わたしの前には、いつもあの人がいた。
この世界に来て、初めて目にした人。
生き方を教えてくれた人。
わたしを愛してくれた人。
金色の髪も笑った顔も、力強く明るい太陽のよう。
誰もが皆、あの人を好きで…。
そして、わたしもいつのまにか大好きになっていた。
あの人がいるから、この世界で生きたいと願った。
もう、叶わない。
セオドレドが、死んだ。
指輪と嘘と逆転
セオドレドからのプロポーズを受けた後、彼はに指輪を嵌めてほしいと言った。
それはセオドレドの祖母が嫁入りの時に持ってきたもので、金の輪に夏の海のように濃い青い石が飾られているものだった。
に結婚の申し込みをして早々、返事があったわけでもないのに渡した指輪であった。
少女にしてみれば、やっかいな贈り物でしかなかったのだが。
この世界では違うようなのだが、にとっては指輪というだけで他の装飾品と比べて意味深であった。身につけるわけにもいかないし、しまいっぱなしというのも具合が悪い。
間をとって(?)鎖に通して首から下げることにしたが、それを婚約の証として嵌めてほしいとセオドレドは言うのだ。
「ええ、そうですね」
もう断る理由はないからと、頬を染めて少女は答えた。
鎖を外し、指輪を取る。
そして一瞬動きが止まった。
(どの指にはめればいいのかしら……)
の意識としては左の薬指だが、マークには婚約時にしろ結婚時にしろ、指輪を嵌めるという習慣はないようなのだ。
どの指に嵌めればいいのだろうか。
どの指に嵌めてもいいのだろうか。
は困惑した。
「どうしたんだ?」
初々しく微笑んだ恋人が、非常に困ったように眉根を寄せたので、セオドレドはやはり故郷のことでも思い出してしまい、結婚をするのが嫌になったのかと不安になった。
「あの、セオドレド様。どの指にはめればいいのでしょうか……?」
は己の問いがセオドレドを失望させなければいいと思いながらも訊ねる。
セオドレドは思いもよらない質問に、思わず目を丸くした。
「どの指でも構わんよ。嵌めているということが大事なのであって、どの指かは問題ではないからな。まあ、そうだな……なにか作業をするときに邪魔にならない指にしたらよいのではないか?」
と、セオドレドはから指輪を取って、左手首をつかんだ。
少女は右利きだったので、左手の方がよいだろうと思ったのだ。
中指か薬指かで少し迷い、薬指の方にはめる…。
と。
「あ…」
「あら」
指輪はの指には大きかった。
「薬指では大きいようだな」
ははは、と笑って今度は中指に嵌めてみた。
しかし、中指でもやはり大きかった。
「これは…詰めなければどうしようもないようだな。そういえばモルウェン様は細身ではあったが、よりもずっと丈高い方だったからなあ」
どうしても大きくなるのだろうな、とぼやく。
「すまない、。しばらく時間をくれないか?直させるから…」
そのままでは嵌めているうちにすぐに落としてしまうだろうからと、は快く了承する。
今度は自分で指輪を外し、セオドレドに渡した。
そして、
「セオドレド様」
「ん?」
はおずおずと口を開いた。
セオドレドはそんな少女が可愛くて仕方がないという表情で見つめる。
「もし良かったら、なんですけど。嫌だったら無理にとはいいませんから」
「…?」
「その…わたしの国にもともとあった習慣というわけではないんですけど、でもいまでは普通に結婚式のときにやってることに指輪を交換する儀式があるんです」
「指輪の交換?」
「ええ。結婚指輪を男性が女性に嵌めて、女性からも男性に嵌めて、そして愛を誓うんです。外国の習慣で宗教も絡んでいましたし、わたしには縁がないと思っていたんですけど、憧れていたんです」
それをやりたい、ということのようだ。
そういえばはもとの国では神官の娘なのだと言っていたことをセオドレドは思い出した。
「ふむ」
セオドレドは指輪を見つめた。
幅は広めで蔓草のような模様がリングの部分に彫られている。
おそらくは、青い石が海を表し、模様はローハンを表しているのだろう。
祖母のモルウェンは海に程近いロスサールナッハの姫だったのだ。
「セオドレド様、無理にとは言いませんから、そんなに考え込まないでください」
呼びかけられて我に返る。
はセオドレドの袖を泣きそうな顔で握っていた。
男が黙っていた事で、少女は否だと思ったようなのだ。
「意匠はどうしようか?」
セオドレドはに笑いかける。
「え?」
きょとん、という音が聞こえそうなほど、は不思議そうな顔になった。
「対にしようか?それともそなたの意匠をなにか考えようか?」
片目をつむってみせると、男の真意に気付いた少女は一瞬にして表情を輝かせた。
指輪を交換するなら、セオドレドの分もなければいけない。
「いいんですか!?」
「無論だとも。…ああ、やはり、そなたの意匠を考えようか。そうすれば遠く離れていてもそなたがそばにいるように思えるからな」
話が終わるとすぐに、セオドレドは装飾細工職人を呼びよせ、形見の指輪を詰める事と新しく作ることの二つを注文した。
職人は二つ返事で引き受ける。
の指の大きさを測り、形見の指輪を借り受けて帰っていった。
その指輪は翌々日にはもう戻ってきたが、式の当日まではつけないことにしようと、ぶかぶかでないことだけを確かめてまた鎖に通して首から下げた。
新しい指輪のデザイン画はセオドレドに直接持ち込まれているので、はどのようなものかは知らなかった。
ただ、幸せだと思った。
そうして、早く戦争が終わればいいと感じていた。
そうすればセオドレドが戦場に向かうたびに、身を切られるような不安を覚えないで済むのだから。
知らせが届いたのは、セオドレオが出発して四日目のことだった。
エオメルが王命を振り切って飛び出した翌日のことである。
正午、埃と血に塗れた騎士が一人、エドラスに駆け込んできた。
早馬だと気付いた門番は、誰何することなく門を開けた。
聞かずとも、男が戦場からそのまま来た事は明らかだったのだ。
使者は消耗が激しく、一人では馬から下りることもできないほどだった。
馬の背に覆いかぶさるようにして倒れ、揺られている。
館では異変に気付いた近衛兵が、使者を迎えに麓に走った。
ある者は馬の手綱を取り、他の者は男をおろす。
「一体何があった!?」
ハマは男の顔を見、それがセオドレドの斥候の一人だと気付いた。
西での戦いに、まずいことが起きたようだ。
男の背には数本の矢が刺さっていた。
その太さからオークの使う矢だとすぐにわかった。
これには毒が塗ってあることがあり、また、塗っていなかったとしてもロヒアリムの使う弩(いしゆみ)よりも威力が大きいため、たった一本でも死にいたることがある。
使者の顔は土気色だった。
エドラスに向かう途中に襲われたのには間違いない。
ぜいぜいと荒い息を繰り返す使者に何があったのかと何度も尋ねる。
セオドレド…という言葉だけが僅かに使者の口からもれ聞こえた。
「若君がどうかされたのか?」
ハマは叫ぶ。
近衛隊長と使者の周りは西の戦況を案じる他の隊員たちで囲まれていた。
「西の谷からの使者が着いたそうだな」
人垣の向こうからじめついた声が届いた。
誰であるかを察した近衛兵は、気が進まないながらも道を開ける。
黒い服、青白い顔色にやぶ睨みの目。
蛇の舌と呼ばれるグリマである。
グリマは使者に近づき、抱えているハマに尋ねる。
「この男は何と?」
「消耗が激しく、上手く話せないようです。若君の名を呼ばれたが…」
「水を飲ませたか?」
「今取りに行かせている…。ああ、来たか」
近衛の一人が丁度よく割れた人垣の間を、桶を抱えて走ってきた。
水を飲んだ使者は意識がはっきりしたようで、ハマの顔を見分けるや、滂沱と泣き出した。
「おお、ハマ殿…。ハマ殿…。悲しい知らせを…告げねばならない。セオドレド様が…若君が、お亡くなりになられた…!」
「な…!」
驚愕が人垣の間を駆け抜ける。
使者は途切れ途切れに声を振り絞る。
「敵の数は多かった…。だが…やつらは…我々にひどい損害を与えるのではなく…若君の…一隊だけを狙って…突撃してきたのだ…。陛下に…お知らせしなければ…ぐぅっ」
使者は顔を歪めた。
矢が男の背に突き刺さっているのだ。すぐにでも取り除かねば、命が危ない。
「使者を広間の隣の小部屋へ運べ。セオデン王はまだ用意が整っておらぬ。私が付き添って、話を聞こう」
グリマは近衛兵を運ぶように命じた。
大広間の控え室とでも言うべきその場所は、長椅子がひとつあるだけの殺風景な部屋である。
そこに使者をうつぶせに寝かせると、グリマは腰にぶら下げている鍵を取り出した。
じゃらりと鳴る鍵束から一つを外す。
「ハマ殿」
「何か?」
不審がるハマを意に介さず、グリマは鍵を渡す。
「ワインを飲めばもう少し気分は良くなるだろう。持ってきてはもらえませんかな?」
「……」
なぜ私が、という表情でハマはグリマを見据える。
王家に忠実なハマにとって、陛下を骨抜きにし、セオドレドを、エオメルを、エオウィンを悩ませるこの男は憎んでも憎み足りない敵だった。
しかし、今は非常時だ。
ハマは苛立たしい思いを押し堪えて、グリマから鍵を受け取った。
ここしばらくグリマは大人しかった。それにいまこの時におかしな真似はすまい。
そう思い直して、彼は小部屋を出て行った。
「すぐに戻る」
「ええ」
グリマはハマに目礼を送ると、使者の前に跪いた。
「さて、報告の続きを聞こうか。戦況はどうなっている?エドラスに求めるものがあるのか?」
小部屋の中には瀕死の使者とグリマが二人きりだった。
使者は顔を上げる気力もないようで、だらりと四肢を伸ばしたままだが、一刻を争うという焦りがあるのだろう。目だけはぎらぎらと光っている。
「エルフヘルム殿がよもや間に合わなかったとは思わんが、どうなのだ?」
グリマは辛抱強く訊ねた。
「エルフヘルム殿は…間に合われた。だが…あの方が到着した時には…若君はもう…。敵の数が予想以上に多く…我らは急ぎ撤退を始めた…。だが、殿(しんがり)を務めていた…グリムボルド殿を援護するため…浅瀬の…中ノ島に留まっておられたのだ…。そこに凄まじい速さでサルマンの軍が…。我らは敵が倒す以上に…敵を倒した。だが…奴らは同士がどれほど討たれようと…やみくもに突き進んできたのだ…。囲まれた若君の下へ…グリムボルド殿が血路を開いたが…丁度そのときに若君はオークに…。敵は多く…エルフヘルム殿が駆けつけてくださらなければ…グリムボルド殿も…殺されていただろう…。そしてあの誉れ高きエオルの家の子の死体は…汚されていたことだろう…。エルフヘルム殿の隊が敵を駆逐した時…わずかながら若君には息があった…。ああ、どうか…間違いなく陛下にお伝えしてくれ…。若君は…最後にこう言って…おられた…。『ここに私を寝かせておいてくれ――。エオメルが来るまで浅瀬を確保するために』と」
使者はそこで身体を大きく震わせた。
「若君は本当にお亡くなりになられたのか?確かめたのか?」
グリマは使者に顔を近付ける。
どんな言葉も聞き逃さないようにと耳をそばだてた。
「お亡くなりになられたのは…間違いない」
グリマは大きく息を吐いた。
陰気な顔にはそこはかとない満足が浮かんでいる。
だが、使者は気付かなかった。
「使者として遣わされたのはお前だけか?」
「いいや…。五人いた…。だが途中でオークに襲われて…。残ったのは…私だけ…」
「そうか」
グリマは慎重に頷く。
「それで?他に伝えるべき事はあるか?」
そして先を促した。
心なしか、喜びが混じっているようだった。
「指揮は…エルケンブランド殿が…引き継がれた。卿からの言伝がある…。『ここ西方をエドラスの守りとなしたまえ。エドラス自体が包囲されるまで座して待たれぬように』と。卿の要請は…エオメル殿と割けるだけの援軍を送ってほしいということだ…。エオメル殿は…いらっしゃるのだろう?なぜ…駆けつけてくださらないのだ…?」
使者はひどく重たいもののように頭を持ち上げようとした。
戦場からの使者が到着して、最後の軍団長が―老いて戦えない者ではなく、死んでもいない、唯一の軍団長がいつまでたっても来ないことに不安を感じていた。
グリマはそんな使者に冷たく言い放った。
「エオメル殿はおらぬ」
使者の目は絶望に見開かれる。
「そ…んな。…なぜ…!」
振り絞るような悲鳴に、グリマは目を細めた。
「王命を無視して重要ではない地へオーク狩りに出かけた。戻ってくるには数日かかるだろう」
「…そんな……!」
使者の目から涙が零れ落ちる。
グリマは嗚咽する使者の様子を少しも意に介さず再度訊ねる。
「他に知らせるべき事は?」
使者は言葉もなく首を左右に振り、力なく頭を下ろした。
「そうか…」
グリマはそっと使者から離れると、外の様子を窺うように扉に耳を当てた。
そして音を立てずにまた使者のそばに戻り、そでの先を丸めて使者の口に押し込んだ。
「…ぅ!?」
突然のことに使者は身を捩った。
だが重症の身では力が入らない。
グリマは使者の背にささった矢をつかむと、力を込めて突き刺していった。
「…っ!……っ!」
使者は空しくもがき…すぐに息絶えた。
「…っはあっ」
グリマは緊張と滅多にしない力仕事から滲んできた汗を拭うと、袖を外し、矢を刺さっていた深さまで引き戻した。
不自然な血は拭い、使者から離れる。
ハマが戻ってきたのは、それから少ししてからのことだった。
沈痛そうに顔を伏せ、「彼は死んだ」と伝えた。
どうせ後一日ももたなかっただろうと心の中で付け加えて。
それからの宮廷ほどグリマの胸を爽快にしてくれたものはなかった。
セオドレドの死を伝えると、セオデンは泣き崩れ、エオウィンは蒼白になった。
後者の方はあまり良い気分ではなかったが。
セオドレドの婚約者である魔女は何度も本当なのかと繰り返したが、使者の知らせを聞いたのは自分だけではないと言い返した。
ハマと近衛隊が確かに聞いたことを証言すると呆然となった。
身体を支えられなくなったようで、ふらりと膝をつく。
頭を打つ前に近くにいた騎士が娘の肩をつかんだ。
そしてそのまま抱えられ、部屋に連れて行かれた。
突然現れ、散々自分の邪魔をした娘であるが、これでセオドレドともども『退場』になるだろう。
敵意と屈辱と憎悪に塗れながらも、雌伏していた甲斐があったというものだ。
愉悦が、腹の奥底から湧いてくる。
セオドレドがいなくなった今、もうローハンを立て直すことはできない。
エオメルなど問題にはならない。
若くて経験が足りないというだけでなく、エオメルはさほど頭の切れる男ではないからだ。
直情径行に過ぎるのだ。
今も王命無視という絶好の口実がある。
戻ってきたら牢に放り込んでやればよい。
しかしグリマはこれらの思いをすべて隠し、悲しげな顔で使者の伝言を続ける。
指揮はエルケンブランドが引き継いだこと。
そして、
「エルケンブランド殿からの言伝は、『ここ西方をエドラスの守りとなしたまえ』と。指揮はエルケンブランド殿が引き継がれました。決着が着くまでは、もうしばらくかかりましょう」
以上でございますとグリマが言い終わると、エドラス唯一の戦力となってしまった近衛隊から声があがった。
「援軍は送らなくても良いのか!?」
「そのような伝言はありませんでした。もとより、西には現在送れるだけの兵がおります。そしてエオメル殿が出奔された今、送ろうにも送れる兵はここにはおりませんぞ。それとも近衛隊が参るのですかな?エドラスを丸裸にして?」
グリマの指摘に、近衛兵は黙った。
兵がいない。
それは動かしようがない現実であった。
グリマはエルケンブランドの要望と伝言の残りは意図的に伝えなかった。
使者はすでに死亡しており、その事を指摘できる者はどこにもいない。
ただ絶望だけがエドラスに伝えられたのだ。
マークは崩壊する。
その場にいる者は全てそう感じていた。
不安と恐怖と共に。
だが、ただ一人グリマだけは、暗い喜びと共に。
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