「あ」
近衛隊の中でも年若い方であるところのホルンは思わず声をもらした。
「どうした?」
聞きとがめた同僚の男はホルンを見やった。
「いや…アレ、見えるか?」
半信半疑といった風にホルンは訊ねる。
「ん?どれ?」
「アレ、アレだって。ほら、ずーっと先の方」
ホルンは指を指す。
「ん〜〜?」
同僚は目を細める。
「あ…」
「わかっただろう?」
同僚の変化に、ホルンは己が見たものが錯覚ではないことを確信した。
「お知らせした方がよいか?」
「当たり前だ!急げ!」
同僚の男はホルンの背中をバシンと叩いた。











急転直下











黄金館の入り口前にはいつも衛士が見張りをしている。
高台にあるその館からは、エドラスの町並みと広大なマークの平原が見渡す事ができた。
遮るものはほとんどない草原は、数マイル先にいる人や大きな動物を見つけられることすらできた。
しかし、この季節は日が暮れるのが早い。
すでにして太陽が白の山脈の向こうに落ちようとしていた。
それゆえ年若い衛士は、自分が見たものが本当に存在しているのか、何かの影を見誤ったのではないかと考えたのだった。
そんなホルンが館の中へ駆けていってから少し経つと、王の息子とその婚約者、そして王の甥といった面々が足早に出てくる。
衛士はセオドレドたちの到着を敬礼で迎えた。
「飛蔭が戻ってきたと?」
セオドレドは意外そうな思いを隠そうともしない様子で訊ねる。
「はい、あちらの方に。もう日もほとんど暮れかけております故、見つけにくいのですが…」
セオドレドは指し示された方に目を向け、細めた。
飛蔭の毛色は昼日中でこそ目立ちもするが、暗くなってしまうと同化してしまい、よほど近くに寄らない限り見つけられなくなる。
しかしロヒアリムの常で非常に目の良いセオドレドは難なく飛蔭を見つけ出すことができた。
「まさしく、あれは飛蔭!」
「戻ってきたのですね。それにしても、ガンダルフはどうしたのでしょうか?」
同じくメアラスの長を見つけたエオメルは、嬉しさ半分、困惑半分といった様子で言った。
「え?ガンダルフ殿はいないんですか?」
は一生懸命目を凝らしているのだが、未だ見つけられないでいた。
「乗ってはいないようだな」
セオドレドが答えた。
「ボロミアのように何か書き残しているやも。戻ってきたらよくよく調べてみよう。それに、どこまで行ったのかわからんがあの御仁と一緒だったのだ。さぞ遠くから戻ったのであろうよ」
王の息子の言葉に、さもありなんという空気が流れた。

間もなく飛蔭はエドラスの前に姿を現し、止める間もあらばこそ、門をぶち破る勢いで中へ入ってきた。セオドレドが前もって門番に門を開けておくように命じておかなければ、本当に壊されていただろう。それほどの勢いだった。
セオドレドたちは飛蔭を出迎えに下へ降りてゆく。
切石で舗装された道に、飛蔭の蹄の音が高く響いていた。
「よく戻った、飛蔭。くたびれていないか?腹は減っているか?」
セオドレドは労いの言葉をかけ、その銀色の毛並みに手をおこうとした。
途端、鼻息も荒く睨まれ、かっかっと、蹄を鳴らされた。
飛蔭は不愉快だとでも言っているかのように尻尾をゆすり牽制する。
「…あまり機嫌はよくないようだな。疲れているのだろう。厩でゆっくり休むと良い」
セオドレドは出した手を引っ込め、苦笑するように腰に腕を当てた。
飛蔭の尊大さは、今に始まった事ではないのだ。
しかし、飛蔭の様子は厩に戻っても変わらなかった。
用意されていた飼い葉は食べるし、水も飲む。
しかし誰にも触れさせようとはしない。
ブラシをかける手を拒み、汗をふかせることもさせず、近づこうとする者は伯楽であっても蹴ろうとする。
飛蔭が暴れるので他の馬たちも動揺し、騒ぐわ喚くわと収拾がつかない有様だった。
ここにいるのは危険だと判断したセオドレドは、を外に非難させに出て行った。
「どうしたというのだ、この変わり様は…」
残されたエオメルは、訳が分からなくなって呆然と呟いた。
騒ぎの現況であるところの飛蔭は、ひとしきり暴れた後はもうそれで気が済んだというように、飼い葉桶に頭を突っ込んでいる。
しかしまた人間が近づけば興奮するであろうことは、長年の馬との付き合いからすぐに察せられた。
「飛蔭の柵は開けておいたほうがいいな」
何が気に入らないのか知らないが、不満があるのならいつなりと出入りが出来るようにしておいたほうがいいだろう。
そう判断してエオメルは飛蔭の房に近づく。
伯楽たちは他の馬たちを抑えるのに全員借り出されており、飛蔭にまで構っていられる状況ではなかったのだ。
エオメルが近づいて来たせいで、飛蔭はまたもや大きく鼻を鳴らした。
「落ち着け、飛蔭よ。柵を開けるだけだ」
エオメルは飛蔭を刺激しないよう、ゆっくりと動く。
柵を開けてるとすぐにエオメルが退いたので、飛蔭はまた食事に戻った。
「すまんな、エオメル」
戻ってきたセオドレドは従弟の肩に手を置いた。
「しかし、まいったな。飛蔭は元々気性の荒い馬だったが、これではもう手がつけられん。何事があったというんだ?」
馬たちがいななき、蹄を鳴らし、巨体を房にぶつける…そんな騒々しい中でエオル王家の男たちは顔を見合わせた。
「今のところわかるのは、ガンダルフはなんの言付けを寄こさなかったということだけですね」
エオメルは答えた。
飛蔭は鞍も鐙もまったくない状態で戻ってきたのである。
「よほど恐ろしい目にでもあったのだろうか…。こき使われたのかな?」
少しも信じていないような口ぶりで、セオドレドは茶化した。
「飛蔭を酷使できたとしたら、すごいですね。我々にはとてもできない」
エオメルも同意した。

これ以上できることは何もないようだと分かると、三人は館へ戻った。
丁度夕食の時刻でもあったので、食事をしながらの報告となる。
「…そういうわけですので、とにかく飛蔭の荒れようはただ事ではございませぬ。とはいえ、もとよりアレは王以外は乗せようとしないメアラスの長…。父上がお指図いたしますれば、案外言うことを聞くかもしれません」
厩においでくださいませんか?
セオドレドは期待を込めて父王セオデンに外出を勧めた。
セオデンはここ数年、まったく外に出ていなかった。
愛馬の雪のたてがみも久しく主を乗せていないのでずいぶんと寂しがっている。
興味を少しでも外に向けさせ、連れ出すことができれば…。
外の空気はセオデンの身体にもよいはずだとセオドレドは考えていた。
しかしセオドレドの思いは、不快な声で汚される事になった。
「それは少しばかり軽率ではございませんか?若君。陛下のお身体はまだ回復したとは言い難いもの。その陛下に暴れ馬を近付けさせようなど…。良からぬことでも企んでいるのではないかと、疑われましょうぞ」
王家の食卓を囲む近侍に混じっているグリマが口を挟んできた。
セオドレドは不愉快そうな表情を隠しもせずにグリマに顔を向けた。
「私は父上に話しているのだ。そなたの意見は聞いておらぬ」
グリマはじっとりとした眼差しでセオドレドを見返した。
「それは失礼を」
軽く頭を下げてあっさりと引き下がる。
しかしその様子に、セオドレドは漠然とした不安を感じた。
グリマはもう『王の命令』を伝える役目をしていない。それはセオドレドが禁じたからなのだが、これまで長年手こずらせてきたことから、反駁は必死だと思っていたのだ。
しかし、グリマは待遇に特に不満を述べるでもなく、妙に淡々としている。
今のように時折口を挟んでくる事も無きにしも非ずではあるが、その効果はといえば、ほとんどないに等しい。
(諦めたのなら幸いなのだがな…)
セオドレドはグリマから目を外して、スープを匙で掬い、口に運んだ。
(そう上手くいくわけがない、と思うが、さあて、いつになったら尻尾を出すかな?)
ふと気がつくと、テーブルの向こう側のがたしなめるような目でセオドレドを見ていた。
食堂にはぴりぴりとした空気に満ちている。
エオメルはいつでもセオドレドに加勢できるように身構えており、エオウィンは従兄と伯父の両方に心配そうに交互に視線を向けている。セオデンはというと、そういった雰囲気に苛立っているようだった。
「すまない、気分を害させてしまったな」
セオドレドは素直に反省した。
少なくとも、皆で食事を取る時は和やかにするものだ。
「父上にも、失礼いたしました」
セオデンに向かって目礼を送る。
「何にでもすぐに噛み付くのはよくないな、セオドレド」
「はい。申し訳ありません」
セオデンは言い含めるように重々しい口ぶりで言った。
「グリマもな、何もかも悪く取るでない」
「…はい」
グリマは縮こまった。
それからしばらくは当たり障りのない話をしながらの食事が続けられた。
半分以上食べ終わった頃、館の入り口の方から騒々しい物音が聞こえてくる。
「何事だ?」
エオメルはいぶかしげな顔になった。
「また飛蔭が騒いでいるのだろうか」
様子を見に行こうと立ち上がろうとしたところをセオドレドが引き止めた。
「違う。これは…早馬だ」
一同の顔に緊張がよぎった。
時をおかず、金具が床に触れる音と荒い息遣いとともに一人の騎士が食堂に現れた。
続いてハマやエルフヘルムといった面々も駆け込んでくる。
戦に長けた者たちは、容易ならざることがあったとすぐに察したのだ。
「何が起こった?」
間髪いれずにセオドレドは訊ねた。
騎士はセオドレドの放った斥候だった。
埃に塗れた姿で、長時間の旅程を示している。
だが血はどこにも付いていないようで、つまりは戦場からの知らせというわけではなさそうだった。
「ご報告します。アイゼンガルドの城門前に多数の部隊が集結されておりました!進軍が始まるのは時間の問題でございます!」
セオドレドは瞬間、身体を震わせた。
「とうとう、来たか…」
ぎり、と拳を握りしめる。
予想より早い。
オルサンクの内部は探る事はできなかったが、褐色人たちの様子から開戦までもう少し時間があるはずだろうと踏んでいた。
しかし読み間違いがあったにしても、すでに出来うるだけの手は打っている。
遅いか早いか、それだけの違いだ。
「ハマ!」
セオドレドは近衛隊長を呼んだ。
「はっ」
「すぐに早馬を出せ。浅瀬の両岸に兵を配せよと伝えよ。西の谷の部隊だ」
「承知いたしました」
命じられたハマはすぐに食堂を出て行った。
「エルフヘルム!」
「なんなりと」
頑固さを湛えた騎士は泰然と前に進んできた。
「私は我がエオレドと先に行く。そなたは控えとして残しておいた四隊を率いてきてくれ」
「承知いたしました」
顎を引くように礼をすると、エルフヘルムも退室していった。
「それではわたくしはこれで失礼いたします。父上。すぐに支度をしなければ」
セオドレドはセオデンの前で礼を取った。
「ついに、始まるのだな…」
苦いものをかみ締めたような表情でセオデンは深いため息をついた。
「エオメル、皆を頼んだぞ」
感慨に耽りたい思いはあったが、時間はそれを許してくれない。
セオドレドは最後の指示を従弟に出し、テーブルから離れた。
と、すぐ隣に軽い足音がついてきた。
…」
「お見送りを」
少女はセオドレドを見上げた。
大きな茶色の目には不安と緊張と恐怖がないまぜになっていた。
そんな彼女は初めて会った時から、ずいぶん大人びたように見える。
それは少女ががマークの女ならば誰でも持つ憂いを身につけてしまったからに他ならない。
屈託のない、子供のような笑みはもう消えてしまった。
それでも笑顔でいさせてやりたい。
そのためにも、この戦いを終わらせなければならなかった。





一気に高まった戦への緊張と熱気―。
誰もが躊躇せず、手馴れた様子で己が成すべきことをし始めていた。
それが戦装束をまとう事であっても。
戦場へ送り出す事であっても…。

は気持ちが重くならずにはいられなかった。
セオドレドはまた、行ってしまうのだ。
それも今度は大きな戦いになるのだろう。
恐ろしかった。
セオドレドが戻ってこなかったらと考えると、怖くて怖くて居ても立ってもいられなくなりそうだ。
行かないでほしいと、恥じも外聞もかなぐり捨てて叫んでしまいたい。
だが、それを言ってはいけないことも、は学んでいた。
総大将であるセオドレドが戦場に出ないなどありえない。
彼の存在が味方の士気を高まらせ、彼の存在が兵の拠り所となる。
彼の指示一つでマークの命運が決する。
彼の存在こそがマーク最大の砦となっているのだから。
にできることは祈る事だけだ。
そして、戻ってきたら労う事。
それだけだ。


館の入り口前で待っていると、装備を整えてきたセオドレドが足早に近づいてきた。
堂々たる体躯に、マーク特有の装飾を施された鎧はよく似合っている。
これで、死ぬかもしれない戦場に行くのでなければいつまででも見惚れていられるのに。
悲しい思いで、少女は葡萄酒を満たした杯を握りしめる。
困難の前には成功を願って飲む習慣があった。そのために用意しておいたものだ。
「フェルス・セオドレド…。フェルス…」
が差し出した杯を受け取って、セオドレドは飲み干した。
杯を返すながら、男は大きな体を曲げて少女の肩に額を埋め、じっとした。
は兜で覆われた頭に頬をする寄せる。
「ご無事で…。生きて還りませ」
「ああ…」
セオドレドは名残惜しそうに身を起こすと、の額に口付けた。
「これが終われば…結婚式ができるな」
冗談めかしたように言っても、さすがにいつもの快活さはなかった。
それでもは少し安堵し、小さく微笑みを浮かべた。
「行ってくる」
セオドレドは踵を返して出立準備でわきたつ城下へと向かっていった。
はすぐに追いかけ、入り口の外へ出る。
あちこちに焚かれたかがり火が、エドラスの町をぼんやりと照らしていた。
しかし、この明かりは騎士たちの旅路を照らしてくれない。
頼りの月は爪の先しか出ておらず、暗闇の中、彼らは行かなくてはならないのだ。


「フェルス・セオドレド…、フェルス・セオドレド…」
我知らず、は呟いていた。

フェルス。
フェルス。

恙無く行ってください。











セオドレドたちが出発して一時間後にはエルフヘルムの隊も出発した。
日が昇ると大勢の男たちがいなくなったエドラスは、がらんとした印象になった。
活気を失い、誰が禁じたわけでもないのに大声で話すものはめっきり減った。





三日が過ぎた早朝、北に配備していたエオメルの斥候が到着した。
斥候はすぐに広間に通される。
「…東壁からオークが下ってきたと?」
知らせを聞いたエオメルは、眉間に深いしわを刻んだ。
東壁はエドラスの北東にある切り立った崖のことである。
エミン・ムイルの西側に接しており、マークの東国境と言えた。
ここを下ればすぐにマークの平原が広がる。
「なぜ、そのようなところに?」
セオデンは腑に落ちないと疑問を示した。
場所柄、オークを見かけることがほとんどないのだ。
「目的は分かりませぬが、オークの中にはサルマンの白のバッチを身に帯びているものもおります」
斥候の言葉に、エオメルは顔を強張らせた。
「放っておかれればよろしいと思われますが、王よ。サルマンの手の者ならば、どの道西に向かうでしょう。あちらには、ご子息と多数の軍団が控えております。彼らに退治させるのがよろしいでしょう」
グリマがさも大したことでもない問題だとでもいうように奏上した。
セオデンはそれに頷く。
「だが…!」
エオメルは反射的に叫んだが、
「エオメル殿。殿のオーク嫌いはわたくしも充分存じ上げておりますが、もう少し状況というものを考えていただきたいものです。もし殿が出かけられるというのなら、この王館を守るものがいなくなってしまうのですよ」
蛇の舌に淡々と反論されてひるんだ。
「しかし…」
エオメルは強く頭を振った。
なんのために東壁などにオークがいたのか?
そこには間違いなくサルマンの意志が働いている。
東壁の向こうには何があった?
エオメルはこれまでにないほど頭を働かせた。
アンドゥインの流れが溜まった霧の湖がある。湖の水はそのうちラウロスの大瀑布を流れ落ち、海に向かう。
湖のさらに東はエミン・ムイルの東尾根。その先には沼地が広がっているはず。
さらにその先には…。
「モルドールだ!」
エオメルは叫んだ。
「何ですと?」
グリマはいぶかしむ。
「サルマンは暗黒の塔の主と同盟を結んだのではないか?でなければ、なぜ東壁などから…!」
「まさか。サルマンといえどバラド=ドゥアの内側に入り込む事ができるはずがない」
セオデンも否定した。
「いいえ、きっとそうです。陛下、私は参ります!」
さっと頭を下げるとエオメルは広間を後にしようとした。
「駄目だ、エオメル!」
セオデンが叫ぶ。
「そうですぞ、エオメル殿。西方に当面する危機がある時に、無益な追跡に兵を割いてはなりませんぞ!」
グリマは脅しつけるように叫んだ。
エオメルは歩みを止め、逡巡するように拳を握りしめた。
ややあって、ゆっくりと振り返る。
エオメルの正面には王セオデン。
彼の後ろには妹のエオウィンと将来の義姉たる
セオデンの脇にはグリマがいる。
エオメルは小さく息を吸うと、
「エオウィン」
妹を呼んだ。
「はい、エオメル」
「義姉(あね)上、
少女は固い表情でエオメルを見つめ返す。
どちらの肩を持つべきか、決めあぐねているようだった。
「後を頼む」
「エオメル!」
白の姫は絶望に叫んだ。
去ってゆくエオメルの背にセオデンの制止が飛ぶ。
「駄目だと言っておろう!エオメル!エオメル!」
しかし彼は歩みを止めない。
「エオメル!…ぐっ」
大声を出すこととなど久しいセオデンは、激しく咳き込んだ。
「伯父上!」
エオウィンはとっさに伯父の背をさすった。
グリマも王の具合をさも心配するように窺った。
そして、厳かに奏上する。
「王命に反するとは…。戻ってこられたら、それ相応の処分をしなくてはいけませんな」






あとがき   次へ   戻る   目次