エオウィンと侍女たちが部屋を整えて出てゆくと、途端に静かになった。
張り詰めていた神経が切れてしまったように、は寝台に伏せる。
「セオドレド…」
婚約者の名前を呟く。
自分の声が耳に伝わった途端、堰を切ったように涙が流れてきた。











断罪の剣










少女の嗚咽だけが、静かな室内に広がる。
外には見張りが控えているはずで、泣き声を聞かれてしまっているかもしれないのだが、それにも構わずは心のままに泣き続けた。
瞼の裏にはセオドレドの姿が浮かぶ。
笑った顔、怒った顔、真面目な表情、苦悩している様子…。
愛しさをこめて微笑むセオドレドは、頬が緩んでいつもの威厳はどこへいったのかという表情になる。
だが自分にだけ見せてくれるその顔をは愛していた。
世界が違い、歳の差があり、身分も違う。
そのこと自体を引け目に感じたことはないが、王の息子の伴侶に選ばれるべきは、すべてが違った女ではいけないように思えた。
それでも強く自分をと望むセオドレドに、いつしかも惹かれていった。
そして、いつの間にかこう思うようになっていたのだ。
『セオドレドがいるのなら、元の世界には帰れなくてもいい』と。
だが、望みは潰えた。
セオドレドが戻ってくる事はもうない。
どれだけ待っていても、帰ってくることはないのだ。
彼の行き先は戦場ではなく、そこからさらに先の、生きているものには行けない場所なのだから。
わかっていても、は納得できなかった。
いや、納得したくなかったのだ。
頭ではわかっているのに心が反発していて、強い力でを引き裂いていた。
泣き声に混じって呻き声が漏れる。
苦しくて仕方がなかった。


それでも徐々に体力が尽きてき、は徐々にしゃくりあげるようになった。
ここまでになると惰性で泣いているように思えたのでは泣き止もうとした。
泣くのならば、きちんとセオドレドのことを思って泣きたい。そうでなければ彼に失礼だ。
熱っぽい頭の中ではそう考えているのだが、癖がついてしまったのか、ひっく、ひっくと喉の奥が痙攣してしまったようで、止まらない。
水でも飲めば収まるかもしれないが、立ち上がる気力がなかった。
そのまましゃくりあげたまま、はいつしか眠りに落ちていった。




が次に気がついたときに、自分が何をしていたのか思い出すのに少し時間がかかった。
瞼は腫れっぽく、熱を持っている。
頭が締め付けられるように痛い。
その原因は自分が泣きすぎたせいだということを思い出すと、再びセオドレドのことが思い出されてまた涙が出てきた。
泣きすぎて具合が悪いのに、頭の中は空虚さで満たされていた。
このまま涙と一緒に、自分も溶けて消えれたらいいのに、と思った。



時間の感覚がわからなくなっていたが、もうどうにも涙が流れないということがわかると、は身体を起こして寝台から降りた。
不自然な格好で長時間過ごしたせいで、身体の節々が痛む。
テーブルに置かれた水差しから、カップに少し移して飲む。
ひりついた喉に冷たい水は心地良かった。
その後は顔を洗って髪を整えた。
手伝いのための人は呼ばなかった。
自分でするのに慣れていたし、セオドレドが亡くなった今、人に傅かれる必要はなくなったと思えたのだ。
は何も考えないようにした。
泣きたくても涙はでないし、いつまでも泣き続けるのは建設的でないように思えた。
しかし、何をするべきかも考えられず、なんとなく乱れた寝台を整え、寝巻きを脱いで部屋着に着替えた。
その後はずっと椅子に座っていた。


そうしていると、誰かが部屋の扉をノックしてきた。
枯れた声で返事をすると、静かに扉が開き、ユルゼが入ってきた。
「落ち着かれましたか?」
そっと近寄り、膝をついて少女を見上げる。
もうそういうことは止めにしてほしいと、はユルゼの肩に手を置いた。
ユルゼは少女の言いたいことに気付いたように目を一瞬そらしたが、態度を変えることはなかった。
「お食事を召し上がれますか?ほとんど手をつけていらっしゃらないでしょう」
は何も答えなかった。
空腹のような気もしたのだが、食べなくてもいいようにも思えた。
そもそも、食べる必要があるのかどうかもよくわからなくなっていた。
「スープでしたら食べられますか?果物の砂糖煮などもいかがです?」
ユルゼは辛抱強く声をかけた。
は彼女に悪いような気がして、頷くだけ頷いた。
本当は、どちらでも良かったのだけど。
案の定持ってこられた食事は、胸がつかえて半分以上残してしまった。









窓は開けていなかったが、板の間から日差しが零れてきていた。
それが徐々に弱くなり、また夜が来る頃には、も冷静さを取り戻していた。
泣くだけ泣いたので諦めがついたのだろう。
それでもまだ時折涙が滲むことはあるが。
明日からは元の生活に戻ろうと言い聞かせ、はぼんやりと椅子に座っていた。
夕食も運んでもらい、今度は三分の二を食べ終えた。
どんなに身を引き裂かれるほど悲しくとも、こうして生きている間は生きるしかないのだと自嘲して。

食事が終わってそれほど経たないうちに、遠くから地鳴りのような音が聞こえたように思えた。
反射的に立ち上がり、窓を開ける。
それは空耳ではなかった。
(エオメルが戻ってきたんだ…)
力なくそう思うと、はまた窓を閉めた。
セオドレドのことは結局伝えられなかった。そのことを知ったらエオメルはきっとひどく驚いて、悲しんで…怒るだろう。
エオメルの帰還に同様気付いた人々が動き出したのだろう。
静寂に支配されていた館の中が少しざわついているのが感じられた。
だがは出てゆかなかった。
まだ誰かに会う気力が出ないのだ。







「馬鹿な!なぜエオメル様を!?」
エオメルが帰ってきてからしばらくすると、扉の外から叫び声があがった。
見張りに立っていた近衛兵のものだろう。
兵は口を塞がれたようで、その後はぼそぼそとしたものしか聞こえなかったが、聞こえてきた声の調子に不穏なものを感じたは扉を開けた。
「何かあったのですか?」
の部屋の前には近衛兵が二人いた。
そのうちの一人がの部屋の見張りのはずで、もう一人が話を持ってきたものなのだろう。
兵たちは互いの様子を窺い、少女に話すべきか迷っていた。
「エオメル様が戻られたのではないの?」
「ええ…。そうなのですが」
続きを待つが、二人とも言葉を濁らせて話そうとしない。
業を煮やしたが別の人に聞きに行くと言うと、二人は慌てて押し止めた。
そして内緒話をするように小さな声で事の成り行きを話して聞かせると、は血相を変えて走り出していった。










通路を駆け抜け、広間に出ると丁度外から戻ってきたばかりのグリマと鉢合わせになった。
グリマがに声をかけようとするよりも先に、少女は相談役に駆け寄り、胸倉をつかみあげていた。
「あんた一体何を考えているの!?」
身奇麗にしてはいるものの、泣き腫らして赤い目としわがれてドスのきいた声の少女に詰め寄られたグリマは、ふてぶてしい態度を取るのも忘れてぽかんとした。
グリマはよりも僅かに背が高いだけなので、詰め寄っても少女が仰ぎ見る必要もない。
怒りに駆られた少女に間近で睨みつけられ、グリマは戸惑う。
しかし我に返って気の毒そうな笑みを浮かべると、恭しいほどの手つきでの手を外していった。
「これは殿。お加減はいかがですかな?あまり興奮なさいますと、お身体に障りましょう。侍女頭をお呼びいたしましょうか?」
「心にもないことを言うのは止めなさい!わたしがセオデン陛下の二の舞になるとでも思ってるの!?」
ぴしゃりと撥ね付けられて、グリマは鼻白んだ。
「エオメル様を牢へ入れたんですって!?」
グリマは一瞬真顔になったが、すぐに予定内の問いだというようにしかつめらしい顔になる。
「その通りです。あの方は軍団長という地位にありながら、一つどころではなく法を破ったのです。罪人には罰が必要。違いますかな?」
「平時ならば。でも、今は違う」
は即座に言い切る。
グリマは少女の迫力に気圧されたようにわずかに後ずさった。
もうは婚約者の死を悲しんでいるだけの娘ではなくなっていた。
理不尽な行いに対する怒りで感傷的な気持ちは吹き飛んでしまったのだ。小なりとはいえも侍女として、また特殊な任務を受けてここにいたのだ。セオドレドやエオメルがどれほど王とこの国を案じていたか。どれほど愛していたか。
傍で見ていただけに、それを踏みにじる者は許しておけなかった。
(そうだ…。思えばセオドレド様の死だって、グリマが関与していたようなものだ。この男さえ裏切らなければあんなことにはならなかっただろうに)
もう、全ての悲劇の元凶が目の前の男のような気がするほどだ。
しかし怒りに我を忘れては、どこで足元を掬われるかわからない。
これまでの経緯からそのことを思い出し、は怒りを押し殺してグリマを糾弾した。
「マークは現在、サルマン軍と戦っています。単なる小競り合いではなく、どちらかが滅ぶまで続く戦いです。そして、第二軍団軍団長は殺されました。これほど兵に動揺を与える事柄はありません。指揮権を引き継いだエルケンブランド卿は優れた騎士ですから、生き残った兵をまとめてくださるでしょう。ですが、セオドレド様が亡くなられた事実は消えません。兵の動揺は、おそらく収まってはいない。そう思いませんか?」
の口調は肯定的な返事を期待していなかった。
「エオメル様が王命に反したこと。旅人を見逃し、馬を貸したこと。これがあの方に問われている罪ですね。ですが、これが国ひとつが滅びるか否かを問う戦いよりも優先して償われなければならない罪とは思えない。よほど指揮官にあるまじき振る舞いをしたというのならば別ですけれど」
が言葉を切った隙にグリマは発言権を奪った。
「怒りにのぼせた頭では、正しき選択はできませんぞ、殿。良いですかな、あなたが仰ることは私も承知していること。しかし、よく考えてみてください。エオメル様が唯一の軍団長となった今の危険を。あの方は兵のすべてを西へ投入しようとしているのですぞ。そうなったらこの国はどうなります。北に住む住人は避難させたものの、オークの往来は途絶えておらず、東の脅威はさらに増している。ゴンドールとて、いつまで持つのか…。戦力を一箇所に集中してしまえば、他から攻められたときに防げなくなってしまいますぞ。すべての兵を西へ向かわせる…。なるほど、そうすればその合戦に勝つ事はできるだろう。しかし彼らが戻ってきたときに出迎えるのが、住人の絶えた黄金館であっても構わぬというのですかな?戦にも駆け引きというのがあるのだ。闇雲に戦えばよいというものではないのです。あなたも他の者も、エオメル様を好き、このグリマを嫌っている。だからエオメル様の言い分を信じ、その通りになさろうとする。しかし私は、全ての者に憎まれようとマークのためになることをするだけなのですよ」
グリマは言葉を一旦切る。
そしての様子を窺った。
は全てを読み取ろうとするように、大きな目を瞬きもせずにグリマに向けていた。
「最も正しき道を行くものは、最も困難に見舞われるもの。殿、あなたは頭の良い方だ。何が最善か、冷静になっていただければ自ずと理解してくださると、信じております」
グリマは宥めるように穏やかに結んだ。
の目が一瞬紗がかかったようにくすんだが、すぐに元に戻った。
「エオメル様と話してきます。駄目とは言わせませんよ」
そして返事はせずに要求を突きつけた。
グリマは従順な臣下そのもののように軽く頭を下げる。
「格子越しでしたら構いませぬ。しかし、くれぐれも牢から出そうとはなさらぬように。それは牢破りに当たる重罪です。抜け出した者も手引きをした者も両方処分されます」
はわかったと頷くと、後も見ずに牢へ向かっていった。






館の一番奥の片隅に、牢はあった。
片隅とはいっても他とは区切られており、中に入るには狭い螺旋状の階段を昇らなければならなかった。
階段の下と上に見張りがついているが、が来訪の意を告げると彼らはすぐに通してくれた。
黄金館の通路には夜になると明かりが灯されるのだが、ここにはなかった。
蝋燭の明かりに気付いたエオメルは、顔を上げる。
格子の並んだ部屋がいくつかあり、その中で一番広いところにエオメルはいれられているようだった。夜なので閉められているが、壁には小さい窓があり、昼間ならば空気がこもる事もなさそうだった。
殺風景ではあるが、身分のある人間が入るための牢なのだろうとは思った。
か…」
近づいてくる人影に気付いた中の住人が格子のすぐ内側に立った。
エオメルである。
武装を解かれ、シャツに上着といった姿の青年は、闘志を失っていない獅子のように双眸を光らせた。
隙さえあれば、いつでも飛び出して行きそうである。
しかしエオメルはの顔がはっきり見えると、辛そうに顔を背けた。
「すまない。考えが足りなかった。私はここに留まるべきだった。蛇の策略よりも、自分のうかつさの方に怒りを覚えている」
は首を振った。
「いいえ。ここに留まっていても、間に合いませんでした」
エオメルはゆっくりとを見つめた。
「過去を悔やむより、未来を見なくては。西の戦いは終わったわけではありません。手をこまねいていれば、さらにひどいことになる。違いますか?」
しわがれているが、意思の強いはっきりとした口調にエオメルは頷いた。
「その通りだ」
エオメルは、少女がここへ恨み辛みや泣き言を言いに来たのではないと理解したのだ。
「サルマンは、マークの滅亡を望んでいるのだと考えていいのですね?」
「セオドレドを真っ先に狙ったということはそうだろう。大将がいなくなれば、いかに勇敢な兵といえど、怖気づいてしまう」
「あなたが戦場へ行けば、セオドレドの二の舞になる可能性は高いでしょうね。それでも…」
エオメルはきっと少女を見据えた。
「行かねばならん。それは私の義務だ」
はそっと目を伏せた。
「やっぱり…そうなのですね。わかりました、明日までにはどうにかしましょう」
「どうにかとは…あてがあるのか?」
エオメルは怪訝そうに眉を寄せた。
ここに自分が入れられたのはグリマの計略である。となれば、脅しも嘆願も効かないだろうと思えた。
「あてはありません」
があっさりというので、エオメルの身体が傾ぐ。
色々と強い衝撃を受けたせいで彼女はどうにかなってしまったのかと怪しんだ。
「だけど、わたしが泣いていたって兵の一人も助けられない。ならばどうにかいたしましょう。グリマが口出しできなくなったら、あなたが牢から出たときに咎める者がいると思いますか…?」
さらりと真顔で尋ねる少女にエオメルは空恐ろしいものを感じた。
「お前…まさか、奴を…」
「月夜ばかりではない、とわたしの故郷では言います。覚悟は決めました。このままゆるゆると力を削がれてゆくよりも、まだ体力の残っているうちに立ち上がらなければ。そのためにはグリマは障害でしかありません」
「わかっている。奴が言ったのだろう?西にだけ戦力を集中させるなと」
は頷いた。
理屈をこねていたが、現在マークにとって最大の脅威はアイゼンガルドだ。そこで満足に戦えなければ、悪戯に兵力を消耗するだけなのである。
そもそも援軍の要請がなかったことを、おかしいと思うべきだったのだ。
「彼の言葉は、ただの時間稼ぎだとしか思えませんでした」
「そうだ。そして私を投獄することで、新たな戦力が西に流れるのを防いでいるのだ。それにこのやり方にはもう一つ、おまけが付く」
「おまけですか?」
エオメルはにやりと笑った。
「ああ。この中にいる以上、生かすも殺すも奴の思いのままだ。手っ取り早いのは毒殺だろうな」
エオメルは凄絶な笑みを浮かべる。
鬼気迫った形相に、は唾を飲んだ。
「さらに、現在のマークの状態で私が死んだとする。そうなるとエオル王家の男子が絶えることになるのだ。こういうことは前例があって、その場合は王の姉妹の息子が跡を継いでいる。しかし、陛下にはもう存命の姉妹はいない。一番血が近いのはエオウィンということになる。陛下の存命中にエオウィンが結婚をし、男子を産めば王位はその子に譲られるだろう」
「そうなる前に陛下がお亡くなりになれば、エオウィン様が王位を継ぐ?」
「そうなるかもしれないが、民が望む者を王に立てるだろう。だが、ここにも落とし穴はある。民はおそらくエオウィンを望むだろう。しかし、実際に政務をとるのは、その夫だろうということだ。陛下がエオウィンの夫を指定してきたら。あるいは、伯父上が遺言として定めたら…。賭けてもいい、新王グリマが誕生するぞ」
エオメルは皮肉気に笑う。
「…そういうの、わたしの世界でもあったわ。そうなると、いよいよ猶予はありませんね」
「グリマを殺すつもりか?」
エオメルは少女があいまいに濁らせてきたことを言葉にする。
はそっと目を伏せた。
「穏便に立ち去ってくれるのであればそうしてもいいのですが、そう上手くはいかないでしょう。彼のことは、同情したこともありましたが、もうそうは言っていられない。グリマを生かして他を殺すような真似はわたしにはできません。セオドレドの愛したこの国を、無残に踏み潰させはしません。例え、徒労に終わったとしても」
「しかし、お前が手を下せばセオドレドは悲しむだろう」
無駄だろうと思いつつも、エオメルは兄の名にかけた。
だが少女は顔を上げ、すべてを悟ったように微笑むばかりだ。
「わたしは、セオドレドと婚約してから、王家の方々に準じる扱いを受けてきました。彼の亡き今、わたしが王家の人間になる未来はもうありません。そして今のわたしは、侍女ですらない、ただの異邦人です。異物であるわたしが、異物であるグリマを取り除きます。きっと、それが一番いいんです」
エオメルは言葉を失った。
絶対にそんなことはさせたくなかった。
しかし、自分がここから出るには他に方法はないように思えた。
近衛兵では王の命において判決が下された以上、エオメルをここから出すことはできないのだ。
そして、エオメルはここに留まっているわけにはいかなかった。
「わかった…。すまない、。だが忘れないでくれ、お前は今でも我らの同胞なのだということを」
エオメルはうな垂れた。
ローハンでは女でも剣を持つ。戦場に出るためではなく、ただ自身を守るための剣であるが。
しかしは剣を持った事はないはずだ。
ましてや、何かを殺した事などないはず。
その彼女が手を血に染めようとしているのだ。
痛ましくて、エオメルは正視するのが辛かった。
セオドレドにも申し訳がたたない。
彼女は、綺麗なまま王妃になるはずだったのに。
「機会があるとしたら、一度だけだ。一息に仕留めろ。それができなければ必ず反撃される。最悪で死刑だ」
は硬い表情で頷く。
決心を変える様子はないので、エオメルはさらに気が重くなった。
「それから…できれば、一人になったところを狙え。近衛の誰もいない時にな。なぜならば、館の中での殺生沙汰は固く禁じられているので、お前が奴に切りかかれば止めようとするからだ。例え、皆心の中でグリマを憎んでいて、お前に手を貸したいと思っていてもな」
「わかりました。…ありがとう」
は晴れ晴れとした顔になった。
こんなことで気が晴れるなどおかしなことだが、確かには心の底から安んじているように笑っているのだ。
「そうだ…。これから寝静まるのを待って部屋に忍び込む…ていうのはどうかしら?」
いいことを思いついたようには提案した。
「閂がかけられていなければそれもできるかもしれないが…。恐らくは無理だろうな」
「ああ、そうか、閂がありましたね」
残念とは肩を落とす。

それでは、とがエオメルに礼をし、立ち去ろうとすると後から呼び止められた。
「例の攫われた旅人だが…どうだったんだ?」
はああ、と軽く頷く。
そして嫌なことを思い出したと顔を顰める。
「見つかりました。それで、エントに保護されていましたので、一度戻ろうとしたんです。そうしたら森にどうしてだか知りませんがサルマンがいて、鷲を壊されてしまったんです。すっかり忘れていました。レゴラスたちに知らせた方がいいのかしら。彼らはエント森に向かったんですよね?」
「…エント?」
エオメルは聞き返す。
「はい。特徴を話したらエントだろうと、エオウィン様が」
エオメルは長々とため息をついて天を仰いだ。
「エルフとドワーフに会って、自分が伝承の中を歩いているのかと思ったものだが、さらに加えてエントまでとはな…。何がなんだかわからなくなってきたよ」
は思わず苦笑した。
「わたしはエルフの方としか話しませんでしたけど、ずいぶん面食らいましたわ。浮世場慣れしていて…」
「ああ。そしてドワーフとは喧嘩になりそうになった。アラゴルン殿が諌めてくださったので、事なきを得たが」
エオメルは呟いた。
「彼らが馬を連れてここに来てくれれば、私が牢に入れられている理由は、ほとんどなくなるのだが」
そうすれば、は人殺しをしないで済む。
しかし、エント森に向かった彼らがすぐにエドラスに来られるとは思わなかった。
捜索をどれだけするかにもよるが、早くても二日か、三日はかかるだろう。
しかし、それでは遅いのだ。
「都合の良い夢を期待していては先に進めませんわ」
格子にかけているエオメルの手に、はそっと己の手を重ねた。
「そうだな」
エオメルはさらに自分の手を重ねて強く握った。
「やるしかないのだな」
は頷く。

明かりをエオメルに渡して牢を後にする。
自分の部屋に戻る前に、念のためとグリマの部屋の扉に手をかけてみた。
それには閂が内側からしっかりとかけられ、びくともしなかった。
は自室に入ると、壁に寄せてある櫃を開け、布に包んでいた短剣を取り出した。
それはセオドレドから贈られたものだった。
柄と鞘には美しい装飾が施されている。
刃は潰していないので、実際に使う事もできるが、飾りとしての意味合いが強い短剣だった。
はそれをぎゅっと抱きしめると、寝台の脇の棚に置いた。
明日のためにも、体力は回復しなくてはならない。
は手早く寝巻きに着替えると、すぐに布団をかぶってきつく目を閉じた。






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