年…。ちょうど良い頃合でもあるだろう」
「ああ、そうでしたわね。わたくしたちが散々頭と心を悩ませていたことが、一年経たずに解決しただなんて…。少し前までは信じられないことでしたわね」
エオウィンは微笑を浮かべる。
「ああ、そうだな」
セオドレドも微笑む。
「…しかしセオドレド。熟考の結果、がどこか別の場所、それもローハン以外の国を選択した場合、本当に彼女を手放すおつもりなのですか?」
エオメルは眉を八の字にして、心配そうにした。彼にしては従兄の楽観が信じられないのだ。が本当にエドラスに留まることを選ぶかはまだ確実ではない。下手に希望を持てば、それが否定されたときにどれほど落胆するか。
これにはさすがのセオドレドも難しい顔になる。
「まあ、な。望むことは叶えようと言った手前、叶えないわけにはいかないだろうな。だが…」
「だが?」
「行かないでほしいと言わないとは言っていないからなぁ」
とぼけたように言うセオドレドに、エオル王家の兄妹は目を丸くした。
翌朝。
目が覚めたは顔を洗って身支度を整えると、いつものように厩に向かった。
ブレードの朝の世話をするためである。
餌と水は伯楽がすでに与えていたので、食べ終わるのを待ってから運動させるために外へ連れ出した。
まだ日が昇る前だというのに、すでに門の外は人と馬で一杯だった。
この時間はエドラスでも有数の社交の時間帯となっているのである。
「さっむ〜い」
鞍上の人となるも、まだ走り出す前は外気の冷たさに身震いがする。
日が差す直前のこの時間は最も冷え込みが激しい時間でもあった。
はマントの前を合わせたが、それくらいでは寒さを遮る事はできなかった。
「さあ、行くわよ。ブレード」
革の手袋で手綱を握りしめると、ブレードはゆっくりと歩き出した。
「暑…」
ひとっ走りもすると汗をかくほど暑くなってくる。
は顔を手で仰いだ。
朝の光が枯れた丈の高い草を黄金色に照らし出す。
そして南に目を向けると、丘の頂にある黄金館がその名の如き偉大さを誇らしげに示して聳え立っていた。
「雄大…って言うんでしょうね。こういう所を」
はあ、と息を吐くと真っ白の蒸気が風に流れてゆく。
自分はここに残るか否か、決めなくてはならない。
留まるのならば、おそらくセオドレドの妃にならなくてはないだろう。それ以外の立場でここに残れるとはとても思えなかった。
正直に言えば、無理だと思う。
にとって第一の望みは最初の頃と変わっていなかった。すなわち、元の世界に戻る事である。
また、元の世界へ戻る方法を探す旅というのも、現実的ではないと思えた。
遠い国での出来事なので実感はわかないのだが、ローハンの南では長い間戦争が続いており、この地に飛び火するのも時間の問題であるという。
それに、サルマンのこともある。
大きな戦争が起こるかもしれないというこの時に、あてのない旅などできるわけが無い。
第一、自分につけるという護衛は貴重な戦力ではないか。とてもではないが受けることはできない。
(かといって、西の谷へ戻ってもエドラスにいるのとさほど変わりがあるわけじゃないし…。やっぱり、馬鍬砦なのかなぁ)
主が動かないのを不審に思ったのか、ブレードがいなないて振り返る。
「ああ、ごめんなさいね。戻りましょうか」
我に返ったは歩くように指示を出した。
門を通り過ぎると鞍から降りて手綱を握る。
が先に歩き、その後をブレードが蹄の音を鳴らしながら大人しくついてきた。
(馬鍬砦に行ったら、何をすればいいのかしら。どんなところなのか、全然知らないし。ああ、どうせ仕事をしなくちゃいけないのなら、エドラスで侍女の仕事を続けたいのになあ。せっかく慣れてきたところなのに)
物思いにふけりながらいつもの帰り道を上ってゆく。
沿道の家々からは朝食の仕度をしているらしい匂いと竈の煙が立ち上っていた。
なんとはなしに眺めていると、ふいに自分が普段のロヒアリムの生活を知っていない事に気付く。
(お城勤めじゃない普通の人たちって、どんな生活をしてるのかしら…)
黄金館では料理も掃除も洗濯も、その他もろもろ、全て各担当者が行うため、は自分でしたことがないのだった。自室の片付けくらいはするが。
(わたし…もしかしなくても侍女を辞めたら、ただの役立たずと化すんじゃあ…)
運動の時のものとは違う汗が背中を伝っていった。
(駄目よ、そんなの!覚えなくっちゃ!そうよ、だってナセはわたしのことを探してくれているだろうけど、いつ見つけられるかわからないもの。十年後とかだったらどうするの。それまでお客さんでいるわけにはいかないじゃない!)
蒼白になったは、とにかく誰か相談できる相手を探そう、と足早に坂道を駆け上っていった。
「と、いうことなんです。ユルゼ様」
考えた末、は侍女頭でありセオドレドの乳母でもあるユルゼに相談する事にした。
エオル王家の三人では総合的なことしかわからないだろうと、あえて選択から外し、その次に頼りになりそうな人物ということで彼女にしたのだ。
「民の生活といっても、あなたが一家を切り盛りするわけではないのですから、特にこれといって覚えることはないとは思いますよ。どこへ行くにしても、あなたはエルケンブランド殿の娘なのですから貴族の娘がするようなことをすればいいのです」
相談を持ちかけられたユルゼは困惑したように頬に手を当てる。彼女も長年の城勤めで一般的なロヒアリムの生活からは遠ざかっていたのだ。
しかし答えを聞いたもまた困惑していた。
「その、貴族の娘がすることとは、どういったことなのですか?」
「そうですわね、刺繍をしたり、着物を縫ったり…。婚約者や夫がいるのでしたら、その方の分も。行儀作法の勉強をしたり歌や楽器を習い覚えたりと、そんなところかしら」
は沈黙して俯いた。
「それは…普通の貴族の娘さんでしたら、それでもいいのでしょうが」
「あなたも普通の貴族の娘御として暮らせばよいでしょう。もしかして仕事を持ちたいの?」
ユルゼは小首をかしげた。
「ええ、ユルゼ様」
ユルゼは大きく息を吐く。
「そうは言っても、貴族の娘ができる仕事といえば侍女くらいのものですし、エルケンブランド殿の娘であれば、エドラス以外に勤めることは無理でしょうね」
「そうなんですか?」
「そうですとも。エルケンブランド殿はマークでも一二を争う大領主ですよ。その娘が他の領主の侍女などできるはずがありません。主人より侍女の方が身分が高いということになってしまいますもの」
「でも、わたしは養女なのですし」
「血のつながりがあろうとなかろうと、同じです」
自分には貴族である資格がないと言おうとする前にぴしゃりと遮られ、は肩を落とした。
「そうですね…。アルドブルグでしたら侍女を続けられなくはないとは思いますが。ですが、あそこはエオメル様が治めていますからね。若君を振り払ってあちらへ行かれては、余計な騒ぎになるだけですし。やはり、無理でしょうね」
「そうですか…」
落胆する少女に、ユルゼは優しく言葉をかけた。
「ねえ、。どうしても、若君の奥方となるわけにはいかないのかしら?」
「ユルゼ様までそんなことを言うのですか!?」
きっと顔をあげてはユルゼを睨みつけた。ユルゼは困ったように笑みを浮かべる。
年若い娘に噛み付かれても痛くも痒くもないといった風情だった。
「あなたさえ承知してくれれば、この問題は解決するのですもの。聞かないではいられないわ。どうなの?若君のこと、とてもとても夫にとは考えられないほど嫌いなのかしら」
「そういう尋ね方は卑怯です、ユルゼ様。…ここにいるのはわたしたちだけなのですから、はぐらかしたりはしませんわ。マークの人間の中でもわたしが好きなのはセオドレド様です。でも、わたしではあの方の妃にはふさわしくありません」
「どういったところが?」
ユルゼは少しも動じない。
「ロヒアリムではないからです。いつ迎えが来るかわからない身ですもの、中途半端なことはできません」
「では、その迎えが来るのはいつ頃になりそうかしら?」
最も答えられない質問をされて、は言葉に詰まった。
「それは…わかりませんけど」
ユルゼは落ち着いて先を続けた。
「十年、二十年先かもしれないのよね」
「…ええ」
は頷いた。
「だったら、それまでの間でもいいのではないの?迎えが来るまでずっと一人でいるつもりなのですか?それはあたら人生を食いつぶすことだと、わたくしには思えます」
はじっとユルゼを見つめ、それからそっと目をそらした。
「ユルゼ様」
「なにかしら」
「マークでは珍しくないことのようですけど、わたしの国ではわたしの年で結婚する女はごく少数なんです。そうでなくても、わたしは巫女…魔女で、巫女は結婚してはいけないことになっているんです。だからまったく実感はないのですけど…。それでも、たまに結婚するとしたら、その人とはずっと一緒にいたい。そう思える人がいいなって、考えた事があります。本当に、たまに、ですけど」
「可愛らしい考えね。女の子なら当たり前のことだわ」
ユルゼは莞爾と微笑んだ。
「でも、セオドレド様とはずっと一緒にはいられません。離れ離れになるのがわかっているのに、どうして受けれましょう」
ユルゼは真顔になった。つまり、この少女はどうしてもそこから頭が離れないのだ。
一つため息をついてユルゼは話し始めた。
「わたくしが若君の乳母になった経緯は知っているかしら?」
「いいえ」
「わたくしはエドラスで生まれ育ち、夫となった人は守備隊に属していたの。つまり、結婚後もずっとエドラスにいることになってね。わたくしは本当にここ以外の土地を知らないのよ」
遠い日々を思い出すように、ユルゼは目を細めた。
「しばらくして子供が生まれたけれど、一ヶ月もしないうちに死んでしまったわ。生まれたばかりの赤ん坊は、とても弱いものよ。十人生まれても、三人か四人は死んでしまう。珍しいことではないにしても、悲しいことには変わりがないわ。次の子供こそは、と思っていた。だけど、すぐに夫もオークに殺されてしまった」
が何か言いかけたのを制してユルゼは話を続ける。
「普通だったらこういうときは、また別の人と結婚することになるの。女が一人で生きていけるほど、マークは安全ではないのですから。父が次の結婚相手を選んでいる間に若君が生まれてマークは喜びに包まれ、だけど今度は王妃様がお亡くなりになってしまった。出産の時に亡くなってしまう女性もずいぶんいるものなのよ。そして生まれたばかりの若君に乳をやるための乳母が探され、わたくしの身の上を知ったエルフヘルム殿が推薦をしてくださったのよ。それから四十年。若君をお育てするのに夢中で、とうとう再婚はしなかったわ。血をわけた子供はわたくしにはいない。だけど、わたくしには大切な若君がいるのですもの。こんなに誇らしいことはないわ。、出会いも別れも人の手でどうにかできることではありません。あなたは自分が若君を置いてゆくことばかり気にしているけれど、あの方は騎士で、大将です。マークを覆う黒雲はどんどん大きくなってきています。いつ不測の事態が起きるかわからないのです。あなたが若君に置いていかれることもあるかもしれません」
ユルゼは言葉を切って、少女を見つめた。
その眼差しには有能な侍女頭としての厳しさと、セオドレドの母としての苦悩がないまぜになっていた。
「あなたがあの方も申し込みを受け入れなければ、あの方の隣にいるのは、別の娘であり、傍にいて、若君を支えたり慰めたりすることはあなたにはできません。それはその娘の役割になるのです。…それでも後悔しないというのであれば、わたくしからはもう何も言う事はありません」
ユルゼの言葉はの心の奥深くまで突き刺さった。
自分の部屋に戻っても、まだ彼女の話が頭の中を回っている。
(わたし…ナセとセオドレド様を秤にかけていたんだ。結婚してしまったら、もう巫女には戻れないもの。ナセに見捨てられるのは怖い…。だけど…)
寝台に寝転び、ぎゅっとシーツを掴む。
(セオドレド様とも一緒にいたいと思っている…)
手を放すと、シーツは少女の心のように乱れていた。
(そうしても、いいのかしら…)
ころんと仰向けになる。
(本当にいいのかしら…?)
結論が出ないまま十日ほどの月日がたったある日。
はセオドレドの訪問を受けた。
今でも侍女として仕事をしているので話をしたことは何度もあるのだが、セオドレドがの部屋を訪れたのは、実に三ヶ月ぶりである。
結婚話のこともあり、室内には気まずい沈黙が溢れていた。
セオドレドは心持ち堅くなっている少女に笑いかけると、手に持っていた包みを渡した。
「ずいぶん前に注文していたのだが、ようやくできあがってな。これを受け取ってほしい、」
「…またですか?」
じりっと気持ち後ろに下がり気味になって少女は警戒した。
またぞろ贈り物攻撃が始まるのかと思ったのである。
セオドレドは苦笑した。
「これは夏頃に頼んだものだ。そなたに贈り物は控えるように言われる前のことだからな。もう他に注文しているものはない。中を見てくれないか?そなたにはぜひとも持っていて欲しいと思ったのだよ」
は躊躇したが結局受け取ると、贈り物を包んでいる絹地を紐解くと中からは美しくなめされた革で装丁された大判の本が出てきた。表紙には金文字でタイトルが記されているが、ローハンの言葉を読み書きすることのできないにはなんと書いてあるのかはわからなかった。
「絵本…?ではないようですね。画集ですか」
開いてみると、どのページもすべて繊細な色付けをされた絵が描かれている。
文字はないようだが、絵巻物のように一連のテーマはあるらしい。
「これはマークの歴史を絵で綴ったものだ。良い事も…悪しきことも、な」
ははっとして顔をあげる。
「歴史書なのですね」
セオドレドは暖かくも真面目な面持ちでを見下ろしていた。
「ロヒアリムならば、祖父や親から自然と聞かされて覚えてゆくものだが、そなたには昔話をしてくれる者はいない。だが、私はそなたに知ってほしいのだ。この国のことを」
は本とセオドレドを交互に見やり、そして柔らかく微笑んだ。
「嬉しいです、セオドレド様。わたしももっとマークのことを知りたいと思っていました…。これには字が書いていませんけれど、教えてくださいますの?」
「…っ、ああ。そなたがよければこれからでも」
花のような笑みに見ほれたセオドレドは一瞬言葉が遅れる。
「では、お願いします」
は笑みを浮かべたまま軽く頭を下げると、肘掛け椅子とスツールを引っ張ってきて隣同士に並べた。
スツールに座ろうとするを制して、セオドレドは椅子のほうを勧める。
は目上の相手にスツールを使わせるわけにはいかないと辞退しようとしたが、セオドレドは頑として拒んだ。少し言い合いをして、結局が折れた。
セオドレドは最初のページを開く。
そこには茶色の線で描かれた地図が載っている。
ページの上の方を指差し、彼は話し始めた。
「我らロヒアリムはこの地に住まうようになる以前には、もっと北方に居を定めていた。この、カーロックとあやめ野の間にあるアンドゥインの谷間のあたりだ。しかし時が経つにつれ人口が増えすぎ、その地では足りなくなった。そこでさらに北へと移住する事になった。…この辺り、闇の森の北、西側は霧ふり山脈、東は森の川、南はグレイリンと長き源の合流点の間の土地だ。さらに年月が過ぎて、我らはこの地に来たが、それは我らの偉大なる父祖であるエオル王の時代のことだ…」
セオドレドはページを繰り、淀みなく話し続ける。
歌うような抑揚、心地よい響きを持つ声に、はいつしか引き込まれていた。
「…そしてバルホスの軍勢を打ち払った。時のゴンドールの執政キリオンは、救援の返礼にとこの地、カレナルゾンをエオルとその民に与えた。この贈り物に対するゴンドールからの条件はたった一つだった。つまり、ゴンドールとの友情を永遠に誓う事だ。両国が続く間はゴンドールの敵はマークの敵であり、また逆も然りである。エオルはキリオンの申し出にふさわしい誓いの言葉を述べた。
『今こそ聞け、東方の影に屈せぬすべての民よ、ムンドブルグの君主の聘物(へいもつ)を賜り、かれがカレナルゾンと呼ぶ地に住まい、よってここに、わたしの名において、そして北方のエオセオドを代表者として、われわれと西方の偉大なる民との間に永久(とこしえ)の友情を誓う。かれらの敵はわれらの敵、かれらの難局はわれらの難局、邪悪なもの、脅威となるもの、襲いかかるものが、何であろうとかれらのもとに来るときは、われわれの最後の力を尽くすまでかれらを助ける。この誓いは、わたしの世継たち、わたしとともに新しい国へ来る者たちに引き継がれ、決して破ることなく誓いを守り、影がかれらのもとに降り来たり、かれらが呪われた者になることを防ぐものとなろう』
と。時代が下るとこの誓いの日が新王国の第一日目となった。エオル王の時代、この地はまだカレナルゾンと呼ばれていたが、国土の中枢部を防衛するための地域を指す地をマークと呼ぶようになった。マークに対するエルフの言葉での名がローハンで、その地に住まう民をロヒアリムと呼ぶようになった。最初はゴンドールだけだったが、今では自分たちでも使っている。これはそなたも知っていようが…」
ふいに暖かい感触が腕に当たって、セオドレドは言葉を切った。
少女は頭をセオドレドの腕にもたせかけて目を閉じていた。
「。眠ったのか…?」
いつにないことだったので少しばかり動揺していたが、そんなことはおくびにも出さずにセオドレドは声をかけた。
は小さく頭を振る。
「…」
セオドレドは掠れがちな声で囁いた。
少女の手が伸び、本の上に置かれているセオドレドの手の上に重なった。もう片方の手は腕に絡まる。
「ああ…」
セオドレドは眩暈を感じて目を閉じた。
娘の頑なな心が溶け、自分に向かったことを確信する。
セオドレドが少女の額に唇を落とすと、睫毛を震わせては目を開けた。
「セオドレド様」
憂いを帯びた茶色の眼差しがセオドレドを捉える。
「確認したいことがございます。わたしはロヒアリムではありませんが、それでも妻にと望むお気持ちに変わりはございませんか?」
「私の祖母もロヒアリムではない。国人でないことはなんの障害にもならない」
セオドレオはきっぱりと言い切った。
「いつ迎えがくるかわからない身です。あの方がいらしたら精一杯お願いをしてみますが、力が及ばないかもしれません。妃の務めを果たせないかも…。それでも?」
「望まぬ未来が来るかもしれないからといって、始めから諦めてはなにもできぬ。私はなによりもそなたを愛している。いつか別れの日がくるにしても、それまでの間はそなたと共に過ごしたい」
セオドレオは腕を伸ばして少女の胴を抱え、薄紅色の唇に己が唇を押し付けた。
はびくりと身体をこわばらせたが、おずおずと両腕をセオドレドの首に回してゆく。
長い口付けが終わると、彼は少女の小柄な身体を胸に抱きしめた。
「そなたは私のものだ…。」
その後、セオドレドは急展開に目を白黒させる宮廷の関係者たちに婚約の宣言をした。
父王セオデン、の養父たるエルケンブランドから異論なしの知らせを受けると、雪解けの春を待って挙式をすることに決めた。
あまりの素早さに彼の従弟妹たちは呆気に取られたが、本人は「どうせなら、式のある時にボロミアが戻ってくればいいのになあ」と、至ってのんきなものであった。
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