(どうしてサルマンがあんなところに…?)
自分の見たものが信じられなかった。
は呆然として力なく手を下ろす。
あの魔法使いは堅固なオルサンクの中にいるとばかり思っていた。
そうして集めた手勢でもって、数に任せてセオドレドを襲った。
自分は高みの見物をしながら…。
そう思っていたのだが、道らしい道もないエント森にいたのが紛れもなくサルマンだとしたら、一体何の用があってあんなところにいたのだろうか。
(ううん、そんなことどうでもいい!)
は下ろした手を無意識に握りしめていた。
(セオドレドを殺した張本人が塔から出ている…。目と鼻の先にいたんだ。あそこにいたのがわたしだったら良かったのに!そうしたら、そうしたら…)
最初の衝撃が薄れると、変わって溢れたのは怒りだった。
どす黒いものが彼女の思考を支配し、四肢がそれに応えようと震える。
息をするたびに少女の小柄な肩は大きく上下した。
震えが絶頂に達した時、彼女の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
(魔法使いは殺したら死ぬのかしら)
冴え冴えとした冷静さがを覆った。
しかしそれは混乱した意思ともつれた感情が渦巻いている上に薄板を一枚張ったようなものだった。
そうして作られた冷静さは、いつもの彼女の冷静さとは全く異なるものだった。
なぜなら彼女の中の理性は薄板の下にいて、無理だと声を限りに叫んでいるからだ。
今の彼女の冷静さは理性を伴わないそれだった。
だがは気付かない。
その声は上には届いていないのだから。
(魔法使いだって、殺せば死ぬよね?)
はすっくと立ち上がり、乱れた髪も整えずに部屋を飛び出していった。
崩壊
「ふう…」
無意識にため息をついていたことに気付き、エオウィンは唇に指を当てた。
一体、何度目だろう。
王の息子であり、自分にとっては従兄にあたるセオドレドが死んだと知らされて二日。
いまでも信じられない気持ちで一杯だった。
だが、こんな時に嘘の報告が届けられるわけがない。
ということは、やはりセオドレドは殺されたのだ。
「…はぁ」
堂々巡りを繰り返したのも、これで何度目か。
密やかなため息は、誰にも聞かれる事はないだろう。
黄金館はこれまでにないほど静まり返っていた。
広間には誰もいない。
それは夜になると殊更に侘しさを増した。
兵のあらかたが出払い、残っていた者も兄が連れて行ってしまった。
世話を焼くべき男たちがいないとあっては、エオウィンがするべきことはほとんどなくなる。
こんな時にこそ、なにかするべきことが欲しかった。
自室に一人でいると、恐ろしい思いが尽きることなくあふれ出し、居ても立ってもいられなくなる。
自分が世界にただ一人取り残されてしまったような錯覚がエオウィンを苛むのだ。
そして悪夢の一端は現実のものとなった。
「セオドレド…」
従兄はもういない。
そして兄もこの場にはいない。
エオメルはいつものオーク狩りに行っただけだが、本当はそれすらもエオウィンには耐え難いことだった。
エオウィンの父はその『ただのオーク狩り』に行って死んだのだから。
「…あ」
涙が滲んできて、エオウィンはそっと袖で目元を押さえた。
軽い足音が近づいてきた。
エオウィンはさりげなく威儀を正す。
王家の姫としての矜持が、人前で涙する事を拒むのだ。
民の心の縁となるのが王家の務め。
自分が泣くのは、最後の最後だ…。
エオウィンはいつもそう言い聞かせてきた。
足音は広間の前から遠ざかる。
そのことにほっとしながらも、いぶかしく思った。
軽い足音は女のものだと思えたが、全速力で走っているようなのだ。
そんな無作法な女はこの館にはいなかったはずだが。
エオウィンは足音が去った方へ向かった。
誰もいない。
「変ね?」
気のせいだったのかと思った途端、厩の方が騒がしくなった。
エオウィンは咄嗟に走り出す。
夜の闇の中に白いドレスと金色の馬体が浮かび上がっていた。
厩から自分の馬を引き連れたが鬼気迫る迫力で足早に歩いているところだった。
「どうしたのです、このような時間に」
両脇には近衛隊が付き従っているが、どうやら少女を止めようとしているらしい。
一人は乱暴にならない程度にの肩をつかみ、もう一人はブレードの胴を押さえつけている。
しかしは不愉快そうに跳ね除けるだけだ。
と、後ろから太い腕が突き出され、少女の身体は宙に浮いた。
「やっ、離して!」
ハマが隙を見て彼女を羽交い絞めにしたのだ。
少女は足をバタつかせるが、がっちりと両肩を吊り上げられているので、その抵抗は空しいものだった。
「姫様、落ち着かれなさい!」
耳元で怒鳴られての身体がびくんと跳ねた。
しかし、
「邪魔をしないで!サルマンが外に出てるのに!護衛もなにもつけてないの!今がチャンスなのよ!」
怒鳴り返されてハマは目を白黒させた。
「一体、何が…?」
ハマは助けを求めるようにエオウィンを見つめた。
成り行きを呆気に取られながら見ていたエオウィンは我に返ると、のそばに駆け寄った。
「、一体何があったの?落ち着いて話してみて。ね?」
「時間がないの、戻ってしまう前に着かなくちゃ。お願いエオウィン、行かせて頂戴」
エオウィンが優しく語りかけたためか、の語調も柔らかくなった。
しかしその表情はどこか熱に浮かされているようで、瞳は虚ろだった。
ほとんど眠っていないのだろう、大きな目の下には隈が出来ており、それが彼女を余計にやつれたように見せていた。
エオウィンは少女の変化がどこからきたものかを察すると、哀れみを感じて目を伏せた。
だが、
(わたくしが泣くのは、最後の最後…)
エオウィンは言い聞かせると目を上げて少女を見据えた。
「こんな時刻に女が一人で外へ出るなんて無茶です。だけどよんどころのないことが起きたのは、あなたを見ればわかります。お話によっては護衛をつけましょう。ですから、理由を話して頂戴」
諄々と諭すとは大人しくなった。
「…エント森にサルマンがいたの」
「エント森?どうしてそんなことがわかるの?」
「エオメル様を探してて…」
「あ、ああ…。聞いているわ。エオメルはそんなところまでオークを追っていったの?」
エオメルの捜索については、ハマは先にエオウィンに断りを入れてからに要請しに行ったのだ。
こんな時にそれもどうかと思ったが、が承諾したら構わないだろうと、答えたのだ。
そして彼女は魔法を使ったと聞いていた。
「森の中までは入っていないの。森の手前で戦って…。全部退治したそうです。そうだ、伝言を伝えたって、言ってませんでしたね。エオメル様は明日の夜には戻れるそうです」
「そう…。会えたのね」
エオウィンは安堵の息を吐いた。
「わたしが森の中に入ったのは、別の用事でなの。エオメル様を探している途中で旅人に会って、仲間が攫われたと言っていたんです。その人たちが追っていたのオークはエオメル様が追っていたオークと同じ方向へ進んでいた。同じオークの一隊だったの。それで、その事も伝えないといけないと思って先を急いで…」
「それで、攫われた旅人がいたの?まさか、エオメル…」
オークと一緒に殺してしまったのではと思っていると、は左右に小さく首を振った。
「大丈夫です。なんとか巻き込まれなかったみたい。戦いが終わった時にはわからなかったけど、討ち取ったオークの中にそれらしい旅人はいなかったって言われて、それなら森に逃げたのかもしれないわねって話して。エオメル様たちにはそこまでする時間はなかったから、わたしが行ったんです。そして旅人はいたのよ。ただ…」
「ただ?」
「木みたいな肌をした巨人に保護されていました。最初は捕まっているのかと思ったけど。この世界って、ずいぶん色々な種族がいるんですね」
話しながらはゆっくりと瞬きをした。
整理しながら話している間に、理知的な光がその目に戻ってきた。
エオウィンはの話の内容に、驚愕して目を見開く。
「、その巨人というのは、恐らくエントのことよ。子供のときに昔話として聞かされたけれど…。まさか、本当にいたなんて」
は小さく微笑んだ。
いつもなら愛らしくあるのだが、頬が削げた状態では痛々しさが増して見える。
「エントがいるからエント森なんですね。わかりやすいわ。それで、今夜はエントの家に泊まるようだったから、一度戻ってお仲間に教えようと思って、戻ったんです。そうしたら…」
最後の方になるときゅっと唇を噛む。
「森を出る前に、鷲が消えたの。直前に見えたのは、サルマンだった。ちらっとだけだったけど、間違いないわ、あの顔…忘れられるわけがないもの!」
興奮がぶり返したようには叫んだ。
「消えたって…どういうこと?」
「言葉通りの意味です。わたしの式は鷲の形をしていようとその他の形をしていようと、本物の生き物じゃないから、切られようが射られようが血は出ないの。あんまり無茶苦茶にやられれば形を保つ事もできなくなるけど、そうでなければ形はそのままよ。羽が切られても、頭が無事ならものは見えるし音も聞こえる。だけどあの時は一気に消えてしまった」
「攻撃されたというの?…だけど、どうして?見かけは普通なのでしょう?」
「多分、わたしの力を感じ取ったのだと思う。サルマンに会ったときに色々と『読まれた』から…」
その言葉を聞いてエオウィンは背中に冷たいものが走った。
当たり前のように魔法を扱うを急に恐ろしく感じたのだ。
姿かたちに多少の違いはあっても人間同士だと思っていたのだが、突然得体の知れない存在のように思えてきた。
それも、自分たちの敵側に近いものとして。
セオドレドは恐ろしくなかったのだろうか。
本当ならば目が届くはずのないところの景色を見、聞こえるはずのない音を聞くこの少女を。
しかしエオウィンはそのようなことはおくびにも出さずに話を続けた。
ここでエオウィンがを怖がってしまえば、民にもそれが伝染してしまうから。
そしてそれは、彼女を傷つけてしまうから。
「そうだとしたら、サルマンはどうしてエント森に…?それは、エント森とアイゼンガルドは隣り合っているようなものですけど…」
「わかりません。でも、サルマンがそこにいるのは確かだわ。塔の中にいないのなら、ずいぶんとやりやすくなるでしょう?今がチャンスなの。お願い、もういいでしょう?行かせてちょうだい」
エオウィンはの真意を悟る。
彼女は死ぬ覚悟でセオドレドの敵をとりに行こうとしているのだ。
「駄目よ、そんなことはさせられない。返り討ちに遭うだけだわ!一人でなんて…」
「行きたいの。行かせて」
小刻みにエオウィンは首を振る。
「駄目よ。そんなことをして、セオドレドが喜ぶと思っているの!?」
「思うわけないじゃない!」
思いのほか強い調子で否定されて、エオウィンは気圧された。
「わかってるわよ、馬鹿なことをしてるって!でも嫌なの。決着が着くまでただ待っているだけなんて」
は泣きそうな顔になった。
「エオウィン、わたしは戦争の作法なんて知らないけど、でも、今の戦いは頭を潰せば決着が着く類のものでしょう?敵は魔法使いよ。そしてわたしは魔女。だから…わたしが行く」
理屈になっているとはいえないが、否定できない迫力があった。
しかしは止めなければならない。あまりにも無謀すぎる。
エオウィンは助言を求めてハマを見上げる。
少女を抱えている近衛隊長は、ほとほと困り果てたという顔になった。
「確かにサルマンを倒せれば、後は烏合の衆ですからね、戦いは楽になるでしょう」
慎重に言葉を選んでハマは答えた。
「ですが、わたくしはあなたにそれをしてほしいとは思いませぬよ」
は身体を捩って、ハマを見上げた。
「睨んでも駄目です。第一、荷物も持たずに飛び出して、一体どうなるというのです。エント森は一日では到着しませんし、森の中に入るのならまた別の準備が必要です。少なくとも、そのことに思い当たらないような状態のあなたを野放しにするなど出来ませぬ」
「…荷物は準備するわ」
ハマは首を振った。
「今の姫様はただ自棄になっておられるだけです。お部屋に戻ってお休みください。…無理強いをして、申し訳ありませんでした」
ハマは兵に命じての手から手綱を外させ、ブレードを厩に戻すよう命じた。
少女はうな垂れて、されるがままになっている。
ハマと並んでエオウィンもに付き添った。
周囲には騒ぎを聞きつけてきた近衛と女官が幾人か集まっていたが、その一番後方にグリマの姿があった。
エオウィンは不快感を込めて目を逸らした。
こんな心騒ぐ時に会いたい人物ではない。
の部屋へ入ると、そこはいつもの彼女からは信じられないほど乱雑になっていた。
寝台のシーツは乱れ、一部が床にずり落ちている。
テーブルの上には何やら書き散らかされた羊皮紙と、蓋が開いたままのインク壷、羽ペンなどが無造作に置かれ、夜だというのに窓は開いたままだ。
「…少し、片付けた方がよろしいわね」
エオウィンが呟くと、すぐに侍女を呼んだ。
「羽ペンと羊皮紙はすべて持っていったほうがよろしいでしょう」
ハマは侍女の邪魔にならないようにを抱えたまま移動した。
その際に、下から両腕を抱えるという不自然な体勢から横抱きに変えた。
を地面におろしたら、また外へ向かうのではないかと危惧しているようだった。
「なぜです?」
「レオフォスト姫の魔法は、紙になにやら書き付ける必要があるのです。いまの姫様に魔法は使わせるのは、負担でしかありますまい。あのようなことが起こると知っていたら、エオメル様を探してほしいなどとは言いませんでしたのに」
ハマは悔やむように声を絞り出す。
サルマンが森にいたというのは、にとって相当の衝撃だったことだろう。
オークは憎いが、セオドレド殺害を命じたのは紛れもなくかの魔法使いだからだ。
サルマンこそが真の敵だ。
その想いがあるところに、当の本人が目の前に現れたら無謀な行動にでるのも理解できる。
しかしエント森にサルマンがいたというのは、ハマにとっても解せないことだった。
エルケンブランドが建て直しを図っているだろうが、サルマン軍はセオドレドという王の世継であり軍団長でもある者を討ち取ったのだ。
戦力に余裕があればさらに第二、第三の攻撃を加えるはず。
それをせずに―いや、しているのかもしれないのだ。エドラスに報告が届いていないというだけで―敵軍の総大将が一人で歩き回っている。
全くもって不可解だ。
「一体、何が狙いなのか…」
ハマの呟きに、エオウィンも同意した。
部屋の片付けが済むとハマはを侍女に預けて自分はすぐ外で控えていた。
寝かせるためには着替えさせなければならないが、もし少女が飛び出してきてもすぐに抑えられるようにするためだ。
その間に部下を呼びにやり、の部屋の前の見張りを交代ですることに決めた。
何か危ない事をしでかすのではないかと心配なのだ。
あの少女は自分を見失っている。
そしてそれは自分にも原因の一端があるのだ。
とはいえ、そのことにばかり気を取られることはできなかった。
明日の晩、エオメルが帰ってくる。
おそらくはセオドレドの死を伝えられなかっただろう。
仲のいい兄弟だった彼はそのことを知ったらどれほど悲しむか…。
しかしそれ以上に戦士である彼は、己の使命を全うするために動き出すだろう。
要請はなくとも、全軍を召集して西に向かうかもしれない。
新たな戦いの予感に、ハマは身震いをした。
次の日はひどく時間が過ぎるのが遅く感じられた。
何も考えたくないと、手の空いた時間は刺繍に精を出して時間を潰していたエオウィンだったが、エオメルの帰還が告げられると、それらを放り出して出迎えに行った。
いつも兄たちが帰ってくるのは嬉しかったが、この日ほどエオメルが戻ってきたのが頼もしく思えたことはない。
館の入り口から騎士たちが近づいてくるのを眺めると、ここ数日の心痛が晴れてくるようだった。
騎馬隊が蹄の音を轟かせながら城門をくぐる。
そこで馬の足並みは緩やかになり、一列になって上を目指した。
そこから先は馬から下りて手綱を引くものあり、歩かせるものありと、ばらばらだ。
エオウィンは愛馬の手綱を預けて館に向かってきた兄に、駆け寄って抱きついた。
「お帰りなさいませ、兄上!」
「うおっと」
エオメルは驚きながらもエオウィンをしっかり抱えた。
「いま戻った、エオウィン。…どうした?泣きそうだな。腹でも痛いのか?」
「兄上!」
茶化したような物言いに、エオウィンは膨れた。
エオメルは笑って誤魔化したが、すぐに考え深げな表情になる。
「…兄上?」
その様子にエオウィンは不安を感じた。
はセオドレドの死を伝えられなかっただろうとハマは言っていたが、そうではなかったのだろうか。
「なんでもない。それよりも伯父上に会えるだろうか。すぐにもご報告しなければならないことがあるんだ」
「ええ、わかりました」
「それからにも立ち会うように伝えてくれ。無関係ではないのだから」
「兄上、は…」
「ん?」
エオウィンは一瞬言い淀んだ。
やはりエオメルは知らないのだろう。
ならば身内から知らせた方が良い。
エオウィンは心を決めると、兄を見上げた。
「エオメル、よく聞いてください。…セオドレドが、亡くなりました」
「な…に?」
エオメルは何を言われたのかわからないというように、聞き返す。
しかしすぐに顔に赤みが差し、感情を爆発させてエオウィンに詰め寄った。
「まさか!どうして!?セオドレドほどの者がやられるなど…!一体いつ!?どうして!?まさか…」
エオメルの手がエオウィンの肩に食い込む。
容赦のない痛みに、彼女は顔をしかめた。
「まさか…」
エオメルの顔は蒼白だった。
「セオドレドまで…?」
エオウィンは小さく呟かれた兄の言葉を聞き逃さなかった。
「までって、どういうことです、エオメル。他にも誰か…?」
「エオメル様、お帰りなさいませ」
問いただそうとしたその時、粘ついた声が割り込んできた。
グリマが恭しく頭を下げている。
「早速ですが、陛下がこの度のオーク討伐の報告を聞きたいと仰せです。すぐに大広間へお向かいください」
「…ずいぶん手回しがいいな」
値踏みをするような上目遣いに苛立ちを覚えたエオメルは、皮肉るように答えた。
エオウィンから離れ、グリマと対峙するように立つ。
だがグリマはさらりと受け流した。
エオウィンははっとしてエオメルを見上げた。
たしかグリマはエオメルを処分すると言っていた。
王の命に背いた罪でだ。
まさか、本当に実行に移すつもりなのだろうか。こんな時に?
「それほどでも。エオレドの帰還は遠くからでもわかります故」
エオメルの攻撃的な眼差しに晒されてもグリマは動じない。
却って今の状態を面白がっているようだった。
「セオドレドが死んだと?」
エオメルは射るようにグリマを見下ろす。
二人のやりとりをエオウィンははらはらしながら眺めた。
「左様でございます。陛下はもちろんのこと、レオフォスト姫君におかれましては、心痛のあまりおかしくなられてしまったほどで」
エオメルの眉がピクリと動いた。
「報告はいつ届いた?」
「エオメル様が出て行かれた翌日の朝でございます」
「朝…だと?」
「はい」
エオメルの拳がぶるぶると震えた。
のことを怒っているのだろうか。
いや、彼女の心境を思えば、それは酷というものだ。
それよりもエオメル自身に危険が迫っているということを、どうにかして知らせたい。
しかしエオウィンの切実な想いは裏切られた。
エオメルは肩を怒らせて先に中へ入ってしまったのだ。
にわかに取り戻した希望が途端に萎んでゆくのをエオウィンは感じた。
広間に足を踏み入れたエオメルは、あまりの静かさに驚愕した。
玉座にセオデン、そして数名の近衛兵がいる他は誰もいない。
エオメルを追い越してグリマが王の足元に、エオウィンが後方に控えると、それで全員だった。たった四日留守にしただけで、信じられないほど変わってしまった。
滅んだ王宮。
エオメルの頭にそんな言葉が浮かんだ。
すぐさま打ち消したが、内心の動揺は計り知れないものだった。
に対して抱いていた怒りも消えた。
セオドレドを失った彼女がどれほど嘆いたか。
それでも自分を探すために力を振るったのだ。
責められるべきは自分だ。
自分がエドラスに残っていたら、すぐさま援軍を率いて西へ駆けつけられたのだ。
「よく戻った、エオメル。そなたが勝手に飛び出したことについてはひとまず問わずに置こう。まずは報告を聞かせてもらおうか」
息子を亡くした悲しみから、セオデンはまた弱弱しくなったように見えた。
エオメルは一度目を伏せると、顔を上げた。
オーク討伐の顛末を話し終えると、すかさずグリマが問いただしてきた。
「殿は途中で旅人に会ったと言っていたが、その者たちには貴殿も会ったのですかな?」
「会った。の言うとおり三人いた。人間とエルフ、それにドワーフだ」
グリマは厚ぼったいまぶたを見開く。
「なんと、エルフにドワーフと?して、その者どもはどこにいるのです。旅人がマークを勝手に歩き回るなど許される事ではございませぬ。まずは陛下のご許可を得なければ。当然、連れてきていらっしゃるのでしょうなあ?」
エオメルはグリマを見据えて首を振った。
「いいや」
「なんと。旅人に会いながらも、勝手に歩き回るのを黙認されたというのですかな?」
「彼らは連れ去られた仲間を探していた。それは一刻を争うことだと判断して、私は彼らを連れてこなかった。我らが討ち取ったオークの中には旅人の影は見当たらなかったが、気の済むまで探させようと思ったのだ。それに、捜索が済んだらエドラスに来ると約束してくれた」
「そのような約束…」
「一行の先導者はアラソルンの息子アラゴルンと名乗った。彼は信用できる人間のように見えた。だからこそ私は徒歩の彼らに主を失った馬を二頭貸し与えたのだ」
吐き棄てたように言いかけたグリマの言葉を遮って、エオメルは話を続けた。
「な…!」
グリマはあんぐりと口を開けた。
「馬を旅人に与えたですと?」
「非常の際だ。それに、事の善悪というものは、今と昔で変わるものではない。彼は信用ができる人間だ。それでも納得がいかないというのならば、旅人たちが私との約束を破ってここにこなかったと断ずるしかないほどの日数が経ってから言うがいい」
エオメルは断言する。
から聞いていたとはいえ、本当に草原の真っ只中に旅人を見つけたときには、ひどく驚いたものだった。
しかしアラゴルンと名乗った男は、薄汚れた格好ながらも威厳を感じるところがあった。
それがエオメルを強く惹きつけたのだ。
ただし、エルフとドワーフに関しては完全に信用したわけではなかったのだが。
「アラゴルン殿は裂け谷から参ったとのこと。一行の中には帰郷をするためにボロミア殿も加わっておりました。しかし彼らの旅の道連れの中には別の目的を持つ一団があり、そのことは詳しくは教えてもらえませんでしたが、そのための統率者はガンダルフでした」
「なんと、ボロミア殿の一行か。しかし、ガンダルフも一緒とは…」
セオデンは顔をしかめる。
ボロミアはともかく、ガンダルフの名は相変わらず禁句なのだとエオメルは思った。
「しかし、彼らの旅路は困難を極めたものとなったようです。彼らは霧ふり山脈に沿って南下し、モリアを通り抜けました。しかしガンダルフだけは再び外へ出ることができなかったと」
「…ガンダルフは死んだのか?」
半信半疑といった面持ちでセオデンが訊ねる。
「彼はモリアの坑道に落ちたのだそうです。そこは地の底まで続くほど深いと聞き及んでおります。いくら魔法使いといえど…」
「そうか」
伯父がたいして同情を覚えている様子でもないことに、エオメルは軽い失望を感じた。
そういう反応をするかもしれないと思ってはいたが、実際に目にするとそれは一層辛い事だった。
エオメル自身にとって、灰色の魔法使いの死は悲しいことだったから。
「モリアを抜けた一行は、アラゴルン殿を新たな先導者として旅を続けました。そしてドウィモルデーネを通り、アンドゥインを下ってラウロスの大瀑布までたどり着きました。しかし、今度はそこでオークと戦闘になり、ボロミア殿が討ち死にしたのです。」
セオデンは叫んだ。
「なんということだ。セオドレドのみならず、ボロミア殿まで殺されたとは!一体それはいつのことなのだ!?」
「四日前のことだと…」
口にした途端、エオメルは気分が沈んでいった。
ボロミアが死んだのは四日前、セオドレドが死んだのも、逆算すれば同じかその前日くらいだろう。
ローハンもゴンドールも戦争が激化してきている。
その最中に両国の世継がそろって失われたのだ。
損失は計り知れない。
顎に手をかけていたセオデンは深いため息をついた。
エオメルは畏まって伯父を見つめる。
「陛下。わたくしがアラゴルン殿から聞き及んだ事は以上でございます。そしてこれからのことでございますが、お許しいただけますれば、すぐにも兵を集めたく存じます。マーク全軍を召集いたしましょう。そして彼らを西に向かわせるのです。わたくしは近隣に住む武器を持ち馬に乗る事のできるものを集めて一足先に参ります」
「なんということを言われるのです、エオメル殿!」
答えたのはグリマだった。
「陛下、このようなことを申し上げる事は大変心が痛むことでございますが、エオメル殿にあまりご信任を置かぬほうがよろしゅうございます。エオメル殿は大変戦好きな方。この方に委ねてしまえばマークはさらに大きな戦火を呼び寄せてしまうでしょう。今も申していたではありませぬか。エオメル様は一兵残らず兵を取り上げてしまうおつもりですぞ。この偉大なる王城からも!」
「…うむ」
セオデンが頷く。
エオメルは蒼白になった。
また王はグリマの言いなりになっているのだ。
「陛下!グリマに騙されてはなりませぬ。今この時に兵を集めねば手遅れになってしまいますぞ!わたくしは遊びで戦をしているのではありませぬ!ローハンの危機なのです。それがお分かりになりませぬか!?」
叫ぶエオメルの前でグリマは王に耳打ちした。
しかしそれはエオメルに耳にも聞こえるようにしているのだ。
「お許しになってはなりません。よくお考えください。そもエオメル殿は王命に反して出奔しただけではなく、国法に背いて旅人を見逃しました。さらには、国の宝である馬まで与えた。このように罪を重ねたものが軍団の長であるなど、許されることではありません。」
「やはり、そう思うか…?」
セオデンは自信ない口ぶりで相談役に尋ねる。
「はい」
一方、グリマは自信たっぷりに肯定した。
そして立ち上がり、皆に向かって声高に主張した。
「罪あるものは軍団長にはふさわしくありません。エオメル様が指揮権を持つとしたら、それは罪を償ってからのことです」
相談役の言わんとするところを察して、セオデンが呟く。
「謹慎か?」
「生温うございます。エオメル様はかねてより身勝手な振る舞いが多うございました。この上はしばらく牢屋に入っていただくのがよろしいかと」
「何だと…!」
「お待ちください!」
食って掛かろうとしたエオメルの声はエオウィンの悲鳴のような声にかき消された。
「陛下、兄のしたことは確かに罪と呼ばれるものでしょう。ですが、今この時に軍団長の地位にあるものを牢屋に入れることが賢明とは思われません。どうかお考え直しくださいませ」
エオウィンは膝をついてセオデンの左手に両手を乗せた。
王を見上げる顔は心配のあまり真っ白になっている。
「お願いいたします。どうか、ご厚情を…」
しかし口を開いたのはグリマだった。
「兄君を思うそのお気持ちはよくわかります。しかし法とは上に立つものが守らねば下の者に示しがつかぬと思われませんか?それに姫。軍事も政治も男の領域です。お口出しはどうか無用に願います」
エオウィンはきっとグリマを睨みつけた。
エオメルは爆発しそうな怒りを抑えて、王に言い募った。
グリマを相手にしていては、どんどん事態が悪化するだけだと察したのだ。
「陛下。わたくしが咎人であることは承知しております。しかしいま軍団長がいなくてなったらマークはどうなりましょう。此度の一件が終わった後に謹慎でも牢屋入りでもいたしましょうから、どうかわたくしを戦場にお遣わしください!」
「なりません、陛下。罪を償うことが先決でございます」
グリマはすぐに跳ね除ける。
エオメルは血が滲むほど拳を握りしめた。
痛む手の平が辛うじてエオメルを抑えている。
「黙れ、蛇め!罪を償うのが先決というのならば、お前のほうこそ牢へ入るがいい!サルマンに寝返り、わが国の内情を売っていたのだろう!裏切り者め!」
「何を馬鹿な。なぜわたくしが陛下を裏切るのです。エオメル殿、そのように嘘八百を並べ立ててわたくしを貶め、ご自分はのうのうと罪を逃れるおつもりですか?陛下の甥御であることを嵩に、ずいぶんと傍若無人な振る舞いをなさるのですな」
グリマはすまして嘯いた。
そのふてぶてしさに、とうとうエオメルの怒りが心頭に発した。
「…貴様!もう我慢ならん、殺してやる!」
エオメルは剣を抜くとグリマに切りかかった。
男の本気を感じ取り、グリマは逃げ惑う。
「止めさせよ!」
セオデンの一喝で近衛兵がエオメルを囲んだ。
「落ち着いてくだされ!エオメル殿!」
ハマはエオメルの剣を持つ手を抑えにかかる。
「離してくれハマ!」
「エオメル様!」
「エオメル!殿中で剣を抜いてはならぬという掟を忘れたか!」
いきり立ったセオデンが玉座から立ち上がる。
往時を偲ばせる威厳に、エオメルは動きを止めた。
「陛下…」
だが立ち上がったのもつかの間、セオデンは力尽きたように玉座に座り込み、ぜいぜいと肩で息をした。
エオメルは一瞬顔をくしゃくしゃにし、すぐに観念したように腕をぶらりと下ろした。
決定はなされたのだ。
「…連れてゆけ」
ハマはエオメルの手から剣を抜き取った。
最後の軍団長は近衛兵に囲まれたまま大広間から消えていった。
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