「これから、どうなるのですか?」
エオウィンと共に一旦下がったは、姫君に訊ねた。
これから王とエオメル、そして客人とで食事をするのだ。
王に付き添うためエオウィンも同席する。
もその彼女と同席するために呼ばれたようだった。
「食事が済んだ後は殿方が集合するのを待ってから戦いに赴くのです。戦う事ができない子供と老人、それと女は馬鍬砦に向かいます。ですから、食事が済んだらあなたもすぐ仕度に取り掛かってね。荷物はブレードに乗せればいいでしょう」
「仕度というのは何をどれくらい持っていけばいいのですか?」
は困惑して眉を寄せた。
「それに、エドラスは誰もいなくなるのですか?」
「見張りは残るはずよ。でもそれ以外は誰もいなくなるわね」
エオウィンは寂しそうに微笑む。
「荷物は最低限のものだけでいいわ。貴重品は残しておいて。あちらに持っていても役には立ちませんから。それからあちらに向かうまでの食料は、館の者には台所で配られます。あなたも後で取りに行ってね。皆、忙しいから持ってきてもらうのを待っていると忘れられてしまうかもしれないから。馬鍬砦へは、馬では半日かからないけど、徒歩で行く人たちに合わせて進むから、一日は野営しないといけないと思うの」
となると、最低限の着替えと毛布、食料と水というところか。
はそう考えると、
「わかりました」
と答えた。
内側に潜む危機
食事の仕度ができたので、王の食卓には招かれた人々が席についた。
国王セオデンと正式に世継に指名されたエオメル、そしてエオウィンとが一列に並ぶ。
反対側には白の魔法使いとなったガンダルフとその友であるアラゴルン、ギムリ、レゴラスが座っていた。
食卓では、もっぱらセオデンとガンダルフだけがサルマンのことについて話をしていた。
他の者は黙々と食事をしていたが、ドワーフのギムリが一息でビールを飲み干した後、盛大にげっぷをしたため、一同の注目を集めた。
「これは失礼」
ギムリは鬚についたビールの滴を拭う。
その仕草がもこもこの熊のようで、は思わず微笑んでしまった。
ギムリも自分に向けられた微笑に気を良くしたようで、礼儀正しく口を開く。
「こんなにちゃんとした食事をするのは本当に久しぶりです。なにしろ四日間は走りっぱなし、その後は探索で、それから馬に乗りっぱなしだったのですから」
「やだなあ、あれくらい、乗りっぱなしなんてほどではないよ」
レゴラスは隣のギムリに笑いかける。
ギムリは隣のレゴラスに言い聞かせるように話しだした。
「レゴラス、ドワーフというのはね、自分の足で歩いたり走ったりはいくらでもできるけど、あんな大きな生き物の背中に乗せられるのは好きではないのだよ」
「そうみたいだね。だけどアロドは君のことも好きなのだから、ここでならともかく、彼のいる前ではそんなことは言っちゃだめだよ」
やはりにこにこしたままレゴラスは返した。
ギムリはむっつりと黙り込む。
「レゴラス、先ほどからほとんど召し上がっていませんけど、お口に合いませんか?」
は話題を変えようとレゴラスに話を振った。
彼は食卓にはついたものの、パンもスープも肉も食べず、少しチーズを取っただけだったのだ。
レゴラスは笑顔を浮かべたまま軽く頭を振った。
「いいえ。エルフというものは、人の子やドワーフのように日に三度の食事をしないものなのです。朝にレンバス…エルフの行糧を食べたから、今日はもう必要ないんです」
レゴラスはますます笑みを深くして続けた。
「と言っても、私はこの旅に出るまで人の子やドワーフが一日に何度も食事をするということも知らなかったのだけどね。だって、それまで私の知ってる人の子はこのアラゴルンだけで、彼は一日に一度しか食事を取らないこともよくあるのだもの」
アラゴルンはレゴラスには何も言わなかったが、何かとても言いたそうにしていたのがにもわかった。
レゴラスはさらに続ける。
「でもそれ以上に驚いたのはホビットたちでね、彼らは一日に五回も六回も食事をするんですって。旅の間は、さすがにそうは出来ませんでしたけど。だけどあの小さな身体のどこにそんなに入るのだろうって、いつも不思議に思っていました」
そこへギムリが言い返す。
「しかし、私が聞いた話では、あんたたち闇の森のエルフも結構な大食いだというじゃないか。避け谷やロスロリアンのエルフははそうでもなさそうだったがね」
「やだなあ。それは宴会の時だけだよ」
レゴラスは鈴のような声で笑った。
「その宴会を、毎日のようにしてるって言うじゃないか」
「毎日ではないよ。オーク狩りをしている時も多いもの」
しれっとしてレゴラスは答える。
(…レゴラスって、ものすごくマイペースなのね。それともエルフって皆こうなのかしら)
がそんなことを徒然と考えているうちに食事の時間は終わろうとしていた。
食事が済むと、セオデンの発案で旅人たちには贈り物が贈られることになった。
ガンダルフは飛蔭を借りるのではなく、自分のものとしたいと言い、セオデンはこれを快く了承した。
残りの三人のためには王の武器庫が開かれ、そこから好きなものを選んでいいということになった。
エオメルは贈り物を選んでいる旅人たちを待っている間、王の傍に控えていた。
王の傍にはすでに贈り物を受け取ったガンダルフも立っている。
「ガンダルフ、お聞きしたいことがございます」
エオメルはそっとガンダルフに囁いた。
魔法使いは目線で話すよう促す。
「アイゼンの浅瀬は、未だ守られているのでしょうか。して、ヘルム峡谷まで安全に進めるとお思いでしょうか?」
「エオメル?」
一体何を聞くのだと言いたげに、セオデンも甥に目を向ける。
ガンダルフはふむ、と小さく呟くと徐に口を開いた。
「アイゼンの浅瀬で合戦が始まって七日が過ぎた。わしらの到着は決して早かったわけではない。エドラスが攻め落とされる前であるということ以上にははっきりしたことは何もわからぬ」
「そうですか…」
エオメルは苛立ちを隠さずに頭をかきむしった。
「何がそれほど気になる?」
セオデンが訊ねる。
「伯父上…。陛下、お願いがございます」
エオメルは一瞬躊躇したが、すぐに意を決したようにセオデンの目をひたと見据える。
「此度の行軍に、も連れて行きたく存じます。どうか、お許しください」
思いがけない願いに、セオデンの目は大きく見開かれる。
「なぜだ?此度の戦は国の浮沈に関わるほどのもの。誰もが無事に戻ってこれるとは思っておらぬ。あの娘を合戦場へ連れ行っても、死なせてしまうだけだ」
「合戦の場へ連れてゆくのではありません。彼女はヘルム峡谷へ向かわせたいのです。正確に申しますと、彼女の義理の母である、ヒュイド殿に預けたいのです」
セオデンはますます不可解そうになった。
「ヒュイド殿に?」
「はい」
「しかし、ヘルム峡谷まで無事にたどり着けるかどうかはわからぬのだぞ?」
「わかっております。これは賭けなのです。ですが、はこのまま残った民と共に馬鍬砦へ向かわせても危険だと思われるのです」
「どういう意味だ?」
エオメルは強い感情を押さえつけるように強く目をつぶった。
甥のただ事ではない雰囲気に、セオデンも眼光を鋭くした。
「は…我々が思っている以上に追い詰められています。敵の刃にかかる前に、自らを傷つけてしまうのではないかと、不安なのです。彼女には四六時中付き添ってくれる者が必要です。しかし馬鍬砦では落ち着くまで多くのことに皆が心を煩わされます。エオウィンとてのことにばかり掛かり切りになることもできません。それくらいならば、すでにヒュイド殿の下へ連れて行った方が良いかと。あの方々はすでに避難して久しく、を迎え入れる余裕があるでしょう」
セオデンは黙り込み、地に視線を落とした。
「あの娘は、余の義娘(むすめ)になるはずだった…」
「はい」
「セオドレドが生きておればな…」
「………」
王の呟きに、エオメルは痛ましいものを感じて目を伏せた。
セオデンにとって、セオドレドの死を真実感じたのはつい数時間前。
遠いアイゼンの浅瀬で斃れた彼の息子は、マークの英雄は、二度と戻ってこないのだ。
「あの娘が追い詰められているのだとしたら、それは蛇に誑かされた余の責任でもあろう。いいだろう、エオメル。そなたの願いを叶えよう」
「ありがとうございます。伯父上」
エオメルは深々と頭を下げる。
セオデンは軽く頷いた。
しかしすぐ気遣わしげな表情になった。
「しかし、我らは能う限りの速さで行かねばならぬ。あの娘は馬に乗れるのか?」
「それならご心配には及びません。彼女はエドラスに来てより訓練を続けておりましたから。もしもついて行けなくなっても、我らと別れるまでは誰かに乗せてもらえばいいでしょう。わたくしが乗せても構いません。そして戦がまだ浅瀬から広がっていなければ、ヘルム峡谷までの道はまだ安全でしょうから、それからは一人でも大丈夫でしょう」
「わかった。ではあの娘に、急ぎ仕度をするよう伝えてくれ」
エオメルは軽く一礼をすると、その場から離れていった。
「どういうことです?エオメル」
開口一番にエオウィンは非難めいた声をあげた。
とエオウィンは食事の後片付けを指示していたところだった。
馬鍬砦へ避難するとは言っても、出発するのは男たちが旅立つのを見送ってからである。
まだ何も用意をしていなかったところに足早にやってきたエオメルがすぐさまに荷造りをするよう言ったのだ。
不審に思って強く訊ねると、エオメルはだけは自分たちと一緒に出発し、ヘルム峡谷へ行くのだと答えたのだ。
「を一緒に連れてゆくなんて…。何を考えてらっしゃるの。彼女は兵士ではないのよ」
「わかっている。戦わせようだなんて考えていない。ただ途中まで行く方向が同じなだけだ」
憤慨している妹に、エオメルは辛抱強く言い聞かせる体勢になった。
誤解をされても仕方がない仕儀をしているのだ。
長期戦をするつもりはないが、速やかに妹を説得しないとは渡してもらえないとエオメルは感じていた。
「の魔法の力が必要なの?」
疑い深げな妹の問いかけに、エオメルは目を丸くする。
「何を言っているのだ、エオウィン。戦場にいようといまいと、私はを戦いには関わらせないぞ」
隠し事の出来ない彼の顔には、思いもよらない事を聞かれたという表情が表れていた。
「もっとも、わたしは攻撃系の術は使えないので役には立たないでしょうが…。こんなことになるのなら、一つくらい覚えておけば良かったわ」
は兄妹のやり取りを見ながら、いかにも残念だというため息をもらす。
「そんな必要はない」
「そんな必要はないのよ」
同時に答えた兄妹は、ばつが悪そうに顔を見合す。
その強い否定に、は戸惑って二人の顔を見比べた。
「…あなたがエドラスに暮らす経緯を考えればそう思ってしまうのも無理はないでしょうけれど、わたくしたちはあなたが特別な力を持っているから大事にしてきたわけではないわ。それだけはわかってちょうだい」
手を組み、ひたむきな眼差しで己を見つめるエオウィンに、の顔は赤くなる。
「申し訳ありません」
宮廷の混乱を収めるためだけにここにいる。
自分の発言はそう取られてもおかしくないものだと感じて、は素直に頭を下げた。
確かに初めの目的こそその通りであったが、季節が一巡りする間にそれだけでは済まないものが生まれていることをは理解していた。
役目のためにいるのではない。
ここが好きだからだ。
人も、暮らしも、皆が抱えている思いも…。
「それで、ヘルム峡谷へ行って、何をすればいいのですか?」
はエオメルを見上げて問いかけた。
「ああ、だから、ヘルムへは避難をしに行くのだから、何かをするにしてもそれは向こうに着いてからでないとわからない」
「そもそも、どうしてわたしだけがわざわざ遠くまで避難しなければならないのでしょうか?」
当然の疑問に、は小首をかしげる。
ヘルム峡谷はセオドレドが亡くなった浅瀬に近い。
そこへ行き、事実をこの目で確かめたいという気持ちはあったものの、それよりも恐ろしい気持ちの方が勝っていた。
本当にそれを確かめてしまったら、自分はどうにかなってしまいそうに思えて。
「わざわざとは…。あそこには西の谷の住人も皆避難している。そなたとて、親元にいた方が心強いであろう?」
「親元だなんて…。わたしはもう、エドラスで暮らしていた時間の方がずっと長いのに…」
エオメルの説得力のない説得に、は苛立ちと困惑を隠しきれなかった。
「エオメル様、わたしに何かしてほしいことがあるのでしたら、はっきりおっしゃってください。こんな風に遠まわしに言われても、わたしにはわからないんです」
「私は、何も…。だが、お前は疲れているだろう?ゆっくり休めるところへ行った方が良い。頼むから…」
少女に睨まれてエオメルはしどろもどろになる。
その態度に、の中にふと思い当たることがでてきた。
「もしかして、あの…牢屋での…」
グリマを殺すと言ったことで、エオメルは何か余計な責任を感じてしまったのかもしれない。
「うん。まあ、な…」
としては彼らの心配を取り除こうとしただけなのだが、エオメルはそんな自分の行動が、セオドレドを失った悲しみから自棄になったというように映ったに違いない。
「牢屋って、何のことですの?」
眉を寄せてエオウィンが訊ねる。
「それはですね…」
「いや、たいしたことではないんだ」
答えようとしたの台詞をエオメルが遮る。
「エオメル?」
エオウィンは形の良い眉毛を片方だけ上げて、兄の不審な行動を咎める。
「エオメル様、わたしは別に知られても構いませんよ」
エオメルは自分を大げさに扱いすぎる、とは思った。
しかしエオメルは頑固に頭を振り、話すほどのことではないとエオウィンにもう一度言った。
そしてに向き直り、真剣な表情で両肩を掴んできた。
「とにかく、お前は落ち着いた所でしばらく暮らした方が良いと思う。ヘルムとて戦場から遠いとは言えないが、マークにある砦のなかでは最も堅牢なところだ。馬鍬砦では落ち着くまで時間がかかる。そうするんだ、な?」
「はあ……」
そうとしか答えられず、は思わずエオウィンに意見を求めて目をやった。
それに気付いたエオメルは、妹の方に顔を向け、
「そういうことだ。いいな、エオウィン?」
有無を言わさず承諾を勝ち取った。
の旅支度は速やかに用意された。
男たちと馬を並べるため、ドレス姿では具合が悪かろうと、エオウィンはズボンをどこからか持ってきた。
上半身はシャツの上に胴衣を着、マントを羽織る。
足元は編み上げのブーツで固めた。
髪は編んでまとめると、ほっそりした体つきの少年のように見える。
荷の入った袋を受け取り、厩からすでに鞍をつけたブレードと合流するまでに一時間もかからなかった。
はエオウィンに別れの挨拶をするとブレードに跨る。
周囲の興奮が移ったのだろう、ブレードは鼻息も荒くいなないた。
エオメルからの指示で、兵の集団の先頭へ向かう。
城門を抜けた時に目に映る小さい白い花に、は感慨深い思いを抱いた。
これを目にするのは初めてではないが、そこに込められている思いを共有できたのはこれが最初だろうとは思った。
花の名はシンベルミネ。
死者の奥津城に咲く花だ。
別名を忘れじ草という。
夏の暑い盛りにも、冬の寒い最中にも、変わらず花を咲かせるその白い姿に、人びとは亡くなった人への思慕を寄せるのだ。
(もしもまた、ここへ戻ってこられたら…。あなたの眠り地にこの花を植えに行くね。…セオドレド)
昨日は止まっていた涙が滲んできたため、は二、三度瞬いて堪える。
顔を上に上げると、黄金館の階段の上にエオウィンが一人すっくと立っている姿が見えた――。
エオウィンは王たちを見送るため、黄金館の入り口に立って地上を見下ろしていた。
丘の上にあるここからは、近隣から馬とその主たちが続々と集まってくる様子がよくわかる。
先頭には真っ白な衣の人影が見えた。
ガンダルフだろう。
その周囲には装備も大きさもまちまちの旅人たちの姿があった。
と、そこへ近づく一際小柄な人影。
その者の乗る馬の毛並みは金色。
とブレードだ。
我知らずエオウィンは思った。
(一体、兄上は何を考えているのかしら…。どうしてを…)
エオウィンはエオメルの説明に納得していなかった。
思っていることが顔に出る上、嘘のつけない兄のこと、とても本当のことを言っているとは思えなかった。
どうやら鍵となるのは牢屋での出来事らしい。
牢屋といえば、エオメルが数時間前まで入れられていた場所だ。
も様子を見に訪ねていったのは知っているが、そこで何かがあったに違いない。
(…セオドレド絡みだとは思うけど)
強い確信がエオウィンにはあった。
あの二人はこれまで、個人的には特別親しくはなかった。
セオドレドを愛しているという共通事項だけがただあるだけである。
そうであるのだから、婚約者を亡くした少女をエオメルが慮ったということはないわけではないのだが、それにしても戦場からそう遠くないヘルム峡谷へ連れて行くという言い訳は、不自然極まりなかった。
それよりも…。そう、何か自分には言えないような理由で彼女を連れ出したのだろう。
エオウィンの脳裏に、取り乱したの姿が思い起こされる。
魔法の鳥の目でサルマンを見た言ったあの時、自分は彼女を恐ろしいと思ってしまった。
それは自分たちには無い力に対する本能的な恐怖である。
しかし裏返せばそれは、味方につければこの上ない武器になるのではないか?
は攻撃系の術は使えないと言っていたが、戦いの場に必要なのは攻撃ばかりではないことくらいはエオウィンも知っている。
恐らく、エオメルは牢屋にいたときにの持つ力が何か戦いに役立つことに気付いたに違いない。
エオメルの性格を考えれば、彼が言ったようにを戦場に立たせる事はしないだろう。
それでもきっと、は戦いに加わるのだ。
どんな風にかは、わからないが。
(そんなのって、ずるい!)
爆発するような感情がエオウィンを揺さぶった。
そしてそんな風に考えた自分を恥じる。
あの優しい性質の彼女が、好んで戦場に向かうはずがない。
エオメルに説得されてのことだろう。
セオドレドの敵を討ちたくないのか、などと言われたのだろうか。
自身はきっと恐ろしく思っているはずだ。
だが。
(わたくしが望んでも、一緒には連れて行ってもらえない…)
何度兄に、従兄に、伯父に頼んだだろうか。
初めは兄の後を追ってのことだった。
四歳年上の兄が騎士としての務めをこなすようになった頃、置いていかれるのがいやでエオウィンは一緒に連れてってと泣いた。
それが何も知らない子供のわがままであったことは数年もすればわかるようになったが、エオウィンとて何もしていなかったわけではない。
時間の許す限り、剣の鍛錬は怠らなかった。
年頃になり、ユルゼに代わって宮廷を切り盛りしだしてからは自分のために割ける時間はずっと少なくなったが、それでもわずかな時間を費やして訓練に励んだ。
そのためエオウィンの実力は、なまじの兵では太刀打ちできないほど上達している。
だが、それでも、エオウィンを戦場に連れて行こうとする者は誰もいなかった。
それはエオウィンの役目ではないと、誰もが言うのだ。
だが、それでは自分の役目とは一体なんだろう?
館を守り、皆のために食べ物や寝る場所の心配をすることだけなのだろうか。
しかしどうしてそれがエオウィンの役目なのだろう。
他の者がしていけない理由がどこにある?
そして自分の望む生き方をしてはいけない訳はどこに?
常々心に潜ませていた疑問が頭をもたげてくる。
自分のみならず、他の女も戦場に向かう事がなかったため、今までは心の内に収めてきた。
しかし、もうそうではない。
どす黒い感情が溢れてくることをエオウィンは感じた。
そしてその感情は、兄と伯父を罵倒することに費やされた。
(兄上はひどい。伯父上もひどい。二人とも、わたくしには外へ出るなと命じておきながら、には戦場での誉れをお与えになるなんて…!)
そうだ、セオデンが本当の理由を知らないはずはないのだ。
セオデンも彼女が戦場で役に立つ事を知ったのだ。
だから反対をしなかったのだ。
何もかもがエオウィンの期待を裏切っているように思えた。
務め。
務め。
務め。
何度言い聞かせられただろう。
しかしもう、それで自分を縛ることはできない。
兄と伯父が、自らの言を破った以上、エオウィンが名誉を得るための行動を、止められようか――。
エオウィンの脳裏には、鎖帷子をまとい、鎧に身を包んだ自分が、馬を駆けさせ敵を屠ってゆく様が浮かんだ。
だがその想像も、気遣わしげにかけられた声によってすぐに消え去る。
「姫様、元気をお出しになってください」
エオウィンが振り返ると、侍女頭のユルゼが一歩下がった場所で控えている。
「陛下もエオメル様も、きっとご無事でお戻りになられましょう。あまりご心配をなさっては、お身体に毒ですわ」
慈悲深い表情を浮かべたユルゼは、戦場に向かった伯父と兄を案じていると思ったのだ。
無論、勝てる見込みが薄いという戦だ。案じていないわけではない。
しかし、それ以上にエオウィンは戦場に行けないことを嘆いているのだ。
この想いの差はどうしたことだろう。
エオウィンは小さく頭を振って、空想を追い出した。
「そうね。きっと皆、戻ってくることでしょう。…わたくしたちも避難をしなければね。準備はどれくらい進んでいて?ユルゼ」
エオウィンは苦い思いをそっと飲む下して無理に微笑んだ。
(これが、現実なのよ)
皆を馬鍬砦へ率い、当面の生活ができるよう手配する。
あの地は大きな集落はないのでしばらくはテント暮らしになるのだろう。
春はまだ遠く、朝晩はことさら冷える。
問題は途切れることなく起こるだろう。
あまりにも容易に予想できる未来に、エオウィンは暗雲たる想いをかみ締めた。
だが、しかし、これが彼女の現実だった。
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