宮廷の様子が変わった。
出入りをする騎士の数が増えただけではなく、雰囲気もピリピリしている。
深刻な表情を浮かべている者も多い。
一時は明るさが取り戻していたが、逆戻りをしてしまったようだった。
アイゼンガルドとの間には緊張感が強まり、年内には激突するだろうと誰もが考えるようになった。
来るべき戦いに向け、宮廷だけではなく各地方でも準備が着々と進められている。
(一年後、どれだけの者が失われているだろうか…)
激しい戦いは避けられない。
セオドレドはそう確信していた。
嵐の始まり
移動する間は、短い間であってもかなりの荷物が生じる。
食料や簡易な食器、武具や馬具の手入れ道具や予備、その他細々したものが必要になるのだ。
それらの荷物は自分で用意するが、戻ってきたときは従者に預ける。
雑用はセオドレドがするべきことではない。
ということになっていた。
しかし、西の谷から五日ぶりに戻ってきたセオドレドは、まだ息も上がったまま、己の部屋へ戻った。
腕には件の荷物を抱えて、である。
その荷を部屋へ置くと踵を返し、父王の元へ報告に行った。
年が明けてからこちら、毎週のように西の谷とエドラスを往復するようになったセオドレドの忙しさは例年の比ではなかった。
アイゼンガルドの様子も気に掛かるが、宮廷も目が離せない。
無論、西の谷にはすでに第一軍と第二軍が詰めかけ、監督と警戒を怠ってはいないのだが、事実上の両軍団の指揮官である身としてはそうそう持ち場を離れられない。
しかし、宮廷にはまだグリマがのさばっていた。
エオメルは第三軍団を三方に配置してしまったため、これまたエドラスには半月と留まっていられない。
今日は北、明日は南と、マーク中を駆け回っていた。
そんな従弟は現在アルドブルグへ戻っているとのことだった。
(心配事の種を一つでもなくすことができたらなあ)
部屋へ戻ってきたセオドレドは、疲れた身体を椅子に沈め、ため息をついた。
身体が回復しつつあるセオデンは、徐々に宮廷を取り仕切ることもできるようになっていた。そのことはセオドレドにとっても喜ばしいことである。
しかし、相変わらずグリマが王の傍に寄り添い、何かと口を利くのである。
これには頭が痛かった。
エオウィンやも頑張ってくれてはいるが、戦ごととなれば女が口を挟むこともできない。
宮廷に残っている有力な騎士たちのお陰でグリマが増長することだけは防いでいるが、下手をすれば元の木阿弥になりそうだった。
(完全に機を読み違えた。父の様子が悪かった時に、無理やりにでも奴を追い出すべきだったのだ。今となっては奴を遠ざける理由が見当たらん)
セオドレドにとっては、グリマはアイゼンガルドに内通している裏切り者だ。
しかしセオデンがそう思わない以上、現状では手出しはできない。
いっそ、厳罰覚悟で追放か投獄をしようかとも考えたがこの時期に謹慎でも食らってしまえば、マークはどうなる?
グリマの、引いてはサルマンの思う壺になるだけだ。
大軍の将であるセオドレドを押し留めていたものはその思いだけだった。
(くそ…っ!)
もやもやする気分をぶつけるように、セオドレドは拳を振り下ろす。
ぼすっというくぐもった音と共に荷袋が形を変えた。
「しまった!」
我に返ったセオドレドは、慌てて荷袋の口を解いた。
上に入っているものを乱雑に放り出し、一番下から麻布に包まれたものを大事そうに取り出した。
場所が狭いと思い直し、寝台のあるところまで行くと、そっと布を広げた。
中から出てきたのは真っ白な衣服とそれと同じような形の上着。赤いスカート。
を見つけたときに彼女が着ていた衣服だった。
ずっとエルケンブランドが保管していたものを持って帰ったのだ。
(これをどうしようか…)
長い間、ずっと忘れていたが、これはの私物である。それも唯一の。
本人に返すのが一番良いだろう。そう思ったものの、こうして見るとどうにも気が進まなくなった。
(これを返したら、否が応にも故郷の事を思い出してしまうだろう。里心がついて婚約を止めたいと言い出しはしないだろうか?)
それがひどく気がかりだった。
しかし、セオドレドは頭を振り、嫌な考えを振り払おうとした。
(今更、それは無かろう。もうあの子が来てどれだけ経つというのだ?毎日熱心に婚礼のための衣装を縫っているのは誰のためだ?私だ。私への愛情ゆえにあの子はマークで生きることを選んだのだ。私がの意思を疑うのは彼女に対する背信にも等しい。恐れてはならぬ。これは、ただの衣服なのだ)
しかし、不安は消えない。
セオドレドは誰がいるわけでもない部屋の中を見渡し、後ろめたい思いで着物を長櫃の奥へ仕舞いこんだ。
(…はこれの事を忘れているようだから、無理に思い出させることもあるまい。結婚してから渡したとしても構わないだろう。なにしろ、これはただの衣服なのだから…)
何度も言い聞かせてセオドレドは部屋を後にした。
に会いに行こう。
せっかく迎えに出てくれたのに、そっけなく断ってしまったのだ。
早く行って、謝って、柔らかい身体を思い切り抱きしめたい。
足早に廊下を歩くセオドレドの胸中には、しかし苦いものが広がっていた。
そのはというと、むくれていた。
理由は一つ。五日ぶりに帰ってきたセオドレドを出迎えに館の入り口で待っていたのだが、セオドレドは「か。久しいな」とだけ言ってさっさと自分の部屋へ行ってしまったのである。
これが仮にも婚約者に対する仕打ちであろうか?
自分はセオドレドに何かあったらどうしようかと、出かけた日からこちら、心配で仕方がなかったというのに。
それでも何かと責任の重いセオドレドのことだ。何か自分には、もしくは大勢の前では言えないようなことがあったのかもしれないと言い聞かせ、彼を労う仕度をしていた。
水差しに麦酒を入れ、軽く摘めそうなものを二、三品皿に盛る。
マークらしい細工のしてある杯と一緒に盆に載せて、そこではたと動きが止まった。
これらはセオドレドの部屋に持っていってもいいのだろうか。それとも自分の部屋に来てくれるのだろうか?どちらにせよ、「いらないと」は言われないとは思うけれど…。
「…うーーん」
「どうかなさいましたか、姫様?」
用意を手伝っていたユルゼが尋ねてくる。
「これ、わたしの部屋とセオドレド様の部屋、どちらに持って行ったら良いと思いますか?」
わからなかったので、は素直に訊ねた。
するとユルゼはごく真面目な顔で、
「姫様、お言葉遣いが…」
と訂正してきた。
もいい加減慣れてきたので、
「どちらに持って行ったら良いと思う?」
とすぐに言いなおした。
ユルゼは忙しい時間を割いて、付き侍女のように少女に付きっ切りになっていた。
それはつまり、のお妃教育も兼ねているということだ。
まだまだ侍女をやっていた期間の方が長いため、侍女相手にも敬語や丁寧語を使ってしまいその度に窘められている。
はすでにマークの女性の中でも二番目という高い地位にいるので、身分が下の者に対して遜るなというのである。
それでも年が近いのならばまだいい。
しかし、自分の父親ほどの年の騎士や母親より年上の侍女頭に敬語は不要と言われても、なかなかなじめるものではなかった。
しかし、慣れてもらわねば困る、というのが当の侍女頭の弁である。
がやり直したのをこれまた真面目な様子で頷き、会話の続きを始めた。
「そうですわねぇ。少々若君のご様子がおかしゅうございましたし、呼ばれぬ限りは訪れない方がよろしいかと。姫様のお部屋の方が…」
「様はいらっしゃる!?」
大きな音がして扉が開くと、息せき切らせた侍女が飛び込んできた。
「どうしたの?」
「ああ、いらっしゃった!」
駆け込んできた侍女は少女の姿を認めると、安堵したような表情になった。
「姫様、若君が探していらっしゃいましたわ。すぐお部屋へお戻りください」
「部屋って、わたしの?」
「はい」
「わかったわ。すぐに行きます」
盆を抱えて歩き出す。
するとすかさず。
「姫様」
とユルゼの声がかかる。
「お盆はわたくしが」
「…はい」
さらにユルゼはすごすごと戻って盆を渡したに、
「もう一声」
とぴしりと言った。
(はう〜〜)
訂正の連続に、さすがにもげんなりしてきた。
しかしユルゼに悪意があるわけではない。
むしろ、何もわからないに親身になって相談に乗ってくれる。
だが教育には一切妥協はしなかった。
これからのことを思えば、遅かれ早かれ身につけなければいけないことである。
にはセオドレドの愛情とエルケンブランドの後見があるが、それですべての民がに頭を下げるわけではないというのだ。
妃にはそれなりに風格がいるというのである。
そのためには一に訓練、二に訓練だ。
「?大丈夫?」
が表情を曇らせたことに気付いたユルゼは、心配そうに眉を寄せた。
は小さく息を吐く。
結婚すると決めたのは自分だ。
お妃教育のことは全然考えていなかったけれど、ここで身につけなければ困るのは自分。
今は付け焼刃でしかないからやりにくくて仕方がないけれど、いずれ本物になればそんなこともなくなるはず。
(それに、わたしがちゃんとした奥さんにならないと、選んだセオドレドが悪く言われちゃうもの。頑張らなくっちゃ)
すっと顔を上げて微笑みを浮かべる。
「大丈夫です。…続けます」
少女の変化に、ユルゼは目を優しく細めた。
「ユルゼ、これをわたしの部屋まで運んで頂戴」
は背筋を伸ばして用を言いつけた。
「承知いたしました」
ユルゼは恭しくそれを受ける。
「先に行くわ。お待たせしては悪いもの」
は足早に部屋を出る。
ユルゼは盆を掲げて静かに歩き出した。
「大変なんですのねえ、お妃様になるのって」
を呼びに来た侍女が気の毒そうにユルゼに言った。
少女は数週間前までは彼女の同僚だったのである。
それが今や王太子の婚約者。次期王妃という変わりようである。
しかし連日の特訓を目にしているから、そう羨ましいとも思えない。
ユルゼは年若い侍女のそんな思いを読み取ってにっこりと笑った。
「もちろんそうですよ。一家の主婦としてだけではなく、民すべての母親になるんですもの。生半な気持ちでは務めを果たすことはできません。…あの子も良く頑張っていると思うわ」
「そうですねぇ」
「さ、あなたも持ち場に戻りなさい。若君とエオレドが戻られたのだから、やることはたくさんありますよ」
侍女の顔に戻って、ユルゼは告げた。
部屋に戻ったは、あっという間にセオドレドに引き寄せられ、腕の中に収まった。
「セ、セオドレド様!?」
「ん〜〜」
セオドレドはの焦りを意に介していない様子で、少女の胴に腕を回し、華奢な肩口に唇を当てるようにして抱きしめる。
身長差もあって、の爪先は宙に浮いた。
(ど、どうしたら…!?)
むくれていたのも、げんなりしていたのもこうなるとどこかへ飛んでいってしまう。
婚約してからこちら、セオドレドは遠慮なくの触れるようになったが、それでもこのように無理やり、というのはなかったのだ。
(…やっぱり、何かあったのかしら)
最初の衝撃が薄れると、冷静さがの頭に戻ってきた。
(聞いてもいいのかしら?)
自分の肩に顔を埋めているセオドレドを見ようと、首を動かす。
ぎゅうぎゅうに抱きしめられているので、これには骨が折れた。
しかし、の動きに反応したように、セオドレドが身を起こした。
そして―
「だなあ」
安堵したような表情になる。
(その顔は反則だわ。セオドレド…)
こんな顔で見つめられたら文句を言う気もなくなるというものだ。
は自分の頬が赤くなるのを感じながら、セオドレドの首に両腕を回した。
ふっとセオドレドの目が細まり、片手が頬に添えられる。
は目を閉じた。
すぐにユルゼが飲み物を持って来たので、口付けも抱擁もそこで一旦中止となった。
セオドレドは残念そうだったが、見られてしまったにはそれどころではない。
顔を赤くして、内心ひどく動揺していた。
苦笑交じりでユルゼが退室すると、ようやく落ち着きを取り戻した。
「済まなかったな。つい、離しがたくなった。戦場に出ていると、どうしても血が高ぶって…その時はいいが、一旦熱が引くと温かいものが恋しくなる」
明け透けな物言いに、はまた顔を赤くした。
(温かいものって…)
しかしセオドレドの言葉の中に不穏なものが紛れているのに気付いて、照れている場合ではないと言い聞かせた。
「戦闘があったのですか?」
「小規模のものだがな。オークの隊がちょいちょいアイゼンガルドから出てきているんだ。しかし、奴らは戦闘のために出てきているようではないんだ。おそらく、なんらかの偵察役だと思うのだが」
「偵察、ですか」
がマークに来て一年近く。戦火は徐々に拡大してきている。
エドラスの宮廷にいる少女にもそれは感じられた。
セオドレドはの内心に気付いたようで、ぽんぽんと頭をなでた。
「大丈夫だ。大きな戦いになるのはまだ先のことだし、地の利はこちらにある。そなたがエドラスにいさえすれば、巻き込まれる事はない」
「わたしのことはいいんです。セオドレド様のほうが危ないじゃありませんか。本当に、わたしも戦場に行ければいいのに…」
「それは困る」
セオドレドは苦笑した。
「私は王の子で軍団長だ。騎士たちの生も死も私の肩にかかっている。そなたが無事でいると思えばこそ、私は心置きなく戦いに行けるのだ」
「ええ、わかっています。それでも…もどかしいのです」
は目を伏せた。
剣も振れない、槍も弓も使えない。馬はせいぜい駆け足まで。
戦場に出るなど論外だというのは自分でも重々承知しているが、何の役に立てないというのはひどく気の滅入ることだった。
こんなときには、自分がどれだけ安穏とした世界で暮らしていたのか、否が応でも感じざるをえない。
戦争は長引くかもしれないという。そのときまで自分の心臓が持つか、には自信がなかった。
「…表が騒がしいですわね」
このまま話を続けていてはどんどん雰囲気が重くなると察して、は話題を変えた。
さっきからざわざわとした喧騒が、館の奥であるここまで聞こえてきたのだ。
「ああ。聞いてこようか?」
セオドレドは腰をあげた。
「わたしも行きます」
一緒に部屋を出て広間へ行くと、大勢の騎士に囲まれた背の高い若い男が大股で歩いているのが見えた。
「セオドレド、!」
男は二人を見つけると、ぱっと顔を明るくさせた。
「エオメル!」
「まあ、おかえりなさいませ」
エオメルは足早にセオドレドの元へ向かってきた。
「お久しゅうございます、従兄上」
「ここのところ、すれ違いばかりだったからな。アルドブルグの様子はどうだ?」
久々の再会に、エオル王家の兄弟たちは互いの肩に手をかけた。
「エオメル、兄上!」
奥からエオウィンも駆けつけた。
「おお、エオウィン、元気だったか?」
「兄上こそ」
エオル王家の全員が揃ったということもあり、エオメルの報告に三人ともついていくことになった。
セオデンの私室へ向かう。
「陛下、エオメルが戻りましたわ」
エオウィンは朗らかに伯父に声をかける。
彼女はずっとここにいて、表の騒ぎに気がついて様子を見に来たのだった。
エオウィンの先導でエオメルとセオドレド、も中に入った。
「エオメルか…。東の様子はどうだ?」
セオデンは椅子に座ったまま甥に尋ねる。
以前と比べて病的な様子はなくなったが、まだ健常に戻ったというほどではない。彼の騎士時代からすれば―それはほんの五年前なのだ―まだ覇気がないといえる。
しかしそれでも、快方には向かっていた。
「東エムネト一帯には目立った変化はございません。しかし、西の変化を考えれば、こちらも最悪の事態に備えるべきと考え、放牧をしている民、その牛馬をエント川の向こうに避難させました。この時期ですから、どのみち青草もありませんので、目だった混乱はおこりませんでした。その地に残っているのは、見張りと斥候だけです。アルドブルグにも兵糧及び物資を蓄えております」
「そうか。大事がなくてなによりだ。引き続き、警戒を頼んだぞ」
「はっ」
エオメルは恭しく頭を下げた。しかし、彼はすぐに顔を上げた。
「それから、一つ気になることが…」
「何だ?」
「噂なのでございますが、民の中にサルマンではないかと思われる、頭巾を被り、マントを着た老人を見かけたものがあるそうです」
セオドレドとははっとした。
魔法使いには堅牢な塔がある。そのためサルマン自身が動く可能性までは考えに入れていなかったのだ。
「何だと?それで」
「その、サルマンらしき者を見たというのが、半年以上前のことでございまして、まだサルマンの脅威が本格化していない時期だったのです。ですからその者もサルマンだとは思わなかったのだそうでございます。今にして思えば、という話でした」
「ほう?」
セオドレドは不適な笑みを浮かべる。
「そして今現在でもサルマンはマークのあちこちを動き回っているのだという実しやかな噂が流れているのです。どこまで本当かはわかりませんが」
「それが事実だとしたら大変なことになるな。我らが敵はオルサンクの内側に篭っているのだと思っていたが、それではどこから攻められてもおかしくないことになる」
「はい。すでにその噂を聞いた女子供の中には怯えるものが出始めております」
「まあ…」
エオウィンは痛ましそうに顔を歪めた。
「エオメル、セオドレド」
「はっ」
セオデンの呼びかけに、エオメルは居住まいを正した。
セオドレドは表情を引き締めて胸に手をあて、軽く礼をする。
「国法を一層遵守するよう、兵たちに伝えよ。見慣れぬ者にわが国を勝手に歩かせてはならぬとな」
「承知いたしました」
二人は声をそろえて拝命した。
「それから、セオドレド」
「はい」
「王の名において、兵を招集せよ。その中から早急に必要とする分はそなたが率いて構わぬ。残りはエルフヘルムの指揮下とし、エドラスで待機とする。西の脅威への備えとしてだけではなく、東でも、北でも、どの地域で事が起ころうとも対応できるようにな」
「はっ」
セオドレドは万感の思いで父王の命に聞き入った。
セオデンはもう大丈夫だ。
これでこの戦いが終われば、マークの憂いはなくなるだろう。
ゴンドールから救援が求められても応えられるはず。
全てが良いほうへ向かっているように感じられた。
それから四日後、セオドレドもエオメルも揃っているエドラスに、意外な知らせがもたらされた。
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