電撃的婚約発表から一週間ほどが経ち、エドラスにはようやく平穏が訪れた。
「平穏」という言葉は決して大げさではない。
が侍女になり始めた頃に比べれば格段に減ったとはいえ、今でもの立后に賛成しないものはいるのだ。
セオドレドがずいぶん熱心だったので自身は賛成ではないにしても避けられないことと感じていた者はさらに多い。
エドラスから起こった噂は、行動が制限される冬季にあっても瞬く間に各地に伝わり、セオドレドの婚約は本当かという問い合わせが続々と来たのだ。
遠方の地域ではの評判は特別良いというわけではない。
魔女であるという話も伝わっており、概ね「胡散臭い」ということで意見が一致していた。
しかし、表立って反対を唱える者はいなかった。
そうするには、あまりにも少女の功績は大きかったのだ。











つかの間の平穏











は婚約宣言のあった翌日から仕事の引継ぎを始めた。
そうは言っても、最も格下の侍女である。
二日もすれば片が付いた。
次の日からは引越しである。
は侍女の部屋から王家の人間の住む一郭へ移ることになった。
まだ結婚したわけではないので気が早いにもほどがあったのだが、ローハンにおけるの本籍地は養父母のいる西の谷である。本当ならば一度里帰りをし、結婚するために必要な心得を養母から教わったり、持参金に相当する品々を選んだりしなければならない。
しかしそこは、アイゼンガルドとの戦いに向けての最前線の地となっている。何事かあってはいけないということで、このままエドラスに留まることになった。
現在のは侍女服を脱ぎ、まとめていた髪もおろして娘らしい若やいだ部屋着を纏っている。





そんなある日の午前中、はエオウィンの指導で王家の女性がなすべきことを教わっていた。
主な務めは訪問者のもてなす事とそのための物品の管理。
気配りが必要とされる務めである。
本日の見学場所は酒蔵だった。
「こちらの倉庫は麦酒(ビール)を保管しているの。一番手前にあるのが一昨年のもの。あと少しでなくなるところね。その次が去年仕込んだもの。一番奥が今年仕込んだものよ。わたくしたちが一番飲むのが麦酒だから、毎年たくさん作る必要があるのです。といっても、麦があまりとれない年にはあんまり作るわけにもいきませんけれど。今年は、いつも通りというところかしら」
ずらりと並んだ樽の前でエオウィンが小鳥のような声で説明をしてゆく。
歩くたびに大きな鍵の束がしゃらんと鳴った。
食料庫や、このような酒蔵に出入りするのは、エオウィンの許可が必要である。とはいえエオウィンも多忙の身だ。食料庫は筆頭料理番が、酒蔵は侍女頭であるユルゼが実質的に管理していた。エオウィンはその二人を監督すると言う実際のところである。
「とは言っても…葡萄酒(ワイン)庫だけはわたくしの管轄ではないのです。あそこは王の相談役が管理しているのよ。出来の良い葡萄酒は、熟成させるととても価値が出るから、王の財産になるのです。だけど、相手はグリマでしょう?わたくし、心配で…」
白い手を頬に当ててエオウィンは嘆息をついた。
「それに、王の武器庫や宝物庫も…。疑わなければならないって、とても気分が悪いわ。だけど、あの男を疑わない者がいるとしたら、よほどの善人かお馬鹿さんよ」
悪い事を考えていますって、目に書いてあるんだもの!と憤慨しながらエオウィンは腰に手を当てた。
「まあまあ、落ち着いてください。ここで怒っても仕方がないでしょう。それに、陛下の武器庫や宝物庫や、葡萄酒庫も、セオドレド様の許可がなければ扉を開けるのも自由にしてはいけないようになったじゃないですか」
背中を叩いてなだめるに、エオウィンは少し頬を赤らめる。
「ええ、そうでした。ですが、当然のことですわ。セオドレドはグリマのことを少しも信じていませんもの。権力を奪われてずいぶんしおらしくなりましたけれど、いまだに相談役の地位にいるのですから、本当に反省しているか、怪しいものです」
言い訳をするように目を背けた。
無理もない、とは思った。はグリマに同情する気持ちがないでもないのだが、信用できるかという問題になると、答えは「否」である。
はっきりとサルマンと縁が切れたと考えられるようになるまでは、グリマの立場は改善することはないだろう。
「さあ、次は蒸留室ですけど、ここのことはもご存知ですわね」
エオウィンは表情を明るく一変させた。
蒸留室というのは侍女の控えの間とユルゼの私室の間にある部屋だ。
花の盛りの時にはそれらのエッセンスを蒸留する。甘い菓子に混ぜたり、香水として使用するためだ。他にも薬草酒を作ったり、ハーブを乾燥させたりもする。早い話が、台所でするには不向きな細々とした作業をするのが蒸留室である。
そこは侍女も出入りするので、もよく知っているのだ。
「蒸留室の地下には蜂蜜酒(ミード)が保存されています。これを作るのは王家第一の女性です。ですから、来年からはが作る事になりますわ」
「ええっ!?」
言われた瞬間、はすっとんきょうな声をあげた。
蜂蜜酒は原料が蜂蜜であるため、葡萄酒や麦酒ほど量はできない。そのため、特別な日にのみ飲まれるものだった。あるいは病気の時に。
蜂蜜酒は滋養があるので、病気にも良いというのだ。よって、今はもっぱらセオデンが飲んでいる。
「お酒なんて作った事ありませんよ!」
「もちろん、覚えるまではわたくしも手伝います。ですが、難しい事なんて少しもありませんわよ。風味付けに果物やハーブを入れることはありますけど、蜂蜜酒そのものは、蜂蜜に水を混ぜるだけなんですもの」
にこにことして説明するエオウィンに、は呆気に取られた。
「水を入れるだけ?」
「ええ」
「本当にそれだけでお酒になるんですか?」
「そうなんですの。不思議ですけれど」
エオウィンは笑顔を崩さない。
「そういうものなんだ…」
自分はまだまだ物を知らない、とは痛感した。
「時間がありましたら、が作ったものを使えましたのに…こればかりは仕方がありませんね」
「使うって、何にです?」
残念そうなエオウィンに、は首を傾げてみせる。
「蜜月の間にとセオドレドが飲むのですわ」
「蜜月?」
「結婚してから月が満ち欠けを一通り終えるまで、毎日飲むんです。その間を蜜月と言いますの」
(蜜月…。そういえばたしかハネムーンって、ハニームーンのことで、で、蜜月、なはずなのよね…。同じような風習が向こうの世界にもあったのかしら…)
「そうなんですか…」
やっぱり甘いのかしら?と頭の隅で考えながらは頷いた。





午後になってからは縫い物に精を出した。
婚礼衣装や王太子妃となったあとのための衣装は、女性の側が用意しなければいけないためだ。これらも持参金の一部となる。
一からドレスを縫うというのはにとって始めての経験であるため、こちらはユルゼが指導をした。
縫わなければならないドレスは一枚や二枚ではない。手伝いのための侍女を何人か少女につけたが、式までに間に合うかどうか微妙なところであった。

「はい、皆、休憩にしましょう!」
ぱん、とが手を叩くと、あちこちからほっと息を吐く気配が一斉にした。
続いて背伸びをする者、肩を回す者、手をぷらぷらと振る者と様々な格好で強張った身体をほぐしてゆく。
衣装縫いはの部屋の居間で行われている。
長時間針を動かしていると目や肩が痛くなってくるものだ。
始めの頃は疲れたら各自で休憩をとってもよいということにしていたのだが、どうにも遠慮が先に立つようでどの娘も休もうとしなかったのだ。そこでが頃合を見計らって休憩を入れるようにした。
休憩中は部屋の真ん中にある絨毯に車座になって、軽く飲んだり食べたりする。
今日はクリームを浮かべた暖かい香草茶と干し果物入りのビスケットだった。
たわいないおしゃべりをしていると、部屋の扉がノックされた。
「入るぞ」
返事をするよりも先に扉が開き、セオドレドが入ってくる。
王の息子の登場に娘たちは慌てて立ち上がり、礼をしようとするが、セオドレドはそれを制した。
「ああ、構わん、そのままでいい。、すまんが私にも茶をもらえるか?」
「ええ。少しお待ちください」
はにこっと笑うとすたすたと暖炉まで歩いてゆき、手袋をして吊るしているヤカンに手を伸ばそうとした。寸でのところで近くにいた侍女がの手を押し留める
『何をなさるんですか、姫様!』
よりも少し年長のその侍女は、声を潜めて咎めてきた。
『え?何って、お茶を…』
つられてもひそひそ声になる。
『そういうのは私たちがやりますから、あなたは命じるだけでいいんです!』
『でも、セオドレド様はわたしに言ったのだし…』
『それでも侍女がいるときには侍女にやらせるんです!ご自分の立場をもう少し理解してください!』
力説されては気圧された。
『は、はい…。わかりました』
『さ、では若君のそばについていてさしあげてくださいましね!』
手袋を取られ、ぐるりと身体を回されると、そこにはほっとしたような表情の侍女たちの顔があった。
(あ…なんだかものすごく心配されてる)
つい最近まで侍女として働いていたせいで雑用などなんということもないのだが、ともかくも現在のはセオドレドの婚約者である。
「人を使うように」ということは何かと注意を受けていたが、どうしても戸惑いは拭えなかった。
(慣れないなあ、こういうのって)
セオドレドのそばまで行くと、彼はくすくす笑いながらを引き寄せてきた。
自分の席の隣にを座らせ、
「そのうち慣れるだろうさ」
と、の心の中を読んだかのような慰めを口にした。
(ばれてる…)

気を利かせれたのか、セオドレドとに新しいお茶を用意すると、侍女たちは部屋の隅の方に移動して仕事に戻った。
の縫っていたものは畳まれてしまった。
セオドレドの相手に専念しろということであろう。
「実はな、…」
「はい?」
茶を一口飲んで、セオドレドは大きく息を吐いた。
いつもどこか面白がっているような顔をしているのだが、心なしか表情が翳っているようだった。
「どうかなさいましたか?」
「うん…」
セオドレドはカップに目を落とす。
「近々、また西の谷へ行く事になる。アイゼンガルドの攻撃が頻繁になってきたので、軍も再編しなければならない。私の第二軍団はそのまま、第一軍団を西に回して、残りの三方、つまり、北と東と南をエオメルの第三軍団で守らせるということになった」
どこか釈然としない様子でセオドレドは説明する。
「西はとにかく戦力を増強させなければならない。昼間でも活動できるオークの軍団が頻繁にローハン谷周辺に現れてきているのだからな。最近では褐色人の騎兵も増えた。こうなってはもう勝敗をつけぬままの和解は無理だろう」
「………」
深刻な話になりそうになったので、も自然と顔が厳しくなる。
「それは、まあ良い。必要な措置だ。問題は…」
「第三軍団だけで三方を守らなければならないこと、ですか?」
「ああ」
カップを置いた小さな音が部屋の中に響いた。
「南は…まあいい。もしも南から攻め込まれるようなことがあれば、その時はもうゴンドールも陥落したということなのだから。いよいよ持って、人間の世が終わるということになろう。そうなれば我らにできることは限られる。だがそれはおそらくもっと先のことだ。東はアンドゥインが天然の堀となっている。問題は北だ。」
セオドレドはカップを置いて頬杖をついた。
「北からはこれまで何度かオークの襲撃があった。といってもそれはアイゼンガルドとは別のオークのようだが。夜にしか動かず、体格もいくぶん小柄だから。しかし…」
「しかし?」
セオドレドの目が厳しい色を湛えた。
「こうするのが最善であることを、経験上知っている。西は危ない。そのために防備は増やさなければならない。しかし他方の防備を厚くすれば、別の場所が薄くなるのだ。当たり前のことだ。だがどうにも腑に落ちない。これが、グリマからの奏上でなければ、ここまで不安に思うこともなかっただろうに」
「グリマが?」
意外な名前の登場に、は驚きを隠せなかった。
「そうだ。敵がアイゼンガルドならば、西に兵を増やさねばならない。アイゼンの浅瀬を盗られたら、アイゼンガルドの侵攻を阻むものは何もなくなってしまう。そうだとわかっているのだが、あの蛇の口からそのことが出てきたので、私はどうしても疑念が拭えないのだ。まだ何かあるのでは?とな」
『西以外のところから攻められる…ですとか?」
「いや。アイゼンガルドは背後が険しい山並みで囲まれているので、どこへ向かうにしろ一度南下しなければならない。そなたも見ただろうが、アイゼン川は流れが急だ。とてもではないが渡れぬ。アイゼンガルドから最も近くにある渡河が可能な場所がアイゼンの浅瀬…。ふむ、やはり考えすぎか…?」
セオドレドは首を捻った。
「わたしに何かできることは?『鳥』を飛ばしましょうか?」
セオドレドの話を聞いているうちに不安が増したは何かしないではいられないような衝動に駆られた。
サルマンの恐ろしさはも骨身に染みている。
あの山に囲まれた高い門の内側で、どれほどの策を練っているのか…。
また、どれほどの兵を増やしているものか…。
の紙の使いを飛ばそうとも窺うことはできないかもしれないが、それでもじっとしていてはいけないような気がした。
しかしセオドレドは首を振った。
「私としても考えなかったわけではないが、事態は一日二日で変わるわけではない。それではそなたに掛かる負担が大きすぎる」
「たいしたことではありませんわ」
は向きになって答えた。
セオドレドはそんな少女を微笑ましげに眺める。
「駄目だよ、。そなたが言うのなら本当にたいしたことではないのかもしれないが…。そなたには宮廷のことに専念してほしい」
「セオドレド様…」
セオドレドは腕を伸ばして少女を引き寄せ、瞼に口付けを落とす。
「結婚式までには一段落つけられるよう、頑張るよ。サルマンなどに邪魔がさせるものか。そうだろう?」
セオドレドは力強い笑みを浮かべた。






それから三日後、セオドレドは第一軍団を引き連れて西の谷へ向かった。
出発の前日、彼はの部屋を訪れ、自身の髪を一房、少女に渡した。
脳裏には以前に見た塚が思い出される。
平原に作られた塚。
時とともに消えてしまう塚。
セオドレドが同じようにならないとどうして言えるだろうか?

これが形見になるのかしれないと思いながらもも自分の髪を一房切った。



セオドレドは二週間ほどで戻ってきたが、はそれまでの間、心配で眠れない日が何度かあった。
夏の頃には二ヶ月も留守にしていたというのに。
その頃には、気に掛かる事はあったにしても、眠れなかったということは一度もなかったのに…。






一月に入り、またセオドレドは西へ行った。
事態は一進一退を繰り返し、二月に入った。






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